第四話 おんなじ境遇
何分の間、走り続けていたかなんて覚えていない。ただ、疲れきったから立ち止まった。
前を見てみると長い長い階段が見える。赤色の鳥居も。どうやらここはあたしの家の近くにある神社のようだ。
まだ、あたしは不安なままだ。けど、走って疲れたせいか少し落ち着いてきている。いつまたぶり返してくるかはわからないが。
あたしはゆっくりと境内までの階段をのぼる。昔はよくこの辺りで遊んでいたなあ、という記憶が甦る。友達と一緒に誰が一番早く上に上ることができるか、と競っていた気がする。
あたしも昔はけっこう無邪気だったんだな。今だったら恥ずかしくてそんなことできない。
そうやって思い出に浸っているといつの間にか一番上についていた。一段一段が低いから足元に注意する必要がないので考え事をしながらでものぼれたんだと思う。
あたしは、境内のほうに目をやる。
赤く色づきはじめた何本もの木の中に赤と白に彩られた立派な社がある。子供の頃のあたしはそれを見てもなんとも思わなかったかもしれない。けど、今のあたしはそれが綺麗だって思う。成長したってことなのかな、子供のときよりも。
そうやって社を眺めていると入り口の近くに誰かが座っているのに気がついた。あたしはそれを見てどきっとした。
それは、あたしの探し求めていた瀬条先輩だったからだ。いや、探し求めていた、というのは少しいいすぎかもしれない。でもあたしはとっても嬉しかった。その姿を見ることができたことが。たとえ、話をすることが出来ない、ってわかっていても。
あたしはゆっくりと近づきながら「おはようございます」と言ってみる。けれど、やっぱり口から出てきたのは「にゃー」という猫の鳴き声。
瀬条先輩はその声であたしのことに気がついてくれたようだ。あたしのほうに顔を向けてくれる。
「ん?あ、おはよう」
綺麗な笑顔でそう言ってくれた。あたしはその顔を直視することができない。胸がとってもどきどきしている。
それに、瀬条先輩は猫が好きなようだ。だって、普通は猫に向かっておはよう、なんていわない。だから、瀬条先輩も猫が好きなんだ、って思った。
そして、あたしと同じものが好きなんだなって思うと余計に胸が高鳴ってくる。
と、いつの間にかあたしの前で屈みこんていた瀬条先輩におもむろに抱き上げられた。
「わわ、わ」
あたしがどんな声を上げたのかよくわからない。けれど、あたしがとっても焦っているというのはわかっている。瀬条先輩に抱き上げられるなんてちっとも思ってなかったから。
「安心して、大丈夫だから」
上から優しい声が聞こえてきた。それと同時に瀬条先輩はあたしの頭を撫で始める。
なんだか、とても安心してきた。
あたしの不安なんてすごくちっちゃいもののように感じてきた。こんなもの不安に感じる必要ないんじゃないだろうかって思うくらいに。だって、あたしは今、大好きな瀬条先輩に優しく撫でてもらっている。人間の姿のままじゃ絶対にこんなことしてもらえなかっただろう。
すごく嬉しい。あたしの大好きな人をこんなにも近くに感じることが出来るから。
でも、少し悲しい。あたしは大好きな人と話をすることが出来ないから。
そんなことを思っていたら瀬条先輩はあたしを撫でるのを止めていた。
「もう、撫でてくれないんですか?」
つい、あたしはそんな甘えるような言葉、声を出してしまった。けどやっぱり、あたしの口から出たのは猫の鳴き声だった。あたしは、そのことにほっとする。猫の姿とはいえそんな言葉が瀬条先輩の耳に入ってしまったとなれば恥ずかしすぎる。
「うん、ごめん。そろそろ帰らないといけないんだ」
けど、先輩はあたしの言葉に的確に答えてくれた。多分、鳴き声からあたしが帰ってほしくないといっていると思ったのかもしれない。あたし、結構甘えるような鳴き声を出してたような気がするし。
でも、よく考えてみればごめん、の前のうん、というのは何に対して言ったんだろう。あたしが猫に話しかけるときは絶対にうん、とか言わないし。まあ、もしかしたら瀬条先輩だけの猫との接し方なのかもしれない。猫の言葉がわかるなんてありえないと思うし。
そうだ、どうせ猫の言葉なんてわかるわけないんだからあのことを言ってみよう。人間の状態では絶対に言えないようなことを。
「あたしは、あなたのことが大好きです」
そう、これはあたしが人間の姿だったら絶対に言えない。言えていたのならあたしはずっと悩んでいる必要なんてないんだから。
でもやっぱり寂しい。瀬条先輩にはこの言葉は伝わっていないんだから。瀬条先輩はこのままあたしが言ったことに気がつかずに去っていってしまうと思う。そう思ったらまた不安がぶり返してきた。
けれど、違った。瀬条先輩は立ち止まってあたしのことを見ている。そして、瀬条先輩の口から出てきたのはあたしを驚かせるのに十分すぎるほどの言葉だった。
「あれだけで僕のことを好きになっちゃったんだ。君は人懐っこいのかな?それとも、なにか不安なことでもあったの?」
猫の言葉を理解していないにしては的確すぎる瀬条先輩の言葉。自分が先ほど言った言葉と瀬条先輩の言った言葉を自分の頭の中でつなげても違和感なんてひとつもない。
「も、もしかしてあたしの言ってることわかるんですか?」
もしそうだとしたら信じられない、といったふうにあたしは聞く。当然、猫の言葉で。
「うん、あるときから猫の言葉がわかるようになったんだ」
瀬条先輩はあたしの前にしゃがみこんであたしの顔を覗き込む。あたしは、近すぎる瀬条先輩の顔にどきどきして瀬条先輩から少し顔をそらす。
「それで、君は何か不安なことでもあるのかな?」
優しい声音で聞いてくる。とても安心させてくれる。それに、この人にならあたしの不安を話しても大丈夫だと思った。というよりも、この人しかあたしの話を聞いてくれるような人はいない。
「実はあたし、本当は人間なんです。信じられないかもしれませんけど……」
「うん、大丈夫。僕は信じるよ。それで?」
瀬条先輩はあたしに先を促すように言う。あたしは、そのまま先を続ける。
「なんで、こんな体になったのか全然わからないんです。だからあたしすごく不安になったんです。もし、このままもとの体に戻れなくなったらどうしようかって。猫の体だと人間のときとの生活とは全く違う生活をしないといけませんし、知り合いと話をすることが全然出来ませんよね。それがすごく嫌だし、不安なんです」
あたしは自分の胸の中にある不安を全て言葉にした。それだけで、先ほどと同じように不安が和らぐ。
でも、不安が和らいだだけで安心はしていない。
「それで、せ……じゃなくて、あなたはもとに戻る方法を知ってますか?」
絶対に知らないだろうな、と思いながらあたしは瀬条先輩にそう尋ねる。というか、先輩と呼んだら怪しまれるとかあたしの正体がばれるんじゃないんだろうかとかそういう理由で先輩って呼ばなかったんだけどあなた、という呼び方も正直恥ずかしい。でも、先輩って呼んであたしの正体がばれてしまうほうが恥ずかしい。だって、あたし瀬条先輩に大好きっていっちゃったから。
多分、瀬条先輩にあたしが大西ゆかり、だってことに気がつかれたらあたし死んじゃうかもしれない。恥ずかしさのあまりに。
あたしがそんなことを考えているとも知らずに瀬条先輩はあたしを安心さてくれるように言う。
「うん、知ってるよ。だから、そんなに不安にならなくてもいいよ」
あたしは瀬条先輩の言葉に驚いた。知っているか、と聞いたのはあたしだが本当に知っているとは思わなかったからだ。
「ど、どうやって戻るんですか?」
「そんなに焦らなくてもちゃんと教えてあげるよ。戻り方は簡単。人間に戻りたいって思いながらその場で一回転するんだ」
「それだけでいいんですか?」
とても簡単な方法だったので拍子抜けしてしまう。
「うん、そうだよ。それと、ついでに教えとくけど人間から猫の姿になりたいときも同じように猫になりたいって思いながらその場で一回転すればいいんだよ」
瀬条先輩がなんでそんなことを知ってるんだろうという疑問が湧く。けれど、それはすぐに薄れて安心感へと変わる。そしてその安心感は不思議な現象に対する高揚感になった。
あたし、好きなときに猫になれるんだ。それはとても嬉しいことだった。あたしの好きなものへと姿を変えられるんだから。もしかしたら、猫と話をすることができるかもしれない。今の瀬条先輩とおんなじように。
そこで、先ほど一瞬でなくなった疑問が再度湧いてきた。しかも、今度は消えることはなかった。その疑問というのはなんで瀬条先輩がそんなことを知ってるのか、ということ。
「なんで、あなたはそんなこと知ってるんですか?」
「それは――と、その前によく考えてみたらお互いに名前、知らないよね。僕の名前は博斗。あなたっていうよりは名前で呼んでほしいな。それで、君の名前は?」
その質問にあたしはどきっとした。本当の名前を言うべきか今ここで勝手に名前を作るか。
けど、すぐに嘘の名前を作ることは止めた。だって、あたし、ネームセンスなんてないし。正体がばれるのは恥ずかしいが変な名前を言って不審に思われるのも嫌だ。だから、あたしは本名を言うしかない。
「えっと、あたしの、名前は、ゆかり、です……」
恥ずかしくて「です」の辺りから消え入りそうなほど声が小さくなっていたのが自分でもわかった。対して瀬条先輩はあたしの声に関して特に思ったことなどないようだった。
「ゆかりちゃんか……。どこかで、聞いた気がするけど……。もしかして僕たち知り合い?」
その質問にあたしはつい首を左右に振ってしまった。そう、知り合いだというこということを否定してしまったのだ。
恥ずかしいとはいえこの行動はよくない。よくよく考えてみれば、これは瀬条先輩に近づくためのチャンスでもあるんだ。
あたしは、知り合いではない、ということを取り消そうとするが取り消すための声を出す勇気が出てこなかった。
「そっか……それで、ゆかりちゃんは僕に何を聞きたいの?」
ゆかりちゃん、と呼ばれるのがひどく恥ずかしい。けれど、それと同時にとても嬉しくもあった。いつもは大西さん、と苗字で呼ばれているのだがゆかりちゃん、と名前で呼ばれると仲がよくなったような気がしてしまう。だから、あたしは瀬条先輩に名前で呼ばれるのがとても嬉しい。
「えっと、あなた……じゃなくて博斗、さんはなんで猫になる方法とかを知ってるんですか?」
あたしは瀬条先輩のことをあなた、と呼んですぐに博斗さんと呼びなおした。なぜなら、瀬条先輩が名前で呼んでほしいって言っていたのを思い出したからだ。けど、瀬条先輩に名前で呼ばれるのと同じでこちらから名前で瀬条先輩のことを呼ぶのもとても恥ずかしかった。
多分、あたしから名前を呼ぶほうが恥ずかしい。というか、瀬条先輩のことを名前で呼べるなんて思ったこともなかった。だから、恥ずかしさと同じくらいに嬉しい。
瀬条先輩に名前で呼んでもらえたこと、瀬条先輩を名前で呼べたこと。その二つのあたしにとって恥ずかしくも嬉しいことのせいであたしの頭は妙にぼーっとしている。
瀬条先輩はそんなあたしの様子に気がついた様子もなくあたしの質問にしっかりと答えてくれる。
「僕もゆかりちゃんみたいに猫になることができるからだよ」
「そ、そうなんですか?」
驚いた。でもよく考えてみればあたしと同じような境遇に立っているから方法を知っていたんだと思う。
「うん。じゃあ、見せてあげようか?僕が猫になった姿を」
瀬条先輩はあたしに微笑みかけながらそう言う。瀬条先輩が微笑みを見せてくれるのは嬉しいんだけど恥ずかしくてまともに見ることができない。
「え、えと、じゃ、じゃあ見せて、ください」
あたしは声をどもらせながら答えた。
「うん、わかった」
そう言って瀬条先輩は立ち上がり目を閉じる。何をしているんだろうか。猫になるには猫になりたいと思う必要があると言っていたのを思い出した。もしかしたら、瀬条先輩は目を閉じることによってより強く猫になりたいと思うようにしているのかもしれない。
あたしがそう思っていると瀬条先輩は片足で綺麗にその場を一回転した。そして、もう片方の足が地面につくかつかないかの瞬間に瀬条先輩の姿は白猫に変わっていた。
「ほらね」
そういう瀬条先輩の声は猫の声。ちゃんと理解は出来る。
「本当、でしたね。……なんで、こんなことが出来るようになったんでしょうね」
「さあね。なにか原因となるようなことがあったんだろうけど僕たちにわかるようなことじゃないよね。まあ、僕の好きなものになれるんだから原因なんてどうでもいいんだけどね」
そう言って瀬条先輩はその場でもう一度一回転する。猫がその場で一回転してるのってなんだかおもしろい。けど、笑ってしまったら瀬条先輩に悪いと思って笑うのはこらえた。
気がつけば、瀬条先輩は元の人間の姿に戻っていた。
「ゆかりちゃんは元の姿に戻らないの?」
「え、えっと。戻るつもりはないです。パジャマのまま、です、し、寝起きのままだから、髪もすごいことに、なっている、と思いますし」
かっこ悪い自分を見せたくないという思いがあるせいで一言一言を発するごとに恥ずかしさが募ってゆく。でも、あたしが恥ずかしい思いをしながらでも本当のことを喋りたかった。何故なら瀬条先輩に嘘をつきたくないからだ。
でも、例外もある。例えばさっきあたしが瀬条先輩に名前を教えたとき瀬条先輩は知り合いなの?、と聞いてきた。そのときにあたしは知り合いではないという嘘をついた。それは嘘を付きたくないという思いよりも恥ずかしさが勝ってしまったからだ。
「あ、そうなんだ。ゆかりちゃん、女の子だからそういうこと気にするんだよね。それに、パジャマだってことは靴も履いてないんでしょ?」
「は、はい、そうです」
あたしは慌てながら答えた。
「だったら、戻らないほうがいいだろうね。裸足で歩いてたら絶対、足を怪我するだろうから」
「そう、ですね」
「それにしても、不思議だよね。何で僕たちは人間から猫の姿に代わることが出来るんだろうね。それに、なんで、人間から猫になってまた戻ったときにはちゃんと人間のときの服装なんだろうね」
「わかりません。でも、博斗さんは自分で言ってましたよね。『僕の好きなものになれるんだから原因なんてどうでもいい』って。だから、そういうあたし達にとって理解できないような現象なんて気にする必要ないんじゃないですか?」
少しばかり落ち着いてきたあたしは饒舌だった。思った以上に言葉をうまく紡いでいくことができる。
「はは、確かにそうだね。僕が自分でそう言ったんだよね。まあ、僕たちにとって都合の悪いことなんて一つもないんだから考える必要なんてないよね」
瀬条先輩はあたしの言葉を肯定してくれた。それがとっても嬉しい。それと、あたしはちゃんと瀬条先輩に自分の考えを言えるんだってわかったことも嬉しい。でも、あたしの体は猫の状態なんだけどね。
「そうだ、ゆかりちゃん。猫のままだったらここの階段おりるのきついでしょ?僕が下まで抱いて連れて行ってあげようか?」
「え、え。い、いいです。自分でおりれますから」
本当は抱いてもらえるっていうのはすごく嬉しいんだけど、恥ずかしすぎるから無理。だれも瀬条先輩に抱いてもらってるのがあたしだってことがわかるはずがない。それは、ちゃんと理解している。
だから、そういうふうに誰かに見られるから恥ずかしいとかそういうことじゃない。大好きな人に抱いてもらえる、その行為自体が恥ずかしい。
「遠慮しなくてもいいんだよ。重くなんてないし猫を抱くのは好きだからね」
その言葉を聞いた途端にあたしの胸の鼓動が早くなる。抱くのが好き、という言葉があたしの心臓を早めるスイッチとなった。別に、猫を、というのが聞こえなかったわけではない。しっかりと聞こえている。
わかっているはずなのに、あたしに向けられた言葉だと思ってしまう。それに、大好きな人に目の前でそんなこと言われたら嫌でもどきどきしてしまう。
「じゃ、じゃあ、よ、よろしく、おねがいしま、す……」
どきどきしていて冷静さを失っていたあたしはつい、そう言ってしまった。そう、言ってしまったからには抱き上げてもらうしかない。
「うん、わかった。あんまり、体に力を入れないようにしてね」
優しくそういいながら瀬条先輩はあたしを抱き上げようとした。
「ひゃうっ!」
緊張で硬くなったあたしの体に瀬条先輩の手が触れた途端にそんな声をあげてしまった。最初に抱き上げられたときは何の前触れもなかったから体に力が入ってなかったからこんな反応しなかった。だけど、今回は事前に抱き上げる、ということを言われているので妙に意識してしまう。瀬条先輩に体を触れられるということを。
「ど、どうしたの?」
瀬条先輩はあたしのあげた声に少し驚いたように言う。
「な、なんでもないです」
「そう?じゃあ、今度こそ抱き上げるからね」
そう言って瀬条先輩はあたしの体を優しく抱き上げある。瀬条先輩に抱き上げられたときまた、声をあげそうになったけどどうにかしてそれを抑えた。
あたしは瀬条先輩の胸の前にしっかりと抱かれる。あったかい、とっても安心できる。そう思っているのにやっぱり、胸は高鳴って鼓動が早くなっているまま。
でも、そのどきどきが心地よい。それがあたしは本当に瀬条先輩のことが好きなんだっていう証拠になっている。
あたしは瀬条先輩に抱かれて密着してるんだけどそれ以上にくっつこうと瀬条先輩の胸にあたしの顔を近づける。温かくてすごく落ち着くことが出来る。
あたしは温かかったせいで甘えたような声を出しそうになった。でも、あたしはぐっとそれをこらえる。あんまり、瀬条先輩の前で不審がられるような行動はしたくなかったからだ。
「ゆかりちゃん、僕に体をすりよせすぎてない?」
瀬条先輩のその言葉であたしは飛び上がりそうになった。さりげなくやったつもりだが瀬条先輩にはわかってしまったようだった。
「あ、え、えっと、あの、その……」
瀬条先輩の言葉で冷静さを失ったあたしはうまく言葉を紡ぐことができない。とりあえず、適当に口から言葉を漏らす。それしかできない。
「ご、ごめんなさい」
そして、やっと言えたのがその一言。多分、人間の状態だったらあたしの顔は真っ赤になっていたと思う。そう思えるほどあたしの体は恥ずかしさで火照っている。
「ん、いや別にいいんだけどね。不安だったんでしょ?人間に戻れるかどうかがわからなくて。今は戻れるってわかって安心してるんだろうけどまだ、誰かが近くにいないと不安なんだよね」
優しく瀬条先輩は言ってくれた。あたしの心の中に温かい何かがしみこんでいくような感じがした。
「そ、そうです」
やっぱり、瀬条先輩って優しいな。ちゃんと人のことを考えていてくれるんだ。あたしが本当に思ってたこととは違うけどね。
瀬条先輩に優しい声をかけられてからあたしはそんなことを考えていた。今の言葉であたしは更に瀬条先輩のことが好きになってしまったかもしれない。瀬条先輩の言っていたことはあたしがそのときに思っていたこととは違うけれど、間違ってはいない。
あたしは不安だったし、今だって誰かがいないと不安だ。しかも、あたしはちょっとわがままであたしと同じ境遇の人かあたしの大好きな人がその誰かだといいと思ってる。
そして、瀬条先輩はその二つともを満たしている。だから、とっても安心できる。
「そっか。僕なんかで安心してくれるんだ。なんとなく嬉しいね」
小さく笑いながら先輩は言う。その表情は今まで見たことのないようなものだった。
あたしの心を引き込んで決して放させないようなそんな表情。瀬条先輩はなんの意識もなく浮かべたんだと思うけど、あたしはあたしに見せるためだけにその表情を浮かべてくれたような気がした。
ひとりよがりの自分勝手な考えだっていうのはわかってるけど。
「じゃあ、階段下りるから落ちないように気をつけてね。多分、落としたりはしないと思うけど」
そう言って瀬条先輩は階段をおり始めた。