財布を落とした理由
ある日、公園の植え込みの下に財布が落ちていた。財布を拾い、中を確かめてみた。一万円の札束が2枚と小銭があった。それと銀行のカード類等。
わたしは思い出す。かつてねこばばされた日の事を。あれは今から22年前の冬であった。買ったばかりの革の財布には、丁度いまと同じように、万札が2枚と、小銭、それに銀行などのカード類が入れてあった。雪が降り、いつも通る道の両脇には車の排ガスにまだ侵されていない白い雪が塹壕のように小高く押しやられ、狭くなった道の真ん中は、深まっていく夜と共に凍結して、歩くにも注意が要る筈だったのだ。それにもかかわらず、雪国育ちのわたしは、その程度の積雪は大したことはないと、こんなのは降った内には入らないと、甘く見ていたのだった。わたしは凍結もしていなければ雪すらもないかのような歩き方で、全く注意を払わずに普通の感覚で歩いていたのだ。やがて少しもしない内に、わたしは見事に足を滑らせて転んでしまった。横に積まれた雪に体を預けるようにして倒れたから、怪我などは無かったのだが、恐らくその時だったのだろう。わたしの財布は上着のポケットからそのまま落ちていったのだった。わたしのその時の心境は、多分恥ずかしかったのだと思う。恥ずかしがることも無かったのだが、雪のほぼ降らない、或いは降っても降った内に入らないような関東地方の冬に於いて、彼らが口を揃えて言うところの、大雪であったとはいえ、それは此処でそう呼ばれているだけであって、実際にはこの程度の雪など降った内にも入らないと、空気を吸うように当たり前に思っていたのだから。それがその程度の積雪で見事に転んでしまったのである。遅くなった雪の日の夜には、駅の近くとはいえ、路上に殆ど人影はなかった。わたしが転倒したところを誰かに見られたというわけでも無さそうだった。赤の他人は勿論、仮にその時知り合いに見られたとしても、恥ずかしがることの程でも無いことは、ふつうに分かっていたつもりであった。それなのにその時のわたしは、何故か自分でもわからないまま、雪で転んだことに対して即座に羞恥心が芽生え、直ぐに態勢を整えると、財布が上着のポケットから外へ投げ出された事など想像することすら出来ずに、恥を一緒に残していくかの如く、そそくさとその場を後にしたのであった。
歩いて5分程経過した頃であっただろうか。わたしは不図なにか嫌な予感がして、ポケットの中に手を突っ込んで財布を確認した。無いので、他のすべてのポケットを検めたが、やはり無い。そしてついさっき転んだ時に財布を落としたことをそこで初めて知ったのであった。だが遅かった。まだ5,6分前であったから、戻れば白い雪の上に、買ったばかりの焦げ茶色の革の財布がすぐに眼に付くと思って急いで戻ったにもかかわらず、何処を探しても、20分以上探しても財布は見つからなかった。わたしが転んだ体の跡が、白く、固くなっていく道路脇の雪に形つくられていたのを認めたのみであった。
わたしは、わたしの財布が誰か赤の他人に拾われ、持っていかれたことを理解した。そして恐らく、可能性として、財布自体とその中身が無事に、駅の交番に届けられる確率は極めて低く、落とした財布は永久に戻ってこないか、戻って来たとしても、中身の金銭が抜き取られた状態でしか戻って来ないのだろうと、怒りと限りない落胆と無力感、あの程度の雪ごときで転倒した雪国育ちのはずの自分と、いつもは上着の内側の、ファスナー付きのポケットに収めていた財布が、よりによってあの凍結した夜に限り外へ出やすいポケットに入れていた自分の思慮の無さなど、わたしはいろいろなものが赦せなく、且つ絶望的な心境に陥っていたのである。
だがやるべきことはやらねば先には進めないのだ。取り敢えずは、事件現場まで戻り、事件が発生したことを知った。転倒した場所に財布は無かったのである。だが5分くらい経ってすぐに戻った時も、わたしが約10分前にそこで転んだ時と同様に、辺りには人影がなく、ひっそりと静まり返っていた。まるで現実の世界ではないかのように、常夜灯の灯が幻想的に灯っていたのが印象的なだけだった。
その後わたしは駅の反対側にある交番へ向かった。淡い期待を捨て切れずに、それを半ば抉られた胸に抱きながら。
だがやはり現実はそう甘いものではなかった。転倒してから30分は経つのに、財布は届けられていなかった。わたしはそこでまた2度目の、そして今度は確固とした事実を突きつけられることとなった。財布はねこばばされたのだと。
一週間が過ぎた頃、南警察署から家の電話に連絡があった。財布が見つかったらしい。土曜日の昼に警察署に行った。わたしは何故か警察署に何か用があって行く場合、後で気付くのだが、その時刻は殆どすべて昼時だった。
40か50代くらいの婦人警官がわたしに財布を渡した。それは確かにわたしが失くした財布だった。だが中身を確認すると、万札2枚は無くなっていた。小銭の方を確認すると、500円玉や100円玉が数枚あったにも拘わらず、そこには50円玉が1枚と、1円玉が2枚しか残されていなかった。雪で濡れた外で一週間以上放置されていた所為で、給料日に1万円出して買ったばかりの牛革の財布は、革がふやけ、醜く黒い大きな染みが出来ていた。そして財布の外側の革には、爪を立て、強く押し付けたような跡が生々しく残されていた。
「こちらが届けてくれた方の名前と電話番号だから、後で必ず御礼の電話でも入れるようにしてください」
対応した婦人警官が、何故か上から目線的な態度で、打ちのめされてしゅんとしているわたしに言った。わたしはその婦人警官の頭を殴ってやろうかと本気で思った。
財布に残された爪の跡を見てわたしは咄嗟に思った。犯人は女であると。財布を拾い、その場か、家にでも帰ってから中身を確かめ、2万円以上入っているのに悦んで、思わず、買ったばかりのわたしの革の財布に、その卑しい爪を立てたのだ。そうしながらも、顔はにんまりとしていたに違いない。気持ち悪い奴だ。そして拾った時と同様、人目を盗んでどこか家から離れたその辺にでも抜き取った後の財布を放り投げたのだろう。
財布の札入れには、万札2枚と一緒に、LPガスの請求書が入っていた。奴は全部見た筈だ。或いは犯行現場で抜き取り、その場で放り投げたのなら、カード類は見ずにカネだけ抜き取ったのかも知れない。だがLPガスの請求書は嫌でも目についた筈だ。一万円近い請求金額が印字されているのも見えた筈だ。それでも奴は他人のカネを盗っていったのだ。銀行のカードやわたしの住所が印字されたLPガスの請求書等の個人情報が満載されたわたしの財布は、どこかの心無い人によって拾われてしまったのだ。小さな爪跡だけを残して。
でも実際は誰かは勿論、どのような種類の人間が盗ったのかも定かではない。小さな爪跡が残っていたというだけで、他に手がかりはなかった。わざわざ警察署か交番まで届けてくれた人の名前は男の人だった。あのバカ婦人警官が失意のわたしを顧みずにあんな言い方をしなければ、せめて電話を掛けて、公安に届けてくれたことに対する礼のひとつやふたつでも言っていたかも知れないが、とてもそんな気にはなれなかった。勿論警察に届けてくれた人を疑ってなどいない。仮にそうだったとして、最初から警察になど届けなければそれでいいのだから。そんなことをして、犯人に一体何の得があるというのか。自らリスクを作るようなものではないのか。ほぼ100%届出人と犯人とは無関係だ。でも電話をする気などなれなかった。わたしはその名前と電話番号が書かれたメモ書きを帰宅してすぐに捨てた。そして思った。この届けてくれた人が最初にわたしの2万円入った財布を拾ってくれたら、同じようにそのまますぐに警察に届けてくれていただろうかと。多分彼ならそうしてくれただろう。そう思うことが、唯一の救いだった。それとも拾った時に財布の中身を見て、彼は何と思ったであろうかと、架空の言葉が頭の中を駆け巡った。52円しか入っていないのか。なんだつまんねーの。じゃあ、サツに届けておいてやるか。良い事をするってのは気持ちがいいものだからな!それにもしかしたらこの財布は、既に抜き取られた後の財布かも知れないが、仮にそれなりのカネが入っていたとしても、やはり俺にはねこばばは出来ない。そんな外道なことはしない主義なんでね!だから初めから、こういうのを拾ったら、警察に届ける。おうとも!べらぼうめ!てやんでえ!ニャロメが!
わたしは公園の中の、ある植え込みの前に突っ立ちながら、他人の財布を手にしてそんな過ぎ去りし日の回想をしていた。あの時のわたしに似ている。だが季節はまだ晩夏で、雪の気配は無かったが、人の気配も無いところは、あの時と同じだった。わたしは回想から目覚めても、そのまま暫くそこに立っていることにした。
その植え込みの辺りをウロウロしてから既に1時間が経過した頃、一人の男がわたしの立つ植え込みへと近付いて来た。男は20代半ばくらいだろうか。顔が青く、目が虚ろだった。わたしの方へ歩いて来てはいるが、顔は常に植え込みの方へ向けていた。
「もしかして君は、才府雄さんですか?」
わたしは突然男に質問した。男は吃驚してわたしを見た。
「はい!僕の財布を知っているんですか?」
若い男はわたしに訊ねた。その表情に微かな希望が滲んでいた。
「うん。その前に、君の下の名前を教えてくれないかな?一応念の為に。開けて、銀行のカードの名前を確認して貰った。珍しい名前だから、苗字だけでもういいと思うんだけど、形式上、念の為にね」
「十詩太です」
男は答えた。間違いなかった。銀行カードの名前と同じだ。さいふおとした。財布の持ち主の名前だった。本当に変わった名前である。
わたしは若者に、植え込みの下に落ちていた、彼の黒い財布を渡した。男はわたしに礼を言い、嬉しそうだった。わたしは彼に、聞きたい事があった。その為に、1時間以上、ここで探しに来る人が現れるのをずっと待っていたのだった。警察に届けてしまえば、向こうから電話を掛けて来ない限り、わたしは偶然にも財布を拾い、その落とした財布の持ち主と話しが出来なくなってしまうと思ったからだ。わたしには是非知っておきたいことがあったのだ。
「実はその財布を拾ってから、僕は持ち主が落とした財布を探しに来ないかと、ここで1時間以上待っていたんだ」
「一時間以上?」
若者が少し怪訝そうにわたしを見た。まあそうだろう。どこの世界にそんな暇人がいるというのか。普通ならこの近くの交番にすぐに届けにいくはずだし、そうするべきなのだ。実際に彼も此処へ来る前に、近くの交番へ足を運んでいた。それからこの公園の、此処の植え込みに来たのだ。
「それについては申し訳ないと思っている。ただ、ひとつだけ、その財布を落とした人に、どうしても、個人的に知りたいことがあって、それでここでずっと待っていたんだ。そのまま交番に届けてしまうと、それが出来なくなるかも知れないからね」
若者は不思議な面持ちだったが、話しの内容は理解してくれたようだった。実際にわたしが悪意のある人間だったなら、とっくに拾った財布かその中身の2万円をもぎ取って、この場所からおさらばしていることだし、他人が落とした財布を拾ってから1時間以上経っているとはいえ、拾ったその場所でずっと待っていたのだし、その確率は低いが、誤った相手に渡さないように一応銀行のカード類にある名前も確認している。それに信じて貰うしかないが、拾った財布の中には他のカードもあったが、銀行のカードの名前を確認しただけで、必要以上に他人の財布の中身を好奇心に駆られて検めたわけでもない。そして財布の持ち主は今ここで中身を確かめ、何も欠けている物が無いのを確認していた。ねこばばされた後にわたしが拾った財布で無かった事が救いだった。2万円も残されていたとはいえ、元々入っていた金額が仮に20万とかだったら、わたしが盗んだのでなくても、やはり居心地の悪さを感じたからだ。それに相手もメンチを切っているような類いの人物でなくて良かった。
「訊きたいことって何ですか?」
男がわたしに訊いた。わたしは男に訊ねた。
「君はどうして、この場所に財布を落としてしまうことになってしまったのか。その事を、簡単にでいいから、知りたいと思った。もし言いたくなければ、それで全然構わないのだが」
若者はそれを聞くと、顎を引き、植え込みの方へ顔を少しだけ向けた。わたしにとってそれは意外な反応だった。何故なら相手はその事について、何でもない、世間一般の、日常によくあっても決して不思議でない、ありふれた出来事のひとつであると思っていたからである。暫しの沈黙の後に、彼はおもむろに話し出した。
「話せば長くなりますが、それでもよろしいでしょうか?」