私の婚約者様はいくらか頭がおかしいようです 〜異世界がどうとか言い出したアタオカ公爵令息様に溺愛されていた件〜
「聞け! ファルテシアッ!」
学園の卒業パーティーにて。
突然、よく通る声で会場中にそう響かせたのは私の二つ歳上の婚約者であり、やや鋭い目つきではあるものの端正な顔つきで輝く様な銀髪がよく似合う美男子のハノン・イグナス公爵令息である。
「今日この時をもってキミとの婚約は破棄させてもらう! この一年、もう一度やり直してみようと考え直してみたがやはりもうキミにはうんざりさせられたッ! おかげで私は別の女性と婚約する決心を付けたぞ!」
確かに以前までの彼の性格から考えるなら、私との婚約を破棄するのは当然、の流れなのだけれど……。
どちらにせよ私には何が起きたのかわからずその場で固まっていると、
「おっと、文句を言いたいところだろうが、残念ながらその相手は今日この場には来ていないぞ。とにかくキミとはこれまでだ。わかったな? わかったのなら早々にこの場から出ていくがいい。もはや婚約者ではなくなったキミがこの卒業パーティーに参加している意味などないのだからなッ!」
彼は不敵な笑みを浮かべつつパチンっ、と奇妙なウィンクを私に投げつけてきた。
私は静かに頷いて見せ、
「婚約破棄、承りましたハノン様」
そう言い残し、この学園卒業パーティーの会場から走って逃げ出したのである。
やっぱり私の婚約者は頭がおかしい。
普通ならこんな事をしない。
こんな、婚約破棄の仕方など絶対に。
●○●○●
――彼の頭がおかしくなってしまったのはおよそ一年ほど前からだ。
私、ファルテシア・エルザーグはしがない男爵家の娘だったが、父のウェル・エルザーグとハノン様の父君であるガノン・イグナス公爵閣下は古くからの親友という事で私の物心が着く前から、私たちの婚約関係は勝手に決められていた。
とはいえ、私とハノン様は幼い頃は普通に仲良しだった。領地も隣り合わせで屋敷間も歩いて行ける距離だった為、互いの屋敷へ遊びに行ったり来たりする事がひっきりなしで、毎日声が枯れるほど喋りあって、笑いあった。
多少傲慢で強引なところもあるけれど、それも彼の魅力なのだと思い込んでいた。
婚約者、というのがまだよくわかっていなかったその頃は。
ハノン様が12歳になり多くの貴族らが通う事となる王立魔法学園に通うようになってから少しずつ私たちの関係は変化していった。
少し前までは必ず毎日どちらかの屋敷で合流した後、ご飯を食べに行ったり、街中をお散歩したり、カフェで勉強をしたりと一緒に行動する事が当たり前だったのだが、彼が学園に入学してからは日を追うごとにそれがあからさまに減少していった。
「今日は友人と約束があるから」
「今日は魔法学の実施授業で疲れ切ってしまったから」
「今日は父上と領地の事を勉強しなければならないから」
初めの頃はそんな言い訳が多かった。
魔法学園に入学すると魔法学など新たな勉強の幅も広がる他、特に男子は剣術武術に関しても多忙になっていくし、更に公爵家の令息ともなれば交友関係も大切に育み、領地経営についてもたくさん勉強しなければならないのは事実だ。
だから彼のお屋敷へ遊びに行く事もやめた。迷惑を掛けてはいけないと思ったからだ。
私はそんな風に考え、多少胸の内に引っ掛かかる気持ちはあっても強引に納得していた。
私だってあと二年経てば同じ魔法学園に入れる。そうすればまた前みたいに学園の中でたくさんお喋りができるようになるはずだ、と。
しかし私も12歳になって同じ魔法学園に入学すると、彼があからさまに私から避けるように行動しているのを感じさせられてしまった。
ハノン様には仲の良いご友人がたくさんいたので、それに割り込んでいくのは失礼だと思い遠慮していた。
彼がひとりの時を狙ってこちらから声をかければ多少はハノン様も話し相手にはなってくれるかと思ったが、そういうタイミングで声を掛けても、
「今、忙しいから」
そんなよくわからない言葉を残してすぐにどこかへ行ってしまった。
私は意を決して、ハノン様のいる教室を訪ねに行き昼食を一緒にどうかとお誘いしてみた。するとハノン様からは「上級生の教室に直接来るなど無礼だぞ。それに学園ではあまり話しかけないでくれ。人の目があるだろうが。常識を弁えろ!」ときつく冷たく突き放されてしまったのである。
正直言えばかなりショックだった。
それでも彼にも学園内での立ち位置や体裁というものがあるのだから仕方がない、と無理やり納得しようと思っていた。
だがとある日、学園内で話すハノン様の友人たちの声を聞いてしまった。
「ハノンの婚約者、相当に鬱陶しいらしいね」
「同じ学園生になったらいきなり教室に押しかけてきたとか」
「その子、ハノンがもうとっくに別の子を好きな事、知らないのかしら」
「リエルタだっけ。ハノンの今の本命の彼女。確かにリエルタはめちゃくちゃ美人だしスタイルもいいもんなあ」
「おまけにリエルタは公爵家の娘だろ? 下流貴族の娘のファルテシアなんかと比べたらそりゃリエルタを選ぶよな。幼馴染のハノンに振られたらファルテシアはどう思うんだろ」
「まあ近いうちにわかる事よ。ハノンはあんなうざったい男爵家の娘との婚約なんか絶対解消してやるって前々から豪語していたから」
薄々は勘づいていたけれど、その事実を知ってしまった私はその場で力無く崩れ落ち、相当に落ち込んでしまい、その晩は枕を散々に濡らした。
私は彼の気持ちが私から離れていた事をとても寂しく思っていたが、こうして彼との接点がどんどん無くなっていくうちに、これはもう修復のしようもないのだろうなと諦めかけていた。こんな状態ならさっさと婚約を解消してもらいたいとさえ思うようになっていた。
立場上、彼の家柄の方が遥かに格上なので私の方から別れ話を切り出すのは大変に失礼だ。
どちらにせよ彼は別の女子と交際する為に、彼の方から何かしらの理由をつけて婚約破棄を申し渡してくるだろうと考えていた。
そんな状態が三年近くも続き、私が15歳、ハノン様が17歳となり、私たちは学園で隣をすれ違っても、もはや目すらも合わさなくなった頃。
「ファルテシア。話がある。今日の昼間、テラスで食事をしよう」
本当に久しぶりに彼から声をかけられ、そう誘われた。
一瞬だけ。ほんの一瞬だけ嬉しくなってしまった気持ちを持った自分が恥ずかしかった。だってこれはどう見ても婚約破棄を申し渡す為の話し合いなのだと理解したから。
彼の冷酷な瞳がそう告げていたのだから。
そしてその日、事件は起きた。
『あ、もしかして本物のファルテシアさん?』
この日。
私は学園の中庭にあるテラスで、この後きっと婚約を解消する話を切り出されるのだろうなと思いながら黙々とハノン様と二人きりで味のない昼食をとっていた時だ。
どこからか飛んできたやや大きめの石がハノン様の後頭部にスコーンッ! と、勢いよく当たった。
彼は飲んでいた紅茶をぶはッと派手に吐き出しながら、テーブルにつんのめっていたのを私は唖然とした表情で数秒見つめた直後、ようやく我に返り「だ、大丈夫ですかハノン様!?」と、問いかけた後の開口一番のセリフが、さっきのそれである。
「流麗なプラチナブロンドの髪、透き通るような琥珀の瞳に、ちょっとだけある鼻の上のえくぼがチャームポイント……うわあ、ファルテシアさん、僕の想像通りでガチで超可愛い! 嬉しいなあ。って事はあれ、あれ!? これもしかして僕、ハノンだったりするのか!? ……うん、この魔法学園の制服を少し自分流にアレンジして着用しているのは間違いなくハノン・イグナスだ! うおお……マジか。マジかこれ!?」
などとハノン様は意味不明は事ばかりをしばらく繰り返していたので、本当に頭に大きな怪我を負っておかしくなってしまったのだと大変に心配し、私はすぐに医者を呼んで彼を診てもらったのだが、なんの異常もなかったと診断された。
それもそのはず。医者が来てからの彼は、
「ああ、すまない。少し混乱していたようだ。まだ少々頭は痛むが私はなんの問題もない。すまなかったなファルテシア、心配をかけた」
と、ほとんどいつも通りの感じに戻っていたからである。
……というか、えくぼの事は気にしているから触れないでって幼い頃に約束していたはずなのだけれど。
一時的に記憶が混乱していただけなのかと私も思っていたのだが、その日の晩、彼は珍しく人目を憚りながら私の屋敷にきてこう告げたのだ。
「すまない、ファルテシア。まずは謝らせてくれ。そして今、私に起こっている現状について説明させてほしい」
ハノン様曰く、彼は前世の記憶が甦った、らしい。
今ハノン様には二つの記憶が同時に混在しているらしく、ひとつはこれまでハノン・イグナスとして過ごしてきた記憶。そしてもうひとつはイクル・ハシモトという名の、ニホンという国の男性の記憶、だそうだ。
後頭部に強烈な衝撃を受けた直後の彼は、一気に前世の記憶が蘇りすぎたせいで一時的にハノンとしての記憶が薄れていたらしく、あのような感じになってしまった、のだとか。
「だが安心してほしい。私は確かにイクルの記憶を持ちながらも、ハノン・イグナスでありキミを愛する婚約者であることもまた変わりはない」
口調と雰囲気は確かにもういつものハノン様ではあるが、やはり私には俄かに彼の言葉を全て受け入れらなかった。
だって彼の口から「キミを愛する」なんて言葉が飛び出るわけがなかったから。
そんな事をハノン様が言うはずがない。
だからこのハノン様はやはり頭がおかしくなってしまったのだ――。
●○●○●
「……すまなかったなファルテシア」
――そしてそんな事があってから約一年ほどが経ち、学園卒業パーティーのあった翌日の夜。
卒業パーティーという大衆が集まるその場で大袈裟に婚約破棄を申し渡してきた張本人は、しれっと平然な顔で私のお屋敷の、私の室内でハーブティーを啜りながらそう言ってきた。
「いえ。それでハノン様。わたくしたちの婚約解消は事実なのですか?」
「無論、嘘だ。そんな事をするわけがない!」
そっか、嘘なんだ……。
私は内心安堵していたがそれを表には出さないように振る舞う。
「理由をお聞きしても?」
「うむ。あの場でキミとの婚約破棄を宣言しておかなければ、おそらく私かキミのどちらか、もしくは両方ともあの場で殺されていたかもしれないのだ」
なるほど。なるほど? え? 殺され?
「それではつまり、また例の……」
「そうだ。異世界での記憶の賜物だ。しかしどうやらうまく行ったようだ。おかげで私もキミもこうして無事に今日という日を迎える事ができたのだからな。だがしかし、ここの攻略にはやはり些か難儀させられそうだ」
――イセカイの。
はあ。
と、私はふかぁい溜め息を吐いた。
私の婚約者であるハノン・イグナス公爵令息はあの頭を強打した一年ほど前から、いくらか頭がおかしい。
と言うのも、彼は唐突に奇妙な事をして見せたり、突拍子もない発言をしたりするからだ。
その事例がこの一年間あまりにも多すぎるのだが、どの場合においても彼は二の句には必ず、
「異世界」
という言葉が付いてくる。
「問題はこれからだ。キミとの婚約破棄騒動によってあの場で発生しうる危険なフラグはおそらく消滅させたが、これだけでは完全なる解決とは言えまい。となると次のイベントに関連するフラグがどこに立っているのかを模索せねばなるまいが……。だが、現状不確定要素が多い中、不用意な行動は何が起きるかわからん。今のこれはおそらくifルート。いや、それならばやはりいっその事……」
まーたハノン様が頭のおかしな独り言をぶつくさ言っている。
――けれど。
彼は独り言に夢中になっていたかと思うと、不意に私の顔を見て少し目を見開いた。
「ところでファルテシア。今日のキミも一段とまた可愛らしいな。そのメイクも最近流行りの最新のものに変えたのだろう?」
「え? ええ、そうですわ。ハノン様、よくお気づきになられましたわね」
「何を言ってる。世界で一番キミを見ている私だぞ。キミの変化に気づけないわけがないだろう?」
ははは、と朗らかに笑う彼を見て。
頭のおかしくなってしまった彼を見て、私は内心、複雑な感情が入り混じりながらも喜びの方を強く感じている。
――何故なら一年前のあの日。婚約破棄されて振られてしまうのだと覚悟していたあの日から一変して彼はおかしくなってしまったが、私に凄く優しくなってくれたから。
「ファルテシア! 今日は一緒に学園に通おう!」
「ファルテシア! 今日は一緒にお昼を食べよう!」
「ファルテシア! 今晩はキミのお屋敷に遊びに行ってもいいか?」
あの一年前の事件から彼は本当におかしくなってしまって、学園の中でも外でも異様なほど、私に対して積極的になった。人目も気にせず。
しかしそれでもハノン様はさすがというか、私と仲良くしながらも学園にいる彼のご友人たちとも上手く付き合っているのだ。
ハノン様の気の回し方がうまかったのか、それ以来私はハノン様のご友人たちとも少しずつ仲良くなれていった。
彼のご友人のひとりであるレオニール様からは、
「ファルテシア。最近じゃハノンがお前の事を自慢の婚約者だって毎日言ってるよ」
と、聞かされた時は顔から火が出そうなほど恥ずかしかったが、凄くすごーく嬉しかった。
しかし同時にレオニール様からはこう忠告もされた。
「ハノンが以前、お前とは別の女に手を出していたのは知ってるよな? リエルタっていう女だが、そいつは突然ハノンに振られたせいでめちゃくちゃにお前たちの事を恨んでるらしいから、なるべく会わないように気をつけろよ」
やっぱり前のハノン様は浮気していたんだと胸が痛んだが、きっぱり彼女とは別れてくれたようなので内心ホッとしている。
とはいえハノン様からそのリエルタという女子の話は聞いた事がない。頭がおかしくなって優しくなったハノン様が私を気遣ってくれたのだろうな。
ハノン様からは直接好きだとか愛してるだとかいう言葉は滅多にないとはいえ、とても楽しくて優しくて……昔のハノン様が帰って来てくれたようだった。
私は地獄のような三年間を乗り越えて、今やハノン様にも、彼のご友人たちにも優しくされるとても幸せな学園生活を手に入れていた。
ハノン様はイセカイの話を私にだけはよくする。
「ふーむ、なるほど。この世界における電力の多くは魔力で補っているのか。つまり魔法も物理の一環として考えていいわけだな?」
「最速移動手段は魔法を除けば馬車か。異世界では自動車というものがあってだな」
「この露天商の売っている食べ物の味、これは味噌か!? ってことはまさか麹があるのか!? くそ、なぜ今までこれに気づかなかったのだ。これがあるなら醤油も作れるんじゃないのか!? 待てよ、となると醤油でいち事業起こせるんじゃ……っていうかその前に米はないのか!?」
「なあファルテシア!」
正直、彼の発言はそのほとんど意味不明の世迷い言のようにしか聞こえないが、イセカイ絡みの話をする時のハノン様はとても楽しそうで、私もそんな彼を見ているだけで何故か幸せな気分になった。
イセカイの話は私とハノン様だけの二人の秘密で、彼や私の両親たちでさえ内緒にしてくれと彼から強く言われている。
まあ言ったところで信じてもらえないだろうけど。
「――それでハノン様。私たちはこれからどうなさればよろしいのですか?」
「うむ。それだが、私はキミとすぐにでも結婚しようと考えている」
「はい?」
「結婚してしまえばキミと共にこの屋敷に住めるだろう? そうしたらキミは学園をすぐに辞めてしまえばいい。そうすればおそらく私とキミの命を狙う輩も諦めざるを得ないはずだ」
「ええーっと……ごめんなさいハノン様。理解が追いつきかねます」
「ああ、すまないファルテシア。実はだな……」
ハノン様曰く、どうやらあの卒業パーティーで私との婚約破棄を盛大に行なっていない場合、私かハノン様のどちらか、もしくは両方があの卒業パーティー中にリエルタ・ザブルグ公爵令嬢の手配した者にナイフのようなもので滅多刺しにされて殺害されてしまうのだとか。
リエルタ令嬢といえば大変なお金持ちの公爵家のご令嬢で、ハノン様のイグナス家とはこの国内において権力、財力全てに関して双極とまで呼ばれるほどの大貴族だ。
そして、更に言えばハノン様の以前の浮気相手でもある。
「それもイセカイの記憶、とやらですか?」
「ああ、そうだ」
「一体どういう事なんでしょう。イセカイの記憶というのは未来の事も存じ上げてしまうものなのですか?」
「……そんなようなものと思ってもらっても構わない」
彼のイセカイの記憶、とやらの情報はいつも突拍子もなく、非現実的だ。しかし嘘を言っているようにも見えない。
「それにしたって、私は公衆の面前で婚約破棄され笑われ者になった男爵家の令嬢です。昨日の今日とはいえ、すでに学園中には噂になっていましたし、私の両親もすでに昨晩の件は知っていて、正直ハノン様に対して大きく敵愾心を抱いております」
「ああ、知っている。キミのお父上であるウェル卿が今日の昼間、私の屋敷に乗り込んできたらしいからね。だが安心してくれ。ウェル卿にはすでに土下座で謝罪し、アレは私が酒に酔った勢いで言った悪ふざけだと説明した。更には私はファルテシアとすぐにでも結婚するつもりだとも話してある」
そうだとしても私は世間じゃとんでもなく辱められてしまったわけなんだけれども。というかドゲザ? ってなんだろう。
でも命が危なかったんじゃ仕方がない、のかなあ?
あくまでハノン様の言葉が真実ならだけれど。
「それならせめて事前に教えておいてくれても良かったのでは?」
「すまない。ただもし事前にキミへ話してしまう事で流れが変わってしまう事を懸念していたんだ」
相変わらずハノン様の言葉は要領を得ない。
流れ、とは一体なんだろうか?
「……それで、ハノン様は実際リエルタの事はどう思っておられるのですか?」
「ただの友人のつもりだ。当時、彼女が一方的に私の事を婚約者にするだのなんだの騒いでいたから、私にはファルテシアという正式な婚約者がいるときちんと伝えてある」
「それはその……前世の記憶が甦ってからですよね?」
「そうだ」
「ハノン様。前世の記憶が甦る前は彼女の事をどう思っていたのですか?」
「……好きだったのかもしれんが、今となってはもはや何もわからん」
これだ。
私がハノン様に感じているおかしさ。
ハノン様はハノン・イグナスとイクル・ハシモトとの記憶の両方があると言いながら、以前のハノン様の記憶について曖昧な事が多い。
彼は本当にハノン様、なのだろうか。
「とにかくファルテシア。私の婚約者はキミだ。本来ならキミが学園を卒業する18歳になってから結婚をする予定だったが、キミと私の両親には適当な事情をでっちあげて早急に秘密裏に結婚の準備を進めてしまおう。幸いキミはもう16歳で成人はしているしな」
なんだかこれはこれであまり面白くない。
これではまるで作業のように結婚するみたいなんだもの。
「……ねえ、ハノン様」
「ん? なんだいファルテシア?」
「この一年、ハノン様とたくさん一緒に過ごせて私はとても楽しかったです」
「それは私もだファルテシア」
「だからせめて結婚の前に全てを打ち明けてほしいのです。ハノン様は私に嘘をついておりますよね?」
「……」
そう。彼は嘘をついている。
ハノン・イグナス様はこんな感じじゃない。
本来のハノン様は何においても自分本位で人の為に何かをするような人ではない。
それは幼い頃からそうだった。
魔法学園に入る前まで、私とハノン様は確かに仲は良かった。けれどハノン様は昔から別に私の事を特別気遣ってくれたり、人の為に動くような人ではない事も知っていた。
幼い頃はそれでも彼が格好良く、面白く見えていたが、年を重ねて思い返してみると、やはり彼はお世辞にも人としての器が広い人物とは言えなかった。
それがあの一年前の事件からめっきり変わってしまった。
私は昔のハノン様のようだ、と思ったが違う。
昔のハノン様よりも出来た人となっている。
出来過ぎなくらいに。
それがなんだか少し怖かった。
私の知らない彼が怖かったのである。
「ハノン様。あなたは本当に私の知っているハノン様なのですか?」
そしてこれを聞くのが怖かった。
もしこれを聞いてしまえば今の仮初かもしれない幸せがまた霧散してしまうかもしれなかったから。
またあの、冷酷な眼差しのハノン様に戻ってしまうかもしれなかったから。
もうあんな想いはしたくなくて……。
「……ファルテシア、私は」
「お願いです。ハノン様……いいえ、イクル様。あなた様の知っている全てを私にお話しください。そうしたら私は全てを受け入れてあなたと結婚致します」
「……そう、だね。うん、わかったよ」
ハノン様は少し寂しげな瞳をして、頷いた。
「キミが察している通り、僕はイクルだ。ハノン・イグナスという人物はもうこの身体の中……僕の中にはいない」
やっぱりそうなんだ……。
「けれどハノンの記憶や行動理念のある程度は理解している。何故ならハノンは僕の子供なのだからね」
「え? こ、こど……」
「キミもだよファルテシア。キミも僕の子供だ。ハノンもキミも、ウェルもガノンもレオニールもリエルタも、みんなみんな、僕の子供さ」
「そ、それは一体どういう……」
「ごめん、誤解させる言い方だったね。この世界は僕の物語の世界なんだ。僕が作り出した物語の世界。愛憎渦巻く貴族間恋物語だ」
「ものが……たり……?」
「異世界の記憶、と言えばいいのかな。この世界とは異なる世界を生きていたこの僕が考えて作り上げた世界が、まさにこの世界というわけだ」
今回のイセカイのお話は冗談にしても酷すぎる。
私たちが作られたモノだと、彼は言っているのだから。
「僕の名は橋本 郁瑠。向こうでは28歳になる売れない無名の小説家だ。僕が最新作の異世界恋愛物小説、つまりこの世界を執筆していた時、強盗に押し入られて頭を強く殴られてね。目覚めたらハノン・イグナスになっていたんだよ」
この人は……一体何を言っているの?
これまでの言動も信じ難かったけれど、今日のは群を抜いて話の次元が違いすぎて理解できない。
「イ、イクル様。それでは私たちは皆、作り物だと仰っているのですか?」
「完全にそうだ、とは言わない。何故なら今この世界は独自に動いている。キミも一人の人間として思考し、行動しているだろう? 僕が考えるに、僕が考えた世界によく似た別次元の世界、つまり異世界に僕は転生したのだと思っている」
そんな。
そんな嘘みたいな事が現実にあるの?
でも彼の言っている事が事実ならこの一年間、彼が行なってきた奇異な行動や言動のほとんどに説明がつく。
彼はこの世界を私たち以上に詳細に知っていたからこそ、ハノン・イグナスとして上手に立ち回り、様々な危険や問題、トラブルを回避してきたのだと。
「本来ならキミとハノンは一年前のあの日に婚約関係を解消していた。そしてハノンはリエルタと婚約して結婚。キミはハノンの友人、レオニールと結婚して幸せになる予定だった」
「私がレオニール様と……」
「その後、ハノンとリエルタは互いの傍若無人な行動や言動に喧嘩が絶えなくなり関係は悪化し離婚。一方キミは結婚した相手と幸せに裕福に暮らすという設定で作られていた」
「でも、今はもう全く違いますイクル様。今のこの世界はイクル様の作った世界とは大きくかけ離れているわけですよね? それなのに昨晩の婚約破棄騒動はどういうわけなのでしょう?」
「……この流れは僕がプロット段階で作っておいたifルートでもあるんだ。もし仮にハノンが心変わりしてキミとの関係をやり直したら、というね」
「それじゃあ……やっぱりここはあなた様の作られた世界、なのですね……」
「そう。ここまでが、だね」
「え?」
「そのifルートを作っている最中に僕はおそらく殺された。だからこの先の展開は僕の頭の中で考えていた仮プロットでしかない。だからこそ不確定要素が多すぎてよくわからないんだ」
「なるほど。でもそれを私との結婚を早める事で解決してしまえるかもしれないというわけなんですね」
「それもある。けど……ファルテシア。僕はこの一年を通してキミと共にいて、はっきりわかった事がある。それは僕がキミの生みの親としてだけではなく、僕個人がキミの事を好きになってしまっているという変え難い事実だ」
「え……?」
「これから僕の言う言葉は嘘偽りない真実の心だ、ファルテシア。僕はキミの事が好きだ。本当に愛している。それは僕がキミと言う人物を理想のヒロインとして描いたせいというのもあるかもしれないが、そんなのはもう度外視していい。僕は……ファルテシア。キミの事を心から愛してしまっている。ファルテシアという一人の女性を」
真剣な眼差しで彼は私の目を見据えてくる。
確かにこんなに実直に想いを伝えてくれるなんてハノン様じゃありえない。
「そ、そんな事……突然……」
「僕はねファルテシア。このままハノン・イグナスとして生きていくつもりだ。僕にはハノンとして生きれるだけの知識がある。多少性格や考え方は違うだろうけどね。僕はもうそれぐらい、キミに夢中なんだファルテシア」
「イクル、様……」
「もうその名も捨てよう。僕は……いや、私はハノン・イグナスだ。今日この時より、ハノン・イグナスとして生きて、死ぬ事を誓う。そして一生の愛をキミだけに注ぐ事も」
「あ、う……」
身体がふわふわする。目頭が熱くなる。
いつの間にか頬が信じられないくらいに熱い。
「お願いだファルテシア。私を生まれ変わったハノンだと思って受け入れてはもらえないだろうか。物語の作者としてではなく、キミの幼馴染としてでもなく、全く新しいハノン・イグナスとしてキミに結婚を申し込みたいんだ」
ああ。
こんなにも真っ直ぐで真摯に愛を伝えてもらえて。
嬉しくないわけがない。
確かに中身はもうあのハノン様ではないのかもしれない。
異世界のイクル様なのかもしれない。
それでも見た目も声もハノン様のまま、私の理想通りに私に優しくて、とっても愛してくれるようになってくれるのなら。
「……謹んで、お受けいたします。ハノン様」
「ファ、ファルテシア……本当にいいのか?」
「はい。だって私も、もうとっくにイクル様……いえ、今のハノン様の事を愛してしまっているのですから」
「ファルテシアっ!」
彼は満面の笑みを浮かべて私に飛びついてきた。
「私は……全てを打ち明けたらきっとキミに嫌われてしまう、気持ち悪がられてしまうと恐れていた。だから今日まで真実を言えずにいた。それがこんな風にキミと……」
彼は感極まったのか、その瞳から涙を溢していた。
ギュウっと抱きしめられて、私も凄く嬉しくて。
釣られて私も彼の胸の内で溢れ出る涙を隠していた。
●○●○●
――それから。
ハノン様は婚約破棄したはずだからとリエルタ・ザブルグが再び彼に言い寄ってきたらしいが、ハノン様はそれを上手く断り、いなし続けた。
私は家庭の諸事情という理由で学園を途中退学し、しばらくの間エルザーグの屋敷の中で隠れるように過ごした。
そして全ての準備を整え、私とハノン様は盛大に結婚式と披露宴を挙げ、無事結婚する。
初夜もとても優しく彼に愛され、私は身も心も彼のものとなった。
結婚後もハノン様はとても優しくて常に私の事を最優先に考えてくれるとても素敵な旦那様となった。
一方その後リエルタは、ハノン様と私との事を知ると様々な方法で私たちに嫌がらせをしてきた。
その度合いが相当に酷く、確かにこれほどまでに嫉妬深い彼女なら私やハノン様を卒業パーティーで殺害してこようとしてもおかしくはないな、とゾッとさせられた。
ハノン様はリエルタからの嫌がらせに対して真っ向からは戦わず、社会的地位と財力の方で黙らせる作戦を実行。
以前より彼が言っていたイセカイでの記憶を利用する事を発案。イセカイにあったショウユ、という調味料を開発し、これを大量生産する方法までを自社工場で確立。それを大商会に話して大々的にイグナスブランドとして宣伝、販売した。
またたく間にショウユは世界中に広まり、爆発的に大ヒットし、イグナス家はこの国だけでなく世界の中でもトップクラスの大貴族となった。
それまではリエルタのザブルグ家とイグナス家はこの国内において並ぶくらいであった地位と名誉も、あっという間にイグナス家が飛び抜けてしまい、ザブルグ家の有する商会はイグナス家の傘下となった。
結果、リエルタももはや私たちに手出しする事もなく、私とハノン様は未来永劫幸せに暮らしたのだった。
あの時。
ハノン様の後頭部に石がぶつかってくれて、彼の頭がおかしくなってくれて本当に、本当に良かった。
私は今のハノン様を心から愛している。
そして彼と毎日私に愛を囁いてくれ、これ以上ないほどに甘やかしてくれた。
「ファルテシア、愛しているよ」
「私も愛しています。ハノン様」
――数年が経ち、事業も順調に進み、安定し、私のお腹にハノン様との子を授かった頃。
彼はまた前世の趣味であった執筆をこの世界でも続けている。
彼の作る物語はとても斬新で、この世界とは異なる世界の、不思議だけど魅力的なお話ばかりで、彼の作る本も当然のように売れた。
「ねえ、ハノン様。次はどんな物語を書いているの?」
「キミとの馴れ初めをベースにした、キミ視点の実話をモチーフにしたお話し、かな」
彼はふふ、と笑いその次の新作の内容を簡潔に教えてくれた。
そしてそれは、
『私の婚約者はいくらか頭がおかしいようです』
と、いうタイトルらしい。
●○●○●
●○●○●
●○●○●
【――とある別視点。裏側】
『これでいいんだろう? ハノン』
『ああ、ありがとう。すまないイクル』
『いいのか本当に。この身体はキミのものだ。キミが望めば僕は今からでもキミに返すが』
『いいんだ。私にはもうファルテシアを愛する資格なんてないのだから』
『そうか。でもまさかキミからそんな風に提案されるとは思わなかったよ』
『……取り返しがつかなくなってしまっていた。ファルテシアの事をないがしろにし続けていた自分に罪悪感がなかったわけじゃない。けれど自分の弱い心がリエルタに惹かれてしまったのも事実だし、実際当時はファルテシアの事を煩わしくも感じていた』
『ハノンをやめる、と言ったキミの真意がまさか、ファルテシアの身を案じての事だとは作者であるこの僕でさえもさすがに思わなかったよ』
『リエルタは恐ろしい女だった。当時、私がもしファルテシアに愛想を尽かしリエルタを選んで浮気していなければ、リエルタはファルテシアを確実に殺していた』
『それを聞いた時は僕もびっくりしたよ。そんな設定は作った覚えがない。だからこそ、この世界は僕の考えるものとは異なるものなのだと確信したよ』
『それだけじゃない。リエルタは私と結婚した後、我がイグナス家を乗っ取ってその全てをザブルグ家のものとした後に私を殺し、別の男と再婚する予定まで考えていた、まさに悪魔のような女だった』
『リエルタは確かに悪女の設定だったけど、そこまで深掘りはしていなかったはずなんだ。本当にここは不思議だ』
『私はそれを知ってしまってからリエルタを愛する事はできなくなっていた。その事実を知ってからは逆にファルテシアの事が気になって仕方なくなっていた。しかし私にはもうファルテシアに信頼してもらえる要素はなくなっていた。だから私にできる事は、彼女との婚約関係を解消し、私のそばから離れさせる事だった』
『本来はそういう意図でキミは彼女との婚約を破棄するわけじゃなかったんだが、この世界ではそうらしいね。僕はそれをキミから聞いたからこそ、ファルテシアを守りたいと強く思った』
『イクル。キミがハノンとして生きてくれる方がファルテシアを確実に幸せにできると思ったんだ』
『ハノン。キミがそれを望まなければ僕はあの時、すぐにこの身体をキミに返していた。僕というエラーはこの世界においては不文律を崩壊させかねないからね』
『私にはもうファルテシアに愛してもらえる自信も資格もなかった。けれどキミならまたファルテシアに愛してもらえると思った。結果、そうなった。だから私はもうハノン・イグナスとして生きるつもりは全くないよ。イクル、キミの主人格が操るハノンという身体の中からキミとファルテシアを見守るだけで十分だ』
『ハノン。キミは僕が設定していたよりも想像以上に他人を思いやれる心を持っていたんだな。いや、もうこうなると僕が作った世界、というのはおこがましい。ここは独立した異なる世界。本当に異世界だ。だけどハノン。キミがそこまで殊勝な考え方をするのは本当に想定外だよ』
『リエルタとファルテシアの事で私はもう生きるのが疲れてしまったんだ。根本的な原因は私にあるしな。それにイクルのイセカイの話は面白いし、イクルの中で見るハノンの生き方はまるで観劇を見ているようで爽快なのだよ』
『そういう事なら僕は甘んじてハノン・イグナスを続けさせてもらうよ。すでに僕はファルテシアを心から愛しているしね』
『ああ……。それに幸せそうなファルテシアを見れるのが、馬鹿な私にとって何よりもの救いだからな』
『ハノン……』
『さあ、イクル。もうそろそろ目覚めろ。また朝がくる』
『そうだね。キミとは夢の中でしかこうして話せないから中々に有意義な話を聞けたよ。キミの気持ちとかね』
『すまないなイクル。私の尻拭いをさせた。ありがとう』
『僕の方こそありがとうハノン。僕はかねてからファルテシアという自分の理想の人物を愛していた。それを現実のものとさせてもらったのだから』
『……そうか。ではまたなイクル』
『ああ。またな、ハノン』
長い短編でしたが最後までお読みいただきまして、まことにありがとうございました。
ややメタ的内容な作品ではありますが、異世界の力を持つスパダリを描いてみたくなりました。
最後の別視点に関しては好みがあるかもしれませんが、物語の側面的補足としてみてもらえれば幸いです。
また評判次第で連作化も考えております。
よろしくお願い致します。