ファースト
立ち並ぶ黒煉瓦の家々は、どれも屋根に雪帽子を被っている。
軒先のランタンを頼りに、青い曇天の下を歩いた。
階段を下りて踊り場に着くと、交差する路地に黒い猫がいた。
しゃがみ込んで、チッチッと舌を鳴らしながら手招きする。
猫はこちらをジッと見つめ、そそくさと向こうの角に去ってしまった。
立ち上がって、白い息を空に溶かす。
また階段を下った。
一番下まで来て、固まった雪をブーツで踏み鳴らしていくと、喧噪が耳に届くようになる。
やがて、橙の光が漏れる建物の間を潜り抜けた。
灯り塔が林立する通りに、天幕を掛けた露店が軒を連ねている。
傾斜のある机に乗せられた木箱には、新鮮な野菜や色とりどりの果実、氷漬けされた魚や肉が詰まっていた。
コートのポケットに手を入れたまま、道の真ん中に立ち尽くす私の左右を、大人達が行き交っていく。
皆笑顔かと言えば、そんなこともないけれど、せいぜいが無表情で、哀し気な雰囲気の者は見掛けなかった。
「レナちゃん?」
背後から聞こえた鈴の鳴るような声に、私は振り返ることなく応える。
「メフィ。こんばんわ」
「うん。ひとり?」
「そう。散歩」
「ふぅん。……ねぇ、よかったら一緒に来てくれない?お父さんにプレゼントしようと思うんだけど、中々決まらなくって」
「フェンジーに?」
頭を後ろに倒して見れば、黒髪の娘が困ったように微笑んでいた。
「もうすぐ聖夜祭だし」
「ナルタにはあげないの?」
「ナルタ君?どうして?」
きょとんとしたメフィにゆるゆると首を振り、その手を引いて歩き出す。
「レナちゃん、当てがあるの?」
「西に売ってるのはみんな食べ物。南通りなら可愛いマフラーとかあるから」
「そうよね、でもあの、お父さんは付けないと思う……」
自信なさげに眉を落とすメフィに並んで、その背に触れた。
「フェンジーはたまに隠れてあなたを見に行ってる。きっと大丈夫」
「……うん」
震える声。
それを聞いて眉が下がったのはたぶん、羨ましかったんだと思う。
*
黒い鎧の兵士達が、まるでひとつの生き物であるかのように、陣形を流動させながら突撃してくる。
一人ひとりは然して大柄でもないのだけれど、幅広の重剣を振るう膂力は熊もかくやで、私達は厳しい防戦を強いられることになった。
「クソッ、埒が明かねぇ!」
「二番隊が突破されたぞ!守備隊は援護急げ!」
「住民の避難はまだ終わらないのか……!」
灰鷹のコートを纏った男達は、それでもフェンジーを中心に持前の技巧を発揮して、よく持ち堪えている。
数的不利は一対四。
本来なら瞬く間に壊滅してもおかしくない状況だが、城壁を背にした防護陣と、砦中からの弓矢によって戦線は薄皮一枚維持されていた。
「てぇッ!」
赤髭のクオルンが威勢良く叫ぶと共に、壁の小さな穴から鏃が一斉に放たれる。
バリスタの威力は時に、鉄鋼をも貫くという。
夜叉の如き敵兵達も防具を穿たれ、崩れ落ちる者が多数あった。
それでも、後続の戦士達は臆する素振りさえなく、仲間の屍を踏み越えて城門を目指し続けている。
「……まるで憑かれたような勇猛さだな。これが」
顔に傷を走らせた男が、向かい来る黒兵の首を刎ねながらひとりごちた。
「央牙」
彼らには奇妙な点がもうひとつある。
全く鬨の声を上げないのだ。
戦場には剣戟に混じって怒声が絶えず響いているが、それらはどれも同志達のものである。
私は振り下ろされた斬撃を横に躱しながら駒回りして得物を薙ぎ、厚い剣を叩き折ってから甲冑の隙間に刃を刺し入れた。
「ったく、どうやったらそんな鉄の塊切れんだよっ」
額から血を伝わせるナルタが、後ろでへたり込んだまま悔しそうに叫ぶ。
「コツは重心を捉えることだよ。どんなに硬い物でも自重を支えてる所は脆いから」
「分かるかそんなもん!」
投げ出すように仰向けに寝転んだ彼に微笑み、柄を逆手に持ち替えて後ろに迫っていた黒兵の面貌にある目穴を、腋下から押し込んだ切っ先で貫いた。
唐突に、街の方から大鐘が鳴る。
「撤退の合図だ」
「ズラかるぞ、皆急げ!」
「怪我してる奴には手を貸せっ!」
仲間が戦闘を切り上げ、我先に左右の雪原へと走り出した。
そうして薄くなった陣形を食い破り、央牙の兵達が城門を突破して市街地になだれ込む。
だが、そこはもうもぬけの殻だ。
支配すべき領民も、征服すべき貴族も、とうの昔に地平線の彼方である。
それでも彼らは進み続けた。
雪に残る足跡を軍靴で洗い流すように、黒き兵隊は街中を埋め尽くながら駆け続ける。
*
槌を打つ音が夕焼けに木霊している。
橙に染まった嶺を仰ぎ、背凭れに身を預けると、安楽椅子が前後に振れた。
後ろでドアが開き、小麦色の髪を結んだ女が歩いてくる。
「おや、今日はのんびりさんだね。お昼寝かい?」
「山を見てたの」
私の視線を追って、ヘルメダも空を仰いだ。
一羽の鳶がぐるぐると巡っている。
「今のところ雪崩もないし、まあ大丈夫さ」
頭を撫でる乾いた手に、ふと懐かしさのようなものを感じた。
「もう一月もここにいるんだね」
「そうよ。一時はどうなることかと思ったけれど、うん、中々住み良いところじゃない」
彼女は自分に言い聞かせるみたいに頷く。
「ナルタがどこにいるか知らない?」
「レナちゃんはほんと、うちの子が好きだね」
彼女は半ば呆れたように私を見下ろす。
むくれて寝返りを打つと、ヘルメダは笑って冗談よと口にした。
「そういえばあの子、フラれたみたいよ」
「え」
バッと身を起こして振り向けば、彼女はテラスの木柵に両腕を預けて街を眺めている。
軒を連ねる丸太を組んだだけのコテージが、暁の緋色に染められていた。
「詳しいことは知らないわ。ナルタの奴、一昨日の朝に粧し込んで出て行ったと思ったら、夜になって意気消沈しながら帰ってきたのよ。それでどこ行ってたのって訊いたら、メフィのところだって」
私は背凭れにこめかみを乗せ、青い瞳を床に落とした。
彼は言ったのだろうか。
見てもない癖に、その景色がありありと脳裏に映し出される。
曇り空の下、作りかけの街を歩くふたりの姿。
店の中から吹雪を眺めつつ、ボルシチを匙で掬い取る。
夜もとっぷりと更けた頃、帰りしなにナルタはメフィの細い手首を掴んで、顔を赤くしながら必死に叫ぶのだ。
メフィが困ったように眉を下げ、答える。
ナルタは俯き、やがて彼女に背を向け、その場を走り去った。
「レナちゃん?」
「……うん?」
「疲れてるなら上がっていきな。ついでに夕餉も食べてくといい。ナルタの奴は、どっか行ってていないんだけど」
正直言えば、断りたかった。
でも、今日はフェンジーが元の街を見に行っているし、メフィも機織り仕事で家にいないから、どこかで済ませないといけない。
ヘルメダが開け放しにした扉を眺め、息を付く。
早く私も、大人になれたらいいのに。
*
息を引き攣らせながら、顔を歪めて走り続ける。
要領を得ない言葉を叫びながら剣を振り下ろす男の腕を、首諸共に掻っ捌いて私は進む。
ひとり、ふたり、さんにん、よにん。
強引に斬り込みながら駆け続けるごとに、灰色の外套と白皙の頬が返り血に染まった。
やがて敵の列を抜けると、歯を食いしばって鍔迫り合う黒髪の男を視界に捉えた。
「フェンジー!」
湾刀を押し込もうとする蛮族衣装の毛むくじゃら男に肉薄し、横旋しながらわき腹を裂いて反対に躍り出る。
突然のことに姿勢を崩した敵手を、フェンジーが肩から袈裟懸けに切り倒した。
「レナ、持ち場を離れるなと言っただろう!」
同様の服を纏った敵勢を油断なく見据えながら、彼はいつになく余裕のない声で怒鳴る。
私ははらはらと涙を零しながら何度も首を振った。
「助けっ、クオルンがっ……!」
それを聞いた貌疵の男は一瞬硬直し、それから弾かれたように私が来た方へ走り出す。
すぐ傍では今もなお、男達が剣戟を交わし続けていた。
今日はいつになく皆の動きが鈍い。
拠点としていた街を追われ、心身共に万全とは言い難いようだ。
敵もかなり手強い。
赤毛の男はすぐに見つかった。
乱戦の只中にあっても、あの大柄な体格は隠しようもない。
尤も、今は膝立ちだった。
袖が赤く染まった片腕を押さえ、脂汗を流している。
同胞達が周囲に展開し、彼を含めた負傷者を庇っているが、多勢に無勢だ。
「クオルンッ!」
フェンジーが叫び、赤髭の男は振り返った。
やけに達観した顔で、口を動かす。
敵のひとりが、蛮刀を振りかざしていた。
*
踏み続けた影が薄れ、軒灯りに溶けても足を止めない。
並んで歩くなんて久しぶりだったけれど、ふたりはずっと黙っている。
酒場の前には石の小階段があって、私はようやく腰を下ろした。
「まあ、なんだ。あんま気を落とすなよ」
手摺りの所で青年は小麦色の髪を掻く。
ブーツのつま先を小突き合わせ、ぼんやりと聞き流した。
「結局クオルンさんは無事なんだから、それでいいだろ」
「……怪我させた」
「掠り傷だって本人笑ってたろ」
「ううん」
かぶりを振ると、白い髪が左右に揺れた。
「フェンジーが近くにいたから、皆助かったの。私だけだったら、たぶん」
「レナ」
彼はぽすんと私の頭に手を乗せる。
「止めよう、もしもの話なんて。今上手くいってることを、まずは喜べ」
ぶっきらぼうな言い草とは裏腹に、慎重そうに髪を撫でられた。
「ナルタが言うなら、そうする」
「おぉ、そうしろ」
「ところで、メフィにフラれたってほんと?」
盛大に噎せるナルタを、横目に見上げ続ける。
「ゲホッゴホッ……誰に訊いたか知らないが、誤解も甚だしい」
「違うの?」
「違う。俺はあの日、確かに告白しようとした。でも未遂だった。メフィはもうすぐ、南に移るそうだから」
ぱちくりと瞬きした。
足抜け。
珍しいことではない。
危険な傭兵稼業を支え、炊事や繕い物を任される女衆の中にはしばしば、平和な南の国での生活を望む者が現れる。
灰鷹はキャラバンを組んで都市間を移動し、その度街娘達に輜重隊への参加を呼び掛けてきた。
傭兵と結ばれ、子を成して留まる者もいるが、大半は安全に南へ送り届けることを条件に、契約期間中だけ家政を手伝っている人達だ。
メフィは傭兵団生まれだが、布工場で他の娘達と働いているから、志を同じくしてもおかしくない。
「服の仕立て職人になるんだと。俺、情けないよ。付いていくって言えなかったんだ。戦う男達の背に憧れて、俺もやっと戦場に出させてもらえるようになった矢先だったしさ」
扉の隙間から、酔漢達のひと際大きな笑い声が聞こえてくる。
次いで、笛や弦楽器の音色が響きはじめた。
どうやら宴もたけなわのようだ。
「じゃあ、ナルタとはこれからも一緒なんだ」
「あぁ、お前が抜けない限りはな」
「ナルタ」
「……なんだよ、レ」
つい、気が昂ってしまったのだ。
彼の唇は乾いていたけれど、私の吐息ですぐ柔らかくなった。
好きな人の見開かれた瞳が間近にある。
なんて鮮やかな鳶色の虹彩だろう。
口付けていたのは、たっぷり三十秒くらい。
だから離れた時、お互いに頬を上気させながら息を切らしていた。
「おま……なに、を……」
腰が抜けたようで、ナルタはその場にへたり込む。
そのまま自分が姿勢を崩したことにも気付かない様子で、私を見つめ続けていた。
肩を上下させながら見つめ返す。
口を開いては閉じ、何か言おうとしたが、何を言えばいいのか分からなかった。
「……レナ?まさかとは思うがっ」
とにかく、口を塞いだ。
今度は唇を軽く開いたままで、互いの舌先が触れ合う。
顔を離してすぐ踵を返し、駆け出した。
追う声がなかったことに安堵したやら、切ないやらでもう。