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バレンタインの距離

作者: ミケ

 莉緒は小さな箱を両手で包み込み、親指でそっと箱の角を撫でた。

 指先に伝わる、かすかなざらつき。触れるたびに、それが確かめるように滲んでくる。

 そっと息を吸い、ゆっくり吐いた。


「……やっぱり、やめたほうがいいかな」


 かすれた声が、風に紛れそうだった。


「いや、渡したいんでしょ?」


 僕は隣を歩きながら答えた。

 正直、バレンタインなんて久しく考えたことがない。学生時代は誰が誰にチョコを渡すのか、それだけで教室がざわついていた。


 でも、結婚してからは、ただの"日付"になった。

 けれど、莉緒にとっては違った。

 彼女は拓海くんにチョコを渡したいと言う。でも、話したのはもう何年も前のことだ。小学校の頃は同じクラスだったけれど、それ以来、違う道を歩んできた。もはや「友達」とも言えないし、かといって「他人」と呼ぶには、少しだけ惜しい距離感。


「今さらチョコを渡しても、困らせるだけかな……?」

「さあ、どうだろうね。迷惑かどうかなんて、本人にしか分からないでしょ?」


 莉緒は、かすかに下唇を噛んだ。


「……まあね」

「だったら、渡せば? 後悔するよりいいでしょ」


 僕がそう言うと、莉緒は少しだけ考え込んだ。バレンタインに対する情熱を失った僕とは違い、彼女はまだ、このイベントに何かを期待しているのかもしれない。

 僕自身、バレンタインを最後に意識したのはいつだっただろうか。たぶん、学生時代のことだ。今はもう結婚して、イベントごとは夫婦の間でも特に何もない。


「……よし!」


 莉緒は顔を上げると、ぎゅっと小さな箱を握りしめた。

 しばらく指先で箱の角をなぞる。

 ためらいが、指先の微かな動きに表れていた。


 一瞬、箱を開けて中を確かめようとしたのか、指が揺れる。

 けれど、そのままそっと拳を握り、ふっと息を吐くと、意を決したように駆け出す。

 夕方の空は、茜色に染まり始めていた。


 風に押されるように、彼女の背中が遠ざかっていく。

 その背中を見送るうちに、胸の奥で小さな波紋が広がる。

 夕焼けに溶けていくように、薄れていく何か。

 けれど、確かにそこにあるもの。


 大人になると、バレンタインの意味は変わる。でも、あの頃の気持ち——誰かに想いを伝えたいという、あの純粋さだけは変わらないのかもしれない。

 僕は、遠ざかる彼女の姿を見送りながら、ふと昔の自分を思い出していた。


 莉緒の背中を見送ってから、僕はふと考えた。

 もし自分がまだ学生だったら——いや、あの頃の自分だったら、こんなふうに迷ったり、考え込んだりしながらチョコを渡そうとしていただろうか。


 今の僕にはもう、そういう緊張感はない。結婚してからは、バレンタインというイベントもただの「日付の一つ」になってしまった。でも、それが悪いこととは思わない。ただ、変わってしまっただけなのだ。

 しばらくぼんやりと立ち尽くしていると、莉緒が戻ってきた。


「渡せた?」


 そう尋ねると、彼女は僕の顔を見ずにこくりと頷いた。でも、その表情はどこか微妙で、思ったほど晴れやかなものではなかった。


「……どうだった?」

「……普通に『ありがとう』って言ってくれたよ」

「それなら、よかったじゃん」

「うん……」


 彼女の返事は小さかった。

 どこか、思い描いていたものと違う現実を噛み締めるような声だった。

 期待していた温もりは、すり抜けるように消えていった。

 掌には、わずかなぬくもりと名残惜しさが残るだけだった。


 僕はそれ以上聞くべきか迷ったが、結局何も言わなかった。

 夕方の冷たい風が頬を撫でる。静かな街の中、僕たちは並んで歩き出した。


「……なんかね、思ったより、何もなかった」


 莉緒は小さく息を吐くように呟いた。


「何もなかった?」

「うん。久しぶりに話せたのは嬉しかった。でも……私の中にいた拓海くんと、目の前の拓海くんは、同じはずなのに、まるで別人みたいだった」


 僕は彼女の横顔を盗み見る。夕暮れの光に照らされたその表情は、どこか寂しげだった。


「当然でしょ」


 ふと口をついた言葉に、彼女は少し驚いたようにこちらを見た。


「時間が経てば、人は変わるし、関係も変わる。それは仕方ないことだよ」

「……そっか」


 莉緒は納得したように頷いた。けれど、前を向いた横顔には、どこか名残惜しさが残っていた。

 僕も心の中で何かが引っかかっていた。彼女の気持ちがわからないわけではない。


 昔、大事だと思っていた人が、久しぶりに会ってみると、思っていたよりも遠く感じる。自分が覚えている「その人」と、目の前の「その人」は、同じはずなのに、どこか違ってしまっている。

 それはきっと、彼が変わったからだけじゃない。自分も変わったからなのだ。


「でもさ、渡せてよかったよね」

「うん、それはそう思う。もし渡さなかったら、ずっとモヤモヤしてたと思うから」

「なら、成功だな」

「ふふっ、そうかも」


 彼女は少しだけ笑った。

 その笑顔を見て、なんだか僕まで少しだけ温かい気持ちになった。

 バレンタインはもう特別な日じゃなくなってしまったけれど——それでも、誰かに気持ちを伝える日としては、やっぱり意味があるのかもしれない。


 そして、誰かとの距離を確かめる日でもあるのかもしれない。

 そう思いながら、僕たちはまた並んで歩き続けた。


 莉緒と並んで歩きながら、僕はふと、自分の中に小さな違和感があることに気づいた。

 彼女は拓海くんにチョコを渡した。そして、その結果、彼との間にあった時間の隔たりを実感した。

 それなのに、どこか満足しているような顔をしている。


「ねえ」


 僕は何気なく口を開いた。


「結局、拓海くんにチョコを渡して、莉緒はどう思ったの?」


 彼女は少し考えてから、ゆっくりと口を開く。


「んー……正直に言うと、なんか、思ってたのとは違ったかな」

「思ってたのと違う?」

「うん。もっと懐かしくて、嬉しくて、ドキドキするものだと思ってたんだけど……実際に渡したら、すごく普通で、何も変わらなかったっていうか」

「何も変わらなかった、か」


 僕は彼女の言葉を反芻する。

 莉緒は、きっと過去の感情を確かめたかったのかもしれない。小学校の頃に感じていた拓海くんへの気持ちが、今もまだ残っているのか、それとももう過去のものになっているのか。


「……もう、拓海くんのこと、好きじゃなかったのかも」


 莉緒はぽつりと呟き、口元にかすかな笑みを浮かべた。


「え?」

「なんとなく、そんな気がする。渡すまではドキドキしてたけど、渡した瞬間、ふっと『あ、終わったな』って思った」

「……終わった?」

「うん。たぶん、小学生の頃の自分が抱えてた気持ちを、そのまま置き去りにするのが怖かったんだと思う。でも、渡してみたら……ああ、これはもう過去なんだなって、はっきり分かった」


 莉緒の表情は、どこか吹っ切れたようだった。


「そっか」

「うん。でも、渡せてよかった。すごく普通だったけど、逆にそれで安心したというか……ああ、私はもう、この気持ちを引きずらなくていいんだなって思えた」


 その言葉を聞いて、僕は少し驚いた。

 莉緒は、拓海くんにチョコを渡すことで、前に進もうとしていたのかもしれない。

 僕にとってのバレンタインは、もうただの「日付の一つ」になってしまったけれど、彼女にとっては「心を整理する日」だったんだ。


「……なんか、大人になったな、莉緒」


 思わずそう呟くと、彼女は「えへへ」と笑った。


「そうかもね。でも、もう私たち、大人だもん」


 夕暮れの空が、少しずつ深い青に変わっていく。

 風はまだ冷たいけれど、莉緒の横顔はどこか穏やかだった。

 僕はふと、自分の中にある「変わらないもの」と「変わっていくもの」について考えた。

 時間は流れる。関係も変わる。気持ちも変わる。


 それでも、こうして誰かと並んで歩く時間は、変わらずにあり続けるのかもしれない。

 バレンタインは、もう僕にとっては特別な日ではない。

 けれど——もしかしたら、何かを終わらせたり、何かを確かめたりするための大切な日なのかもしれない。


「さて、そろそろ帰るか」

「うん、そうだね」


 莉緒と並んで歩く帰り道。

 その道の先には、どんな景色が待っているのだろうか。

 それはまだ分からない。

 でも——

 なんとなく、今日はいい日だった気がする。


 夜の静けさが街を包み込み始めていた。オレンジ色に染まった空はすっかり暗くなり、街灯の光がちらほらと道を照らしている。

 莉緒と並んで歩きながら、僕はふと、遠い昔のことを思い出していた。

 小学生の頃、僕にもバレンタインを意識していた時期があった。

 あの頃は、誰かにチョコをもらえるかどうかで一喜一憂し、友達同士でそわそわしながら過ごしていた。バレンタインは、特別なイベントだった。

 でも、時が経つにつれて、いつの間にかその日を特別だと思うことはなくなった。


「ねえ」


 不意に、莉緒が口を開いた。


「バレンタインってさ、何のためにあるんだろう」

「ん?」

「チョコを渡したら、何か変わるかなって思ってた。でも……変わったのは、たぶん、私の気持ちだけだったんだよね」

「どういうこと?」

「ううん、自分でもよく分かんない。ただ、もうこの気持ちを引きずらなくていいんだって、はっきり思えた」


 彼女の声は、少しだけ肩透かしを食ったような響きだった。


「まあ、確かに」

「それでも、みんなバレンタインにはチョコを用意して、大切な人に渡す。それって何でだろうなって」


 僕は少し考えてから、ぽつりと答えた。


「きっと、気持ちを形にするためじゃないかな」

「気持ちを形にする?」

「うん。言葉にしにくいことってあるじゃん。好きとか、ありがとうとか、そういう気持ちって、普段はなかなか言えなかったりする。でも、バレンタインっていうイベントがあると、それを形にして伝えることができる」


 莉緒はゆっくりと頷いた。


「そっか……そうだね。私もたぶん、ずっと言えなかった気持ちを形にしたかったのかも」

「結果がどうであれ、気持ちを伝えられたなら、それでいいんじゃない?」

「うん、そう思う」


 彼女の表情は晴れやかだった。

 気持ちを形にする——それは、きっとバレンタインに限ったことではない。

 僕は結婚して、バレンタインを特別なものと考えなくなったけれど、それは「気持ちを伝える」という行為をしなくなったわけではない。

 ただ、伝え方が変わっただけなのかもしれない。


「じゃあさ、来年のバレンタインもチョコ作る?」


 僕が冗談めかして言うと、莉緒は少し考えてから笑った。


「うーん……どうしようかな。でも、また誰かに気持ちを伝えたいと思ったら、そのときは作るかも」

「いいんじゃない?」

「うん。……ねえ、そっちは?」

「俺?」

「バレンタインなんてもう関係ないって顔してるけど、奥さんには何かあげたりするの?」


 僕は少し黙り込んだ。

 ……そういえば、ここ何年もバレンタインに何かを贈ることはなかった。


「いや、特に何も……」

「そっか。でもさ、せっかくのイベントだし、たまには何かしてみたら?」

「何かって?」

「例えば、お菓子を買って帰るとか、普段言えない『ありがとう』を言うとかさ」

「……なるほどね」


 そう言われてみると、それも悪くない気がした。

 バレンタインは、ただのイベントかもしれない。

 でも、それをきっかけに、普段伝えられない気持ちを伝えるのは、きっと意味のあることなのだろう。


「じゃあ、帰りに何か買って帰ろうかな」

「いいじゃん!」


 莉緒は笑顔を見せた。


「奥さん、喜ぶといいね」

「まあ、チョコくらいで喜んでくれるならいいけど」

「大事なのは気持ちだよ」


 彼女の言葉を聞いて、僕もつられて笑った。

 バレンタイン——それは、誰かに気持ちを伝える日。

 友達でも、恋人でも、家族でも。

 大切な誰かに、素直な気持ちを形にする日。

 今年は久しぶりに、それを思い出すことができた。


「じゃ、そろそろ帰るね!」

「おう、気をつけて」


 莉緒と別れ、一人になった帰り道。

 ふと、コンビニの明かりが目に入る。

 立ち止まり、ポケットに手を突っ込んだ。

 冷えた夜風が背中を押した気がして、僕は足を踏み出す。


 何年ぶりだろう。

 バレンタインに、誰かのために何かを買うのは。

 ふっと笑い、扉に手をかける。


 ——チョコ、買って帰るか。

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