第五話 好きな人の温かさ
瀬条先輩に抱かれて階段をおりるのは最初の頃は少し怖かったけど中ごろに差し掛かった頃には結構慣れてきた。余裕が出来たので周りを観察していると不意に光が目に入った。まぶしくて目をきゅっと瞑ってしまう。
それは日の出の太陽の光だ。あたしはあまり早く起きるようなタイプの人間ではないので日の出を見たのは初めてかもしれない。
「綺麗、ですね」
そして、あたしは柄にもなくそんなことを言ってしまった。
景色を見て綺麗だって思うことは多々あるけど実際に口に出して言ったのは今日が初めてだ。それも、自然と口からこぼれるように。
「うん、そうだね」
瀬条先輩がそう言う。おんなじものを見ておんなじふうに感じることができてあたしはとっても嬉しい気持ちになる。
もしかしたら、瀬条先輩と一緒にいるからこの日の出の太陽を綺麗に感じて、あたしの口から素直な気持ちがあふれてしまったのかもしれない。本当にそうだとしたら、大好き、という気持ちは人の心を素直にする力があるんだと思う。
それと一緒に大好き、って不思議だなって思う。人の心を素直にさせるくせにその思いを大好きな人には伝えさせてくれない。恥ずかしさとか、ためらいとかが邪魔をするから。
あたしは、首を上に向けて瀬条先輩の顔を見る。
瀬条先輩はどこか嬉しそうに微笑んでいる。この日の出を見れたからなのか、それとも、あたしを抱いているからなのか。そこまで考えて絶対に後者はないなと否定する。後者は単なるあたしの望みだ。前者のほうが瀬条先輩の嬉しそうな表情を浮かべる理由としてもっともなものだと思う。
でも、もし、後者のほうの理由だったら。あたしはとっても嬉しい。
多分、その嬉しさの勢いに乗じて告白だって出来ると思う。
「どうしたの?ゆかりちゃん。僕の顔をじっと見て」
あたしの視線に気がついたらしい瀬条先輩は少しあたしの顔を不審そうに見る。
「な、なんでもないですっ!」
慌ててそう言ってあたしは視線を前に向ける。見惚れていました、なんて絶対にいえるわけがない。
「そう?ならいいんだけど」
まだ少し納得がいかないというような表情を浮かべたが瀬条先輩は顔を前に向ける。あたしは瀬条先輩の視線がはずれたことにほっとすると同時に残念だと思った。
ずっと見られてたままだったら恥ずかしくて一言も喋ることが出来なくなっていたと思う。それが、瀬条先輩の視線があたしからはずれてほっとした理由。
残念に思った理由は、好きな人にはずっと見られていたいなっていう、想いがあったから。やっぱり、好きな人に見られているだけであたしは幸せを感じることが出来る。たぶん、それは恋をしている人の共通の想いだと思う。
あたしは瀬条先輩が見ていたときに感じていた幸せを思い出しながらそれを封じ込めるように目を閉じた。なんだか、自然と口元が緩んでくる。
猫の姿だから気が付かれないと思うけど、人間の姿だったらすぐに気が付かれていたと思う。それほどまでに自分の口が緩んでいるとわかる。
「ゆかりちゃん、一番下まで降りたけど、ついでだから家の前まで連れて行ってあげようか?」
瀬条先輩の言葉で自分の世界に入りかけていたあたしは現実世界に引き戻された。瀬条先輩の言葉を聞いていなかったなんていうことはなかったので少し安心する。
「ゆかりちゃん?」
なかなか、あたしが質問に答えないのを不審に思ったらしく瀬条先輩は少し心配そうにあたしに声をかける。
「え、えと、こ、ここまででいいです。あとは一人で帰れますから」
「わかった。じゃあ、帰るときは車とかに気をつけてね」
そういいながら、瀬条先輩はあたしを優しくゆっくりと地面に降ろす。
瀬条先輩の手が離れた途端にあたしは寒さを感じて少し震える。そして、瀬条先輩に抱かれていたときに温かかったことを思い出す。
「そういえば、ゆかりちゃんの家ってどっちのほうにあるの?」
瀬条先輩は左右に別れている道路を見てあたしにそう聞く。
「右側のほうですよ。博斗、さんは?」
「僕は左側だよ。ということは、ここでお別れだね。それじゃあね」
そう言って瀬条先輩は左側の道へと歩いていく。
あたしはその後姿にさようなら、と言おうとした。けれど、それを言おうとするよりも早くあたしはふと、あることを聞かなければと思った。
「あの、博斗さん、少し待ってください」
あたしの声に反応して瀬条先輩は「ん?」と言って立ち止まりあたしのほうに振り向く。
「博斗、さんはいつもここの神社に来てるんですか?」
「うん、そうだけど。それが、どうかしたの?」
「その、また、博斗、さんに、会いたいなって、思ったんです」
恥ずかしくて言葉が途切れ途切れになる。
「それで、博斗さんに、会えそうな場所って、ここの神社くらいしかないじゃないですか。お互いに、知っているのって、ここだけですから」
これは、嘘だ。あたしが本当のことを言えば同じ高校に通っているから直ぐにでも会えるはずだ。でも、それができないのはあたしの勇気不足。
だから、あたしは今ここで勇気を振り絞っている。他の人から見ればしょうもないことかもしれないけど。
「だから、いつぐらいなら、ここにいるのか、教えてくれません、か?」
「うん、いいよ。ゆかりちゃんのこともうちょっと知ってみたいからね。それで、時間だけど、大体早朝か夕方にはいるよ」
もうちょっと知ってみたい、という言葉にあたしは胸が高鳴った。瀬条先輩はあたしに少なくとも興味を抱いていてくれている。それが、あたしをどきどきさせる。
「じゃ、じゃあ今日の夕方、よろしいですか?」
「うん、今日の夕方だね。あ、でも今は忙しいからもうちょっと遅い時間になるから無理かもね」
「どうして、ですか?」
「ゆかりちゃんは、女の子だからあんまり遅くまで外に出ていないほうがいいでしょ?」
「そんなことないです。大丈夫です。猫になれば襲われないと思いますから」
どうしても瀬条先輩に会いたいという強い気持ちがあったので、ほとんど勢いでそんなことを言った。
「でも、暗くなると車とかも危ないよ」
「塀の上を歩けば大丈夫です」
あたしは、瀬条先輩の心配していることに即答する。瀬条先輩があたしのことを心配してくれていることはとても嬉しい。それでも、あたしはどうしても瀬条先輩に会いたいのだ。
「そこまでいうなら、止めはしないけど。来るときと帰るときは本当に気をつけてね」
まだ、心配してくれているみたいだけれど瀬条先輩はあたしの強い意志に折れてくれたようだ。
「はい。じゃあ、今日の夕方、楽しみにしてますね」
あたしは嬉しさで少し弾んだ声でそう言う。
「はは、すごく嬉しそうだね。僕なんかに会うのがそんなに楽しみなの?」
瀬条先輩にそんなことを指摘されてあたしは急に恥ずかしくなった。あたしの嬉しいという感情は自分の中だけにある場合は問題ないが誰かに知られるとなるととっても恥ずかしい。
でも、ここで、楽しみじゃないなんて言ったら瀬条先輩に失礼だしあたし自身もそんなことは言いたくない。だから、あたしは勇気を振り絞って言った。
「はい、とっても楽しみです」
人間の姿だったら顔を赤くしてそれでも、笑顔を浮かべてたと思う。それくらい、自分の本当の気持ちを伝えるのは恥ずかしくて、そして嬉しかった。
「そっか、じゃあ、僕も今日の夕方、ゆかりちゃんに会えることを楽しみにしてようか」
そう言った瀬条先輩は少し嬉しそうな表情を浮かべていた。たぶん、瀬条先輩は好意を向けられたことが嬉しいんだと思う。
あたしだって、好意を向けられたら嬉しい。好きな人はもちろんのことそれ以外の人からだって。
それで、瀬条先輩はあたしから好意を受けたから嬉しいんじゃなくて、誰かから好意を受けたから嬉しいんだと思う。だって、瀬条先輩があたしを特別視しているようには全然見えないから。
まあ、それは仕方ないことだ。今まであたしが行動して瀬条先輩にアピールしてこなかった結果だ。でも、これから、頑張ればいい。
「では、博斗さん。今日の夕方、また会いましょう」
「うん、それじゃあ。何度も言うけど帰るときは気をつけてね」
瀬条先輩はそう言いながら、道の向こうのほうへと去っていく。あたしは、そんな瀬条先輩の背中に向かってこういった。
「はい。わかってます!」
自分でも恥ずかしくなるくらいに弾んでいた声だったと思う。そんなあたしに向かって瀬条先輩は体の半分をあたしの方に向けて小さく手を振ってくれた。
あたしはそれが嬉しくって手を振る代わりにしっぽを振った。
瀬条先輩の背中が見えなくなってからあたしはよし、と呟いて家へ帰るためその場で半回転する。
そこで、一回転をすれば人間に戻れる、ということを思い出した。実行してみようかな、と思ったけど、ここは道路の上だ。だから、さすがに素足だと痛いだろうな、と思いもう半回転するのは止めた。
その代わりにあたしは家へと向けて歩き始めた。
頑張って屋根まで登って自分の部屋へと戻った。屋根から下りるときにはわからなかったが人間のときよりは格段に身が軽くなっていたような気がする。やっぱり、猫と人間では基本的な身体能力が違うんだと思う。
あたしは部屋の真中に立つ。瀬条先輩に言われたことを実行するために目を閉じる。それから、人間に戻りたいと思う。そして、小さく深呼吸をしてくるり、とその場を一回転した。
あたしは恐る恐ると目を開ける。
最初に目に入ったのはベッドの上の布団。さっきは身長が低かったせいで見えていたのはベッドの横の部分だけだった。
あたしは、それが確認できただけで十分だった。はあ〜、とあたしは息を吐きながらその場に膝をつく。
戻れなかったらどうしようか、という不安があったので、すごく安心してしまった。それと同時に体の力が抜けてしまった。
今度は、ふう、と溜め息をつく。それから、あたしは立ち上がる。そして、さっきは確認し忘れてた自分の体を確認する。
毎日来ている若葉色のパジャマ。それと、少し発達の遅れた女性的な魅力のかける体。
うん、どうみてもあたしの体だ。しっかりと、元の体に戻れているみたいだ。
あたしはそのことに再度安心を覚えながら時計を確認する。
時刻は六時二十分。大体あたしが起きる時間なのでちょうどいい時間だ。
そう思いながら、あたしは朝食を食べるために一階へと向かった。