九話 新入生
五月の終わり。
梅雨に差し掛かろうとした矢先に、転校生……というか、編入生がやってきた。
「に、二年二組に編入して参りました、郡山亜里沙と申します! 以後、お見知り置きを!」
万雷の拍手で迎えられたのは、亜里沙だった。
てっきり郡山先生のクラスかと思ったが、さすがにいきなり特進コースはしんどそうだと思ったのだろう。
ああみえて、郡山先生は優しいからなぁ。
「はーい、美少女が来たからって男子騒がなーい。特にあずにゃん!」
「俺!? しょんな、ひどいぜ有栖先生!」
「あ……!」
亜里沙はぶんぶんと手を振ってくる。
それに振り返した。
「あれ? 知り合いなの?」
「はい! 大好きな人です!」
……。
…………。
「ええええええええええええええええっ!?」
全員が驚きの声をあげた。
「な、何事……!?」
姉も駆けつける。早いな、郡山先生。
「あ、みーちゃん」
「ほ、北条院先生、何事ですか。うちの亜里沙が何か……?」
「いやいや。青春だよねぇ」
「は?」
「東雲君ー! 会いたかったですー!」
俺の手を取ってぶんぶんと激しく振る。
うん、元気みたいだな。
「亜里沙……彼から離れなさい」
「え? 何でですか? わたくし、東雲君が好きなのに」
「なっ!? や、やめておきなさい、そんな適当星人!」
「お姉さまは誤解しています! 東雲君が、どれだけ優しくて、紳士的で、男らしいか!」
「ひぃぃぃッ!? やめて、ねえ、亜里沙、やめて!?」
痒くなる! 痒くなっちゃうから!
そんな俺を見て、蒼汰が苦笑する。
「お前、相変わらず褒められるのダメなんだな……」
「いや、ね……。慣れないね……」
「にしても、郡山先生の妹さんだろ? どうやって仲良くなったんだ? いや、いいわ」
「聞いといていいやはなくね?」
「どうせお前がいかれた態度で粘着したに違いないし」
失礼な! メッチャ紳士的……でもなかったか。
まぁ変態度は低めだったけど。
「とにかく! わ、わたくしは東雲君が大好きなんです! この身をささげても良いほどに!」
「やめなさい! も、もうちょっと相手を選んだ方がいいわよ! 初対面の人間のパンツの色を聞く人間なのよ!?」
「えへへ、亜里沙。今日のパンツの色は?」
「淡いグリーンです」
「素直に答えないの! というか、自重しなさい東雲君!」
「いや、期待に応えるのが俺という男なので」
「聞いたことないわよそんな自称!」
ぎゃあぎゃあとやかましく。
他の先生から注意をされるまで、俺と郡山先生の賑やかな口論が続いた。
「学食です!」
「そだねー」
「さっさと座ろうぜ」
にしても、亜里沙は似合うなぁ、ブレザー。
うちの制服は、白のブレザーなんだが、これまた清楚で可愛い。
男子も白のブレザーだ。中のシャツは黒が原則だが、みんな風紀は自由らしく、色々アレンジしている。最初は、なんか気障っぽくて嫌だったけど、慣れるものだ。
俺と亜里沙は担々麺を。蒼汰も付いてきて、弁当を食べている。
蒼汰は俺と一緒に食事を摂る。最初の粘着以来、自然とそうなっていた。
そこに亜里沙が加わる感じ。
「でよ、郡山さん」
蒼汰の憎めないところは、意外と礼儀正しいところだ。
俺みたいにふざけて先生を名前で呼ばないし、女子には苗字で、しかもさんをちゃんと付けている。
「このいかれぽんちのどこが好きになったんだ? マジで興味ある」
「はい! 最初は、わたくしが入院してたんですが――」
俺との馴れ初めが語られる。
若干美化されてあるが、おおむね間違いではない。
「というわけで、入院患者のわたくしに、絶え間ない笑顔と勇気をくれたんです」
説明が終わるころには、蒼汰の弁当と俺の担々麺は空になっていた。慌てて亜里沙が担々麺を食べ始める。
「まぁ、こいつは良くも悪くも差別しねえからな。んで、面倒見もいい。そこは認める」
「うふふ、可愛い、蒼汰。そうたんって呼んでいい?」
「この妙な気持ち悪さがなきゃモテモテなんだろうけどな……後呼んでいいわきゃねえだろ死ね」
「恐らく、わざとですよ。そう言う印象を持たせるために、道化を演じているのだと思います」
「いやいや、これは俺の素だよ。そうだ、亜里沙のあだ名も考えないとな」
「あだ名ですか! とても友達っぽいです!」
「ふふん、そうだろう」
「何で得意げなんだよ……」
蒼汰は放っておいて、考える。
「あっちゃん」
「センス! お前マジでネーミングセンスねえな!」
「じゃあ蒼汰が案出せよ」
「……いや、あだ名が難しい名前だよな、亜里沙って」
「まぁ、綺麗な名前だから、そのままがいいかな」
「!」
顔を赤くする亜里沙に、呆れ顔をする蒼汰。
「……お前、実はナンパ師だろう」
「何を馬鹿な、俺は日本選抜童貞ジャパンを背負って立つヘタレだぞ! そんな度胸はない!」
「何かわからねえがすげえ自信だな……」
俺がヘタレなのは分かってるんだよ。
本来なら、亜里沙の想いに応えて部屋ででも合体すべきなんだろうけど、さすがに彼女は俺を美化しすぎだ。
俺ほどつまらん人間はいないし。
「あ、お兄さん」
「おお、ゆずちゃん。学食とは珍しいね」
「はい。お母さんが寝坊して――って、女の人!?」
心から驚いているようだ。亜里沙が小さく会釈するのにも対応できてない。
「あ、ああ。紹介するよ。彼女は郡山亜里沙、俺の友達。で、こっちは南蒼汰、俺のセフレ」
顔面に飛んできたパンチを弾きながら、亜里沙に向き直った。
「亜里沙、こっちは椎名柚葉。俺の従妹なんだ」
「わぁぁ! 可愛い人です! 郡山亜里沙と申します、よろしくお願い致しますね?」
「は、はい、どうも、椎名柚葉です……」
「お前、家族がいたんだな……」
「そりゃいるでしょ。なんで?」
「いや、お前は何かそう言うのいなさそうだと思ってたから……」
「それは、俺がお前の家族になってやるよアピールかい、蒼汰」
「よし、アイアンクローか腹パンか選べやコラ」
「熱い抱擁なら大歓迎だよ」
「!」
なぜか、亜里沙がこちらを睨んでいる。
また、郡山先生と違って迫力がない。
「南蒼汰君、でしたね。もしかして……貴方は、東雲君を狙っているのですか!?」
「何でじゃああああああああっ!?」
「蒼汰は、俺の初めての人なの……」
「「!?」」
「コラテメェ死ね、マジで死ね! 郡山さんも椎名さんも信じんな! んなわけねえだろ!」
「初めてのぼくに、優しくしてくれたの」
「テメェはこれ以上引っ掻き回すな! めんどくせえだろ! 逝けオラ!」
「あばばば、首は、首はらめぇ……」
「まぁまぁ」
ゆずちゃんが間に入ってくれる。
た、助かった。
「亜里沙、早く喰わないと昼休み終わっちゃうよ」
「ひぃぃぃ……! み、みなさん早いですよぉ!」
「はぁ……。オレぁもう行くからな、吾妻」
「おう、蒼汰。付き合ってくれてありがと! ご機嫌なウィンクを喰らえ!」
バチンとウィンクを飛ばすと、鬱陶しそうに手を振り、蒼汰は去っていった。
立ち去った蒼汰の席に、ゆずちゃんが座る。
「男の友人というのも珍しいですね、お兄さん。同性からも嫌がられますし」
「まぁそれはなぁ。俺の性格上きついだろ」
「意外に、皆さん東雲君を好きじゃないんですね」
「いやぁ、俺頭おかしい人間だから。亜里沙も遠慮なく罵ってくれていいよ」
「そんなことしません! わたくしは、東雲君が大好きですから!」
「……うん、まぁ、ありがとう」
「嬉しそうですね、兄さん」
「そうね……いててっ!」
足を踏まれる。ゆずちゃんだったが……
「何だ、またやきもち?」
「や、やいてません!」
「ふっふっふ、うりうりー、可愛い奴めー」
「う、うう……」
「……あの、お二人はご交際を?」
「ああ、違うよ。仲がいいだけ。ねー、ゆずちゃん?」
「……はい、仲は、悪くないと思います」
「むぅ……恋敵ですね!?」
「こ、恋では、ないというか……あ、愛というか……」
「え? ゆずちゃん、小声すぎて何言ってるか聞こえないって」
「変態」
「自覚してますけど?」
「わたくし、負けませんから!」
「……」
ゆずちゃんは、何故か無言で亜里沙と張り合ってるようだが。
「!」
い、今の感覚は――
「? どうしました、お兄さん」
「今、兄貴の気配が……」
「げっ……。帰ってきてるんですか!?」
「いや、俺の第六感がそう告げてるんだ」
「お兄さん、そういうとこ鋭いですから……。どこらへんか分かります?」
「近かった。福岡にいるんじゃないかな」
「うわぁ……」
「ああ、東雲君のお兄さんが来てるんですね」
「うん、多分。なんか、感覚でお互いの場所が分かるんだよね……」
「相変わらずニュータイプですね……」
「素敵な絆だと思います! わ、わたくしも、ごあいさつした方が……」
「いや、心からやめておくべきだと思いますよ。これだけは真実です、関わっちゃいけません」
「そ、そうなのですね……」
まぁ一般人は圧倒されるらしいけど。
俺は話が通じる相手なので別に、という感じ。親父も兄貴を妙に苦手にしていたので……まぁ、なんというか。人を選ぶ人間ではあるか。
「……」
「どしたの、亜里沙」
「いえ……家に帰ったら、少し用事があって……」
「めんどくさいことなのか」
「ええ、まぁ……。いえ、それよりも! 憧れてたお昼休みにお友達と一緒にご飯、という念願がかない、わたくし、嬉しいです!」
「これからいっぱい経験できるよ」
「はい!」
「?」
事情は、ゆずちゃんには後で説明しておくか。
美味しそうに担々麺を食べる亜里沙を眺めながら、昼休みは過ぎて行った。
「……なるほど。あの人がお兄さんに懐いている理由が全部わかりました」
ゆずちゃんがコーヒーカップを置いて、うんうんと頷いている。
あの後、バイト先――カフェ・ロワゾブリュにゆずちゃんを誘い、俺はバイトしながらゆずちゃんに亜里沙との馴れ初めを話していた。
「そりゃ惚れられますよ、お兄さん。私だって惚れますって、そんなことされたら」
「そうだよ。あずにゃん、良いヤツすぎる……」
マスターまで加わってきた。
「いや、んなこたないですから。フツーでしょ」
「普通そこまで面倒見はよくないと思います」
「そうだよ。というか、僕なんかは適当にしゃべってその後は通わないし」
「いやー……、友達じゃないですか。普通は見舞い行くっしょ。友達が勇気が欲しいなら、全力で与えるっしょ」
「うーん……まぁ友達ならねぇ。普通、その場合は知り合い止まりだと思うけどね。友達になったのは、間違いなく君の力だ」
「そうですよ、お兄さん」
「うーむ、そうなのかなぁ……」
じゃあ俺の責任ということになるのか? 亜里沙が近づいて来るの。
別に嫌ではないし、むしろうれしいんだけど……目が眩しすぎるというか。
恥ずかしい話だが、本当に王子様のような扱いなので気後れする。
俺の人生であそこまで近づかれたためしがないため、ビビるのだ。
「うちの有栖とも仲がいいし、ハーレムだね」
「えー? ハーレムぅ?」
「珍しい。嫌そうですね」
「俺にそんな甲斐性も度胸もない」
「本気になれば全員養うくらい容易いでしょう」
「というか、ハーレムの全員って誰なんです?」
「聞いている限りでは、うちの有栖も君にアタックしてるし、たまに来る郡山さんもあずにゃんのこと好きそうだし」
「え、あの冷血爬虫類が?」
「何だいそのあだ名。うん、君に対しての態度が全然違うからね。それから、その亜里沙ちゃんに、そこの従妹さんもあずにゃんのこと好きだね」
「ち、ちち、違いますよー」
「声小っちゃ!?」
「あはは、正直だね。というわけで、ハーレム形成頑張ってくれたまえ」
「いや、そんなハーレム野郎にけしかけるなんて。娘にどんな恋愛強いてるんですか……」
「そうだともぉぉぉ! うちの弟は最良物件さ!」
派手にドアが開く。
異様に整った容姿の、背の高い男がやってくる。
ゆずちゃんはその正体を知ってるので口をぱくぱくとしていた。
「ん? 我が従妹はそんな酸欠の魚よろしく何をパクパクしているんだい? まぁいいか! やぁ、我が弟よ!」
「兄貴、やっぱ日本に帰ってたんだ。お帰り」
東雲鳴。俺の血のつながった兄貴だ。
身長百八十センチ、長い手足に整ったルックス。高級ブランドで固めているがそれが嫌味ではなく、むしろそうじゃないと失礼だろうと言わんばかりの高貴な存在感を放つ男だ。
「うむ、会社が落ち着いてね。いやいや、これからジューンブライドを目当てにブライダル関連は忙しいが、優秀な部下に任せて休暇を取ったのさ! 何と、三日も一緒にいられるんだぞ!」
「わぁ! 兄貴すげえ、この間は半日だったのに!」
「はっはっは! そして、バイト先の……北条院さんだったかね? これを」
「……! この豆……ま、まさか……!? ゲイシャ!? いや、この包装は……ま、まさか」
「ほう、さすがバリスタ、お目が高い。お土産だから、遠慮なく貰うといい」
「あ、ありがとうございます。こ、コーヒーをお入れします、お好きなお席に……」
「うむ! 大儀である」
兄貴は相変わらずだなぁ。
「従妹よ、君にも世話になっているようだね。ほら、去年渡せなかったお年玉さ! 貰っておくといい!」
「は、はぁ……」
「いやしかし、我が従妹ながら相変わらず凡愚のようでなによりだね。聞いたよ、我が弟に勉強を教わったと! いけないね、いやはやいけないね。いくら吾妻が好きとは言え、そう言うなりふり構わない手段、ボクは好きじゃないね!」
「きゃああああああああ! あー、ああああああああっ!」
すげえ、大人しいゆずちゃんが叫んでる。
さすが兄貴だ。
「さて、めんどくさいが会食に出なくてはいけなくてね。ボクと吾妻は」
「そうなの!? 初耳だよ、兄貴!」
「そうだったかい? まぁいいだろう。店主、吾妻は連れて行くよ」
「は、はぁ。まだコーヒーが……」
「ハハハ、後日飲みに来るとも! さあ行こう! 支社に服を用意させてあるからそこで着替えようではないか!」
「まーいいけどさー。相変わらず強引だな、兄貴」
「強引な兄は嫌いかい?」
「尊敬してる」
「あははは、正直だな吾妻は! では、諸君! さらばだ!」
依然ぽかんと口を開けたままの全員を背に、俺は兄貴に連れられて外に出た。
会食は、兄のメンツをつぶさないように立ち回る。
立ち回り方は何となく身に着けた。
こういう社交界というのは、全くもって理解できないが、俺はここで建前とか言うスキルを磨いていた。
褒められると背中がかゆくなるものの、抑えられないわけではない。
あー、かゆい。
「いやぁ、お会いできて光栄です、東雲様!」
「いや、何。楽にしてくれたまえ。吾妻、礼を」
一礼してニコリと微笑む。
それだけで気分を良くした太った男性が、どこかに行った。
「やれやれ、自分のスタイルくらい管理してくれないと困るんだがね。吾妻、誰だったか覚えているかい?」
「水上商事の水上瑞雲代表取締役かな」
「よく覚えていた、正解だ。ほら、ああやって、可愛いとみた女の子に声を掛けている下衆野郎さ。全く、いやになるね」
「はい、お兄様」
「兄貴でもいいんだぞ」
「社交界が終わったら、そうするよ」
「それでいい」
……ん?
あの代表取締役が近づいてるのは――
「お兄様、ごめん。少し離れる」
「ああ」
その場に駆け寄る。
「いやぁ、可愛いね君。どこの娘さんだい? どうだい、この後ホテルに。好きなだけお金を払おうじゃないか。ん?」
「い、いえ、わたくしは……」
「亜里沙!」
「え!?」
驚いている様子の亜里沙。
あからさまに舌を打つ代表取締役。
「これはこれは、弟様のお知り合いでしたか」
「ええ、その通りですよ。手を出したら……どうなるか、聡明な貴方ならお分かりになるでしょう?」
「はぁ、いくらでどこかへ行ってもらえるのかな?」
「……金で買えないものくらい、知っておくんだな。この油狸が」
「な、なんだと貴様!」
「うむ、よく言った弟よ」
「いっ!? し、東雲様……!?」
兄貴、ナイスタイミング。
「弟の恋人に声を掛けた挙句、買収しようとするその見た目通りの醜悪さ……ボクは聞いたよ。君とは、交友を切らせてもらう」
「そ、そんな……!? 東雲様の援助がなければ、我が社は……!?」
「猶予は一年だったはずだが? 収支を見る限り、収益もあがっていないようだ。ボクも手を引かせてもらうよ、これはビジネスだからね」
「こ、この小僧が……!」
ワインの瓶を掴み、兄貴に殴りかかろうとしたところまでは見えた。後は、反射。
俺は兄貴を庇い、顔面に瓶を受けた。
瓶が割れる。衝撃と飛び出してきたアルコールの臭いがぐわんぐわんと頭に響く。
悲鳴が上がる中、俺はその男の胸倉を掴んだ。
「……覚えておけ。東雲が、お前達を追いつめる。今のうちに国外にでも逃げるんだな」
「うむ、立派だったぞ弟よ。後は任せたまえ」
「頼むよ、兄貴」
警備員が駆けつけてくるのを尻目に、俺はそのまま男を巻き込んで気を失った。
…………。
?
手が、温かい。
「……」
見ると、ドレス姿の亜里沙が涙混じりにこちらを見ており、目が合った。
「東雲君! 大丈夫ですか!?」
そう言う彼女は、ぽろぽろと涙を流している。
不安だったのだろう。
その目は、本気で安堵しているようにも見えて、彼女はぐしぐしと手で涙をぬぐっていた。
身を起こす。
「まだ動かないでください! 頭を打たれたんです!」
「……いや、もう大丈夫だよ」
「ダメです! 何かあってからでは……」
そう言われるとどうしようもなく。
俺は再び頭を枕につけた。
えっと。
なんか頭がぼんやりするな。
殴られた衝撃でなのか、それともアルコールでなのか。
まだ鼻孔にはアルコール臭が燻っている。
それでくらくらしているのか……まぁ、すぐに収まるだろうけど。
「俺は……どうなったんだっけ?」
「ワインの瓶で殴られた後、気を失ったんです。ここは休憩室で……」
「ていうか、亜里沙。なんでまたこんな社交界に?」
「ち、父がどうしてもと……」
「ふーん」
正気の沙汰じゃないな。
こんなの、いい子の亜里沙がこなせるはずがない。二枚舌養成所みたいなもんだし。
相手によっては遜らないといけないし、めんどくさいことこの上ない。
対人経験を積むなら、もっと他の場所がある。
こんなところで磨かせようとするのは、馬鹿のすることだ。
いや、他にもあるか。
政略結婚の相手とか。
兄貴が出席するような会だ、相手には事欠かないだろう。
……こんな病み上がりの子に、そんなことをさせるのか?
柄にもなく、イラッとしてしまう。
と、ノックの音。
「どーぞー」
そこには、兄貴と亜里沙にどことなく似た、夫妻だろう男女の姿。
「すみませんでした、東雲吾妻様……! 娘のせいで、とんだお怪我を……」
「俺は兄を庇っただけです。それと……亜里沙を無理やり社交界に連れてくるの、やめてもらえません? やっと、人並みに幸せになってるところなんですよ」
「ひ、人様の家庭に口出しされる覚えはありません」
「いいやあるね。亜里沙と俺は親友でね。さすがに見過ごせない」
「……本当か、亜里沙」
「はい、お父さま。東雲君は、わたくしの大事な友人で、大好きな人なんです」
「……そうか。好きな人がいたのか。すまないことをしたね、亜里沙。いい人を選んでやろうとしたのだけれど……昔、美咲には怒られてしまった。また、繰り返してしまったのか」
……。
何この雰囲気、重っ!
いや、元凶は俺なんだけどね。
そんな空気を払うように、パンパンと手を叩く兄貴。
「じゃあこうすればいい! 亜里沙ちゃんといったかい? 弟と婚約すればいいさ!」
えええ!? 何言いだすんだ、兄貴。
俺を除く全員がぽかんとしている。
冗談だと思っているのか? いや、兄貴はいつも本気だ。
「何だい、このボクの弟が不満だというのかい? まぁ形だけだがね、婚約してしまえばいいと思うよ!」
「いや、なんでなんだ……ってそうか。いらん虫がつくのも避けられるし、兄貴の弟なら兄貴との縁もあるのか」
「鋭いな我が弟よ! そうだとも、婚約したまえ!」
「……それは、できません」
そう、亜里沙はキッパリと兄貴に断りを入れた。
驚いているのは兄貴だけではない。彼女の両親も血相を変えた。
「こ、こら亜里沙! 東雲様になんてことを!」
「取り消しなさい、亜里沙!」
「いいえ! 取り消しません! だって、わたくしは……そんなものが無粋だと思うほど、東雲君を……吾妻君を愛しているのですから!」
清々しいまでの、愛の告白に。
初めて、心が――熱くなった。
どうしようもないほどに胸が締め付けられる。
そうか――俺が求めていたのって。
打ち込めるものじゃなくて――
――愛、だったのか。
兄貴も、彼女の両親も、彼女の必死の告白を見て、優しい顔になった。
「ありがとう、郡山のお嬢さん。ボクの素敵な弟を好きになってくれて。さて、郡山夫妻、ボクらは少々邪魔のようだ! 会場に戻って食事でもどうかな?」
「ええ、分かりました。亜里沙、よかったな。頑張るんだぞ」
「頑張るのよ亜里沙。私も恋愛婚だから」
「はい! お父さま、お母さま! 亜里沙は好きな人に振り向いてもらえるよう、頑張ります!」
見送って、俺は溜息を吐いた。
「あのなぁ、亜里沙。そう言う告白はもちっとロマンチックにだな……」
「ふふっ、まるで乙女みたいなことを言うんですね」
「でも、悪いな。俺も、今すぐに返事はできない。告白は、すっげえ嬉しかったけど……」
「はい、今はわたくしも……自分に自信がありません。でも、これって目標はできました!」
「……聞かせてよ」
「はい! 吾妻君に好かれる自分になりたいです!」
「……分かった。でも、その日まで。俺と親友でいてくれる?」
「勿論です。たとえ断られたとしても、ずっと……親友ですよ、吾妻君!」
ニコッと笑った彼女は、嬉しそうに手を取ってくる。
その後、何事もなく、会はお開きになった。




