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カツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツ――。
鉛筆の音。時折、混じる咳払い以外にはそれだけしか聞こえない。暖房の利いた部屋の中には人が詰め込まれ、むしろ熱いほどだ。額に前髪が張り付く。
冬に差し掛かるころに行われる大手予備校のT大模試。二日目最後の英語が終わるまであと五分というところ、二時間を超える試験時間にも関わらず筆がとまらない。問題用紙から目をそらさず、一心不乱に英文を読み続けている。
いい加減暑さに耐えかね、僕は上着を脱いだ。その拍子に消しゴムが落ちたが、周りは誰も気づかない。静かに手を上げた。けれど、一向に試験官は気づかない。長時間の試験、先に飽きるのは手持無沙汰の彼らだろう。
僕は諦めて解答に戻ることにした。
すでに配点の大きい問題は解き終え、残すは記号問題のみだ。けれど、油断はできない。一点でも良い点を取るのは受験生の責務なのだ。
少ない残り時間の中、大量の文章を読み続ける。
「試験時間残り五分です」
無意識のうちに左足が揺れだし、左手を額に当てる。
理解できる速度を、目の動きが追い越しアルファベットが頭の中を流れていった。
キーワードを頼りに、流れを抑え必死に回答を求めた。時計を確認すると残り数十秒。慌てて解答用紙に答えを書こうとして、僕はパニックに陥った。アと書くところをうっかりウと書いてしまったのだ。床を見ても消しゴムは手の届かないところに落ちている。
急いで手を挙げかけたところで終了を知らせるチャイムが鳴った。
「これで英語の試験は終了となります。後ろから解答用紙を自分のものが上になるように回してください」
僕は放心状態のまま、紙を回した。
気づいたころには手元に正答を載せた冊子が回ってきており、多くの受験生は早々とそれを開いていた。
「やば! 数学の六問目計算ミスった」
「物理難しすぎるわ」
「現文わかんねえよ」
早速、仲間内で答え合わせをしあう者たちもいれば、さっさと部屋を出ていく人たちもいた。僕もため息をつきながら教室を後にした。
外に出ると冷たい風が僕の頬を打ち付ける。ポケットに手を入れて、マフラーに顔をうずめた。
十分に解ける問題だった。それに自分の解答に自身もあった。それだけに書き間違えたのが悔しかった。一点でも多くとる、だとか、一点を笑うものは一点になく、だとかは飽きるほど聞かされてきた。それなのに僕はつまらないミスを犯してしまったのだ。
俯きながら歩いているとさらに気分が落ち込んでいく。
きっと家に帰れば親に試験の様子を聞かれるだろう。明日学校に行けば担任は笑顔で「どうだった?」などと尋ねてくるだろう。僕は決まって、まあまあと答える。すると彼らはそれを勝手に解釈して、「そうか。変わらずがんばれ」とほざくのだ。こちらの真意など欠片も理解していない。
悪かったと答えれば悲しませるし、叱られる。良かったなどと言ってしまえば、相手の期待をあおり、結果、自分の首を絞めることになる。僕にとって「まあまあ」という言葉は結果を何も言い表していないのだ。
思えば、何故、僕はT大を目指すことになったのだろうか。
高校に入ったばかりのころは、勉強が面白かったし、成績も悪くなかった。けれど、いい大学に行きたいなんて気持ちはどこにもなかった。志す理由も僕は持ち合わせていなかった。
きっと二年最後の三者面談の間中に、親と担任が勝手に志望校を決めつけてきて僕も断れなかったのだ。それか、親への逃げ口上として有名大学の名前を僕が口走ってしまったのかもしれない。
以来、予備校のパンフレットをたびたび見せられたり、T大と名の付く本が知らぬ間に机に置かれたり。
少しずつ負担になっていくのを感じていた。けれど、志望校を変えるとは言いだせなかった。
親父は「最悪、浪人させてやる」と言い、母は「あなたなら大丈夫」という。気づけば逃げ道はなくなっていた。
強制感のある勉強に楽しさなどなく、受験という名のもとに娯楽が身の回りから消えていく。
結局、辛さを耐えながらも努力を続けてしまったせいで、自分自身も逃げ出すことができなくなってしまった。
きっと仕方がないのだ。そう、仕方がない。辛いのだって目的のない頑張りだって仕方がない。
T大に受かれば人生安泰だと世間は言うし、勉強は重要だと大人は言う。それはおそらく正しいのだろう。
だから、今、何も見えていないのは仕方がないことだ。
心の中で繰り返す。
けれど、何度も自分をごまかしてきた定型文はもう効力を失っていた。
「もう嫌だ……」
口から言葉がこぼれだし、そして視界が暗転した。