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楽『市』楽座  作者: 空城
第一章
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第一話 ~信長の理由・お市の覚悟~

父上が亡くなりました。


もう、と言うべきなのでしょうか?

ついに、と言うべきなのでしょうか?


これから尾張は戦場となります。


一部の歴史家に「織田信長に人間不信とそれに起因する残虐性を持たせる原因となった」とさえ言われた血で血を洗う織田一族の内紛が始まります。


本来一人のはずの尾張国主が、事実上、五人いるという矛盾。

それは、流れ行く血でしか、正すことが出来ないものです。


そんな中で、私は如何するべきなのでしょうか?

私が選べる選択肢は多くはありませんが、この後の歴史を歪めてしまう可能性を秘めています。


平手政秀の自害を阻止すること一つ取ってもそうです。

もし、この後の政治的孤独感が、信長の残虐性の根源にあるとした場合、平手政秀を助けてその孤独感を和らげてしまったら、信長が史実ほどの苛烈な行動を取らなくなる可能性が生まれてしまいます。


それは果たして良いことなのでしょうか?

あの苛烈さが最初にあったからこそ、後の秀吉と家康の天下平定が成功したというのは揺るぎがたい事実なのです。


何が最善なのか、何がより良いことなのか、いざその時を迎えると、私にはまるで解らなくなってしまいました。


「……、お……、おい、お市」


突然掛けられた声に、ハッとして、思考の中から抜け出します。

振り向けば、そこには珍しく心配そうな表情をした兄が、先程までの思考における中心的な人物である信長が居ました。


「どうかしましたか、兄様」


揺れる内心をどうにか隠して、そう尋ねます。


「それは、こちらの台詞だ。お市。

オヤジの訃報を聞いてから部屋に閉じこもり、食事にさえ顔を出そうとしない。

しかも、俺が幾ら呼びかけても反応しないで、一体如何したのだ?」


私の気持ちも知らないで…。

兄の言葉に、そんな八つ当たりめいた怒りが、心の中を荒れ狂いました。


そんな怒りの中、しかし、唐突に、ある疑問が浮かび上がります。


兄が私の気持ちを知らないように、私も兄の気持ちを知りません。


そもそも、なぜ織田信長は天下を手に入れたかったのでしょう?血塗られた道の果てにある天下に一体何を求めたのでしょうか?


秀吉は、信長の残した夢をやり遂げる為だったと、想像できます。


家康も、幼年期の苦い経験から生まれた戦国という世への嫌悪感がその原動力だったと、想像できます。


だが、信長は、何故?

かれは、何故あそこまで屍を積み重ねながら、それでも天下を目指したのでしょうか?


その疑問は、急速に怒りを駆逐していきました。

そして、私はそのことを目の前に居る兄に質問したくて堪らなくなりました。


「兄様は、何故、尾張の支配者となりたいのですか?」


天下の、とは言えませんでした。それだけは、私の全理性を総動員して押し留めました。

この時点で、織田信長が何処まで考えているのか解りませんでしたから。


「どうしたのだ?突然」


「父上が亡くなられた以上、尾張の支配権を巡って、五人の当主と二つの外部勢力が、ここ尾張で争うことになるでしょう。

答えてください。

その中の一人である兄様は、どうして、尾張の支配者となることを、あるいはそれ以上の存在となることを、目指すのですか?」


その質問に、兄、信長は一寸の澱みもなく答え始めました。


「俺の他に、この国を任せられる奴が居ないからだ。

誰も彼もが、古い常識と慣習に囚われ、何一つ変えようとしない。

南蛮の兵器はお前も見ただろう。

世界は刻一刻と変わっているのだ、という何のよりの証を。

だが、この国の者達はそれに気が付かず、ただ己の安寧のみを狭い常識のなかで考えている。

そんな奴らにこの国を任せられるか!」


なんとも、信長らしい答えでした。


なんとも、兄様らしい答えでした。


そして、だからこそ、そんな彼に聞いてみたくなりました。


「では、

後の世で日ノ本の内戦史上最大の殺戮者と呼ばれるほど血塗られた道の果てに、天下統一が目前に控えたところまで到達する未来と、

全くの未知の、誰もその先を知ることが出来ない未来、

そのどちらを貴方は望みますか?」


「ふん、決まっている。全く未知の未来だ。

天下が目前に控えている?

そんな中途半端な状況に何の意味がある?

その先に辿り着けないのであれば、意味など無いではないか。

血塗られた道も、悪名も怖くないが、目前に控えたなどという曖昧なところで終わることだけは、我慢が出来ない。

そんなことになるのなら、いっそのこと、何も出来ずに滅びるべきだ」


体に震えが走りました。


なんという、苛烈さ。


なんという、思い切り。


なんという、気高さ。


これが、四百年以上の時が流れた後でも、その所業を恐れられ、その成果を敬われ、同じ日本人であることを誇られた、日本史上に比類なきカリスマですか。


気が付けば、私は兄に、そして信長に、頭を下げていました。

彼の姿を前にして、彼の言葉を聞いた後では、先程までの悩みが馬鹿馬鹿しく思えてくるから不思議です。


「ならば、私は私が出来る範囲で、私が最善だと思う行動を取り、兄様の覇業の支えとなることを約束しましょう。

たとえ、その結果、最悪の未来が訪れようと、私はそのことを後悔せず、未来永劫、兄様の味方であることを誓いましょう。

どうかその先により良き未来があることを願いながら、今ここに、私は貴方の臣下となることを宣言しましょう」


これは儀式です。

私と言うイレギュラーが本格的に、歴史に介入するための儀式。

私が未来を変えることへの免罪符を手に入れるための儀式。


ある意味で、お市の方としての自分は今このときから始まるのでしょう。


兄の、信長の顔は見ませんでした。

これは、自分のための儀式なのです。彼は関係が無く、その必要はありません。

私は、ただただ、彼が部屋を出て行くまで、頭を下げ続けました。



先ずは平手政秀の屋敷へと行くことにしましょう。

そして葬式が始まる前に、兄が父上と人払いをした上で対面できるように取り計らって貰うのです。

おそらく、それは私が行う、最初の本格的な歴史改変になるのでしょう。



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