深夜残業
俺の名前は藤堂真司、二十八歳。
一応、会社員だ。職種は経理。
経理と聞けば、世間的には「安定した仕事」とか「コツコツ型で堅実」なんてイメージを持たれるらしい。
親戚に紹介したときも「いい職に就いたな」なんて言われた。
……だが現実は違った。
俺が勤めているのは、従業員三十人ほどの中小企業。
規模の割に扱っている案件は大きく、しかも社長と専務のやり方は杜撰そのもの。
毎月の残業は百時間超え、決算期になると三日連続徹夜も当たり前。
そんな環境で「安定」だの「堅実」だのと笑わせてくれる。
今日もまた、俺は夜のオフィスに取り残されていた。
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机の上には領収書の束。
伝票、請求書、社内の精算書。
雪崩のように積み上がった紙の山の隙間から、パソコンのモニターが赤い警告を点滅させている。
借方と貸方が合わない。
数字がかみ合わない。
経理としては、最悪の光景。
「はぁ……また“交際費”かよ」
ため息をつきながら一枚の伝票を手に取った。
記載されていたのは「旅行代」。金額は十万円。
どう見ても社長の家族旅行だ。
「これで通ると思ってんのか……」
呟きながら仕訳を入力する。
仕方ない。拒否すれば俺が怒鳴られる。
見なかったことにすれば決算が崩れる。
俺には、どちらの選択肢もなかった。
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専務からの領収書も混ざっていた。
高級ブランドのバッグ。用途欄には「接待用プレゼント」と書かれている。
笑わせる。どう見ても愛人への贈り物だ。
「おい真司、これも頼むな」
昼間の専務の笑顔を思い出す。
あの男はいつも軽い口調で経理を丸投げしてくる。
「経理がうまく処理してくれれば問題ない」――それが口癖だ。
俺は何度その言葉を聞いたか。
そのたびに胃が痛くなる。
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蛍光灯の光が、ジジ、と小さく鳴った。
夜中のオフィスは、俺一人だけ。
パソコンの冷却ファンの音と、キーボードを叩く音だけが響く。
「数字は……嘘をつかない」
小さく呟いた。
学生時代からの口癖だ。
人間は嘘をつく。
社長も専務も、自分の都合で数字をねじ曲げる。
でも数字そのものは正直だ。
だから俺は経理をやってこれた。
――ただ、それは美談でもなんでもなく、俺を縛る呪いのようなものだった。
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時計を見れば、午前二時を回っていた。
今日だけじゃない。ここ数カ月、ずっとだ。
缶コーヒーを口に含む。
ぬるくなった苦味が喉を通り、胃に重く沈む。
椅子に背を預けて天井を仰ぐ。
白い蛍光灯の光がやけに眩しく感じた。
「……俺、いつまでこんな生活続けるんだろうな」
独り言が、静まり返ったオフィスに虚しく響いた。
社長室から聞こえてきた怒鳴り声を思い出す。
「おい藤堂! この接待費、経費で落とせるんだろうな!」
あの甲高い声は耳に焼き付いている。
経費で落とせるわけがない。
法律的にも、常識的にも、真っ黒だ。
でも俺は「はい、調整しておきます」と答えるしかなかった。
否定したらどうなるか、三年間で嫌というほど学んだからだ。
社長は、俺が逆らえないことを知っている。
だからこそ、平気で俺に全部押し付けてくる。
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専務はその点、もっと狡猾だ。
表向きは温厚で、誰にでも笑顔。
でも経理に対しては常に「分かってるよな?」と暗に圧をかけてくる。
「真司くん、君にしか頼めないんだ。いやぁ、助かるなぁ」
口では感謝を口にするが、その手には決まって怪しい領収書が握られている。
キャバクラ、宝飾品、家族サービス旅行。
それらを「交際費」「接待費」として押し付けてくるのだ。
「助かるなぁ」の一言が、俺の胸を締め付ける。
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本来、経理は数字の番人だ。
不正を正し、会社の健全な運営を支える重要な役割。
……のはずなのに。
俺のやっていることは、不正の隠蔽と誤魔化しばかり。
それを黙々と処理するだけの毎日。
誰かに相談したこともある。
大学時代の友人に愚痴をこぼしたら、
「そんな会社、すぐ辞めればいいじゃん」
と軽く言われた。
正論だ。
でも、転職活動をする気力なんて残っていなかった。
毎日深夜まで働き、休日は寝るだけで潰れる生活。
履歴書を書く余裕なんて、あるはずがなかった。
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パソコンの画面に、赤字の警告が点滅する。
借方と貸方が一致しない。
「……どこだ、ズレてるのは」
書類の束をめくり、数字を照合する。
何度やっても合わない。
一円のズレが、延々と俺を苦しめる。
「数字は……嘘をつかない」
そう口に出すと、少しだけ落ち着く。
それが唯一の拠り所だった。
人間は平気で嘘をつく。
でも数字は、必ず真実を残す。
それを見抜けるのが経理の仕事だ。
俺がしがみついてきた理由は、ただそれだけだった。
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けれど、体は正直だった。
胸の奥がズキンと痛む。
最初は「徹夜のしすぎかな」と思っていた。
でも最近、その頻度が増えてきている。
手が震えることもある。
視界が滲んで文字が読めなくなることもある。
立ち上がると、足がふらつくことすらある。
「……やべぇな」
自分でも分かっていた。
このまま続けたら危ないって。
それでも、手を止めることはできなかった。
目の前に伝票がある限り、数字を合わせなければならない。
それが俺の“呪い”だった。
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時計は午前三時を回っていた。
外はとっくに暗く、誰もいない。
コンビニで買ったカップ麺の匂いがまだ残っている。
消化不良を起こして胃が重い。
頭を振って、パソコンの画面を見つめる。
数字が二重に見える。
「……俺、ほんとに……このまま死ぬんじゃねぇのか……」
笑い話みたいに呟いた。
でも、冗談のつもりなのに、声は震えていた。
数字を追い続ける俺の指が、だんだん言うことをきかなくなってきた。
電卓を叩く音がずれている。
計算結果が「ERROR」と赤く点滅して、俺の焦りを煽る。
「……くそ、どこだよ……どこで間違ってんだよ……」
パソコンの画面に並ぶ数字が、だんだん滲んでいく。
目頭が熱い。涙じゃない。
疲労と眠気と、体の悲鳴だ。
それでも、伝票をめくる手を止められなかった。
止めたら終わる。
いや、止めなくても終わっているのかもしれない。
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椅子から立ち上がろうとして、足がふらついた。
慌てて机に手をつく。
心臓がバクバクとうるさい。
息が浅い。肺に空気が入っていかない。
「……はぁ、はぁっ……」
額から汗が滴る。
背中は氷のように冷たいのに、顔だけがやけに熱い。
視界の端で、時計の針が午前四時を指していた。
外は、まだ真っ暗。
誰も助けてくれる人はいない。
「俺、ほんとに……死ぬんじゃ……」
笑おうとした声は、かすれて震えていた。
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机の上の帳簿に目を落とす。
数字が、踊っているように見えた。
借方と貸方、ズレていた数字がぐるぐる回って、俺を嘲笑っている。
「数字は……嘘をつかない……」
それが俺の最後の口癖だった。
でも、その数字を追い続けて、俺はここまで来てしまった。
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胸の奥に激しい痛みが走った。
まるで心臓を握り潰されるような圧迫感。
呼吸ができない。
視界が白く染まっていく。
「……っ!」
声にならない声を上げて、俺は椅子から崩れ落ちた。
床に倒れ込んだ瞬間、天井の蛍光灯がにじんで見えた。
耳鳴りが響く。
指先から力が抜けていく。
最後に見えたのは、モニターに映る赤いエラー表示。
その数字が、俺に別れを告げるかのように点滅していた。
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意識が暗闇に沈む。
そして俺は――ブラック企業の経理としての人生に、幕を下ろした。