水に椅さずして
乗合馬車の客はそれぞれ違う趣きの空気を纏っているが、寡黙であるという点に於いて等し並みだった。
私は剣柄を肩に掛けた姿勢で胡坐を掻き、すし詰めに座る一同を上目遣いに見渡した。
粗末なマントを羽織る男が、鍔広の帽子を被ったまま瞑目している。
夫婦と思しき男女の間で、幼い少女が寝息を立てていた。
明るい茶髪を波打たせる商人風の女性が、装飾品を一つひとつルーペで確認していた。
少年ふたり組が、緊張した面持ちで俯きながら、時折景色に視線を送っている。
御者はたまに水筒に口を付ける以外、手綱を握って御者台に座ったまま動かない。
うららかな午後の日差しが頬を灼き、ヒヨドリが空を過っていく。
私の耳が、微かな異音を捉えた。
弾かれたように振り返り、目を凝らす。
遠くに林が分布していた。
そこから鴉の群れが飛び立っていく。
身体を捻った姿勢でジッと動かない私を見て、周囲の客が何事かとこちらを見た。
「来る」
え、と疑問符付きの声を皆が上げた次の瞬間。
木立の外縁に砂煙が爆ぜる。
遅れてやってくる破砕音が、その衝撃の丈を物語る。
こうなると全員、夢から醒めてそちらを向かざるを得ない。
何かがこちらに走ってきていた。
熊のように大きいが、頭部の形は蜥蜴に近い。
赤々と艶めく眼が大小三対連なり、その硬そうな皮膚は白一色に染まっている。
「……なんだあれ」
「猪か……?」
男の子二人組が、荷台の縁に手をおいて囁き合った。
「止めろ」
旅装の男が低い声で告げると、御者は返事をしなかったが、馬車をゆっくり停止させる。
どうにも偶然通りかかった訳ではないようだ。
私達が街道を進むにつれて、針路をこちらに曲げていた。
明らかに、狙いを付けられている。
「前衛私でいいよ」
「悪いが頼めるか。俺は隙を見て急所を突くしか能がない」
降車した私と無精髭の男で打ち合わせしていると、少年達も遅れてやってきた。
「オレ達も戦う!」
「僕も!」
「はいはい、君達にはまだ早いから、お姉さんと一緒にここで見学してようねぇ」
商人の女性がすぐに追いつき、彼らを引っ張って後ろに下げる。
しゃくりあげる声の方を見れば、女の子がお母さんの服に縋りついて泣いていた。
立ち上がり掛けたお父さんを、お母さんは必死に引き留めていて、娘に構っている余裕がないようだ。
私は巾着から銅貨を一枚取り出し、親指で頭上に弾いた。
唐突な金鳴りに、少女が何事かと目を見開く。
私は剣先で銅貨を受け止め、満面に笑みを咲かせた。
「見てて、私の剣舞。きっと楽しいわよ」
柄を沈めて貨幣を弾き、緒を緩めた巾着に投下する。
駆け出した。
葉先が黒い下衣と擦っていく。
草を靡かせたそよ風を追い抜いて、白皙の獣と肉薄した。
鉤爪付きの右前肢が振り被られる。
突進してこないのか。口端を吊り上げる。
弓なりな双眸で奴を上目遣い、奴も私を見下し嗤っているようだった。
右前方に跳ぶ。
右足を弾く。
左へ向けて空で寝返りを打つ。
俯せになったタイミングで切り払い。
後は着地するだけ。
切り飛ばされた鉤爪が宙を舞う。
次いで巨大蜥蜴が尾を振るった。
右から来る。
足から地面にスライディングして、旋回。
身体に触れそうな部位だけを刃で抉り飛ばして前進する。
腹から喉元に掛けて、胴を斬り付けながら跳び回った。
咆哮する奴の顎下を潜り抜けて日の下に出ると当然、白獣の視界に入ることになる。
四肢の膝をたわめ、奴は私に飛び掛かろうとしたのだろう。
そのうなじに、ハット帽を被った男が降り立った。
「ほっ」
気の抜けるような声と共に、彼は長い錐を奴の赤眼に埋め込む。
糸が切れた人形のように、大蜥蜴が突然地に伏した。
私は血を払い、草の斑に目を眇める。
追いついてきた風に、雪色の髪がなぶられた。
*
大人になって分かることのひとつ目。
酒を飲むとつらいことが忘れられるというのは嘘だった。
エールの泡を口蓋に感じながら、ぼんやり旅の途中で熱を出した時のことを思い出す。
あの時介抱してくれたそばかすの青年は、今はここにいないのだ。
「おーいレナ。聞いてんのか?」
「聞いてるわよ。ベレン、あなたはまたいっそう焼けたわね」
「ここより南を巡ってきたからね。いやぁ、暑いところだった」
そう言う割に、金髪の男は得意げに腕枕を組んで背凭れに身を預けた。
「行商と冒険者なら、どっちが旅慣れしてるのかしらね」
「そりゃ商人さ。こちとら荷運びが生業なんでね。移動移動の毎日が稼ぎの元だ」
「へぇ。ベレンさんは商いをはじめて長いんですか?」
ベレンが胡乱な視線を向けた卓の先、緑色の髪を撫で付けた青年が、木杯を両手に包んでニコニコ笑っている。
「ソレパドゥてめぇ、軟派の邪魔すんなら帰れよ」
「自分で軟派って認める人も珍しいですよね。ボクの見たところ、レナさんには心に決めた人がいらっしゃるかと思いますが」
「ばーか。女の子見たら取り敢えず話掛ける。その時楽しけりゃ、後先なんて考えなくていーんだよ」
「私の前で本音を晒すな」
ジト目で一瞥してから振り返り、女給に目線を配った。
青髪の給仕服娘がこちらに気付くと、仏頂面で自らの杯を指し、次いで指を二本立てた。
苦笑しながら彼女が厨房へ歩いていくのを確認して、私は卓に向き直る。
ソレパドゥが身を乗り出して私の木杯を覗いた。
「それ、なんですか?」
「寄らない。葡萄酒よ」
頬杖を突いて身を反らしつつ、フォークでハムを刺して口に運ぶ。
「土産話するなら北の内情を教えて欲しいわね。どうせ今でも戦争ばっかりだろうけど」
「僕はからっきしさ。向こうに届く物資は、沿岸の街へ船で運ばれてるもので、僕の陸路専門だから」
「ボクもしばらく帰ってないな。そういえば、どうしてレナは南下したの?君の腕ならあっちでも十分通用したろうに」
追加の葡萄酒が運ばれてきたので、それをふたりの前に押しやった。
「まあ飲め。話せば長いんだ」
男ふたりは顔を見合わせ、にこりと笑って杯の柄を取る。
「「奢りだよね」」
「……」
自分の分だけ銅貨をおいて席を立つ。
騒ぐベレンと宥めるソレパドゥの声が、酔漢達の笑いに混じって聞こえた。
*
潮騒に耳を澄ませて、砂浜を裸足で歩く。
残る足跡が故郷を思わせて、私は皮肉に笑った。
「お前もそういう顔する年になったんだな」
青年がしみじみそう言って、白髪にポンと手を乗せる。
「その後どう?こっちにはもう慣れた?」
「どうだろうな。剣の腕はもうすっかり鈍っちまってるだろうが……」
彼は己が掌を見つめて、ぼんやりと呟いた。
そっと身を寄せて、頬に口付けする。
小麦色の髪を風になびかせ、青年は黙りこくってしまった。
「……レナ」
「どうしたの?……っ」
からかうような声音で振り返った途端、唇を奪われる。
頬がさっと紅潮して、目を見開きながらすごく近い彼を見た。
「行くよ」
立ち止まった私をおいて、青年は歩みを進めていく。
「待ってよ、ナルタ」
小走りに追いつくと、彼はくすくす笑った。
さざ波が素足を浸す。
海猫が鳴きながら飛び回る。
白石を積んで建てられた家が、沿岸に並んでいた。
「女子供を疎開させたのは英断だった。フェンジーは読んでいたんだろう。北がああなっちまうことを」
フラフラと、どこまでも歩いていきそうな足取りで、俯いている彼の手首を掴む。
「ねぇ、教えて。何があったのか」
ナルタは振り向いた。
寂しそうな微笑みを湛えていた。
「平定だ」
「え?」
「ひとつの傭兵団が、他全てを壊滅させたんだ」
「……灰鷹は?」
青年は一度立ち止まり、それからゆっくり街の方へと引き返す。
「最果ては、もう立て直しできないところまで来ていた。できる事と言えば南の諸王に頭を垂れ、忠誠を誓う見返りとして、食料をはじめとした物資を授与されること。もしくは略奪しかなかった」
「フェンジーは、そんなこと」
「しないだろうさ。剰えあの男は、南へ攻め込もうとする軍を優先して叩くようになった」
年中雪に閉ざされた土地。
いつそうなってもおかしくはなかったのだと思う。
でもよりにもよって、どうして私達の世代がって、つい考えてしまう。
「お前と母ちゃん達がいなくなってから、北は二つの派閥に分かれた。大多数は穏健派。足を洗って南に移り住もうって連中で、こいつらには灰鷹も手を出さなかった。だが少数の過激派は、武力行使の兆しを見せて、俺達と戦争になった」
大小二組のブーツまで来て、お互いに靴を履く。紐を結んでる間、ふたりは無言だった。
雲は少なくて、日差しが眩しい。
「男ばかりの輜重隊は瓦解寸前で、長期戦は望むべくもなかった。フェンジーは拠点を放棄してキャラバンを組み、南下しながら他の傭兵団と馬で連絡を取り合い、交渉が決裂すれば戦士団を使って夜襲を掛けた。苦戦した印象はない。どこも状況は似たようなもんだったから」
街に入ると、日に焼けた石畳が目に付いた。
路上に水まきする婦人や、友人と談笑しながら歩く男達を、見るともなく眺める。
「みんな生きてるよね」
「灰鷹は解散して、バラバラになっちまったから、もう確かめようがない。まあ、フェンジー団長もクオルンのおっさんも、最後に会った時は意気軒昂だったぜ」
ナルタの口調が昔の彼を思わせ、私は微かに声を上げて笑った。