第八話 温かさと動揺
あったかいな。最初に感じたのはそれだった。
とても安心するような温かさ。どれだけもらってもずっと嬉しいと思い続けられるような。そういう温かさだった。
それが、あたしの右の肩の辺りにあるっていうのに気がついたのは温かさを感じてから数秒後。
あたしはその温かさをもっと求めるように体を温かさのほうに向ける。それから、その温かさを包み込むように腕を伸ばす。
「お、大西さん!」
不意に瀬条先輩の慌てるような声が聞こえてきた。その声を聞いてあたしは自分が寝ていたことに気がついた。
あたしは、ゆっくりとまぶたを開ける。最初にあたしの視界に入ったのは誰かの肩。
どうやらあたしは誰かを抱きしめているようであたしの手が誰の反対側の方のほうにあるのが見えた。
それから、あたしは今の状況をゆっくりと頭の中で整理する。
確か、あたしは瀬条先輩と話していて途中ですごく眠くなったんだった。それで、結局あたしは睡魔に負けて眠ってしまった。そこまで思い出す。それから今の状況を考える。
あたしが眠る前にここにいたのはあたしと瀬条先輩だけ。うっすらとした意識の中であたしが何かに抱きついたら瀬条先輩が慌てたような声を出した。
そこから考えられることは……。
その考えに行き着いたとたんにあたしは急に恥ずかしくなってきた。あたし、なにかとっても大変なことをしてしまったような気がする。
自分の行き着いた考えを否定したいんだけど否定できる材料なんて全くない。むしろ、肯定するための材料ばかり。
あたしは、自分の考えがあっていてほしくないと思いながらゆっくりと視線を上へと動かす。
視線を上げ切って見えたのはどこか困惑したような表情を浮かべた瀬条先輩の顔だった。そこから考えられることは一つだけ。
顔があそこにあるということはこの肩は瀬条先輩のものだ。ということはあたしが今抱きついているのは瀬条先輩の体……
そこまで考えてあたしは寝起きとは思えないような速度で上半身を動かした。
「あ、お、おはよう、大西さん」
少し不自然な口調の瀬条先輩。あたしはとりあえず、確認の意味で聞いてみる。たぶん、目はきょろきょろと動いて、顔は真っ赤になってると思う。
「あ、あの、せ、先輩。あ、あたし、な、なにしてたんですか?」
「僕の肩を支えにして眠ったと思ったら、いきなり、抱きついてきたんだよ」
最初の声よりは落ち着いていたがそれでもまだ焦りの色が見て取れるような声で瀬条先輩は言う。
あたしはそれを聞いてとっても恥ずかしくなる。体全体が火照っているのがわかる。あたしはこの場からすぐに逃げ出したい。けど、体が思うように動いてくれない。たぶん、それは瀬条先輩に抱きつくことが出来て嬉しかったからだと思う。
ただ、単に恥ずかしいだけだったらあたしはすぐに逃げ出していると思うからね。
ふと、今の先輩はどんな表情を浮かべてるんだろうか、と思った。目が覚めてから見たときは困惑したような表情だったはず。だったら、今はどんな表情を浮かべてるんだろう。
困惑した顔なのか、焦ったような顔なのか、それとも、今のあたしみたいに恥ずかしそうな顔なのか……。
気になって気になってしょうがないんだけど、首が思うように動いてくれない。少し動かせばいいだけのはずなのにそれが、できない。
確かに、動かすのは簡単だ。だけど、瀬条先輩の顔を見てあたしの中の恥ずかしさを抑えるのは無理に決まっている。今だってすごく恥ずかしいんだから。
仕方なく瀬条先輩の顔を見るのは諦めた。あたしは、瀬条先輩に気がつかれないくらいに小さく溜め息を吐く。
と、そよそよ、と風が吹いてきた。今度の風は冷たくなく涼しいくらいだった。恥ずかしさで火照ったあたしの体にはちょうどいい。
あたしは、あたしと瀬条先輩の間を沈黙が支配していることに気がついた。少し居心地が悪い。何かを言わないといけないような気がする。けど、何を言っていいかわかんない。
そう思っていたら瀬条先輩が先に口を開いた。
「だいぶ、暗くなってきたね」
ずっと、沈黙した状態じゃなくなったことによかった、と胸の内でほっとする。
「今、何時なんですか?」
会話を途切れさせないようにあたしはそう聞く。というか、ここで何かを言わなければ絶対に怪しまれる。
「ん?今?六時五十分だよ。僕たち結構話し込んでたみたいだね。といっても、大西さんは十分くらい眠ってたけどね」
瀬条先輩はあの沈黙の間に平静を取り戻したようだ。いつもの穏やかな瀬条先輩の声だった。
それよりもあたし、瀬条先輩の肩に寄りかかって十分間も眠ってたんだ。思い出すとまた恥ずかしくなってきた。だからこれ以上は考えないようにしようって思った。
それよりも、瀬条先輩があたしの質問に答えてくれてたってことを思い出した。
「……もう、そんな時間なんですか?」
あたしは頭の中で言葉を組み立ててそう言った。
直感で思い浮かんだ言葉が「もう、そんな時間なんですね。あたしまだ帰りたくないです。……先輩の近くにいたいですから」だった。そんな言葉は絶対にいえない。恥ずかしすぎる。だから、あたしはわざわざあんな簡単な言葉を考えなければいけなくなった。
「うん、そうだよ。なんか時間が過ぎるのがはやいよね」
瀬条先輩のそんな言葉にあたしの心臓がとくん、と小さく高鳴る。どういう心境で瀬条先輩はそんなことを言ってるんだろう。あたしと同じ気持ちで言ってくれてるんなら嬉しいな。
「そろそろ帰らないと大西さんの家族、心配するんじゃないかな?」
「こんな時間に外に出るのは初めてですから、たぶん心配してると思います。先輩のほうは大丈夫なんですか?」
「僕はこれが日課になってるから大丈夫だよ」
「毎日、ここに来てるんですか?」
「ううん、ここに来るのはたまにだよ。毎日、この時間帯に散歩をしてるってことだよ」
「へえ、そうなんですか」
今ので、また新しく瀬条先輩のことを知った。瀬条先輩のことを知るごとにあたしの中で何かが積み重ねられていく。たぶん、それは瀬条先輩の人物像なんだと思う。そういえば、今までは漠然としか瀬条先輩のことを見ていなかったような気がする。
「それよりも、早く帰ったほうがいいんじゃないの?心配してるかもしれないんでしょ?」
「そうですね。そうします」
「それじゃあ、下まで一緒に行こうか」
瀬条先輩はそう言って立ち上がる。あたしもその後に続いて立ち上がる。けど、思うように体に力が入らなくて少しふらついてしまう。
「大丈夫?大西さん」
あたしが倒れると思ったのか瀬条先輩はあたしを支えてくれた。瀬条先輩の温かい手があたしの両肩に触れている。
「えっと、あの、だ、大丈夫です」
そういって肩から手を離してもらう。本当はずっと触れていてもらってもよかったんだけど恥ずかしさに耐えられそうになかった。
「一応、さっきまで寝てたんだから、動くときは気をつけたほうがいいよ」
瀬条先輩があたしを注意する。けど、声音は優しかった。
「それよりも、一人で歩ける?歩けそうになかったら肩とか貸してあげるけど」
「べ、別にいいです。一人で歩けますから」
「そう?でも、階段でこけないように気をつけてね」
「はい、わかってます」
あたしは頷いてそう答える。瀬条先輩もあたしに頷きかけて応えてくれた。
それから、あたしと瀬条先輩は並んで――じゃなくて、恥ずかしいからあたしは瀬条先輩の半歩後ろを歩いてる。
「大西さんは、明日の朝ここに来れる?」
階段を下りながら瀬条先輩がいきなりそんなことを聞いてきた。あたしはちゃんと話をするために半歩遅れていた分を階段を一つ抜かしすることで埋める。
「明日の朝ですか?」
「そう、今日の朝と同じくらいの時間に来れないかな?」
それは、今みたいにあたしと話をしたいってことだろうか。どうやら、瀬条先輩の中のあたしの印象は悪くないみたいだ。むしろだいぶいい印象を持たれていると思ってもいいかもしれない。
そうでなければ、瀬条先輩がわざわざあたしのことを誘ってくれる理由がわからない。あたしは二つ返事で瀬条先輩の誘いに乗ろうと思った。けど、
「あの、すいません。たぶん、無理です」
と、断った。理由は簡単。あたしは朝早くに起きることができないからだ。今日の朝は特別だっただけ。
「そっか、まあ、仕方ないよね。朝早くに来るなんて」
瀬条先輩は自分でも無理な誘いをしていたとわかっていたのか苦笑しながらそう言った。けど、どこか残念そうな、そんな響きがあった。
瀬条先輩のそんな声と言葉を聞いて自分中心な考え方だとわかっていてもこう考えてしまった。もしかして、先輩、あたしのこと、好き、なの、かな、って。
自分勝手な妄想のはずなのにすっごく恥ずかしくなってくる。自分の中の抑え切れない感情があふれ出してくる。
そして、そのあふれ出した感情があたしに小さな勇気をひとつくれた。あたしは、それを使ってひとつのことを言う。
「あの、明日、の、朝、早くは、無理、です、けど。帰りなら、一緒に、帰っても、いい、で、す、よ……」
せっかくあたしからあふれ出した感情からもらった勇気を使ったのにあたしの口から出てきたのはか細く、今にも消え入りそうで切れ切れな声だった。でも、瀬条先輩にはちゃんと聞こえてたようだった。
「うん、そうだね。明日は一緒に帰ろうか。大西さんの家ってこの近く、だよね」
「はい!ここから五分くらいの場所にありますよ」
あんなに小さい声だったのに瀬条先輩に聞こえてたことと、明日瀬条先輩と一緒に帰れることが嬉しくてあたしの声はとっても弾んでいた。
「それじゃあ、一緒に帰れるね。そういえば確か、明日も生徒会の仕事あったはずだよね」
「はい、確かあったと思いますよ」
「じゃあ、どこかで待ち合わせをする必要もないね」
「そうですね。一緒に生徒会室を出ればいいんですから」
実際にやるとなると恥ずかしいだろうな、と思いながらあたしはそう言った。
「じゃあ、先輩、あたし、もう帰りますね」
「うん、くれぐれも帰り道には気をつけるんだよ」
「はい!あの、それと、今日、先輩とお話が出来てとても楽しかったです。ありがとうございました」
頭を下げながらあたしはそう言った。
「そんなにかしこまらなくてもいいよ。僕も楽しかったしね。僕たち、結構気が合うんじゃない?」
瀬条先輩のその言葉はあたしを動揺させるのに十分すぎた。あたしの心は何かで思いっきり殴られたようにぐらぐら揺れている。
「そ、そうかもしれませんね……」
それだけ言うのがやっとだった。何かを期待するような感情を抑えきれない。
「そういえば、大西さんは猫、好き?」
「え?いきなり、なんですか?」
いきなりそんなことを聞かれたのでそんなふうに返してしまった。それに、驚きで先ほどまであった感情は抑えられたようだった。
「急に聞きたくなったんだ。別に聞かれて困るようなことでもないでしょ」
まあ、確かに聞かれても問題はない。むしろ、瀬条先輩にあたしのことを知ってもらえるから嬉しい。でも、なんでいきなりそんなこと聞くんだろう。
考えてみるけど、全然わからない。こういうときは悩んだって仕方ない。それに、言っても言わなくてもどっちでもいいようなことだ。
だから、あたしは瀬条先輩の質問に答えることにした。
「はい、好きですよ。たぶん、あたしの一番好きなものだと思いますよ」
「あ、やっぱりそうなんだ。じゃあ、あそこに連れて行っても大丈夫だね」
瀬条先輩は一人だけで納得したようにそう言う。
「あそこってどこのことですか?」
「秘密、だよ。まあ、明日、ちゃんと教えてあげるから楽しみにしててね」
なんでわざわざ隠すんだろう、とあたしは首を傾げる。もしかして、瀬条先輩はあたしを驚かせたいんだろうか。それに、猫が好きかって聞くってことは猫に関係する場所なんだと思う。
そこまで考えてあたしは考えるのを止めた。せっかく瀬条先輩があたしを驚かせようとしてるんだ。あたしの予測が当たってて驚きが半減するようでは瀬条先輩に申し訳ない。だから、それ以上はもう考えない。
明日、瀬条先輩が連れて行ってくれる場所は楽しくて面白い場所なんだろうな、とだけ考える。
「と、これ以上、話してる時間はないね」
「あ、そうですね。それじゃあ、先輩、さようなら」
そう言ってあたしは家に向かって歩いていく。
「うん、また明日ね、大西さん」
瀬条先輩はあたしに向かって手を振ってくれる。あたしも瀬条先輩に手を振り返す。子供のように大きく。
ちょっと恥ずかしかったけどあたしの嬉しさとかそういうものを感じ取ってほしかった。明日も瀬条先輩に会って話をすることが出来る。それが、あたしの心を躍らせた。
あたしは歩きながら一回転する。そうすると、一瞬だけ視界が真っ暗になり視界がとても低くなった。急いで帰るためにあたしは姿を猫に変えた。
この不思議な力のおかげであたしは瀬条先輩と話をすることが出来た。最初は元の姿に戻れなかったらどうしようという不安ばかりだった。けど、今ではこの力に感謝している。それにあたしの好きな猫の姿になれるのだ。
元の姿に戻る方法を知った今、この力を不安に思う理由なんてない。
そんなことを考えながらあたしは家まで走っていった。