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AIが作った完璧な旅程を、仁寺洞のかき氷で忘れた

作者: 朝吹龍一朗
掲載日:2026/10/22

 ソウル旅行に行く前、私はAIに命じた。

「三泊四日で、韓国グルメをできるだけ制覇し、主要観光地も無理なく回れる計画を立ててください」

 いま思えば、この「無理なく」という言葉がよくなかった。AIはたいへん素直なので、人間が「無理なく」と言うと、無理のない計画を立ててくれる。少なくとも画面の上では。

 完成した旅程は、ほとんど芸術品だった。

 朝はホテル近くの人気店で粥。午前中に宮殿。昼は冷麺。午後は市場と古い街並み。夕方に明洞へ戻り、夜は焼肉。翌日は参鶏湯、カフェ、買い物、エステ。最終日は空港までの時間も無駄なく使う。地下鉄の乗り換え時間、徒歩時間、店の営業時間まできっちり計算されている。

 私は画面を見ながら感心した。

 これでいい。完璧だ。人間が考えるよりずっと賢い。

 妻にも見せた。

「すごいね。これ全部行けるの?」

「行けるはずだよ」

 この「はず」が、旅というものの入口だった。

 まず、羽田を出る飛行機が遅れた。

 旅程表の第一行目に、さっそく赤線が引かれた気がした。AIは飛行機が定刻に飛ぶ世界に住んでいる。少なくとも、私に見せてくれた計画の中では、空は人間に協力的だった。

 ところが現実の空は、そうでもなかった。

 金浦空港に着いた時点で、すでに予定はじわじわ崩れていた。それでも私はまだ強気だった。多少の遅れなら取り戻せる。AIの計画には余裕がある。たぶんある。きっとある。そう信じていた。

 しかし、空港から市内へ向かう道路が激しく混んでいた。

 車は少し進んでは止まり、また少し進んでは止まった。窓の外に韓国語の看板が流れていく。いや、正確には流れていかなかった。ほとんど同じ看板が、ずっとそこにあった。

 私はスマホを開き、AIの作った旅程表を見た。

 そこには、もうすぐ最初の目的地に着いているはずの私たちがいた。

 画面の中の私は、予定どおり行動していた。賢く地下鉄に乗り、的確に出口を選び、迷うことなく名店へ向かっていた。現実の私は、後部座席でじっと渋滞を見つめていた。

 同じ人間とは思えなかった。

「今日、無理じゃない?」

 妻が言った。

「うん。無理だね」

 私たちは、初日の予定をほぼ全部あきらめた。

 AIがきれいに並べてくれた店も、観光スポットも、移動ルートも、空港からホテルまでの道の途中で、ばらばらと落ちていった。夕方には、ただ明洞のあたりを歩いていた。

 でも、不思議なことに、それがけっこう楽しかった。

 知らない国の知らない街を、予定なしに歩く。看板の読めない店を眺める。匂いにつられて横道を見たり、若い人たちの行列を見て、あそこは何の店だろうと首を伸ばしたりする。

 何も達成していないのに、旅をしている感じだけは濃かった。

 予定表の上では、その日は失敗だった。

 でも、足の裏だけはちゃんとソウルに着いていた。

 翌日からも、計画は順調に壊れた。

 お目当ての店へ行くと、入口の前に人があふれていた。AIは人気店だと教えてくれたが、人気店が本当に人気であることまでは、どうも私たちに実感させるつもりがなかったらしい。

「待つ?」

「何分?」

「わからない」

「じゃあ、やめよう」

 旅程表では、ここで韓国グルメを一つ制覇するはずだった。だが私たちは、制覇の前に敗退した。

 仕方なく、その場で近くの店を探した。

 ここで頼りになるはずだったのがGoogleマップである。ところが韓国のGoogleマップは、どうも日本にいる時のGoogleマップと同じ顔をしていながら、性格が少し違う。

 まっすぐ行けと言うからまっすぐ行く。曲がれと言うから曲がる。すると、そこには目的の店どころか、店らしいものもない。

「ここ?」

「ここ、のはず」

「何もないよ」

「でも、ここだって言ってる」

 私たちはスマホを見つめ、次に目の前の風景を見つめ、またスマホを見つめた。どう考えても、スマホの方が嘘をついていた。あるいは、ソウルの街がこっそり移動したのかもしれない。

 そうやって迷っているうちに、翌日行く予定だった店が、突然、目の前に現れた。

 私は声を上げた。

「あれ?」

「何?」

「これ、明日行く予定の店だ」

「ここなの?」

「いや、地図では全然違うところにある」

 旅程表の明日が、今日の路地裏から顔を出していた。

 こうなると、もう時間の方が間違っているのか、地図の方が間違っているのか、私たちの方が間違っているのかわからない。だが、せっかく明日が向こうから来てくれたのだから、入ることにした。

 その店が、大当たりだった。

 熱い料理が出てきた。湯気が立った。隣の席では地元の人らしい客が楽しそうに食べている。店員さんは忙しそうだったが、こちらが困っていると、ちゃんと気づいてくれた。言葉は通じきらないのに、食べ方だけはなんとなく伝わる。

 予定どおりではない。

 だが、うまい。

 旅というものは、だいたいこの二つの間にあるのかもしれない。

 AIはその店を、翌日の昼に配置していた。私たちはそれを前日の夜に食べた。だから厳密に言えば、旅程には違反している。

 しかし、鍋の湯気は違反していなかった。

 南大門市場にも行く予定だった。

 ここもAIの旅程では、たいへん合理的に組み込まれていた。買い物をし、屋台を見て、名物を食べ、周辺を歩く。見どころも無駄なく押さえられている。

 だが、その頃には私たちはくたびれていた。

 旅行というのは不思議なもので、観光地に着く前にもう観光した気分になることがある。地下鉄に乗り、階段を上り、道を探し、店を探し、間違えて戻る。そのすべてが、体力を少しずつ持っていく。

 南大門では、ほんの少しだけ歩いた。

「これで南大門に来たことにしよう」

「いいの?」

「来たことは来た」

 記録としては弱いが、事実としては正しい。

 そのかわり、私たちは仁寺洞へ向かった。

 古い町並みを観光地として残したような場所で、路地には伝統工芸の店や、古美術の店や、小さな土産物屋が並んでいた。新しいカフェもあるのに、どこか昔の街の骨格が残っている。

 そこで書道の店を見つけた。

 筆があった。墨があった。紙があった。漢字とハングルが、店の中で静かに並んでいた。

 その少し先で、骨董屋なのかカフェなのか、どちらとも言い切れない店に入った。棚には古い器や小物が置かれていて、その奥で人がかき氷を食べていた。

「ここ、カフェなの?」

「たぶん」

 旅先では、「たぶん」で店に入ることがある。

 私たちも、そこでかき氷を食べた。

 冷たかった。甘かった。歩き疲れた体に、予想以上にしみた。

 AIの計画には、その店はなかった。もちろん、AIが悪いわけではない。私は「仁寺洞で、骨董屋なのかカフェなのかわからない店に入り、予定外のかき氷で生き返りたいです」とは頼まなかった。

 でも、あとから思い出すのは、そういう店だった。

 頼まれなければ、AIはそんなものを入れない。

 でも、人間の旅には、頼んでいないものが混じる。

 飛行機は遅れる。道路は混む。店は混んでいる。地図はずれる。足は疲れる。予定は壊れる。翌日の店が今日現れる。入るつもりのなかった店で、思いがけずうまいものを食べる。南大門はほんの少しで終わり、代わりに路地の奥で筆と墨を見る。

 帰ってから、私はAIの作った旅程表をもう一度見た。

 よくできていた。

 本当によくできていた。

 これを作ってくれなかったら、私たちはもっと困っていただろう。どこに何があるのか、何を食べればいいのか、どう回ればいいのか、見当もつかなかったはずだ。

 AIは旅の骨格を作ってくれた。

 けれど、旅の肉は、遅延と渋滞と迷子と疲労と偶然でできていた。

 完璧な旅程は、現地で壊れるためにあったのかもしれない。

 私は少しだけ反省した。

 AIに、次はこう頼んでみようと思った。

「三泊四日で、韓国グルメをできるだけ制覇し、主要観光地も無理なく回れる計画を立ててください。ただし、初日に飛行機が遅れ、道路が混み、店が満席で、Googleマップが少し嘘をつき、私たちが途中で疲れて、予定の半分をあきらめても楽しくなるようにしてください」

 AIは、きっとまた完璧な計画を立てるだろう。

 そして私たちは、またそれを少しずつ壊しながら歩く。

 たぶん、旅はそれでいい。



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