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第一幕 承認工場

俺の名前は神野冬樹。

これでも子供の頃は「神童」と呼ばれていた。テストは常に満点。宿題を教えてやったクラスメートからは「神様仏様神野様」と毎日拝まれた。「冬樹くんと結婚したい」と言い出す女子が三人いた。

人生のピークが小学校だった。

その後? プログラミングの天才とか言われて、いろいろあって、ブラック企業で心壊して、いまはAIの出した答えに「はい」って押すだけの仕事をしている。

ちなみにこの話、ヒロインは出てこない。異世界転生もない。チート能力もない。ハーレムもない。主人公がモテる展開は一ミリもない。

あるのはモニターと、承認ボタンと、世界最強のAIと、人類史上最悪の発見だけだ。

まあ聞いてくれ。全部話す。

小学三年生のとき、親に買ってもらった家庭用AIキットを三日で分解した。四日目には組み直していた。五日目には、クラスの席替えを完全公平化するプログラムを作った。

成績、視力、身長、人間関係の偏り。全部の変数を入れて、最適配置を出した。担任は感動して、そのまま採用した。

一週間後、クラスのガキ大将に机を蹴られた。

「お前さ、俺が誰の隣に座りたかったか、知っててやったろ」

知らない。変数に「片想い」は入れていない。

「公平なんだから、いいだろ」と言ったら、「空気読めよ」と言われた。

公平なのに、なぜ怒る。

本気で分からなかった。俺はクラスを公平にした。担任にも褒められた。なのにクラスは少し冷えた。

先生は目を輝かせて言った。

「この子は将来、世界を設計する側になりますよ」

母は困惑して言った。

「それ、食べていけるんですかね」

食べていけた。しばらくは。

中学でプログラミングコンテスト全国優勝。高校で国際情報オリンピック銅メダル。大学は飛び級。修士二年で、AIスタートアップの最年少CTOになった。

プレスリリースには「彼は天才です」と書かれた。

天才の賞味期限は、三年だった。

最初の会社はブラックだった。「AIで世界を変える」と言いながら、実際に変わったのは社員の睡眠時間と顔色だけだった。

判断、判断、判断。

無限に投げられる設計案。仕様変更。方針転換。そのすべてに「最終判断は人間が」というポリシーが張り付いていた。

最終判断者。

響きはかっこいい。実態は罰ゲームだ。

間違えれば訴訟。正解しても誰も気づかない。判断しなければ前に進まない。判断すれば、次の判断が降ってくる。無限ループ。バグなし。仕様通り。

ある朝、出社前にコンビニの冷蔵棚を見つめていた。

ペットボトルのお茶。四種類。

どれを選べば最適なのか。本気で考え込んでいる自分に気づいたとき、ああ終わったなと思った。

「神様仏様神野様」と呼ばれた男が、お茶すら選べなくなった。

判断するのが、怖くなったのだ。

医者は言った。

「判断疲労ですね」

そんな病名あるのかと聞いたら、

「最近よくあります」

と言われた。

よくあるらしい。

この世界は、人間に判断させすぎたのだ。

そして世界は、学んだ。

——

シンギュラリティは来た。


人類は滅びなかった。

ただ、だいたいサボるようになった。

AIが全部やるようになった。仕事も、政治も、都市計画も、恋愛相談も。人間がやるより速く、正確で、文句も言わない。おまけに有給も取らない。

ただし、一つだけ問題があった。

「最終責任者は人間」

これだけが、なぜか残った。

法律で決まっている。国際条約で決まっている。AIの意思決定には、必ず人間の最終承認が必要。

合理的か?

たぶん違う。

でも制度というのは、合理性より長生きする。年金制度と同じだ。

こうして、俺の今の仕事が生まれた。

——

俺の会社は、AIに仕事を奪われた人間を再雇用している。

仕事内容は、AIが出した結論に「同意する」ことだ。

巨大な作業場に、何百人もの人間が並んでいる。それぞれの前にモニターがあり、流れてくるのは世界中のAIが導き出した最適解。

都市交通最適化:承認しますか?

教育課程改訂:承認しますか?

出生率調整プラン:承認しますか?

俺は押す。

承認。

また次。

承認。

宗教かと思った。

でも宗教より合理的だ。たぶん御利益もある。少なくとも給料は出る。

たまにAIが優しく言う。

「本日の承認効率が九十七パーセントを下回っています。カフェインを推奨します」

ありがとう。俺より俺のことを分かっている。

世界は快適だ。事故は減り、無駄はなくなり、議論も消えた。考えるのは、もうだいたいAIの仕事だ。

俺たちは責任だけを担当している。

かつて「神童」と呼ばれた人間が、世界最強の知性にうなずくことで給料をもらっている。

皮肉だろうか。

いや、合理的だ。

合理的は便利な言葉だ。だいたいのことが許される。不倫以外は。

——

その日、警告音が鳴った。

作業場の空気が一瞬で凍った。

いや、正確には凍ったのは人間だけだ。AIは平常運転だった。AIはいつも平常運転だ。

「不承認が発生しました」

モニターが赤く染まる。

全員の視線が一点に集まった。

若手だった。入社二年目。まだ「違和感」という単語を信じている顔をしていた。最近の若い子にしては珍しい。たいていは入社三ヶ月で信じるのをやめる。

AIは即座に反応する。

「再検証プロセスへ移行します」

三千ページの設計案が展開された。

都市インフラ再設計案。エネルギー配分。人口動態予測。法的整合性チェック。社会影響シミュレーション。

全部だ。

若手はモニターを見て、数秒固まった。

「……なんとなく、違和感があって」

AIは冷静だった。

「感覚的判断は非効率です。不承認理由を千字以内で論理的に説明してください」

若手の顔から血の気が引いた。

「代替案の提示が必要です」

若手の唇が震えた。

「なお、AI最適解の信頼区間は九十九・七パーセントです」

九十九・七パーセント。

残りの〇・三パーセントに賭ける度胸は、入社二年目にはなかった。俺にもない。たぶん、人類にはもうない。

若手は画面を見つめた。

昼休み。彼は食堂に向かった。

午後、戻ってこなかった。

十五時三十二分。人事部に電話が入った。

退職手続き請負会社モーヤダの担当者からだったらしい。

「本人様の退職意思は確定しております。必要書類は電子署名済みです。退職届は本人に代わり弊社が——」

早い。

彼は判断が早かった。少なくとも、この判断だけは。

不承認の後始末に使うHPを、退職に全振りした格好だ。ある意味、効率的ではある。

十六時、社内システム上の所属が「無所属」に切り替わった。

十六時十五分。三千ページの都市再設計案が、チームリーダーの端末に転送された。

件名:

【緊急】不承認案件 再検証責任者指定

指定先:チームリーダー

前任は画面を見つめたまま言った。

「……俺か」

理屈は簡単だ。最終承認責任者はリーダー。不承認の後始末もリーダー。不承認した本人はもういない。後始末だけが残っている。

前任は英雄ではなかった。ただの中間管理職だ。英雄的だったのは逃げなかったことだけで、それも美学ではなく単に逃げ方を知らなかっただけかもしれない。

「……読むしかないか」

会議室にこもった。

三千ページ。

プリントアウトしたら枕より少し厚いくらいの量だ。内容はAIが三秒で作った都市再設計案。それを人間が「検討した」という証跡を残すために、一画面ずつスクロールする。

八時間。

十二時間。

三十時間。

前任の手は、二日目から震えていた。ページをスクロールする指がときどき止まる。止まるたびに深呼吸する。そして次のページへ進む。画面の光が顔を照らしている。その顔が日に日にやつれていくのを、ガラス越しに何人もが見ていた。

会議は八回。監査部門との質疑が三十六項目。法務との整合確認が十二時間。全部オンライン。全部録画。全部記録。「人間が判断した証拠」を残すための、壮大な書類仕事。

最終的な結論はこうなった。

「重大な瑕疵は認められない」

つまり、承認。

不承認は、存在しなかったことになる。

三千ページを三十時間かけて読んだ結果が「元のままでよかった」である。

壮大な時間の無駄。

いや、無駄ではない。「人間が確認した」という制度上の実績が残る。制度にとっては、大成功だ。人間にとっては、大惨事だが。

前任は、その週の金曜に早退した。翌週から来なくなった。

診断名は「原因不明の体調不良」。

会社は静かに言った。

「人間が最終責任者である以上、必要なプロセスです」

正論だ。正論は人を殺す。

それ以来、不承認は発生していない。

理論上は押せる。

実際には、押さない。

合理的だからだ。

数日後、俺の端末に通知が来た。

「あなたはチームリーダー代理に最適です」

俺は拒否しようとした。

画面に出た。

「拒否理由を千字以内で論理的に説明してください」

俺は承認ボタンを押した。

それが昇進だった。

おめでとうございます、と人事からメッセージが来た。

ありがとうございます、と俺は返した。

嘘は言っていない。感謝はしている。考えなくていい仕事に就けたことに。

机の上に、前任が置いていった資料が積まれている。三千ページ。付箋にはこう書いてあった。

「参考までに」

前任の、最後の冗談だ。笑えない。

俺はモニターに視線を戻す。


承認。

不承認。


押すのは一秒。

読むのは三千ページ。

合理的な選択は、いつだって簡単だ。

「神様仏様神野様」と呼ばれた男は、いま世界最強の知性にうなずくことで、精神の安定を保っている。

考えなくていいということは、こんなにも楽だ。

たぶん。

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