12. 歌の次ぐらいに
もう何度見返したかわからないその動画を眺めていると、現実の水原美紀子が、教室の扉を通って現れる。
その姿を確認したぼくは、動画の再生を止め、イヤホンを外した。
「面談、終わった?」
「うん」と水原はうなずいた。
その日水原は、放課後の時間を使って、担任との進路の面談を行っていた。
ぼくは数日前にすでに終えていたが、彼女の帰りを待っていた。
水原から、面談が終わった後、カラオケに行こうと誘われていたからだ。
ぼくらは並んで教室を出た。
「それで、水原はなんて言ったの? やっぱり、音大?」
「うん。だけど、最近、難しくって。『らおたんチャンネル』のところの事務所から、誘われている話、したでしょ」
うん、とぼくはうなずいてみせる。
改めて考えるとすごい話だけれど、もう、何度も聞いて慣れてしまっていた。
水原は音楽事務所に誘われていた。
もちろん、すぐに歌手としてデビューとか、そういう話じゃない。
まずはウチでレッスンからはじめてはどうか、という話だったが、ただそれだけじゃない。
レッスンの中には事務所の協力のもと、ユーチューブでのライブ配信を行い、フリートークをしたり、一般の視聴者からのリクエストに応じて歌ったりする、というものも含まれているそうだった。
つまり最初はユーチューバーとして活動をはじめ、人気が出たら音楽活動を本格化させる。
そんな『らおたんチャンネル』と同じルートを通ってはどうか、と事務所は水原に話を持ち掛けていた。
「母さんは結構、乗り気なの。すぐにでも事務所に通いはじめろ、って。元々母さんも、プロのミュージシャンになりたかったらしいし。でも父さんは違う。進学して、勉強しながらの活動だっていいじゃないか、って」
「水原はどうなの?」
「わたしは、どっちでもいいかな。ユーチューバーとしての活動が、うまくいくかはわからないし。大体、ユーチューバーなら歌以外にもいろいろ、やらなきゃならないだろうし。家族と事務所に改めて、わたしの夢は歌手だっていう話はして、そしてよさそうな結論が出たらそれに決める」
「結論が出なかったら? 家族と事務所で交渉、決裂とか」
「そのときは、勉強して音大に行く」
「そっか」
明確に結論が出ている水原が、少しうらやましかった。
水原のように、他人に求められることもなく、広い選択肢もないぼくの面談はただ、大学に行きたいという希望を伝えるだけで終わった。
ならもう少し勉強しろ、と言われただけだった。
昇降口へ向かう途中、歩いていた三人の先輩たちと不意に目が合った。
ぼくらを見つけると何やらささやき交わし、近づいてくる。
その先輩たちは、少なくともぼくの知り合いではない。
そしてどうやら、水原の知り合いでもない。
あの文化祭から、時折こういうことはあった。
その男子の先輩たちは、ぼくらに近づいてくると、笑顔を浮かべて言った。
「あのー、水原美紀子さん、だよな?」
もう何度もそういうことがあり、慣れてもおかしくないはずなのに、水原はやっぱり慌てていた。
目を見開き、口を固く結んでうなずく。
「動画、見たよ。あの歌、感動した」
「あっ、ありがとうございます」と水原が頭を下げる。
耳や頬は、すでに赤くなっている。
人前で歌を歌えるようになったのはいいが、人から褒められるのは、まだ恥ずかしいらしい。
ちなみに動画のコメント欄は、まだ見たことがないそうだった。
怖くてとても見られない、といっていた。ちょっと褒められただけでこんなに赤くなるのだから、もしあのコメント欄を読んだら、水原は爆発ぐらい、してしまうんじゃないか。
そして先輩たちは、ぼくにも目を向ける。
「友人くんも」そういって、なんだかおかしそうに笑ってみせる。「まあ、すごかったよ」
こう言われて、ぼくはどう答えていいかわからない。
どうも、とだけ言って頭を下げる、ぐらいがせいぜい出来ることだった。
「ぼくだけを見ろ、か。俺なら彼女にだって、なかなかあんなセリフ、言えないな。……ま、二人とも、今後も仲良く、な」
三人の先輩はそんなことを言って去っていった。
水原がいるときも、いないときにも、たまにこういうからかいを受けていた。
そうしてあのときの言葉のチョイスには失敗したなあ、と後悔していた。
学校の中では、すでに、ぼくらは長いこと付き合っていることになっているらしかった。
水原のスター街道の邪魔をするなよ、と冗談交じりにクラスメイトから注意を受けたこともある。
そしていま、水原はじっと、ぼくの顔色を見ている。
「なんだよ」
そういうと、水原のいつもの、ちょっとしたタイムラグ。
「別に」
昇降口へ行き、靴を履き替える。校舎から出ながら、ぼくはふと、思いついたことを言う。
「そういえば、水原ってさ。ああいう風にからかわれても、赤くならないよな。……なに、ぼくとの噂なんか、全然、恥ずかしくもなんともないわけ?」
ぼくはすごく軽い気持ちでそう言った。
うん、とか、そりゃそうだよ、なんて反応が返ってくるのかと思っていた。
だけど、水原の反応は、少し意外なものだった。
不意に水原が立ち止まり、ぼくを見つめた。
その表情には、冗談めいたところはあまりなかった。
「だって、相手が近藤くんだから」
「……どういう意味?」うっかり、ぼくも真顔になりかけて、あわてて冗談で紛らわせる。「そっか。ぼくなんか、どうでもよすぎて、感情なんか動かないよな」
「ううん。そうじゃなくて。わたしは近藤くんが好きだから、ああいう風に言われても、別に動じないの」
ぼくはその言葉の意味をすぐには理解できなかった。
やがて、水原にたずねた。
「それ、本気で言ってる?」
「うん」
「なんで、水原、そんな、……平然としてそんなこと言えるの?」
緊張で、歌さえ歌えない水原のくせに。
突然の告白に、かえって、ぼくの方がどぎまぎしていた。
「だって、それがわたしの気持ちだし。好きなものを好き、といっても、変じゃないでしょ」
いや、変だ。と切り捨てることは出来なかった。
何しろぼくは動揺していた。
「わたし、近藤くんのこと、歌の次ぐらいに好きだよ」
それで、少しは平静を回復する。
それなら、ぼくのよく知っている、水原の言いそうな言葉だ。
歌の次ぐらい、か。
そのぐらいだったら、水原の心の中にぼくが場所を占めていたっていいかもしれない。
「ご褒美の話、覚えてる?」ぼくはすっかり忘れていた。「イベントでうまく歌えたら、くれるっていう話」
「そんな話、あったな」と言いながら、ぼくは歩き出す。
水原はぼくの背中から、こう言ってくる。
「ご褒美として、近藤くんの気持ち、聞かせて」
……それは、ひどく難しいことだった。
言ってしまえば、はじめて歌を聞いたあの日から、ぼくはずっと、水原のことを考えていた。
それが恋心かと聞かれると、たぶん少し違うけれど。
だけど水原のことは、「ふつう」じゃないし「嫌い」でもない。
だとすると答えは一つだった。
ぼくは振り返り、驚いて立ち止まった水原に、なるべく軽い感じで言う。
「水原のこと、水原の歌ぐらい、好きだよ」
たぶんそれは、ぼくの気持ちを表すのに、一番しっくりくる言葉だった。
「そっか」と水原は少し微笑んで言った。「……じゃあこれからもわたしのこと、どんどん好きになるよ」
「なんで?」
「だってわたし、これからもっと、歌がうまくなるもの」
そのよくわからない理屈に、それでもなんだか心動かされながら、ぼくは再び水原に背中を向け、校門を目指して歩く。
視界から水原が消えると、なんだか急に恥ずかしくなってくる。
人前で歌う彼女のように、ぼくは照れを感じていた。
後ろから水原の口ずさむ、かすかな歌が聞こえる。
その歌は、きっとこれからカラオケで歌うはずの、ハイテンポのラブソング。
美しいその歌を聞きながら、ぼくは小さく、ため息をつく。
これから向かう、二人きりのカラオケボックスで、いったいどんな顔をしていればいいのかと考えながら。




