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君が残した心の声

作者: 音無さん
掲載日:2026/05/13

2月12日の夜。

家に帰り扉を開けた時、いつも小さな足音が駆け寄ってきた。チワワのチョコという飼い犬。


「ただいま。」


もう返事は返ってこない。あの思い出も帰ってこない。

それでも自然に床の低い位置を探してしまう。もうあの温もりがないことを頭で理解しているはずなのに。


「どこにいるんだ...?出てきたら沢山遊んでやるし......

おやつも好きなだけ食べていいんだぞ。」


今すぐ無くなってしまいそうな掠れた声で。ただ問いかけていた。

リビングの隅に置かれた小さなベッドを見ると、昨日までの形を保っている。

可愛らしく丸まって寝ている姿を思い出し胸がじんわりと痛み出した。

何もできずに、時間だけが過ぎていく。部屋のあちこちに取り残された気配が静かに滲んでいた。

テーブルには未開封の薬が置いてある。あんなに愛していたのに、守ることさえ出来なかった。仕事が忙しかったせい......そんなのただの言い訳に過ぎない。

取り返しの付かない事をした。

このままこの家にいても、辛いという感情以外何も頭に浮かび上がらなかった。このまま消えてしまいたい。チョコと同じ所に行きたい。そんな願いが叶うのなら神様は何百人居たって足りないだろう。

扉の隙間から冷たい風が押し寄せた。

もう日は沈みかけている。夕焼けの切ない光に照らされながらひたすらに歩く。

どこに行くのか......目的は何か.......何も決めずに。

ひたすら、歩いた。


気づけば周りは木に囲まれていた。優しさですべてを包み込んでくれそうな香りがする。私の背中が草原に優しく触れた。

「私は.....いい飼い主だったかい......?」

声は震えていた。だが涙は出ない。泣きたい。泣いてやりたい。

私、【七草(ななくさ) 日聖(ひじり)】はいつだって感情を溢れさせる方法が分からない。助けを求める事さえできない。涙を出すことさえできない。こんなにも悲しいのに。

もう空は暗く、いくつもの光が宿っていた。

私の周りには緑しかない。あの子がいたらもっと楽しかっただろうか。今もまだ受け入れられていない。


何十分、いや、何時間ここで過ごしたのだろう。時間を忘れてしまうほどに私の心には底の見えない程深い穴が空いてしまっていた。


「帰るか.......」


重たすぎる足を動かし、立ち上がって歩み始めた。そこで違和感に気付いた。

今は夜中。周りには緑しかない。だが、何故か私の目の前は明るく照らされていた。

見たことのない色、感じたことのない空気、すべてが初めての感覚だ。

その光が落ち着いていき、私は目を開いた。


「なんだ...? 動物......なのか?」


とても長い耳にクローバーが宿った水のように透き通る青い瞳、丸まっている角に、全身に心地よさそうな毛が生えていて、人型に近かった。耳を含めると私と同じくらいの身長だろうか。


「...............」


その生き物は眠っているのか、気絶しているのか。

これまで生きてきたがこのような動物は見たことがない。昔は獣医師を目指していたため、動物について他の人よりは詳しいつもりだ。

助けたい。

この生き物を見た時、助けたいという感情が一番によぎった。また目の前で命が亡くなってしまう.....そのような経験は二度としたくない。この生き物を私の家に連れて行く事にした。少しでもチョコの代わりを求めてたのかもしれない。代わりなんて存在しないというのに。


その生き物が目覚めたのは翌日の朝だった。

謎の生き物。だが愛らしい外見のせいで放っておくことが出来なかった。動物好きの運命なのだろう。

「何か食べたりするか?」

疑問の感情を浮かべながら首をかしげている。

まあそうなるだろう。日本語が伝わるわけなかった。

冷蔵庫からリンゴを取り出し、カットしてこの生き物に渡した。食べれるものだと証明するために私も食べた。

「ほら、食べれるヤツだぞ。」


食べれるものだと分かった瞬間、バクバクと口の中に入れ

始めた。

このまま謎の生き物を家に入れといても大丈夫なのだろうか....

様々な不安が頭の中に流れ込んでくる。

「...! !!!」


突然目の前の生き物が必死に何かを伝えようとしている。

だが分かるはずもない。

まずどこから来たのか。そもそも地球の生き物なのか?

頭がパンクしそうだ。感情に頭が追いつかない。

「はぁ.....。」


アコギを手に取り、窓辺のソファに腰を落として、何とか心を落ち着かせようとする。

頭がおかしくなりそうな時はいつもギターを演奏して頭の中をリセットする習慣ができている。こんな状況で弾くなんて馬鹿らしいけれど。

「......?」


興味ありげな表情でギターを見ていた。

「気になるのか...?」

「これはギターって言って音がなるんだ。凄いだろう。」


私にとってギターは癒しだ。チョコは私のギターの音色が好きだった。

どんなに眠たくてもはしゃいでいても、私が演奏するとすぐに聞きに来ていた。

「ぎ......あ〜?」

「....!?あんた喋れるのか...?」

「......??」


驚きだ。人と口の構造が似ているんだろうか。

私はここで勘づいた。きっと地球の生き物ではない。

漫画みたいな話だが実際に目の前で起こっている。

信じない方が難しいかもしれない。

「これはギターだ。ギター。」

「きたー...?」


不意に頭の中に思い出が巡った。

チョコにトイレを教える時も、こんな感じで苦労しながらも学ばせていた。

些細な事だと思っていたけれど、失ってから気付く。

人生に些細な事なんてひとつも存在しないのだと。

思い出を掘り返す度に傷が滲む。

苦しい。悲しい。もう会えない事をまた実感した。

私は頭の中を空っぽにするために演奏を始めた。

落ち着きのある深い音色が部屋の中に響き渡る。

まるで心を包むように。

「ほわぁ〜...!!!」


楽器自体を見るのが初めてなのだろう。

とても不思議なものを見る目でじーっと観察している。

「...触ってみるか?」

少し間が空いた後に、私が言ったことを察したのか、興味を持って触り始めた。

「わ.....」


とても愛らしい生き物だ。

「名前はないのか?」

「......」

「私は、日聖。ひじりって名前だよ。」

「ひじり......」

「そう。君はなんて名前なんだい?」


言葉とジェスチャーを交えたらコミュニケーションを取れない事はない。この状況に適応しつつある私に恐怖を感じてきた。目の前の生き物は自分を指さし誇らしげな眩しい笑顔を向けて言った。


「うーしあ!!」


「ウーシア....いい名前だな。」


自分自身も気づかぬうちに私は微笑みを浮かべていた。

この日から私とウーシアの共同生活が始まった。

「それじゃ、私は仕事に行かなければならないんだ。」


ウーシアを一人にして置いていくのは少し、いやとてつもない不安が残る。

「家の中でゆっくりしてればすぐに帰ってくるさ。ギターでも触ってみたらどうだ?」


そういい私はギターをウーシアに手渡した。

「わぁ........」


早速ジャンジャカと不規則なリズムで音を鳴らし遊び始めた。微笑ましい光景だ。私も最初は音を鳴らすだけで楽しかった。

「明日たっぷり教えてやろう。」


そしてドアノブに手を掛け、扉の隙間から暖かみのある風が押し寄せた。

「行ってきます。」


後ろを振り返ると、ウーシアが腕を上にあげ、大きく横に振っていた。

なんだか少しづつ、またこの世界に色が帰ってきたような気がする。

まだ心には深い穴が開いている、だが、その深い穴にほんの少しだけの灯火が見えた。


もう太陽は隠れてしまった頃。仕事から家に帰ってきた。

ドアを開けて、床の低い位置を見るとそこにウーシアが眠っていた。

絨毯も何もないのに、寝心地は良いとは思えない。

「....ぁ!ひりり!」


起きてすぐにおぼつかない言葉で私を呼んだかと思えば、バッと立ち上がり飛びついてきた。

よろめきながらも受け止めた時、暖かい毛の感触が全身に伝わってくる。

あぁ、また思い出した。辛いな。

「ただいまウーシア。あと俺の名前はひじりだぞ。」

「ひぃ.....ひじり!」

「そう。喋りが上達するのが早いな。」


可愛がってよいしょした訳ではない。ホントに覚えが早いのだ。一週間後にはスムーズに話せるのではないか、そう思えるほどだ。

「ぎたぁー!おぉ、、おちえて?」

「ギター教えて、だね?明日は休みだから長い間教えてやれるよ。」


ウーシアは嬉しそうに頭を上下にぶんぶん振っている。

ここまで期待されると、応えないわけにはいかないだろう。

私の手はウーシアの頭にぽんと置かれていた。


2月14日の朝。

目を覚ました時、懐かしい感触がしてベッドの中を見ると、

ウーシアが私のベッドに潜り込んで寝ていた。ウーシアの寝床は他で用意していたはずだが、寂しさを感じたのだろうか。そんな細かいところまでチョコとそっくりだ。勘違いをしてしまうくらいに.......

「おはよう。なんか食べるかい?」

「.......んぅ。」


まだ睡魔に襲われていながらも、弱々しい声で返事が返ってくる。

「分かった。朝食を作ってくるから少し待ってて。」


朝食を作るといっても、パンにピーナッツバターと蜂蜜をかけて焼くだけの料理といえるか怪しいラインのものを二人分作った。

「こんなもんしかなくて申し訳ないよ。」


それでもウーシアは目を輝かせながら私の作った食べ物を眺めている。

「いただきます。」

「.....?いた、らきます!!」


朝食を食べ終わった後はウーシアがギターを弾いてほしそうにしていたので、お手本を見せることにした。

「しっかり見ているんだぞ?いつかウーシアも弾けるようになって二人で弾こうじゃないか。」

「わぁ......!」


演奏を始めた。暖かくもあるような、儚げも持ち合わせているような、不思議と心の不安な部分が浄化されていくような感覚がする音色。ギターに夢中になっていた時、美しい声が聞こえてきた。

「~~♪~♪」


鼻歌だ。とても透明感のある、少しでも音程をずらすと成り立たなくなってしまいそうな、美しく繊細で心の中に直接響き海のように広がっていく声。部屋のカーテンの隙間から太陽の光が差し込み、ウーシアを照らす。

気付くと私の頬には水滴が流れ始めていた。ひとつ、またひとつと。


もう演奏は止まっていた。


「だ....だい、じょ~ぶ?」

「あ、あぁ、大丈夫だよ。大丈夫だ......」


思いつめていたことが、ほどけていくようだった。

胸の奥に絡まっていた言葉にならないものが、ひとつずつほどけて、溶けていく。

その音が、なぜか――

『ここにいていい』と、そう言ってくれている、認められている気がする。

さっきまで色褪せているようだった世界が、今はやけに澄んで見えた。


「.....ありがとう。」


「...?どおいた、しまして。ひじり!」


その時に見たウーシアの表情はいつものような活発的でただひたすらに愉快な笑顔だけではなく、優しさにも溢れていた。



仕事から帰ってご飯を食べさせたり、ウーシアにギターや言葉を教えたりする生活をして一週間が経った。

「そういば、ウーシアはまだ外に出てないよな。」

「うん!!いーてみたい!!」


ウーシアにはずっと私の家で留守番を任せていた。

私以外の人間に見つかると、どう思われるか分からない不安があったからだ。そこで案を思い付いた。

私の家はそこそこ田舎にある。深夜に人気は全くない。

「分かったよ。じゃあ今日の夜に見せたいものがあるから少し散歩しようか。」


ウーシアは手を合わせて、本当に!?と言いたげなキラキラとした表情で見てきた。私は返事をするように頷くと、目の前で飛び跳ねながらはしゃぎ始めた。

夜は静かに更けていた。

外に出ると、昼間とはまるで別の世界が広がっていた。空気はひんやりとしていて、どこか澄んでいる。遠くの街明かりが、小さな星のように瞬いていた。

「わぁ……」


ウーシアは思わず声を漏らした。

昼間の無邪気な明るさとは違う、どこか息を呑むような静けさの中で、その瞳がきらきらと輝いている。

「綺麗だろ。」


そう言いながら、私は少し先の小高い場所を指差した。

そこからは、町全体が見渡せる。

ゆっくりと歩いていく。

砂利を踏む音と、二人の白い呼吸が夜に溶けていく。

頂上に着くと、視界が一気に開けた。

無数の光が広がっていた。

規則的なようで不規則な、暖かくて、どこか切ない光。

「ここ、お気に入りなんだよ。私の。よく一緒に見に行ったものだ。」

「...?いっしょぉ?」

「あぁ。君と会う前にチョコという犬を飼っていたんだ。」


チョコもここが好きで、来る度目を輝かしていた。

似ているな。

「ちょこと、あそんでみたぃ!」

「それは無理だなぁ。......もう亡くなったんだ。」


ウーシアは気まずい事を話してしまったと思っているのか、しゅんと耳が倒れ少し下を見ている。

「君まで落ち込む必要はないよ。私はここに来ると、チョコに会えている気がする。この星達が、私の心を支えてくれているんだ。」

ウーシアは言った。

「ひじり!あん、しん!ちょこも、うーしあも、ず~~っとひじりのそば!!」


「そうか.........」


3月に入った。

外の空気は少しだけ柔らかくなった。

冬の鋭い風は影を潜め、代わりにどこか甘い匂いが漂い始める。

「ひじり! そと、ぴんく!」


朝から窓に張りついていたウーシアが、ぱたぱたとこちらを振り返る。

「桜だよ。もうすぐ満開になる。」

「さくら……」


覚えたての言葉を、大事そうに繰り返す。

最初は片言だった言葉も、今では短い会話なら出来るようになっていた。

食べたいもの。

行きたい場所。

嬉しいこと。

眠いこと。

その度にころころ変わる表情を見ていると、正体不明の生き物を拾ったという感覚は、もうほとんど消えていた。

「散歩、行くか」

「いくっ!」


ウーシアは勢いよく飛び跳ねると、慌てて靴を抱えてくる。

左右を逆に履いているのを見て、私は思わず吹き出した。

「ちがうよ。こっち」

「むぅ……むずかしい……」


唇を尖らせながら履き直す姿が、なんだか小さな子どもみたいで可笑しい。

外へ出ると、昼下がりの日差しが心地よかった。


公園へ続く坂道には、薄桃色の花びらがちらほら舞い始めている。

見上げれば、空いっぱいに広がる桜。

ウーシアは桜の中を駆け回っていた。

「すごいよ!!!!きれーーい!」

「そうだな」

「ほし、みたい」


その言葉に、私は少しだけ目を細める。

夜空を見上げる時と同じ目をしていた。

懐かしいものを見るような、寂しそうな目。

けれど今日は、聞かないことにした。


私は手作りの弁当をウーシアに差し出す。

「ほら。」

「ひじりのべんと~!」

「そんなに美味しいか?」

「ひじりのべんと、すき!」


卵焼きを頬張りながら、ウーシアは幸せそうに耳を揺らす。

その姿につられて、私も少し笑った。

今は、舞い落ちる桜を見ているだけで、少しだけ前を向ける気がした。


風が吹く。

淡い花びらが、空いっぱいに舞い上がった。

「ひじり!」

「ん?」

「みて! さくら、ふってる!」


無邪気にはしゃぐ声が、春の光の中へ溶けていく。

私はその背中を見つめながら────


空を舞う淡いピンク色の群れを追いかけて、ウーシアの瞳がゆっくりと動く。

「ひじり、さくらたちはどこ、いっちゃうの?」

「風に運ばれて、川に流されたり、色んな場所へ行くんだ。」


私が答えると、ウーシアはふうん、と小さく頷いて自分の手のひらを見つめた。そこにはさっき捕まえ損ねた薄い一片が、まるで最初からそこにあったかのように静かに乗っている。

「……なくなっちゃうの、もったいない。こんな、きらきらだよ」


その声があまりに透き通っていたから、私の言葉はほんの少しだけ詰まってしまった。

「なくなりはしないよ。形が変わるだけだ。来年になれば、また同じように咲くしな。」

「らいねん?」

「ああ。また一緒に見に来よう。」

「うん!たのしみ、してるね!!!!」


3月12日。

ウーシアと出会いもう一ヶ月が経った。

「ギター、弾けるようになってきたんじゃないか?」

「.....!ほんと!?」

「ああ。上手だよ。」


ギターをふわっと抱えているウーシアは嬉しそうにしっぽを揺らしている。

きらきら星くらいは弾けるようになっていた。最初は痛い痛いと泣きながらも健気にやって、人間と手の形などが違くやりにくいだろうに。

「でもひじりは、もっと上手!!」

「やってる時間が違うからな。」

「うむむぅ......」


今までこのギターは私以外誰にも触れられてこなかった。

私が触っていないときにギターの音が聞こえてくるのが不思議だ。

ウーシアはとても楽しそうに弦を一つ一つ弾いている。

ウーシアにとってのこの『時間』は、私たちが当たり前だと思い過ごしている時間よりも、ずっと濃度が濃いのかもしれない。ギターを弾いて指を痛めた痛みも、弁当の甘い味も、桜も。

ウーシアは自分のお気に入りの窓辺のソファに座ってギターを弾いている。

「そんなにずっと触ってたら疲れるだろう。」

「....?たのしいからだいじょ~ぶ!!」

「そーだ!!ひじりの、ぎたーききたい!」

「もちろん良いよ。一音も聞き逃すなよ?」


自信に満ちた声で言い放った。私の得意分野だ。

細い弦をはじき、震わせ、静けさを纏った空間に優しさを持ち合わせた音色を重ねていく。

「ひじりの、おちつくぅ。」

「良かった。嬉しいよ。」


ウーシアに向かって微笑みを向けた。

こんなに心の余裕を持つことができたのは久しぶりだった。

部屋の隅々までオレンジ色の光が広がっている。

「ひじりのおと、とーくまでとどくね!」

「そんなことないんじゃないか?」

「んーん!ほしとおんなじで、ずっと、とーくまできこえるよ。」

「ウーシアは本当に星が好きだな。」

「うん!」


星。

それは、遥か彼方の、もうとうの昔に燃え尽きているかもしれない光が長い長い時間をかけてここに届いたもの。ウーシアにとって星がどんなものなのか、私はまだ理解できていない。


この一ヶ月ですべてが変わった。

もうチョコの事で落ち込むことは減り、ウーシアの元気さと星空の下で私に掛けてくれた言葉。

おかげで前向きに考えることができるようになってきた。

チョコは隣にいるんだと。




深夜。もう皆が深い夢に迷い込むような時間。

泣き声が聞こえた。こちらまで悲しくなってくるか弱い泣き声が。

私は寝床から起き上がり、部屋の窓辺にあるソファまで歩き、ウーシアの隣にそっとしゃがんだ。

「.....怖い夢でも見たのか?」

「ほし....ほしをみてたの。でも、きゅうにね、

ふしぎないろがわーってなって、うーしあにぶつかったの。」

「ぶつかって....ウーシアはどうなってしまったんだ?」

「わかっ、わかんない......とってもふあんなきもちだったの。こわかった.....」


私が差し伸びた手にぽつぽつと雫が落ちてくる。どんなに不安だったのだろう。どんなに怖かったのだろう。ただの夢とは思うことができなかった。なぜなのか分からない。ただ不思議と、思えなかった。

ウーシアを腕の中に収めると、トクトクと小さな鼓動が聞こえた。

この静かな部屋で確かにウーシアが存在していると証明しているようだった。

「私はここにいる。日聖はここにいるよ。大丈夫だから。」

「うん.....うんっ.....」



別の日、窓の外で雨が鍵盤を叩くような規則正しいリズムぽつぽつと刻んでいる。

寂しいような心地いいような。浮遊感のある音。

「ウーシアは雨好きかい?」

「うん!!ぎたーよりはすきじゃないけどあめもいいおと、だとおもってる!!」

「私は雨の中外を歩くのが好きなんだ。どうだ、一緒に行ってみないかい?」

「どうするの?ぬれちゃうよ~」


ウーシアは雨の日に外に出たことがない。だから傘も知らないのだ。

「靴。ちゃんと履けたか?」

「うん!ばっちし。」


ふんと胸を張ってドヤっとした顔つきで見てくる。

チョコもこのような顔や態度を良くしていた。今になってはそんな些細な事もいい思い出だ。

扉を開けると、湿っぽい空気と緑が雨で濁されたような匂いが私達を包んだ。

「雨の匂いって不思議な匂いだよな。不安にもなるし、落ち着くこともできるような。」

「むむむ....わかんないや。」

「はは。少し難しかったか。」

「すごい....ぬれないよ!?」


傘を開き、濡れないように少しウーシアに傘を寄せながらいつもの散歩道を歩いてみることにした。

「これは傘って言うんだ。歩いている途中に雨が降ったら

濡れてかわいそうになるだろう?それを無くすためにできたんだよ。」

「濡れそうになってる人がいたらこんな風に相合傘してあげるといい。」

「うん!わかった。かさ...たのしい♪」


ウーシアの長い耳にポツンと水滴が落ち、ぴくぴくと揺らしている。

ウーシアは水たまりを見つけニヤリと悪巧みをしているような顔をしている。

「....なに企んでるんだ?」

「へへ、ひじりこっちきて?」


目の前で水たまりに立っているウーシアは力を足に集中させ、とんでもないジャンプと

とんでもない着地を決め込んだ。

「お、おい!?」

「いえ~~い♪ひじりびちょびちょ!!」

「傘の意味なくなってるじゃないか!」


3月16日。

朝になり日が昇ると、ウーシアは窓辺のソファに座り太陽に照らされていた。

まだ気が沈んでいるのかと不安に思い、私はウーシアに話しかけた。

「ウーシア。ちゃんと寝れたか?」

「ん!!おはよーひじり!うーしあね、おなかすいたよ!!」


窓からは柔らかい陽光が差し込んでいた。眩しすぎる元気さがダイレクトに衝突してきて

こっちまで元気になってしまう。何か魔法でも使っているのだろうか。

「そうだな。少しだけ待っててくれ。」


家にあった食パンにイチゴジャムを塗りたくったものとコーラを

ウーシアの目の前に置いた。私が作る朝ご飯はいつもこんなものだ。

もう少しレパートリーを増やすべきなのかと悩んでいる。

「いちごじゃむすき!!!でも、このくろいのむの、はじめて。な~に?」

「これはコーラって言うんだ。私が世界中で一番好きな飲み物だよ。」

「せ、せかい.....!?」


ウーシアは今まで水しか飲んだことがなかった。炭酸を飲むのは多分初めてではないだろうか。

このしゅわしゅわと同時にコーラの味が広がっていく感覚を知らないなんて.....

共有したくてたまらずにド深夜に買いに行ってしまった。

ウーシアはコーラを手に取り、口の中に流し込んだ。

「....!!すごい!くちがぁ!しゅわしゅわぁ....」


ウーシアは美味しさを体で表現しているのか、両足をぴょんと跳ね回りはしゃいでいる。

さすがにオーバーなリアクションをしているのを見て思わず吹き出してしまった。

「どうだ?おいしいだろ。」

「うん!!せかいいち~!!!!」


ウーシアが食事を終えたことでずっと聞こうか悩んでたことを

口に出した。

「ウーシア、この世界に来る前のことは...覚えてないのか?」

「.....おぼえてないよ?」

「楽しいかい?」

「うん!あたらしいことばっかなの。まえのときより。」

「そうか....良かったよ。」


私は胸の奥を小さな針で刺されたような感覚を覚えた。

出会ってから一ヶ月。彼女はこの世界の言葉を覚え、私の作る弁当を愛し、私のギターを弾くようになった。けれど、彼女の根っこにあるものは、やはりここではないどこかに繋がっているのだと、突きつけられた気がした。ウーシアは嘘つくのが下手だな。

「昨日も歩いたが、今日も歩かないか。」

「やったぁ!じゅんび♪じゅんび♪」


いつもの散歩道。いつもと同じ晴天。だがいつもと違う、儚げを纏っている。

落ち着くはずなのに、風が鋭く心に直接切り付けてくるような痛みが襲う。

心によぎった不安。チョコと同じように....いなくなってしまう?

そろそろ元の世界に帰らないといけないのでは?あの日ウーシアが見た夢は前の世界の話なのでは?

頭が割れてしまうほどに考え込んでしまう。今は考えなくていい。目の前だけを見ればいい。

「ウーシア。明日は沢山ギター教えてあげよう。少しだけ難しいコードにも挑戦してみるか。」

「...うん!もっとじょ~ずになるんだ。」


ウーシアはいつものように無邪気な笑顔を見せてくれた。

「ウーシアが大好きな弁当をたくさん作ってキャンプにも行きたいな。

今日帰ったら計画もたてよう。楽しくなるなぁ。」

「....いいね!きゃんぷでひじりのべんと!たのしみ。」


ウーシアはいつものように嬉しそうにしっぽを振っている。

「まだまだやりたいことが沢山あるなぁ.....これから楽しくなるぞ。」

「そうだね!たーーっくさんある!」


ウーシアとやりたいことを歩きながら話した。

まるで現実逃避にすら見えてしまうくらいに。

外を見ればもう夕焼けが世界を塗り替えていた。夜ご飯も作らないといけないな。

ウーシアを連れて私は家に帰り、いつもと変わらない夜ご飯を作り、いつもと変わらない時間に眠る。

いつもと変わらない。そう、いつもと変わらないはずだったのに。



3月17日。午前1時半。

毛布の中に違和感を感じた。いつもそこにいるはずの温もりや感覚がなかった。

血の気が引いた。

頭が真っ白になった。

口が閉じられなかった。

すべての部屋を必死に探した。見つかったのはテーブルの上に置いてあった紙切れ一つ。


【ひじり、うーしあね、かえらなきゃいけないの。ずっとここにいたいよ?いごこちがいい!

でもね、まってるんだ。たーーっくさんのなかまがうーしあをさがしてるんだ。いままでありがとう。】


納得できるか。言葉足らずだ。字も汚くて読みにくいし、紙に濡れたしみが付いている。

外は大雨だ。こんな時私に運は味方してくれない。傘を取ったりスマホを持ったり、そんな準備をする心の余裕なんてもう一切なかった。

私は少し先の小高い場所を目指した。

そこからは町全体が見渡せる。

転んでしまいそうな速度で不規則になる砂利を踏む音と、一人の白い呼吸が夜と雨に溶けていく。

今顔に流れている水は雨か?涙か?そんなことどうでもよかった。

今はただがむしゃらに走った。


頂上に着くと、前は視界が一気に開けた。でも今日は雨のせいで星空や

規則的なようで不規則な、暖かくて、どこか切ない無数の光は何も見えなかった。

「ここ、お気に入りだよな。俺達の.....」


呟いた声は、自分でも驚くほど震えていた。

「桜。きれいだったよな....来年も、来年も見に行くって約束したじゃないかぁ....」

「弁当。好きだろ...?俺の弁当。嬉しかったんだ。またたくさん作ってやるから

消化するの手伝ってくれよ.......」

「ギターももっと難しいのに挑戦するんじゃないのか.....!?俺の音を聞いてくれるんじゃないのか!」

「いちごジャムをぬった食パンだって、コーラだって.....!!腹いっぱい一緒に食おうじゃないか!!」

「キャンプだって、雨の日の散歩だって....!まだまだ時間が足りないじゃないか!!!」

「もっと....もっと.....!!!」

「俺と一緒に居てくれよ......」

身体は空から降ってくる悲しみの水にずっと打たれている。

視界が急に水の中に沈んだように歪んだ。喉の奥に、熱くて硬い塊がせり上がってくる。

呼吸をするたび、胸の奥がひきつるような音がした。

口を覆った指の間から、こらえきれない吐息が漏れた。

突然、雨が止まった。いや、雨は降っているが私には当たっていない。

「ウーシア....!?なんで....もういなくなったんじゃないのか.....?」

「いなくなるところ、見られたくなかったんだけどなぁ......」


ウーシアの綺麗なクローバーの目は細くなり、あふれ出てきそうなものを頑張ってせき止めている。

「濡れそうになってる人がいたらこんな風に相合傘してあげるといい。

そう言ってたの日聖だよね。」

「馬鹿だなぁ......もう濡れてるじゃないか......」

「ウーシアね、全部思い出したんだ。前の世界の事。」


「星を見ていたんだ。ほかの仲間たちが住んでいる集落からちょっと離れたところでね。」

「ウーシアは、帰っても友達が迎えてくれるんだな....」

「そう、たくさんの友達。」


日聖を目の前にして、覚悟を決めたはずなのに....

揺れてしまっている心を必死に押さえつけて説明した。

「いつものように星を見て帰ろうとした時、急に光が音と一緒にウーシアにぶつかってきたの。

魔法災害だと思ってる。」

「魔法....災害....」

「それでウーシアは記憶をなくしてこの世界に来たの。日聖が家に連れて行ってくれなかったら

どうなってたんだろうなぁ....」

「それなら帰る手段は見つかってないんじゃないか...?

見つかるまで私の家でゆっくりしてもいいんじゃないか.....」


そうしたかった。日聖と一緒にいたいよ。

だが、帰らないといけない理由もあることをウーシアは忘れてはいなかった。

「それじゃあだめなんだ。ウーシアが帰るのを待ってる。

あとわかるんだ。もう少し迎えがくるって....」

「ウーシア....また、また私は一人になるんだな.....」


日聖が泣いているなんて珍しい。多分ウーシアにとっても日聖にとってもたっくさん悲しい別れなんだ。

でも日聖を悲しませたくない。せめて笑顔で別れようと今までで一番努力をした。


「一人じゃない!!思い出して。チョコも。ウーシアも!ずっと...ずっと!

日聖のそばにいるんだよっ!!だからさ、前向きに生きるんだっ!!!!」

「ウーシア!!!!!」


私の目の前は明るく照らされた。

一度見たことのある色、一度感じたことのある空気、もう二度と経験しないと思っていた感覚。

その光が落ち着いていっても、しばらく私は目を開けなかった。

もう雨は止んでいた。空には、規則的なようで不規則な、暖かくて、どこか切ない無数の光が

ずっと遠くまで続いていた。砂利を踏む音と、ただ一人の白い呼吸が美しい夜に溶けていく。

頬に流れている水滴は涙なのだと、ハッキリと自分自身で理解することができた。


家に帰り扉を開けた時、いつも足音が駆け寄ってきた。

「ただいま。」


もう返事は返ってこない。あの思い出も帰ってこない。

それでも自然にお気に入りだった窓辺のソファを見つめてしまう。

もうあの温もりがないことを頭で理解しているはずなのに。

「......」


今すぐ無くなってしまいそうな掠れた息しか漏れなくて、問いかけることさえできなかった。

私が触らないともうギターの音色は響かない。来年一緒に桜を見に行く相手だっていない。

神様。私の気持ちを少しでも晴らせないでしょうか。

この願いが通るのなら神様は何百人いたって足りないだろう。そんなことは分かっている。



最後の言葉を放つとき、ウーシアは涙を流していた。

最後の瞬間まで私を悲しませないとグッと堪えていたんじゃないのか。

自分だって悲しいはずなのに..... 

自分だって辛すぎたはずなのに.....

こんなところでずっと暗闇の底に落ちているだけでは前の七草 日聖と同じなのではないか。

チョコもウーシアも、こんな所で落ち込んでいたら何も嬉しくないだろ。報われないだろ。

ウーシアは大事なことを私に教えてくれた。


『一人じゃない!!思い出して。チョコも。ウーシアも!ずっと...ずっと!

日聖のそばにいるんだよっ!!だからさ、前向きに生きるんだっ!!!!』


「忘れないよ.....チョコも。ウーシアも。私のそばにいてくれてるんだ.....。」


この言葉。君が残した心の声を.....

私は忘れずに生きていくんだ―――――



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