第五話
「……女のつぶは揃っているが、正直なところ、あまり気が霽れないな」
ここ数日ずっと気鬱そうな表情をしていると、気の置けない友人に誘われて娼館にやって来たのは、あの優男であるフォンテーヌ伯アルフレッドだ。
「いや……」
気が霽れないのは店のせいではない。それはアルフリード自身が一番よく解っていた。
日ごと夜ごとに彼の元に通い詰めていた、ハルホード伯爵令嬢デリダがここ数日ふっつりと姿を見せていないからだ。
「居れば居たで姦しいが、声を聞かなくなるのも淋しいものだ」
部屋の中は、裸で睦み合っても寒くないよう暖炉の火が強めに焚かれ、甘ったるい香の匂いも充満している。
「あぁ……!」
涼を求めて廊下に出た伯の耳に、狂乱したような女の嬌声が飛び込んでくる。
「……なんだ?」
ここは娼館だ。女の喘ぎ声など珍しくもないのだが、あまりにも感極まった女の声に、伯も興味をそそられた。一体どんな風に玩べば、女からこのような声を引き出すことが出来るのかと。
しばらく歩くと、声の元にたどり着いた。扉が少しだけ開いており、そのせいで廊下に声が漏れ出ているのだったが――。
「いや、それでも……先ほどの声は……」
聞いたことのない乱れようだった。そう思い直して、気づかれぬようにそっと扉の隙間から部屋の中を覗き込む。
すると――。
「ああぁあああっ……!!」
落ちた化粧も気にせず、汗だくで男に跨がって腰を振る――今までに見たこともない女の乱れように、アルフリードは一瞬目を疑う。何故ならその女は。
「そんなに激しくされたらっ……こんなの、アルフリードにもしてもらったことありませんのにぃ……!」
一瞬、それが彼女かどうかを疑ったが……自分の名を呼ぶその声で、否応にも突きつけられる。
目の前にいるのが、自分の情人であるデリダその人だということを。
「おやこれは……フォンテーヌ伯は貴女の大事な方ではありませんか。それでも俺の方がいいと仰有るので?」
相手の優男は口角を歪め、目に獲物を堕とそうとする妖しい輝きを湛えたままに、デリダの耳元でそうささやく。
「貴方よっ……! 貴方のほうが良いわっ……! アルフリードよりもっ、エリーヤさまぁっ、あなたがっ、あなたがいいのおっ……!!」
扉一枚を挟んで、他人の槍に貫かれながら情人が自分を裏切るその睦言を聞かされて、フォンテーヌ伯は目を見開いた。
それは怒りか、落胆か、哀しみか、憤怒なのか……どれにも見え、そしてどれども取れないごちゃ混ぜに濁りきった、どす黒いドロドロとした顔色に変わっていた。
†
「ふ、ふふっ……まあ、なんとも素晴らしい見世物ね。さすが師匠、仕上げも完璧でしたわね」
「ありがとうございます。お嬢様の機嫌を損ねずに事をやり果せたようで、まずは安堵しております」
失意のフォンテーヌ伯アルフリードを見送ってから、カインはエリーヤの報告を聞いた。
「それで、デリダ嬢についてはいかがいたしましょうか。伯爵家のご令嬢だとお伺いしておりますが」
「そうね。どうすれば一番儲けになるかしら……」
「骨抜きにして貢がせることも、出来るといえば出来ますが……先日の一件を考えますと、お嬢様としては国内に留め置くお心づもりはないのではございませんか?」
「あら、彼女の心がフォンテーヌ伯から離れた以上、これ以上アベルが嫌がらせを受けることもないのではなくて? ふふっ、私もそこまで鬼ではないもの」
カインは小さく肩を揺らしながら、ティーカップを口に運ぶ。
「けれど、実行犯のマイヤー子爵家がお父様から搾り取られている今、助けを求めないとも限らないものね……心配の芽は摘んでおくべきかしら」
「それでは……」
「どこか他国の娼館にでも、高い値で引き取ってもらいましょうか。あれで彼女も伯爵家の三女ですもの、それなりの値が付くのではなくて。どうかしら?」
「そうですね。先日の一件で損をした分を取り返せるくらいの儲けは出せるかと存じます――磨けば、もう少しは光る玉かと」
「そう。ではそれでお願いしますね、師匠」
「はい。お嬢様のご指示の通りにいたします」
エリーヤは顔を上げず、ずっと平伏したままだ。
「どうかしら、師匠……久しぶりにその快楽の業、私にも揮ってみる気にはならないかしら」
からかうようなカインの言葉に、エリーヤは無言で一歩後ろに下がった。
「おからかいを……お嬢様の蜜の如きお身体には万金の値打ちがございますが、公爵様より次はないとの厳命をいただいております。どうか曲げてご寛恕いただければと」
そう、幼いカインが快楽漬けになっている現場から救出された折に、エリーヤはザンダール公爵から、カインに二度と手を出してはならないことと、稼ぎ頭である彼が他の娼館に移ることを禁じられているのだ。
「ふふっ、残念ね。もっとも命が危ういとなれば、その自慢の槍も役には立たないものかもしれないわね」
心底残念そうにつぶやくカインの声に、下を向いたままのエリーヤの頬から、冷や汗が幾筋か流れ落ちる。
「では、後のことは師匠の差配に任せるわ。精々高値になるように仕込んであげて頂戴――私の時のようにね」
「はっ……御心のままに」
最後にぎゅっとカインの口角が上がり、そのまま部屋を出て行く。
「……はぁぁぁ」
足音が遠離ったのを確かめてから、エリーヤは深く深く、息を吐き出していた。
――床には、流れた汗の跡が数滴分残っている。
「どうやら、命は繋げたみたいだな」
ゆらりと立ち上がり、ワゴンに備えられた茶をカップへ乱暴に注ぐと、一息に飲み干した。
「……お嬢様は、俺が抱いた中じゃ最高の女だが、同時に一番恐ろしい女ですよ」
カインを籠絡する現場に、公爵と私兵が踏み込んで来た時、エリーヤは即座に斬り殺されるところだったのだ。それをこともあろうに、快楽で息も絶え絶えになっていたカイン自身が押し止めた。
だが、それはエリーヤに絆された結果とか、そういうものではなかった。
『……この男は役に立ちますわ。飼い殺しにして、絶対に殺してはなりません、お父様』
汗と体液にまみれた少女が股を開いたまま、気怠そうだがしかし毅然と、そして優雅にそう声を発した。
エリーヤが命を救われ、そしてまた彼が女を相手にして完膚なきまでに破れた、それは初めての瞬間だった。
その時彼は、カインのことをすっかり心まで堕としきったとそう信じていた自分の確信が、脆くも崩れ去った音を聞いていたのだ。
「もうすぐ死ぬとでもわかった時には、もう一回くらいはお相手をお願いしたいモンですね。お嬢様」
少しだけ昔を思い出して、そんなことをつぶやくと、エリーヤも部屋を後にした。
†
「どうかしら、このところの社交界の方は?」
「あ、はい。カイン様のお陰で嫌がらせもなくなりましたし、お陰様で心安らぐ日々が帰って参りました」
「ふふっ、そう。それは良かったわね」
くすくすと、楽しそうにカインは笑う。
一歩間違えば、貞操を奪われて聖女の力を失い、そのまま何処ぞに売り払われてもおかしくはなかった。
そんな修羅場をくぐり抜けてきた割に、アベルの言葉はなんとも呑気なもので、そこがカインを興がらせるのだけれど。
「そう云えば、枢機卿にはどう話したのかしら」
「いえ、まあそこは……マルコと口裏を合わせまして……」
「なるほどそうね。何かを話して、騒ぎにならないということはないでしょうし……」
そんなカインの言葉にアベルも薄笑いを添えて、小さく肩を竦める。
「やや後ろめたい気持ちもあるのですが、ただゝゞお義父様にご心労をお掛けするだけで、他に何もいいことがないようなので」
実際に首謀者達にいかなる処罰が降りかかったのか、アベルには知る由もないのだが、カインが請け負ってくれた後、嫌がらせもピタリと止んだので、アベルがそれ以上何を気に掛けることもなかった。
「以前カイン様に、出来るだけ誰に対しても好意的に振る舞うようにとご助言を頂いたのに、早速このような面倒ごとを引き起こしてしまい、お恥ずかしい限りです……」
「ふふっ、そんな顔をしなくてもいいのよ。助言さえ守っていれば必ず上手く行くという、そんな単純な巷ではないということ。そうでしょう?」
何しろ今回の主因は「靡かなかった男の逆恨み」などという、貴族の女――それも純潔を旨とする聖女にとっては手の打ちようのない出来事に端を発している。実際、アベルにはどうすることも出来なかったことだろう。
「ですがカイン様に要らぬお世話を焼かせてしまったことも事実ですし、何か私に出来ることでお詫びを出来ればと思うのですが……」
「お詫び? 聖女様に貸しを作れたならそれは大いに活用したいところだけれど、今は特に――あっ」
にこやかだったカインの表情が、そこで微かに歪む。
「……そうね。ひとつだけあったかしら」
「そ、それは……?」
アベルの前で、カインが顔を歪ませることなど滅多にない事だ。
だからつい、思わずアベルの方も身構えてしまったのだが……。
「大丈夫よ。私があまり得意としていないだけで、アベルが困るようなことではないから」
先ほどのアベルに倣ったものか、カインも薄らとした苦笑いを添えて肩を竦めると、優しい表情でアベルを見詰めてこう云った。
「王宮にご一緒して頂けないかしら――王妃様のサロンに、ね」
「お、王妃様……ですか」
すると、普段あまり物怖じすることのないアベルがほんの少しだけ顔を引き攣らせた。
「あら、アベルにもそんな顔をする相手がいるのね」
弱いところを見つけたとでも思ったのか、カインの面がぱあっと楽しそうに華やいだ。
「いえ……王妃様とはお話ししたことはないのですが、ただ……」
「ただ……?」
「どうも私、王妃様にあまりよく思われてはいないみたいなので……」
「まあ……それはどうしてかと、聞いても構わないかしら」
「私としては何も問題は……ああえっと、ですが……」
云いかけてアベルはちょっと考え込んだ。
「……カイン様は、神様の国王へのご託宣の話、どの程度ご存知ですか」
「ああ、貴女が月に一度王宮に伺候しているアレのこと……?」
聞かれて、今度はカインが考え込む。
「確か、王と宰相しかその場にいるのが許されないのでしょう? 王妃様も居合わせることが出来ないとか」
「そ、そこまでご存知なのですね。さすがカイン様です……」
本来であれば、王族とその周辺しか知らない極秘の話も、三大公爵家の令嬢ともなれば――いや、カインならばそのレベルの情報でも得られるものであるらしい。アベルはその情報力に舌を巻いた。
ちなみに、アベルの口を借りて降された神の言葉の内容は、さすがのカインも知るところではない。
謁見の間を警備する騎士達も、神の託宣の最中は部屋の入り口から遠ざけられ、部屋の中の会話を聞き取れる者は誰もいないからだ。
「実はですね、その……どうも王妃様には、その件で私、ご不興を買っているようなのです」
「……それは初耳ね」
今度はちょっと意外そうな顔をする。実際に王妃と接見する立場のカインでも、そういう話は聞いたことがなかったようだ。
「いつも、その……託宣の直前に謁見の間を出て行かれる際に、胡散臭い者を見るような眼で一瞥なさるので。私の気のせいであればいいのですが」
「そう……アベルの観察眼がそれなりに鋭いことは、今まで聞いた話からも解るもの。恐らく気のせいではないのでしょうけれど……」
少しだけ考えごとをするように目を逸らすと、カインは――。
「それは、直接王妃様にお伺いするのがいいのではないかしら」
――すぐに、悪戯っぽく微笑んで見せた。
「お、王妃様に……ですか!?」
さすがに、いつものんびりとしたアベルもこれには鼻白む。
(本当に、カイン様は……なんて豪胆な方なのでしょうか)
波乱の予感、けれど新しいカインの顔を知ることが出来るのではないか。
そう思うと、アベルの胸も高鳴り始めていた……。
†(人称が変わります)
「き、緊張してきました……!」
――そんな話を承ってから数日の後。
私は、カイン様に連れられて王宮にお伺いしました。
「ふふっ、そんなに固くならなくとも平気でしょう……少なくとも、首が飛んだりはしないわ。私とは立場が違うのだから」
「そ、それは……」
それはつまり、私が粗相をするとカイン様の首が飛ぶということなのではっ!?
「ふふっ、大丈夫です。さあ、参りましょう」
「は、はい……」
私の懸念も何処吹く風という感じで、カイン様は導くように、悠然と私の前を歩いていく。
(いつか、カイン様のお友達として、胸を張って隣を歩けるようになったりするものでしょうか……?)
そんなことをふと考えたけれど、今はただ遅れないようについて行くことしか出来ない私だった……。
「お二人がお着きになったと、王妃様にお伝えして参ります。お待ち下さい」
「ええ」
私たちを控えの間に通すと、侍従さんが頭を下げて部屋を出ていく。
「な、何と云いますか、緊張してきましたね……」
「あら、物怖じをしないアベルにしては珍しいのではなくて」
「そ、そうでしょうか!?」
私、一体カイン様にどんな人間だと思われているのでしょうか……ちょっと心配になってしまうのですが。
「座って待ちましょう。しばらくかかるから」
「は、はい……」
貴族のご婦人を訪ねる場合――まあ相手との身分差にもよるところがあるだろうけれど、相手の身分が高ければ高いほどこちらが待たされる時間は長くなります。
カイン様相手にそんな経験はないのですが、一度他の公爵家のご婦人を訪問した時は随分と待たされたことがありました。
「今そんなにお茶を飲むと、本番で入らなくなるのではなくて?」
「あっ、はいっ……! そうですねっ!?」
カイン様にくすくすと笑われて、私は自分がお茶を飲んでいることに気が付いた。
――というか、自分がそれくらい緊張しているんだということに、ようやく気が付いた。
「……どうやら、本当に緊張しているようね。ごめんなさい、気が利かなかったわね」
「い、いえっ……! その、緊張してるって、自分でもいま気が付いたのでっ……!」
「ふふっ、そう」
ちょっとドキっとしてしまうような、優しい微笑みを投げかけられて驚く。
(あわわわ……カイン様こそが、実は聖女様なのではっ……!?)
取り乱す私をよそに、カイン様は立ち上がって目の前までいらっしゃると、そーっと、私の頭をなでられた!
「安心して。何があっても、貴女のことはわたくしが護りますからね」
「カイン様……」
「と、云うか……まあ、そんなことにはならないわ」
小さく肩をすくめると、カイン様はちょっと相好を崩された。
「確かに私と王妃様は仲がいいとは云えないけれど、仲が悪いわけでもないの。であれば、こんな風にそもそもサロンに呼ばれることもないでしょう?」
「そ、そうですね……」
ですが、仲は良くないのですよね……?
「悪くはないけど、良くもない……というのは?」
「私は、王妃様に人物として興味を持たれているわ。けれど評判の悪い我が公爵家と蜜月だと思われるわけにもいかないの――王妃様のお立場としてはね。解るかしら」
「ええと……ああ、なるほど。そうなりますね、失礼ながら……」
「いいのよ。事実だから」
今度は先ほどとは打って変わって、すうっと悪そうな笑みを浮かべられる。一体カイン様というのはどれだけの心の器をお持ちになっていらっしゃるのか……。
残念ながら、ザンダール公爵家の悪評は虚像でもなんでもない。それは先日の私の誘拐騒ぎでカイン様が娼館で揮われたお力からも証明されているし、私自身、カイン様にお逢いしようとするだけで、色々な人から窘められたり忠告を頂いたりしてしまうわけで。
「お待たせいたしました。間もなく王妃様がおいでになられますので、先にお部屋にお入りになり、お出迎えのご用意をお願いいたします」
そこへ王室付きの侍女さんがやって来て、案内をしてくれる。
「わかりました。では行きましょうか、アベル」
「はい」
カイン様に促されて、私も席を立った。
「わ、わぁ……」
侍女さんに案内されて王妃様のサロンに入る――なんだろう、豪華すぎて眼が潰れてしまいそうだ。
「すごいです……キラキラしていますね」
家具にしても、壁面にしても一目で贅を尽くしたものだと判る。口幅ったいことを云わせて貰えるなら、それはやや悪趣味の域に足を踏み入れているくらいには。
「王妃様の趣味というわけでもないのよ。国賓のもてなしにも使われるから、国の威信にも関わるわ。舐められるわけにはいかない、というところかしら」
「な、なるほどです……」
王妃様というと国で一番の権威ある女性という印象ですが、そういう話を聞くと、私のように役目に縛られているところもあるのか……という気持ちになる。
「そろそろね。出迎えるわ」
侍女さんが控える扉の方を向いて背筋を伸ばす。少しして、ゆっくりと重い扉が開く。
「王妃陛下のおなりにございます」
スカートの裾を軽く押さえ、片膝を軽く曲げながらもう片足を引く――王家の方へ対する貴族としての挨拶だ。
何度も練習したけれど、正直あまり上手く出来ている自信はない。
「陛下」
「……息災でしたか、ザンダール公爵令嬢」
「お陰様をもちまして」
王妃様――マルレーネ・システィア・マクシーム様。
確か御年三十を少し過ぎたくらいと伺っていましたが、そうは見えない美しさです。豪奢に着飾ってはいるけれど、これが嫌みに見えないのはご本人の容姿があってこそなのでしょう。きっと、私のように清らかさだけで売っている雑な聖女あたりでは、服や飾りに着られてしまうに違いない。
「それで、貴女が――」
「あっ、はい……」
いけない、返事ではなくて名乗りをしないといけなかったのに……!
「……こちらが当代の聖女、アベル・ミラ・エルネスハイム枢機卿令嬢にございます」
カイン様が代わりに名乗ってくださった。うぅ、申しわけありません……!
「あ、アベル・ミラ・エルネスハイムにございます。この度はこのような場へのお招き、こ、幸甚に堪えません……」
しばらくの無言の空間に冷や汗が流れる。王妃様の視線が私に降りてきているのは判るけど、お、畏れ多くて目が合わせられません……!
「……カインが目をかけていると噂になっているから、一体どのような女狐かと思ったけれど……思ったよりも普通ね?」
「めぎっ……!?」
思わず顔を上げてしまい、その王妃様のお顔と云ったら……!
私、一生忘れない自信があります。あれは明らかにガックリなさっているお顔……!
「まったく、なぜそれ程までアベルにご興味をお持ちなのかと思っていましたが……」
混乱している私の横で、カイン様は王妃様に向かって大きな溜め息を落とされて……ええっ、い、いいんですかカイン様っ! そんなご不敬に及ばれるなんて……!?
鳩が豆鉄砲を食らったような顔を私がしていると、王妃様は悠然と手を一振り。私とは違う見事なカーテシーを見せて、お付きの侍女さん達が音も立てずに部屋の外に出て行く。
「初めましてかな……いえ、城では何度か逢っているか。妾はマルレーネ・システィア・マクシーム。このマクシームの王妃だ。この場では妾のことをマルレーネと呼ぶことを許す」
ええっ、王妃様をお名前で呼ぶなどと、それはさすがに不敬なのでは……!?
「あくまでもこの場でのことよ。それ以外では、きちんと『王妃陛下』と呼ぶようにね、アベル」
「は、はい……それは勿論。と云いますか、むしろ今もそうお呼びした方がいいのでは……」
「これは妾が自らの為に用意した『息抜き』の場だ。その証拠に、侍女も護衛も、この場で起きたことを記録できる者は誰もおらぬ」
あっ、なるほど……それで侍女さん達も皆さん外に出られてしまったんですね……。
「左様にございますか……その、それでは僭越ながら、マルレーネ様と呼ばせて頂きます」
「それでよい」
高位の人にあまり何度も質問を投げかけるのも不敬に当たるだろうし、ここは云われたとおりにしておきましょう。
「ではカイン、お茶を頼めるかしら」
「承りましょう」
えっ、ここでもカイン様がお茶を淹れられるのですか!?
「ああアベル、貴女は手伝わなくていいの。マルレーネ様に対する毒殺を疑われたくなければ、大人しく座っていらっしゃい」
「ど、毒っ……!」
そうか、私の時と同じなんだ……そもそも、どうしてカイン様がお茶を淹れられるのかが不思議だったけれど。元々は王妃様の為だったのですね。
「さてアベル、まずは詫びよう。妾は勝手な憶測でそなたに勝手に落胆してしまった。全くそなたのせいではないというのにな」
「いえ、私もカイン様ほどの才ある方に何故友誼を頂戴しているのか、自分でも理解出来ていないくらいですので、そこはお気になさらず……」
「ほう」
私がそう答えると、王妃様は不思議と納得したというような、砕けた表情をされた。
「いかがですか。『良い』でしょう、この子」
云いながら、カイン様は王妃様にお茶を饗する。えっ、良いって何がですか……?
「そうだな。しかし妾やそなたに怖じ気づかぬというのは、生粋の貴族ではないからとも云えるだろうからな……」
以前カイン様に云われた、『事前の智慧を持たないが故』という話と同じ意味だろう。それでも、私に王妃陛下は十分に恐ろしいと思える方だけれど……。
「王妃様のご実家であるシスティア公爵家ならまだしも、この子は泣く子すら慄え上がるであろう我がザンダール公爵家に、のこのこと遊びに来てしまうような鉄面皮なのです」
「ふむ……云われてみればそうだな」
てつめんぴ……あの、カイン様いまのこのこって……それ、絶対に褒めていらっしゃらないですよね!? 王妃様も何やら納得されていらっしゃる!?
「しかしカイン、そなたも自らの家名に対して自虐が過ぎるのではないか?」
「自虐ですか? いいえ、これは客観的な事実ですので、自認というべきでしょうか」
云いながら、カイン様は扇子で口元を隠すとクスクスと笑った。
「そうだな、もっと胸を張るべきだ。何処に出しても恥ずかしくない、三大公爵家の一角を占める家なのだから」
丁々発止とでもいうような遣り取りが続く。私程度では、その会話の裏の意味までは理解出来そうにない。そうか、王妃様も元々は公爵家のご令嬢だったんですよね……。
「ですが、ただ爵位が同じだったというだけでは、マルレーネ様ほどの女丈夫を私と同列には並べられないでしょうか」
「じょじょうふ……とは、女だてらに腕っ節が立つということですか?」
「そうよ。この方は王太子妃の時分、外遊中に賊の襲撃を受けた折、剣を抜いて当時王太子だった陛下を身を挺してお護りになられた実績があるのよ。対外的には秘されているけれど」
「ええっ、すごいです……!」
「それは順序が逆だな。女だてらに剣術にうつつを抜かす妾を王太子妃として迎えた陛下が、そもそも酔狂なのだ。もっとも、陛下に妻を選ぶ自由があったかどうかは定かではないが」
「そうでしょうか。私には衆目も憚らない鴛鴦夫婦のように思えますが……主に陛下からの愛され方が」
「そうか? そうであるならば、妾はまだ陛下に愛想を尽かされてはいないということだな」
そう答えながら、一瞬だけ少女っぽい表情をされる王妃陛下。不敬不遜ながら、ちょっと可愛らしいなどと思ってしまう。
「そういえば、アベルはマルレーネ様を怖がっていたわね。この機会に聞いてみるのがいいのではないかしら」
「おや……」
「ぴぇっ……!?」
えっ、ええええええっ、どどど、どうしてこんな拍子でそんなことを云われるのですかカインさまぁぁぁぁっ……!?
「くっ……」
わ、笑ってる……扇子の陰で笑いを堪えていますねカイン様っ……!
「いえ、その……いつも神降ろしの儀で国王陛下に拝謁させていただく折、王妃……じゃないですね、マ、マルレーネ様のご機嫌がよろしくないようにお見受けしておりましたので、私は知らないところでご不興を買っているのではないかと、そう思いまして……」
一生懸命、失礼にならないような云い回しをこねくり回してみたものの……やっぱり失礼な云い様は変わらなかった気がする。
「ふむ。確かに妾はあまりいい顔はしていなかったであろうな」
や、やっぱり……うぅ。そうですよね……。
「宰相もいるとはいえ、若い女と記録も残されぬ場所で三人きりで、しかも頗る付きの美女と来ている。歴代連綿と続く神事とは云っても、中で何をしているのかわかったものではないからな」
そう云って、マルレーネ様はくすりと笑われる。
「な、なるほど……そのように仰有られますと、私も身の証しを立てようがございませんね……」
「おや、そういうものなのか」
「は、はい。神様が身に降りて来ている間、私は何も覚えていないものですから……私自身としましては、国王陛下と神様がお話しになった事柄など、覚えていない方がありがたいなどと考えておりましたが……」
「…………」
「…………」
「……えっと、あの……?」
マルレーネ様とカイン様は、互いに見つめ合うと怪訝そうな顔をしている。
「やはりそうなのか。嘘をついているようには見えないしな……」
一言つぶやいてから小さく嘆息されると、マルレーネ様は、
「神がお降しになった言葉を、聖女様は教会に持ち帰っているのではないかという疑いをかけていたのだが」
そう云ってちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべられた。
「ああ、そうですね。もし私が神様のお言葉を覚えていれば、きっとそうなりますよね……一番神様のことばを賜りたいのは、きっと教会の方々でしょうし」
そういえば、それについては義父にも夕食の話題で聞かれたことがある。何となれば教会で神様をお降ろししましょうか? と提案したけれど、それは教会法によって禁じられているのだと、そう云っていた。
「ええと確か、教会で一番の権威は教皇様だけれど、神様の招請については王家の方以外が行ってはいけない――そう伺っております」
「そうだ。どちらが専横することのないよう、王家と教会で権能を分けているのだ」
「なるほど……?」
私にはよく分からないけれど、色々あるのだろう。
王の血筋が神によって認められ建てられた国――その国教とされている以上、王家と教会は切っても切れない間柄ではあるのだろうけれど、それでも蜜月とまでは云い難い。お義父様もそう仰有っていた。
「……そこで、だ。ひとつ聖女様にお願いがあるのだが、聞いて貰えるだろうか」
「はい……?」
そんな話をしていると、優雅な微笑みを浮かべて王妃様が突然そう云った。
「な、なんでしょう? 私にお応え出来ることならいいのですが……」
「ああ。ここで神の招請を試みて欲しいのだ」
「は……」
はぇえぇえぇぇぇぇ……っ!?
「ふふっ、さすがのアベルでもそういう顔になるわよね」
私は叫び出すのを抑えるだけで必死だったのに、カイン様には驚く様子が全くない。つまりそれは……。
「な、なるほど……本日私をここにお招き頂いた理由はそれなのですね」
「有り体に云えばそうだな。まあ、カインが可愛がっている相手がどんな者かというのも気になっていたからな。一本の矢で二匹の鳥を墜とす好機だと思っていた」
さて、ですがここに神さまを招請してしまってもいいのかどうか……。
「いえ、それは私が悩むことではありませんね。承知致しました」
私がそうお答えすると、何故かお二人は逆にキョトンという顔をなされました。
「あの、どうかなさいましたか……?」
「ああ、いや……もっと悩むかと思っていたからな」
と、王妃様。
ああ、なるほど。それは確かにそうかも知れませんね。
「そもそも、人の身で神様を招請する力など身に余るものですし、私はただ神様の道具であり、仮初めの器。自身の意志は関係ないものだと思っております。総ては神様の御心のままですので」
「……確かにそうね。治癒の力や聖なる術といったものはアベルの裁量に任されているけれど、神の招請は、そもそも神が応じるか否かで決まっている、ということなのね」
「はい。もし神様が私に総ての裁量をということであれば、私の魂はこの器には残っていないでしょうから……」
聖女となった時、私は神様によっていくらか姿や性格に変化が与えられた――その話を覚えて下さっているのだろう、カイン様はただ黙って小さく肯かれた。
「では早速ですが、神様をお喚びしてみようと思いますが……ご準備はよろしいでしょうか」
私は、祈りを捧げると、ゆっくりと神様に心の中で呼びかけを行った――。
†
「……思ってもみないことになったな」
神様への祈りを為すと気が遠くなり、わずかに微睡んだ後、かすかに誰かが話す声が聞こえてくる。
「そうですわね。努々、先のことをよく考えておかなければならないようですが――ああ、アベル。目が覚めたのね……大丈夫?」
そこで、目を覚ました私に気が付いてくださったのか、カイン様に気遣われる。
「あ、はいぃ……ひゃわっ!?」
ぼんやりと首の後ろに柔らかな感触があったけど、それがカイン様のお膝だということに気が付いて、私は大慌てで起き上がった!
「そのように慌てて起き上がるものではないわ、アベル。眩暈を起こすわよ」
「だっ……大丈夫っ、だいじょうぶですのでっ……!」
確かにちょっとクラクラするけれど、私としてはカイン様に膝枕などをさせていた方がよほど大問題なんですが!
と、そこまで慌ててから、私も、とてつもなく重大な事実に気付かされざるを得なかった。
「……もしや、神様は呼びかけに応えて下さったのですか」
まさか、神様が招請に応えられるとは思っていなかったので、正直驚きを隠せない。
「妾達も本当に驚いた。丁度、神も我らに伝えたいことがあったようで、運が良かったようだな」
「お二人に……神様から、伝えたいことが……」
考えてみれば、神様の言葉を受け取ることが出来るのは国王陛下と宰相様のお二人だけだ。もしかしたら、それだけでは不都合や不十分があるということも……?
「ほんの出来心からの思いつきだったけれど、これは少々風向きが変わってきてしまったかな」
「そうですわね。下手を打つと、いい意味でも悪い意味でも、我々の関係を一新しかねない程には」
女傑であるお二人が、真剣な表情でそんなことを云われるのは、もしかしてとんでもない一大事なのでは……。
「えっ……あの、そんな大変なことに……?」
「……アベルは気に病まなくてもいいのよ。いいえ、むしろここはアベルにお礼を云うべきでしょうね」
「そうだな。突然降りかかる災いには備えようもないが、兆しがあるのであれば、まだやりようはある」
「…………」
これは明らかに、神様からのご託宣が、何かとんでもない厄介ごとだということだと直感で理解する。
「あの、率爾ながら、何か教会に伝えることなどはありますでしょうか……?」
「いや、今のところ必要はなさそうだ。将来的には何か頼むことになるやも知れぬが、その時はアベルを通して依頼しよう。ふふっ、そういう気遣いも出来るのだな」
王妃様は、そう答えるとからかうように私をお笑いになった。
「こう見えて、アベルは割と聡いのですよ、マルレーネ様」
「カ、カイン様……」
もう、カイン様まで……。
「それとアベル、それとカインにもな。もうひとつ申し渡しておく」
「あっ、はい……!」
そう云って、王妃様はすうっと息を吸うと、姿勢を正された。
「我、マルレーネ・システィア・マクシームはここに宣する。ここに行われた神への招請は妾の名の下に行われた行為であり、その責は妾がその総てを負うものとする」
「……ご勅旨、我ら両名ここにしかと賜りましてございます」
「たっ、賜りましてございます……!」
カイン様が膝を突いたので、私も慌ててそれに倣う。
今の宣言は、王家に名を連ねた者だけが行える『勅言』という神聖な術だ。宣言した場所に信頼できる人間が誰もいなかったとしても、その発言を神の力によって正確に記憶させることが出来るという。
私も、宰相様に説明を頂いただけで、それがどういった原理のものかは知らないのですが……。
「神の招請は我が国において神聖なるものだ。それは王家の血族、あるいはその伴侶によってのみ行われねばならない……これは、先の招請が聖女アベルの独断によるものではないということを証すものだ。まさか妾も、神が応じて下さるとは思っていなかったのでな」
「そ、そうですね。私も思っておりませんでした……」
思ったよりも大事になってしまったけれど、これも私としては忘れてしまった方が良さそうだ。
「少しカインと二人で相談をしたいところではあるが……カインとしては、アベルを独りで帰すのはイヤであろうな」
「……そうですね。今日のところはマルレーネ様と私、二人の我が儘に付き合わせてしまった形ですし」
「えっ、いえ……何か大変なお告げがあったようですし、私のことでしたらお気になさらず……!」
慌てる私を優雅に手で制すると、カイン様は余裕のある笑みを浮かべる。
「いいのよ。私が貴女と一緒に退席したいの」
「カイン様……」
「ではこれでお開きとしよう。そうだアベル、私はもうそなたを友人と考えている。次に逢った時は礼儀を守った上で、また言葉を交わしてくれると嬉しい。ではな」
「は、はい……!」
そう云われてしまうと、それ以上は何も返せなくなってしまう私でした……。
「――それにしても、急転直下とはこのことね」
「は、はあ……」
王妃様のサロンを辞すると、それでも少し面白そうにカイン様はそうつぶやかれた。
私は、神様をお招びした部分の記憶がすっぽりと抜けているので、どうしても間の抜けた返事をすることしか出来なかったのですが……。
「アベルには無理をさせてしまったわね。もう身体の方は平気なのかしら」
「はい。神様に身体をお渡しすると、しばらくは神気が体内に残ってしまうのですが」
「神気……」
「ええ、こんな感じに」
軽く息を吸い込むと、胸の奥で『心』に力を入れる。すると――。
「これは……何かしら、アベルの身体がうっすらと光を放っているように見えるわね」
「私にもよく分かっていないのですが、神様の霊妙なお力が少しだけ残っているのだと」
「不思議ね。まるで真珠のような――乳の色と虹の色が混じり合ったような、淡い輝き」
するとどう云った効能なのか、私を見詰めていたカイン様の瞳から、はらりと一粒涙がこぼれ落ちた……!
「……なるほどね」
ギリッと、少し嫌な音が聞こえて……気付けば、カイン様の唇から一筋の血が滴る。
「カイン様……!?」
私は慌ててハンカチーフを取り出すと、カイン様の血を拭う。
そのカイン様の表情と来たら! ――正直、しばらくは忘れられそうにない。それは傲然とした強い、とても強い怒りの表情だったから。
「ああ、ごめんなさい。貴女のハンカチーフを汚してしまったわね」
「い、いえ……そのようなことはどうでもいいのですが、大丈夫でいらっしゃいますか」
「……ええ」
さっきの表情が嘘のように消えて、カイン様はいつもの穏やかな表情に戻られる。
「この光、いつでも放てるというものではないのね」
「そうですね。神様が身体にお留まりになられた後、心に残滓のように残っていて――先ほどのようにわざと光らせたりしなければ、二刻か三刻ほどは身体にあるでしょうか」
「アベル、貴女ほんとうに聖女でしたのね……」
「あの、今頃になってしみじみとそのように云われますと……さすがの私も立つ瀬がないのですが!?」
「ふふっ、そうよね。もうそんな場面は散々見て来たというのに」
優しく微笑まれると、カイン様は私からハンカチーフをそっと奪う。
「これは預からせて頂戴。しっかりと洗ってお返ししますから」
そう云って微笑うカイン様だったけれど、その様子には表情から見て取ることの出来ない、何か凄みのような雰囲気が漂っていたのでした……。
†(人称が変わります)
「……やってくれたわね」
アベルを屋敷に送り届け、帰りの馬車――カインは独りごちていた。
「この私に寸暇といえど、神に対しての畏敬を抱かせるなんて――」
恐らくアベルの意図ではない。彼女の体内に残されていた神気が引き起こした、いわゆる奇蹟の類いであるのは間違いない。
「勿論、私もこの国の貴族である以上、神に対して畏敬を抱かぬわけもない。当然ね」
だが、しばらくの沈黙ののちに、再びカインの開いた口から出た言葉は。
「――けれど、私の意志をねじ曲げてまで畏敬を抱かせるなどという真似は、たとえ相手が神だったとしても、それを許せるものではないわね」
そう、アベルの放った光暈は、強制的に、カインの心の中へと畏敬の念を這入り込ませて来たのだ。寸暇ののちに、己が感情の違和に気付いたカインは唇を噛み、その痛みで自分のなかにあって、己のものではない感情を振り払ったのだった。
「しかしものは考えよう。ならばこのカイン、神の挑戦を改めてお受け致しましょう」
唇の疵をそっと舌で沿ると、カインはその端正な面に、小さく昏い笑みを浮かべていた……。