アイル天国
吐いた息が白む。
「レナ。行くぞ」
貌に傷を持つ短髪の男がぶっきらぼうに言い捨て、雪に脚を埋めていく。
「うん」
鼻を赤くしながら頷き、青い瞳を瞬かせた。
頤の高さで切ってある白い髪が、冷たい風に煽られて頬に張り付く。
呻きながら瞼をきつく瞑っていると、やがて凪いだ空気に薄っすら目を開ける。
連なる雪山の中を、羊牛と荷車と男達が、淡々と歩いていた。
*
椅子に腰掛けながら、両足を振った。
舌に広がるしょっぱさと、鼻腔を抜ける香ばしさ。
身体が胃の腑からじんと温められ、ほぅっと熱い息を吐く。
それから人参を匙で掬い、ゆっくりと口に含んだ。
「旨そうに食うよなお前は」
そばかすの浮いた青年が、小麦色の癖毛を揺らして対面に座る。
彼が卓においた器も湯気を立てており、同じものをよそってきたのが分かった。
「美味しいよね。うちのポトフ」
青年はパンを浸して丸々半分千切り、スープと共に喉へ流し込む。
「ぷはっ、まあな。っつーかそれより聞いたか?また央牙の連中、都市をひとつ落としたって噂だぜ」
「もう、物騒な話はやめてよ。ご飯中に……」
「へへっ、わりぃ」
「ナルタこそ、初陣おめでとう」
「おう、あんがと」
照れくさそうに鼻の下を擦る彼に、私はちょっと意地悪な笑みを浮かべた。
「これで大っぴらにメフィに求婚できるね」
「ばっ、あいつはそんなんじゃねぇよっ!」
顔を真っ赤にして机に乗り出すナルタから、ポトフを庇って懐に抱く。
「あぁ~、やだやだ。これだからませたガキは……」
ぶつくさ言いながら席を外し、蟹股でドシドシ歩いていく青年を目で追いながら、ウィンナーをぱりっと食べる。
頭にぽすんと大きくて無骨な手が乗せられた。
「ほどほどにしておけ」
むっとして上を睨むと、額から鼻梁、頬までに掛けて古傷を走らせた大男が、燭台に照らされながら苦笑する。
「別にいいでしょ。ちょっとからかっただけだもん」
「じゃなくてだな、あー……」
短い黒髪を掻いて言葉を探していた男は、やがてため息と共に白髪を撫でた。
俯いて鼻を啜り、ナルタの残したパンに腕を伸ばす。
ポトフに浸して口に含むと、波紋を打つスープに私の顔が映っていた。
*
冷たくない風は、決まって夜に吹いた。
頬を撫でると、下ろした掌が真っ赤に濡れている。
疎らに枯れ草が燃えているおかげで、辺りは仄かに灯るい。
破片を零す甲冑姿の益荒男達が、死屍累々と雪床に転がっていた。
「レナ、もう剣はしまっていいぞ。斥候が帰還した。伏兵はない」
松明を掲げ、遠くから声を掛けてきた貌疵の男に振り返る。
「うん。でも……」
少し手首を揺すり、火を受けた刃が黄金に閃いた。
「好きにしろ」
蹄を駆る音が聞こえてくる。
地平線に橙色の星が点ったかと思えば、やがて騎馬の隊列が輪郭を帯びていく。
先頭が速度を落とし、後続もそれに従った。
馬を遊ばせて降り立った赤毛の髭男が、傷の彼に口角を上げて歩み寄る。
「フェンジー!」
新顔が腕を振り被ると、馴染みの彼もそれに倣った。
両者の手が打ち合わされ、がっちりと指が組み合う。
「クオルン。状況は」
「あぁ、どうも芳しくないな。こっちも全員仕留めたが、夜襲にしては数が少な過ぎるようだ」
軽く伸ばした顎髭を摘まみ、赤毛のクオルンは思案するように瞳を上向けた。
「本隊の警備はどうなってる」
「案ずるな、リガートの奴に任せておいた。あいつは寡黙だが守りの堅さは折り紙付きだ。鐘の民に落とされるとは思えんよ」
聞き流しつつ、騎乗する仲間に手を挙げた。
「レナ、どう見る?」
クオルンが乗ってきた馬の鬣を撫でながら、白い息を吹き払す。
「今日のひと達、やるの辛かった」
ふたりは顔を見合わせ、赤毛が昏天を仰いだ。
フェンジーが襟にふさふさの付いた外套を翻し、同志達も後に続く。
「お嬢、乗ってけよ。今日も冷えるぞ」
「うん」
やがて雪原に、馬蹄の駆る音が連なった。
火の粉舞う戦跡が、次第に遠のいていく。
腕を回して抱き付いた大きな背中越しに、深いため息が聞こえてきた。
「口減らしに若い衆を焚き付けて、負け戦に放り込む。ひどい話だが、最近では珍しくもない。北はこれからしばらく、長い冬の時期に入るのかもしれん」
毛皮の厚い服に鼻面を埋める。
黒々と広がる雪原の中、星々の碧さだけが冴え渡っていた。
*
焚火に吊るされた肉から脂が滴る。
フェンジーは十分に焼けたと見るや、器にナイフで削ぎ落し、囲っている一人ひとりに配っていった。
「「「清き御魂、天へ還らん」」」
「きよきみたま、あまへかえらん」
額に当てていた手を離し、串で刺した炙り豚に齧り付く。
残さず平らげると、皿を足下において丸木椅子を立った。
雪を踏んで走り、七輪の周りでお喋りしてるふたりの女を前にする。
「お水ください」
「わぁっ、レナちゃんその顔!」
首を傾げると、小麦色の髪をした婦人がハンカチを持って屈み、私の頬をぐしぐし拭った。
「うぅ、いたい」
「……全く、男共はこんな小さな子に何やらせてんだい」
赤黒く染みの広がった布地を丸めて前掛けのポケットにしまい、元いたところへ戻る。
「レナちゃん、今日もすごい活躍だったみたいね」
肩まで伸ばした黒髪の娘が声を掛けつつ、雪解け水を沸かした薬缶から卓に乗せた杯にお湯を注いだ。
「メフィ、そのままじゃ熱いわ。ちょっと待って、氷持ってくるから」
「そこらへんの雪入れるからいいよ」
「ダメ!ヘルメダさん早く、レナちゃんが物欲しそうに地面を見てるっ」
やがてヘルメダに手渡されたカップを受け取り、ゆっくりひと口ずつ飲んでいると、キャンプの方が俄かに騒がしくなる。
「あ~、疲れたつかれた」
肩を回しながら、ナルタが如何にも大儀そうな顔で歩いてきた。
「お、早速傭兵風吹かせてるじゃないか」
「やかましいっ、なんで母ちゃんがここにいんだよ」
やんやと言い合いはじめたふたりを脇目に、私は卓へと木杯を戻す。
「ごちそうさま」
「はーい。またいつでもおいでね」
明るく微笑むメフィに頷き、そそくさとフェンジーの下まで駆けた。
止せばいいのについ振り向くと、鼻の下を伸ばしたナルタがおどけて、メフィが口元に手をやってクスクス笑っている。
胸がきゅっと狭くなり、前に直った。
切らした息が、耳に響いていく。
*
晴れ渡る空の下、眩しいばかりで暖かくもない白陽が燦々と輝いている。
鬨の声を上げて走る両軍は、間もなくぶつかり合おうという距離まで迫っていた。
灰色に迷彩した外套を揃って羽織るのは私達。朱い尾を立てた金ぴかの兜に被って出陣している方が敵。
「黄盟の戦いは長槍が主体だ!構える隙も与えず懐に切り込め!」
「「「おおおおおぉぉぉ!」」」
皆が雄叫びながら抜刀する。
私も剣を抜いた。
衣装の細かい黒の鍔が指に馴染む。
次第に馬蹄は大きく、地を揺るがさんばかりとなった。
「音に聞こえし灰鷹を今こそ討ち取り、最果ての地に黄盟最強の武名を轟かせるのだ!」
ちょび髭の敵将が檄を飛ばす。
直後、互いは交錯した。
騎馬の隊列が左右を猛速で駆け抜けていく。
敵兵は大柄な益荒男に集中し、小柄な私は馬上から見えづらいのか、狙ってくる者はしばし現れなかった。
それならそれで、先程号令を下していた大将らしき人物を狙うだけだ。
そう思って蹄の蹴り足を掻い潜り、じわじわと距離を詰めていく。
「チッ、子供だてらに油断ならねぇ」
そんな胴間声が聞こえて、気付くと正面にひとりの大漢が仁王立ちしていた。
石突を地に着いた薙刀が、刃先を青く眩かせる。
モフモフの黒髭を伸ばし、鋭い三白眼がこちらを真っ直ぐ睨んだ。
革当てが幾重にも体の各部に巻き付けてあり、厚みを増している。
金の兜から垂れる朱尾もひと際太い。
駆け足を収め、剣先で雪に窪みを引きながら、静かに歩いた。
漢が長い柄を背後に振り被る。
彼の視界から掻き消え、私のいた所で雪が爆散した。
鳶色の瞳を瞠った漢、その目の前に現れた少女が、回した体から右脚を袈裟懸けに振り抜く。
「ぐあぁっ!?」
首筋を折られ、大漢は呻きながら態勢を崩した。
その時点で、非力な娘の体は回転の勢いを完全に失っていて。柄を取る。
反対回り。
「せっ」
──切り払い。
赤く濡れた剣身が雫を撥ねる。
着地してから数歩踏鞴を踏んだ。
後ろで漢が轟然と俯せに倒れる。
「ボンザ!」
「魁将のボンザが負けた……?」
「誰にやられた!?」
「おい、あのガキもしかして……!」
辺りで仲間と競り合っていた騎兵達が、私に視線を向けた。
「囲めいっ!」
ちょび髭将軍が叫び、たちまち騎馬が集まり、周りをぐるぐると走りはじめる。
「小娘とて油断するでないぞっ。不意打ちとはいえボンザを斬るほどの手練れ。恐らくは灰鷹主力のひとり、討ち取って名を上げよ!」
上官がそうは言うものの、敵兵の顔に浮かぶ表情は、困惑や忌避感という感じだ。
年端もいかない少女を手に掛けることに、抵抗を覚えない男は少ないだろう。
その点、ボンザは抜け目なかった。
それに比べ、これらの手合いを仕留めるのは、実に容易い。
剣を払い、雪を血に染まつ。
そして鞘に納めた。
訝し気にしながらも包囲の輪を狭めていく騎兵達に対し、私はそっと目を瞑り、両手を左右に広げて見せる。
どうぞ、お好きに。
彼らの顔がそれぞれ歪む。
ある者は苦渋に、ある者は憤怒に。
だが、金兜の男達はとうとう槍を構えようかというところで、その表情を驚愕に変えた。
背やわき腹、脚や馬体を、我らが同志の剣に貫かれて。
「なっ……」
小柄な体は、そんな隊列の隙間をすいすいと潜り抜ける。
言葉を失い、未だ馬上で動きを止めていたちょび髭将軍の下へ、密やかに走り寄り。
その首に、銀閃を振るった。