看板女優のお誘い
その夜、私は怖々とパンデピスをオーブンに入れた。
夜カフェがはじまる直前に焼く。普段だったら早朝に焼いたものを夜まで乾かないようにケースに入れておいて出すんだけれど、今日は匂いでお客さんを釣る目的があったから、日が落ちかけた頃に焼きはじめたのだ。
今日はちょうど舞台でもバレエでも面白い演目をする日だから、帰宅時のお客さんたちが匂いを嗅ぐ頃合いだ。
案の定、スパイスを練り込んだ生地の匂いに反応して、お客さんたちが立ち止まりはじめた。
「あら、この店……」
「たしか夜はカフェしてるんでしたっけ。お酒を出さない」
「あら、素敵」
案の定、うちの店に立ち止まりはじめた。よし。
私は厨房から顔を出して「いらっしゃいませ」と笑顔で挨拶すると、観客たちもペコリと頭を下げてきた。よしよし。
このまま店に入ってぇ……と思ったのも束の間、「でも……」と観客のひとりが耳を寄せてくる。
「たしかこの店……魔女が来るんでしょう?」
「まあ……」
「あらぁ……」
だから、なんで、そこまで嫌われるの……!
頭を掻きむしって抗議したい衝動に駆られたものの、そんなことはさておいて観客たちは立ち去ってしまった。あぁん、本当にもう!
「残念だったな」
「店長~、すみません。七日に一度の店だからと言って、これ以上客足ゼロを続ける訳には……」
「まだ二回だ。そこまで落ち込むんじゃねえ。客がひと月全く来ないときだって中にはあるし、流行り病のせいで街そのものに人がいなくなることだってある。客商売っつうのはそういうもんだ。自分のせいじゃねえことまでいちいち気にしてても仕方ねえだろ」
「そうかもしれませんけどぉ……」
私が口の中でごにょごにょとさせている中。
「ご機嫌よう……ちょっと……カロリーくださる……?」
スカーフで顔を隠し、帽子を被った女性がヘロヘロの様子でやってきた……あらま。ソフィさんだ。
「こんばんは……あの、大丈夫ですか? カフェテリア時間に焼いたキッシュならすぐ出せますけど」
「それお願いできるかしら……? あら、先程からとってもいい匂いがするのね」
「ああ……パンデピスを焼いてたんです」
「あらぁ……いいわね。魔女のパンデピス」
ソフィさんは今日も舞台で力一杯演技をしてきたのだろう。私は慌ててキッシュをオーブンで温めると、それと一緒にミネストローネをカップに入れて差し出した。彼女はそれはそれはすごい勢いで食べはじめた。
それにしても。私は思わず尋ねた。
「ソフィさんはご存じなんですか? パンデピスを」
「わたしも王都で劇団に入るまでは、旅芸人一座で舞台に立ったり、貴族のお抱えダンサーになったり、王城で一度歌の講師をしたり、いろいろしていましたから。魔女にもたくさんお会いしましたのよ」
「なるほど……」
ソフィさんも一流の女優にのし上がる前に、たくさんの苦労を積み重ねてきたって訳だ。
それにしてもすごい遍歴だなあ。ソフィさんもやっと取り繕うことができるようになったのか、カップに注いだミネストローネは優雅に飲むと、「そこで」と教えてくれた。
「魔女は薬にも精通していますから、そこでたくさん体に優しいスパイスケーキを焼いてくれたの。それを踊りの合間に食べてましたから。パンデピスもその中で食べた内のひとつ。あなたも魔女から教わったのかしら?」
「え……はい! あの、ソフィさん……私……ここに来るまで、魔女に対する偏見とか差別とかを知らなくって……」
「あら。あなたの国には魔女はいなかったの?」
「いませんでしたね。そもそも魔法も存在しない国でしたし」
「あらあら……そういえば前にもそんなこと言っていたわね。で、魔女に対する偏見を払拭したくって、なんとかしようと思って教わったの?」
「……教えてくれた人、とてもいい人でしたから。彼女の料理のおいしさ、認めてほしくって」
「まあまあ……」
そう言うと、ソフィさんはにんまりと笑った。
「ここ、ちょうど窓辺の席ね?」
「え? はい、そうですね……?」
「ここで食べてあげるから、そのパンデピス完成したらわたしにちょうだいな?」
「え……? そりゃ、願ってもないですけど……」
そりゃソフィさんの言葉ひとつで、夜カフェにお客さんが定着しかかっていたんだから、彼女がおいしそうに魔女のお菓子を食べていたら、他の人だって食べたくなるかもしれないけど。
でも諸刃の剣だ。
「で、でも……明日もソフィさん公演ですよね? 大丈夫なんですか? 公演に影響は……」
「あらあら、わたし、偏見って嫌いなの。色眼鏡でわたしがずっと舞台に立ってられると思って? してもいないことをしたと自分も知らない人が噂していたとして、それを鵜呑みにしないといけない理由ってあるのかしら? ウフフフフ……ばっかみたい!」
ソフィさんは快活に笑う。
思えば。彼女の遍歴を聞いている限り、ただ美人なだけで看板女優になった人ではない。相当に苦労と実績を重ねてだし、魔女と普通にお話していたのだから、いろいろと思うところがあるのだろう。
私は「わかりました。少々お待ちください」と頭を下げて、厨房へと戻っていった。
焼き上がったパンデピスを型が冷めるまで置いておき、その間にアイシングとレモンバームの砂糖漬けを用意する。
店長はそれをまじまじと見ていた。
「まさかソフィ・コルネイユが乗り気になってくれるとはなあ。あの人、宣伝とかに使われるの相当嫌うんだがな」
「怪我の功名と言いますか、単純に舞台で腹減らしたソフィさんが来てくれたというか」
「まあ……明日も舞台に立つ以上は酒を入れられないから甘いもの食べに来たんだろうからな。まあ彼女の舌を満足させてやれ」
「はいっ!」
レシピは全部ヴァネッサさんに聞いた通り。冷めたパンデピスを型から取り出してケーキクーラーに載せると、一気にアイシングをかけ、その上にレモンバームの砂糖漬けを飾った。
ひと切れ切り分けると、ツヤツヤのラム酒に漬けたドライフルーツが顔を覗かせる。見た目も華やかになり、なんとなくおいしそう。
「……よしっ」
店長が淹れてくれたコーヒーとセットで、私はパンデピスを持っていった。
「お待たせしました。パンデピスとコーヒーになります」
「あら、本当に懐かしい。あら? ハーブの砂糖漬け?」
「レモンバームになります。ご一緒にどうぞ」
「では、遠慮無く……んー……」
ソフィさんはひと口分フォークで突き刺すと、それを口に入れた。彼女はわざわざ帽子を椅子にかけ、スカーフも降ろした。
途端に店の前を通り過ぎる観劇帰りの人々はザワリ……とした。
「あれ……ソフィ・コルネイユ?」
「さっき舞台終わったばかりじゃ?」
「お腹減ったから夜カフェ?」
「ケーキ食べて……」
「でも、あの店って、魔女が通う店じゃ……」
「で、でも……あのケーキ……おいしそう……」
甘くスパイシーな匂いを、私はどうにか軒先まで伝わるように、風の魔法石を使ってオーブンの匂いを外に流した。
わざわざお忍びのものを全部外して食べてくれているソフィさんの宣伝を、無駄にしたくはない。
やがて、ひとりのお客様がうちの店に入ってきた。
「あっ、あのう!」
「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」
「はいっ! あの……ソフィ様……いえ、あちらのテーブルのケーキとコーヒーを頼みたいんですけれど……」
「パンデピスとコーヒーのセットでよろしいですか?」
「はいぃ!」
ひとりが来たら、やがて次々と人が入ってくる。
誰だってそうだ。おいしそうにお菓子を食べる人がいたら、自分もどんなケーキか食べたくなる。特に観劇中は、飲食厳禁だから、真っ直ぐ家に帰って即食事か、小腹を満たしてから帰宅するかになる。皆お腹が空いているのだ。
「店長! また次のお客様もパンデビスとコーヒーを!」
「はいはい。まあた、ずいぶん盛況なことだな」
「はいぃ……なんだか、ちょっと嬉しいです」
皆が皆、パンデピスの味を覚えてくれたら。おいしいスパイスのケーキの味を覚えてくれたら、きっと少しは魔女に対する偏見が払拭すると思うんだ。
偏見や差別はなくならないとは思うけど……でも、「まあいっか」で流すことは、いつかはできるって、私は信じている。