魔法の塔の老い支度
「お前が先でよかったよ」
老いた魔法使いは、息を引き取ったばかりの愛犬に語りかけた。
彼はあくまでも犬ではあったけれど、死期を鑑みて塔に引き籠ることを決断した魔法使いの、よき相棒であった。
「安らかに眠ってくれ」
時は冬。
冷蔵庫よりも冷えた空き部屋に、愛犬の亡骸を安置する。
そして魔法使いは、そっと扉を閉めた。
翌朝のことである。
『ああ、もう、お寝坊さん!
ご主人様は、相変わらずのお寝坊さん!
年寄りは朝が早いって知らないの?』
「……私はまだまだ若いってことかな?」
『減らず口はいいから、もう起きなさいよ』
半透明の犬が、魔法使いの寝室の中を飛び回っていた。
すり抜ける霊体は、どんなものにもぶつかる心配がない。
しかし、その小煩い口調は、魔法使いにとって少々耳障りだ。
「まったく、お前は、犬の姿の時はしおらしかったのに、魂だけになると口煩くてかなわん」
生前は、朝起こすにしても、そっとベッドに伸び上がり、前足で腕のあたりをそっと叩いていた。
それで起きなければ、耳の側でフンフンと鼻を鳴らす。
それでもダメなら、顔をぺろりと舐めるのだ。
『言いたいことはいっぱいあったんだよ。
だけど、犬の口では喋りたくても喋れない』
言いたいことはいっぱいあったらしい。
随分と溜め込んでいたようだ。
「まだまだ、何か言いたいのか?」
『そうだねえ。
とりあえず、ご主人様は結構すごい魔法使いなのだから、僕を生き返らせたらどう?』
「それは、出来なくも無いが」
『倫理に反するとか思っちゃう?』
「こんな僻地に籠っていたら、誰も咎めには来ないだろう。だがなあ」
『何か問題が?』
「生き返らせるのはいいが、そうなるとお前の新しい寿命を決めねばならん。
もし、その寿命より先に私が死んだら、お前はひとりぼっちになるんだぞ?」
『一緒に旅立てるように、出来ないの?』
「そうなると、魂を結び付けることになる」
『じゃあ、それやろうよ』
「いくら愛犬でも、魂を結び付けるというのは……」
『嫌なの?』
「……それは、大事な人が出来る時までとっておきたいじゃないか」
『そもそも、もう歳だからって塔に引き籠ったんだよねえ。
大事な人が出来る予定、あるの?』
「……無いとは言い切れない」
『夢があるのはいいことだ。いいことだね。うん。
……じゃあ、魂を結び付けるのではなくて、ご主人様が亡くなる日と僕の寿命を紐づけるのは出来ないの?』
「……あ、その手があったな」
『ご主人様、本当に超天才魔法使い?』
「あんなもの、ただの世間の評判だ。実像とは言い難い」
そう言いながら、魔法使いはキラキラした目で新しい魔法を考え始めた。
一か月後。
口煩い犬の霊体は消え、愛犬は元の姿に戻った。
「ご主人様、そろそろお茶を飲まないと干からびちゃうよ」
「うむ、もうそんなに時間が経ったか?」
あれ以来、魔法使いは若返ったように研究に没頭している。
「それにしても、どうして、僕を話せるようにしてくれたの?」
口煩くてかなわん、と言っていたくせに。
「お前はなあ、なかなかいい発想をする。
私の研究助手として、たいへんに役立つ」
「えへへ。そうなんだ」
愛犬は照れながら、目の前の皿のミルクを舐めた。
「おかげで、たくさん、やりたいことが出来た。
老い支度どころではなくなってしまったよ」
お茶の時間を終えると、魔法使いは換気のために窓を開けた。
愛犬は窓枠に伸び上がって、外に鼻を突きだす。
「遠くから春の匂いがするようになったよ」
「そうか、春が近いか」
「ひょっとしたら」
「ん?」
「ううん、なんでもないよ」
いつもの春の匂いと少し違う、花の香りがしたような気がする。
ひょっとしたら、春になれば、思いがけないお客さんが来るかもしれない。
そんな予感を、愛犬は言わずにおいた。
『たまには、びっくりすることもあったほうがいい』
愛犬は、そう考えた。
『きっと、素敵なびっくりになるよ』
その頃、遠くの国の生まれの若い女性の魔法使いが、この塔を目指していた。
塔に引き籠った魔法使いが大昔に書いた本を、ずっと大事に読み込んで修行をしてきたのだ。
尊敬する彼が、まだ存命であると知り、一目だけでも会うことが出来ればと、魔法の助けを借りてもなお長い旅路を、懸命に進んでいく。
新しい季節は、一歩ずつ近づいていた。