第二話 ~父の葬儀~
天文二十年三月七日。その日、桜が散る中、父上、織田信秀の葬儀が亀岳山万松寺にて執り行われました。
仏前に居るのは、父上の叔父である大雲和尚を始めとする四百人近い数の僧。
廊下には、本堂に入りきれなかった織田家の家臣たち。
庭を埋め尽くす、老若男女、父上の死を悲しむ無数の民。
その全てが、父上がどれほど凄い名君だったのかを示しています。
唯一つ、遺族席に流れる不穏な暗い空気を除いて。
前世で読んだ推理小説に、『葬儀は次の殺しの為の会議である』などと皮肉ったものがありましたが、今の男子席の状況は正にそんな様子です。
兄、信長は喪服を着ていないだけで、珍しく問題ないのです。いや、まぁ、仮にも次期当主が、前当主である父親の葬儀で喪服を着ていないというのは十分に問題なのですが、彼の普段の行動に比べれば問題ないと言って良い水準に収まっています。
問題なのは、その兄に向けられている、人が殺せそうな程の視線の数々です。
その原因は、兄、信長が葬式の始まる直前に言い放った言葉にあります。
「オヤジの取り決め通り、これからは俺がこの家の当主だ。そのことに賛同できない奴は、ここから出て行くがいい」
それは、正に絶妙なタイミングでした。まだ葬儀が始まっておらず、しかし、今更、葬儀を中止することは出来ないという瞬間でした。
出て行くがいい、などと言われても、実際には出て行くわけには行きません。前当主の葬儀に出ずに帰るなどという暴挙が出来るわけがないのです。そんなことをすれば今まで積み重ねてきた名声が一瞬で消えてしまいます。
結果として、織田信行 林秀貞 林通具、柴田勝家など、信長の廃嫡を表立って主張していた者達でさえ、今、この場では信長が当主であることを認めるしかないという状況が作り出されたのです。もっとも、一部の人たちはそうなる可能性を承知の上で、それでも父上の為を思ってこの葬式に参加していたようですが。
そして、一度認めてしまった以上、それは今後、彼らの行動を大きく縛ることになります。
もし、彼らが大した理由もなく信長を廃する為に動き出せば、「以前は信長が当主であることを認めたではないか、今更、そんなことを言い出すなど、この変節漢が、恥を知れ」などと言われることは間違いありません。その場合の大儀名分は間違いなく信長に付きます。
それが、解っているからこそ、信行派や、それ以外の反信長派は、「出し抜かれた!」と歯軋りしながら、殺意の篭った目線で信長を睨み付けているのです。予めこの可能性を想像していた人たちを除いて、「うつけ」と馬鹿にされている信長がこんな政治的パフォーマンスをするなどとは誰も思っていなかったのでしょう。
因みに、女子席は女子席で、生母と娘ということで隣同士になった、土田御前と私が、お互いを見向きもせず、上座で険悪な気配を醸し出しています。
土田御前は私を「悪霊付き」「異人」などと言って毛嫌いしていますし、私も、昔、彼女に監禁され、とても暇な思いをさせられたことを忘れてはいません。
母と私が顔を合わせればこうなる、ということは織田家の人間なら皆知っていることなのに、決まり事とはいえ、席順を決めた人間は何を考えていたのでしょう?
そんな様子で、次期当主となる信長の後見役ということで葬儀の司会進行役をやっている平手政秀や一門のまとめ役としてそれを補佐している織田秀敏が哀れになってくるぐらいに、遺族席はドロドロとした空気が渦巻いていました。
平手政秀を説得して、兄、信長が葬儀前に父上と会えるように取り計らってもらった結果がこれです。
事前に父上と会わせておけば、史実みたいに祭壇に抹香を投げつけるという破天荒な行動は慎んでくれるかな?と期待したのですが、流石、信長、期待の斜め上を行ってくれます。
因みに、平手政秀に頼むだけでなく、私も、末森城の警備を担当していた柴田勝家に「人前では泣くことが出来ない兄が哀れなので、どうか父上と一人きりで会わせてあげてくれませんか?」と潤んだ目で(勿論演技です)お願いしました。
あの人、かなりあっさりと承諾してくれたけど、平手政秀が根回ししてくれていたからだよね?
まさか、織田家随一の武闘派が、少女の頼みに弱いロリコンだったりしないよね?
少し顔が赤くなっていたように見えたのは、私の気のせいだよね?
そんなこんなで、何も起こらなかったことが逆に怖かった葬儀が終わりました。
いよいよ、激動の時代がやって来ます。
史実だとこの後、
1551年
織田信秀の突然死
当主となった信長が、金銭で浪人を雇うことで、一種の常備軍を設立する。
1552年
山口親子などが、織田家を離反。今川家に従属。
信長は、山口親子討伐の兵を挙げるも、引き分けに終わる。
その責任を追及する形で、織田信友が、信長を廃し家督を信行に譲らせるという名分で挙兵。松葉城、深田城を占領する。
これに対して、信長は叔父の織田信光と手を結び、萱津の戦いで勝利し、織田信友を清洲城に封じ込めることに成功する。
1553年
平手政秀が自害。
正徳寺で信長と斉藤道三が会談する。
信長が斉藤家から兵約1000名を借り受ける。(ただし、この兵力は戦争には使わず、城の守りなどに使用したらしい)
1554年
織田信友が信長の暗殺に失敗するなどしてさらに影響力を落とし、追い詰められた彼は信長と繋がっていた主君である斯波義統を殺害。
これに対して信長は斯波義統の息子である斯波義銀を保護し、主君殺しの謀反人を討つと大義名分を掲げて挙兵。
安食の戦いにおいて勝利し、織田信友を完全に孤立させる。
しかし、再び今川家の圧力が強まってきたために、清洲城攻略は一時的に中止。
1555年
その後、犠牲を払いながらも村木砦を攻略するなどして今川勢の尾張侵攻を食い止めた信長は、謀略で清洲城を攻略。
織田信光が清洲城を落とし、信長は居城を清洲城へと変更する。
それから暫くして、織田信光など織田一族が次々と不慮の死を遂げる(信長の暗殺説あり)。
かくして、尾張に居る五当主の一人である織田信友が、斯波義統に続いて尾張統一戦から脱落し、残る三人の新たな戦いが始まる。
となるわけですが、そこに、この葬儀での信長の行動が一体どのような影響を及ぼすことになるのでしょうか。
正直なところ、歴史が変わっていくかもしれないというのは、恐怖です。
でも、兄にあそこまで大見得を切った以上、頑張るしかありません。
それにしても、こうやって年表風に並べてみますと、あらためて、平手政秀の自害がかなり微妙な時期にあるのだと気づかされます。
信長が斉藤道三と会見する直前であり、尚且つ、織田信友が信長を暗殺しようと蠢動している時期ですよ。
道三との同盟(当時の国力差を考えれば、事実上、従属)に反対する平手政秀を信長が自害に追い込んだとか、織田信友が行った何らかの謀略に引っかかり平手政秀が自害することになったとか、色々なことが考えられます。
普段の信長の破天荒な行動を止めてもらうためにも、信長の政治的な孤独を和らげるためにも、彼には長生きしてほしいです。
しかし、ここまで多くの可能性があると、中々に大変そうだなぁ、と改めて感じさせられます。