見知らぬ天井
闇が、ゆっくりと水色に薄まっていく。
冷たい床に頬を押しつけていた気がしたのに、次の瞬間には柔らかい何かに頬が沈んでいた。布――いや、少しざらつきのある麻だ。指先でそっとなぞると、糸の節がこつこつと触れてくる。
まぶたの裏に白が滲む。
おそるおそる目を開けると、そこには白くない白――石灰を塗り込めたような、まだらな白の天井が広がっていた。石を組んだ上に塗り固めたのだろう、細いひびが蜘蛛の巣みたいに走っている。角のあたりには、煤のような黒ずみ。蛍光灯のフリッカーも、エアコンの吹き出しもない。
「……どこだ、ここ」
声はかすれて、喉の奥がひりついた。
頭を枕から持ち上げると、木の梁が二本、天井を横切っている。梁からは乾いた木の匂い。鼻孔をくすぐるのは、さらに別の香り――インク、油、そして紙が古びたときの、少し甘いような、埃っぽい匂い。
横を向くと、すぐそばに分厚い机がある。濃い色の木で、天板には無数の引っかき傷。角は丸く磨り減り、誰かが何年も腕を預けてきたことを物語っている。机の上には、紐で束ねられた羊皮紙の帳簿が何冊も積まれ、端には黒いガラスのインク壺、羽根ペンが二本、乾かないように布で軽く覆われていた。
俺は反射的に身を起こそうとして、背中にぞわりと筋肉痛の波を感じた。肩が硬い。首の後ろが重い。けれど、オフィス椅子で固まったのとは違う、見知らぬ硬さだ。
「会議室……じゃないよな」
耳を澄ます。
――コト、コトン……ゴト。
車輪の音。舗装路のザラつきではなく、石畳を踏む固い響き。時折、金属が鳴る。馬具だ。蹄が打つ乾いた打音が、窓の向こうから一定のリズムで近づき、離れていく。
遠くで誰かが何かを呼ばわっている。言葉はわからない、けれど声の抑揚からして、野菜かパンでも売っているのだろう。朝の市場に似た喧騒。
同時に、低い鐘の音が一度、二度、石造りの街並みにゆっくり染み渡る。正確な時刻を刻む電子音とは違う、重く湿った余韻。
窓は厚い木枠で、外側に両開きの鎧戸がついている。隙間から射す光は淡い金色で、舞い上がった埃が粒のまま漂っているのが見えた。埃の粒が光の筋を渡っていく。俺は妙にそれに見入ってしまい、そこでようやく、胸の内側が静かであることに気づく。――バクバクと暴れていた心臓は、今はおとなしく胸の奥に座っている。
「……病院、じゃない」
ベッドのフレームは金属じゃない。点滴もない。消毒液の匂いもしない。
かわりに、麻のシーツ、粗い織りの毛布、分厚い木の脚のベッド。床は板。ところどころに黒い節。靴音を立てたらよく響きそうだ。
俺はゆっくりと足を床に降ろした。カサ、と何かが足裏で鳴る。紙だ。めくれた帳簿の一枚が、床の隅で捲れていた。拾い上げると、羊皮紙の表面は思ったよりしなやかで、墨の黒は少しだけ艶をもっている。書き手の癖の強い数字。見慣れない記号。けれど――不思議なことに、列の並びも、項目の配置も、俺には直感的に理解できた。
「……借方、貸方……いや、でも、この勘定科目……」
口が勝手に動く。
紙の端には、見知らぬ文字で「○○年王暦三の月 王都税倉収支控」とある。読めた。読めてしまった。王暦、収支控。ここは――王都? 税倉? 控? 「控え」の控か。
喉が乾いた。
机の反対側、壁に取り付けられた棚には、小ぶりの陶器の水差しと木のコップ。コップを手に取る前に、一瞬だけ躊躇が胸を掠める。見知らぬ場所、見知らぬ衛生観念。だが、唇はすでに渇きでひび割れ、舌は砂を舐めたみたいにざらざらしている。
慎重に匂いを嗅ぐ。かすかに鉄の匂い――いや、これは水に含まれる鉱物の匂いか。口をつけて、一口、二口。冷たい。驚くほど澄んでいて、喉を滑り落ちるときだけ、ほんの少し硬さがある。体の奥にしみ込んでいく感じがして、肩から力が抜けた。
深呼吸。
吸い込んだ空気は、インクと木と紙の匂いを連れて肺に落ちていく。咳は出ない。胸は静かだ。
――あの夜、俺は確かに床に倒れた。蛍光灯が滲んで、耳鳴りがして、赤いエラーの点滅が遠ざかった。そのあと、闇。
そして今、ここにいる。
「夢、じゃないよな」
頬をつねる。痛い。
痛みは、現実の輪郭をくっきりさせる。
ベッドのフレームに指を滑らせると、彫り込まれた小さな刻印に触れた。王冠の図案と、麦の穂を抱えた天秤。王冠と麦と天秤。――税と、秤。ここが何かの役所、あるいは倉庫の一角であることを、木の彫りが物語っている。
俺は部屋をゆっくり一周した。
壁のフックに掛けられたランタンは、上部に煤がついている。
角の木箱には、「蝋」「封蝋」と刻印された小袋。
細い窓辺には、押し花になった薄紫の花が挟まれていた。季節は春寄りか。外の光はやわらかい。風は冷たいが、刺すほどではない。
――異世界。
その言葉を、思考の机の端にそっと置く。
なぜか、さっき拾い上げた帳簿の書式が、俺の知っている会計と似た骨格をしていたことが、現実味を与えすぎたからだ。
借方、貸方、年月、収支控。
そして、王都。王冠の刻印。天秤。
「……いやいや、落ち着け。ドラマのセットだとしても、ここまでやるか?」
自分にツッコミを入れてみる。
返事は、風が鎧戸の隙間を鳴らす音だけ。
机の上の一冊を、そっと開く。
黒いインクの線は、日付ごとに規則的に並び、行の端には合計値。
ふと、右下の端に、薄い汚れの輪。カップを置いた跡だ。誰かが長い時間をここで過ごし、ここに飲み物を置きながら数字を書き連ねたのだろう。その「誰か」の体温の痕跡が、まだ微かに残っている気がして、胸の鼓動が一拍だけ速くなる。人の生活。ここにあった時間。
ペン先に触れると、乾きかけのインクが指にわずかに移った。
現実だ。今、ここで続いている現実。
「……藤堂真司、二十八歳。経理。社畜。過労死、疑い」
口に出してみる。
声は震えない。奇妙なほど落ち着いている。
自分の履歴を確かめるように言葉を並べたあと、そっと息を吐いた。
窓の外で、子どもが笑う声がした。転がったのは木製の車輪がついた玩具か何かだろうか、コトン、と軽い音。続いて、誰かの叱る声。ああ、この世界にも、朝の慌ただしさや、誰かの小さな失敗や、そんな生活の音がある。
俺は机の端に腰を下ろし、視界を低くした。
木目が目の前を流れる。年輪の濃淡が、川の断面みたいに波打っている。
机に積まれた帳簿を一冊手に取った。
革の表紙はひび割れ、留め具の真鍮は鈍く黒ずんでいる。手に馴染むその感触だけで、長年誰かが扱ってきたものだと分かった。
ページをめくる。
羊皮紙独特のざらつき、墨の匂い。ところどころインクが滲み、紙の端には指の油が黒く染みこんでいる。
――数字だ。
見慣れない記号。曲線的な文字。けれど、不思議なことに頭の中で意味が流れ込んできた。
借方、貸方。日付。金貨、銀貨、銅貨。
見知らぬはずなのに、まるで母国語みたいに理解できる。
「……収支計算書?」
呟いた声は、自分でも驚くほど自然だった。
⸻
机の上の別の帳簿を開く。
今度は「商会取引控」と表紙に刻まれている。
中身は商人ギルドと王都の取引記録らしい。項目も数字も整然としている……はずだった。
だが、ページを追ううちに妙な違和感に突き当たった。
合計欄と実際の数字が、わずかに合わない。
「……誤差?」
いや、誤差にしては不自然だ。
小さすぎる。目立たないように計算されたかのようなズレ。
背筋に冷たいものが走る。
数字は嘘をつかない。だが、人間は嘘をつく。
そんな当たり前の理屈を、この世界の帳簿にまで当てはめてしまっている自分に気づき、苦笑が漏れた。
⸻
窓の外からは馬車の音。
石畳を叩く蹄の響き。
子どもの笑い声と、野菜を売る声。
鐘の音が一度、二度と遠くで鳴り、空気に溶けていく。
……ここは、俺の知っている日本じゃない。
少なくとも、オフィスでも、会議室でも、病院でもない。
「……本当に、異世界ってやつなのか」
自分で言って、自分で首を振った。
そんなはずがあるか。
でも、目の前の現実はどうしようもなく異質で、どう考えても夢や幻覚では片づけられなかった。
⸻
帳簿を閉じ、深く息を吐く。
数字の整列。わずかなズレ。
それらが、何か大きな意味を持っている気がしてならない。
理由は分からない。けれど、胸の奥でざわつく感覚が強くなる。
そのときだった。
ゴォン……ゴォン……ゴォン……
鐘が三度、重く鳴り響いた。
低く長い余韻が石壁を伝って部屋を揺らす。
まるで合図のように、視界の端で光が瞬いた。
⸻
最初は埃が反射したのかと思った。
だが光は、はっきりと形を持ち始める。
薄い、半透明の文字。
ゆっくりと、だが確実に浮かび上がっていく。
俺は息を呑んだ。
――ステータスを確認しますか?
その文字を見た瞬間、心臓が大きく跳ね上がった
「……マジかよ」
声に出した瞬間、文字の光がかすかに震えた。
返事を待っている。まるで入力待ちのカーソルみたいに。
冗談だろ? ゲームの世界じゃあるまいし。
だけど、今の状況そのものが冗談みたいなもんだ。
俺は乾いた唇を舐め、心の中で答えた。
――はい。
光が一気に広がった。
⸻
目の前に、見慣れないけれど直感的に理解できるウィンドウが開いた。
透明な板に、黒い文字が整然と並んでいる。
名前:トウドウ・シンジ
年齢:28
職業:役所見習い
レベル:1
HP:10
MP:5
スキル:
・仕訳(F)
・監査(F)
・財務分析(E)
「…………」
言葉を失った。
⸻
剣術――なし。
魔法――なし。
攻撃系――ゼロ。
あるのは、経理スキルだけ。
「……いやいやいや、待て待て」
思わず声を荒げた。
だが何度見直しても、表示は変わらない。
仕訳。監査。財務分析。
まるで俺がブラック企業でやらされていた仕事そのままじゃないか。
⸻
「戦闘力ゼロってことか……?」
俺は頭を抱えた。
異世界転生ものなら、本来ここで“チート能力”が出るんじゃないのか。
伝説の剣を召喚するとか、規格外の魔法を操れるとか。
なのに俺にあるのは、借方と貸方を整理するスキルだけ。
「魔物と仕訳で殴り合えってか……? ふざけんな」
笑いがこみ上げてきて、机に突っ伏した。
乾いた笑いが、石壁に虚しく反響する。
⸻
でも、心のどこかで思ってしまう。
――数字は嘘をつかない。
この世界の数字にも、何か意味があるのかもしれない。
俺が読めるように帳簿が並んでいたこと。
そして、数字のわずかなズレが胸をざわつかせたこと。
……もしかしたら。
いや、考えるだけ無駄かもしれない。
でも、完全に否定することもできない。
⸻
「……はぁ。結局、どこに行っても俺は経理か」
自嘲気味に呟き、目を閉じた。
数分だけでも眠りたい。
ここがどこであれ、俺の体は限界を超えていた。
薄暗い部屋の静けさの中、最後に視界の端でステータスウィンドウが淡く光り続けていた。