第三話 信じられない変化
あたしは起きた。まだ目は開けていないの目は覚めていない。頭が起きただけだ。
なんだか体が重い。風邪、ひいちゃったのかな?風邪引いちゃったら先輩に会えなくなるから嫌だな。
でも、体が重いだけでだるくはない。とりあえず、目を開けてみる。
真っ暗だった。何にも見えない。眠ってる間に布団の中に潜り込んでしまったようだ。
あたしは、布団の中から這って出る。
……て、ちょっと待って。這わなきゃ出れないほど布団は大きくなかったはずだ。おかしい、絶対に何かがおかしい。
それに、なんだか耳とかお尻のほうに違和感がある。あたしは、耳があるはずの頭の横へと手を持っていく。しかし、そこに耳はなかった。あたしはわけがわかんなくなって更に上へと手を持っていく。
すると、頭の上に耳のような感触のするものを見つけた。このさわり心地は猫とか犬とかについてるぴん、と立った耳だ。
なんでそんなものがあたしの頭に付いてるんだろう。そういえば、頭を触ったとき髪の毛の感触がいつもと違ったような気がする。あと、手もあげにくかったし……。
あたしは、おそるおそる自分の手をみるべく顔の前に手を持っていく。
そのときあたしが見た自分の手は猫の手だった。目の前の光景が信じられないのであたしはじっくりと目の前にあるものを観察する。
黒色の触り心地のよさそうな毛の生えた腕。手を裏返して見るとそこに見えたのは肉球。
誰がどう見たって猫の手。
もしかしたら、誰かがあたしの部屋に猫をおいたのかもしれない。それで、あたしは頭の上に乗ってた猫の頭を触ってこれは自分の頭だ、と勘違いしてしまったのかもしれない。手のほうはあたしが自分の顔の前に手を持っていくときに猫の手を動かしてしまったんだろう。
うん、絶対にそうだ。朝起きたらいきなり自分の体が猫になってるなんてありえない。
それから、あたしは自分を安心させるように自分の体を見た。人間は目で見たときにだけ目の前での出来事を信じることが出来るって何かで読んだなあ、とか思いながら。
けれど、あたしは自分の目で自分の体を見たけど信じることができなかった。あたしはもう呆然とするしかなかった。
何故なら、あたしの体はどうみたって猫の体だったからだ。
部屋の中が暗いとはいえ自分の体くらいは見える。それに自分の体を猫と間違えるなんて絶対にない。それなのにあたしの目に映っているのは猫の体だ。
「な、なんで……」
あたしはそう言ったはずだった。けれど、口から出てきたのは「にゃー……」という猫の鳴き声。その瞬間にあたしは理解した猫になっちゃったんだなあって。
いや、でもこれは夢だ、っていう可能性もあるよね。うーん、でもここまでリアルな夢は今まで見たことないしなあ……。
とりあえず、あたしはここは夢じゃないって思うことにした。夢だと思って行動して、変なことをして本当は現実でした、なんておちは嫌だからね。
それで、どうすればいいんだろう。このままでは家族の誰にも気づかれるはずもない。そして、先輩にも……。
先輩のことを考えた瞬間あたしはいいことを思いついた。この姿なら先輩のことを堂々と観察できるかもしれない。
そうと決まれば、いますぐに行動をおこそう。あたしは窓のほうに向かって歩く。ドアはドアノブの位置が高すぎるので開けるのは無理だろうが、窓ならどうにかなるかもしれない、と思った。
あたしは、窓をじいっと眺める。体は猫になっても視覚は人間のままのようだった。暗く、周りのものはよく見えない。
けれど、あたしの探していたものはちゃんと見つけることが出来た。
それは、窓の鍵だ。いや、まあじいっと眺めなくても見えるんだけどね。ただ、ちょっと窓枠に近づきすぎて見つけれられなかっただけなんだよ。
とりあえず、あたしは窓の鍵を開けるため、後ろ足で立ち上がる。これがまた結構きつい。
なんか足がぷるぷる震えてる。早くしないと立てなくなりそうだ。だから、あたしは急いで手を鍵のつまみの部分にひっかける。そして、全体重をかけて手を下へとひっぱった。
バチン、という音がして窓の鍵が外れる。あたしはその音の大きさに驚いてびくっと震える。
ちょっと、これ、心臓に悪いよ……。
バクバク、いっている心臓を落ち着かせるために何度も息を吸ったり、はいたりする。本当は胸に手も当てたかったのだが猫の体だとそれをするのが難しい。
ある程度落ち着いたところで窓を開けようとした。しかし、うまく開けることができない。やっぱり人間を基準としてつくられた窓を猫が開けるというのは難しいことだった。
試行錯誤の末、あたしは爪をひっかけて開けるということにした。人間では絶対に使わないような場所を動かしたせいかなんだか変な感じがする。そして、あたしはどうにか窓を開けることができた。
このさい、ついでだからしっぽも動かしてみる。
あたしは後ろを、自分のしっぽを見る。それから、しっぽのほうに神経を集中させる。うごけーうごけーとか念じてみる。
すると、あたしのしっぽが揺れた。なんだか面白くってもう一回揺らしてみる。今度はそんなに集中しなくても動いてくれた。今度はそれが嬉しかった。
気が付くとあたしのしっぽは勝手に揺れていた。そういえば、猫は嬉しいとしっぽを揺らすんだった。やっぱり、あたしは嬉しいんだ。
自分の思い通りにしっぽが動いてくれたことが。自分が好きな猫になれたことが。そして、いまから先輩に会いにいけるんだってことが。
そうだ、しっぽを動かしてる暇なんてない。早く先輩のところに行かないと。
あたしは自分で自分を急かし窓から出て行く。そして、また困ったことになった。どうやって屋根の上から降りようか。
下を見てみると足が竦みそうになるほどの高さがあった。ときどき、冷たい風が吹くのだがその度に落ちたりしないかとひやひやしたりしてしまうほどだ。
ときどき屋根の上に猫が上ってるのを見ることがあるんだけどどうやってのぼってるんだろう。やっぱり、どこかのぼれるようなところがあるのかな。
あたしは少し屋根の上をうろうろしてみる。そうしたら見つけた。一番下まで降りるための道を。
その道とは外にある物置の屋根に降りて、塀の上へと降り、今度は物置の近くに積んであるものの上に降りるという簡単な道だった。というか、高い足場から低い足場へと降りていくだけ。帰りもどうにかなりそうだった。
それがわかると、躊躇なく降りていくことが出来た。そして、三十秒ほどで地面にまでつくことができた。
上を向いて見るとあたしがどれくらい高い場所から降りてきたかがわかった。しかも、視点がいつもよりも格段に低いのであたしの家の大きさはちょっとした豪邸くらいある。大きさだけで外見は普通の一軒家なんだけどね。
そんなことはどうでもいいとして。よしっ、行こう、先輩の家へ!
……でもよく考えてみたらあたし、先輩の家がどこにあるか知らない。なんかさっきから連続して障害が生じているような気がする。
こういうのを前途多難っていうんだろうな。やっぱり体がちっちゃい猫って大変なんだな。いや、でもよく考えれば先輩の家がどこにあるのかわからないのはあたし自身のせいか。
自分の家の門の前でそんなことを考える。それで、一分ほどしてあたしの中でこれからどうするかが決まった。
とりあえず、適当に歩いて先輩の家を探そう、ただそれだけだった。前向きだけれども、無計画な考え。というかもう、自分でも何も考えてないってことがわかる。
でもまあ、仕方がない。あたしは先輩の家の場所を知らないし、猫だから誰にも聞くことが出来ない。それ以前に人間の状態だったら恥ずかしくて聞けない。
そうなると、適当に歩いて見つけることしかできない。あたしが勇気を出して聞ければいいんだけどね。でも、そんな勇気なんか持てないよ。
ん?でもよく考えてみたらどうやって人間の状態に戻るんだろう。戻れないと色々困るし家族に心配をかけてしまう。
それに、先輩と恋人になることが絶対にできない。そんなのは絶対に嫌だ。人間のままならあたしが勇気を出しさえすれば可能性はある。けれど、猫のままになってたらどうすることもできない。
それだというのに何故だがあたしの中に焦りとか不安とかはなかった。ただ、そうなったら嫌だな、と思っているだけだ。なんでだろう。自分の心理状態がよくわからない。
ま、いいや。散歩を兼ねて先輩の家を探そう。この近くに先輩の家があるのかはわからないが、何もしないよりはましだ。
そう思ってあたしは門の下をくぐる。猫が狭い場所をとおっているのはよく見るがこんなにも苦しいものだとは思わなかった。もしかしたら、この場所は猫が通るには狭いだけなのかもしれないけど。
半ば無理やりに門の下から這い出る。それからあたしはきょろきょろと見回す。
なんだかとっても新鮮な気分になった。ひとつは猫になって視線がとっても低くなったから。もうひとつは初めてこんな朝早くに外に出たからだ。
口から入ってくる空気が冷たい。外に出る前は結構、寒いかな、と思っていたのだがそんなに寒くなかった。多分、毛皮があたしの体を温めてくれているのだろう。猫の毛皮はさわり心地がいいだけではなかったようだ。
あたしの住んでる住宅街は昼間でも静かだ。早朝とも夜中ともいえない時間だと、静か過ぎて寂しいようなそんな感じだ。
人もいない、鳥もいない、そして、猫もいない。本当に静まり返っている。そうかと思えば風にあおられた木がざわめく。しかし、それが更に寂しさを増幅させているような気がする。
なんだか、だんだん寂しい気持ちになっていく。あたしだけこの世界に一人孤独にされてしまったようなそんな寂しい気持ち。
いますぐ先輩に会ってこの気持ちを和らげたい。あたしは一人じゃないんだって思いたい。先輩ならあたしをこの孤独な気持ちから助けてくれる。先輩にその気がなくたってあたしを助けてくれる。
でも、あたしと先輩の距離は遠すぎる。精神的な距離はもちろん、物理的な距離も。今のあたしに精神的な距離についてどうこういうような余裕はない。ただ、物理的な距離だけを埋めたかった。
そう思っていると、先ほどまでなかったはずの不安がいきなり出てきた。一瞬泣きそうにさえなった。悲しすぎる、切なすぎる……寂しすぎる。
あたしはもう誰とも話をすることが出来ないかもしれない。あたしはこのまま猫のままでいて人間に戻れないかもしれない。
そうなれば、あたしはこれからどうすればいいんだろう。きっと、誰かが飼ってくれるとは思う。けど、それだけだ。誰もあたしを人間として見てくれないし、話をする場合も一方的で話をした気分になんてなれない。
それにしたってどうしていきなり不安になったりしたのだろうか。あたしは不安でぐちゃぐちゃになりかけてる思考で先ほどと今の違いを考えてみる。でも、考えるまでもなかった。
今のあたしはこの状態がどんな状況を生み出すのかしっかりと理解したのだ。誰もいない住宅街の寂しさにあてられ、先輩のことを考えたことによって。
気が付けばあたしは走り出していた。立ち止まっていたらどんどん不安が大きくなってしまいそうだったから。
どこに行きたいかなんて考えてなかった。そのかわり、先輩の顔があたしの脳裏で消えては浮かんでくる。
こんな大きな不安は嫌だ。誰か、あたしを助けて。先輩、あたしのことをみつけて、そして安心させて。
あたしは何回もその言葉を頭の中で呟いていた。これで不安なんかが和らぐはずもない。けれど、足を止めて泣き出してしまいそうになるのは抑えることができた。
だんだん大きくなる不安を抱えながらあたしは走り続けた。