第四話
「フォンテーヌ伯という方をご存じですか?」
しばらく考え込んでいたアベルが、おずおずと口を開いての第一声がそれだった。
「ええ、知っているわ。フォンテーヌ伯アルフリード……社交界で一、二を競う伊達男と云われているあの方ね」
「そんなに有名な方なのですか。確かに整った顔をされた方でしたが……」
アベルは相手の顔を思い出そうとしているのか、わずかに眉間にしわを寄せた。
「……あら、その云い方からすると、アベルにとっては好みではなかったということかしら」
「いえ、好みかどうかという以前に、私は神に純潔を保つという約定を交わしている身ですので……」
「そうだったわ。要らぬことを尋ねてしまったわね」
普通の貴族令嬢であれば、あの伊達男になびかぬ女はそういない――フォンテーヌ伯アルフリードというのはそういう男だ。
痩身長躯に金の髪、そして碧眼の瞳、整った容姿。その清潔感とは裏腹に、いかにも女にだらしがないという感じの危険な色香を漂わせている。
「ということはつまり、えっと、カイン様にとっても好ましい男性ということですか?」
「あら、私? そうね……」
宮廷において美男子の代表格にある人物、というところで普通はその品定めは終わるところだけれど、アベルは私の好みかどうかを尋ねてくる。どうやら、アルフリードの魔性の美貌はアベルには通用しないものであるらしい。
「遊び相手としてなら、申し分ないかも知れないわ。ただ……」
「ただ?」
「私が相手ということになると……接待になってしまうかも。そこはあまり楽しくないかしらね」
「接待、ですか?」
アベルがキョトンとした顔になる。まあそうでしょうね。
「彼のような男は、云ってみれば狩人のようなもの――獲物に情けをかけるような真似はしないものよ。気が向いた時に牙をかけて、好き勝手に喰い散らかしたら、あとは飽きて捨てるだけ」
「あっ……」
そこでようやく云われている意味を理解したのか、アベルの顔が赤くなる。
「けれど私は公爵令嬢で、しかも阿婆擦れ――いわば『熊』のようなものかしら。『狐』や『兎』を常食にしている彼にはいささか荷が重いのではないかしら」
「くま……カイン様がくまなのですか?」
アベルには残念ながら男女に関しての想像力が足りないようだ。首を傾げる様子に私は小さく噴き出してしまう。
「喩えが悪かったわね……私は彼よりも爵位が上だし、最悪彼の面子をいつでも潰すことが出来てしまう。そういった相手には彼も好き勝手は出来ないだろう、ということね」
「あっ、なるほど……それでくまなのですね、くま……くま……」
変なところで感心してアベルがうんうんと肯くものだから、私はおかしくて仕様がない。
「ぷっ、くくっ……別に、私が鋭い爪を持っていたり、狩人を引き裂いたりするわけではないのよ?」
「そっ、それくらいはわかりますっ……!」
まったくもって可愛らしい。けれど、この子は神との約定に於いてこれから終生このままなのだと思うと、それはそれでやや哀れな心持ちにもなってくる。
「それで、今日の話の主役はフォンテーヌ伯ということなのかしら」
「あっ、はい……そうとも云えますし、そうではないのかも……?」
どうやら、もう少し複雑な話のようだ。取りあえず、今は大人しく彼女の話を拝聴しましょう。
「先日王宮で催された舞踏会に参りましたのですが――そこで、フォンテーヌ伯のご挨拶を受けたのです」
アベルは、思い出すようにこめかみに指をあてると、ぽつりぽつりと、その時の様子を語り出した……。
†(人称が変わります)
「これは聖女様、初のお目見え仕ります。私はフォンテーヌ伯アルフリードと申します」
フォンテーヌ伯アルフリードはアベルの手を取ると、大仰に押し頂いてその甲に接吻をする。
「初めまして。アベル・エルネスハイムにございます。どうぞ大神様の加護のありますよう」
アベルが舞踏会や貴族の行事に顔を出すのは、他の貴族達とはいささか用向きが異なる。
アベルは聖女――彼女自身の気持ちとは無関係に、彼女の身体や心、そして言葉に至るまで、そこには神性とでも云うべきなにがしかの聖なる力が宿っている。
アベルの口から出でた祝福、言祝ぎといったものには、全て神からの力が宿るということだ。
国を支えるべく、王の庇護を受けている聖女は――つまり、その国を支えている貴族階級の者達に神の恩寵、神の祝福を分け与える責務を負っている。
また逆に、こうした場で貴族達に祝福を与えることが、教会にとっては喜捨、寄進といったものへの無言の無心という意味合いを持つことになる。
もしかしたら、教会としてはアベルに貴族界隈でのアンテナとしての役割を担ってほしいと考えているかも知れないが、そこは年若いアベルにはまだ荷が重いことだろう。
「さすがに神の恩寵を受けた方……まるで神話の女神に生き写しのような可憐さだ」
いつもなら、祝福を与えてそれでご機嫌よう――という流れだが、このアルフリードという男は違った。取った手を離さず、ねっとりとした蜜のような言葉をささやく。
「あ、はあ……それはどうも、ありがとうございます……」
――聖女というのは、神に身を捧げられた存在であり、終生処女であることを強要される。
アベルも、よもやそんな自分に粉をかけてくる男性がいるとは思いもよらず……真意を図りかね、思わずやや間の抜けた受け答えをしてしまう。
「……どうやら、聖女様は私をお気に召さなかったようだ」
(えっ……)
するとどうだろう、アルフリードの表情が面白いように変わっていく。
波が引くように、湛えていた笑顔が枯れると、冷血な、少しぞっとするような素顔が現れた。
「失礼します、聖女様」
「はい……」
恭しく頭を下げ――けれど、その垣間見ることの出来ない隠れた表情に、もしや何かぞっとするようなものを隠しているのではないか。
そんな風に、何故かひどく怖気立つアベルだった。
†(人称が変わります)
「ぷっ……ふ、ふふっ……ああ、ごめんなさい……」
私のそんな話を聞いて、カイン様は何故か……えっ、もしかして笑うのをこらえてらっしゃる?
「な、何かおかしいところがありましたでしょうか……?」
「ええ、もう最高……貴女が目の前にいなければ、大笑いしたいところだったのだけど。さすがにそれははしたないものね」
云いながら、カイン様はとても楽しそうにしている。
「ごめんなさい。貴方にとっては嫌な思い出だったのよね」
「いえ……カイン様が楽しめていらっしゃるなら、それは構わないのですが、ただ……」
「私の笑った勘所がわからない――そんなところかしら」
「はい……」
何でもお見通しなのか、カイン様はまるで無知な妹でも見守るような優しいお顔になる。
(ううっ、つまり世間知らずなのは私、ということですよね……?)
「いいのよ。そんな顔をしないで……貴女には必要のない、世渡りの話なの」
筒抜けだ。つまり私は無知な妹、ということなのだろう。
「まあ一言で云えば、貴方は彼の矜持を一撃で打ち砕いてしまったということね」
「えっ……」
私が、ですか……?
「フォンテーヌ伯と云えば、名うての放蕩者。その容に墜ちぬ女はいないと云われているわ。それを――ああこれは貴女の悪口ではないのだけれど」
困ったようにくすっと微笑むと、カイン様は楽しそうに続けた。
「それを、『十五かそこらの小娘』が袖にする……それ自体が彼にとっては屈辱だったのでしょうね」
「……ええっ?」
再び、私が驚いたような、腑抜けたような声を上げると――カイン様は楽しそうに笑った。
「ふ、ふふっ……貴女きっと、フォンテーヌ伯にも今のような表情をしたのでしょうね。さぞ、伯も愕然としたでしょうけれど」
さっと優雅に扇を広げると、口元を隠してカイン様はこらえられずに笑っている。よほどおかしいのだろう。
「本当に、アベルは可愛らしいわ……抱きしめたくなってしまうわね」
「どうして急にそんな話に……!?」
「貴女に、どう説明をしてあげたらいいのか……そうね」
少し考えると、カイン様は席を立って私のところにやって来た。
「これは聖女様、初のお目見え仕ります……」
「えっ……」
そっと、カイン様は私の手を取って……あのっ、顔が近いのですが……!?
「私はザンダール公爵令嬢、カインと申します。どうぞ、神の御手に接吻することをお許し頂きたい」
「ひゃっ、ひゃいいっ……!」
そう云って、カイン様は私の手の甲に唇を押し付ける。
本当に、この人の一挙手一投足は美しい……思わず見とれてしまう。
「……ふふっ」
艶やかに微笑んで……それだけで、私は身も世もなく恥ずかしくなってしまう。
「ね? 伯はきっと、貴女にこんな風になって欲しかったのでしょうね」
「えっ……あっ……」
そうか……私がポカーンと呆気に取られていたから、興味がないと思われてしまったのですね。
いえ、実際に興味はなかったのですが……。
「理解、出来たかしら?」
「は、はい……わかった、気がいたします……」
「そう、それはよかったわ」
にっこりと微笑む。本当にお美しい。
もう、私なんかよりもカイン様の方がよほど聖女らしいと思います……。
「ですが、どうして私はフォンテーヌ伯にはドキドキしなかったのでしょうか……」
「ふふっ、そうね。つまりそれは私にはドキドキしてくれたということだから、多分面食いではあるのよね、アベルも」
「そ、そうですね……」
さすがカイン様、ご自分がすごい美人だという自覚と自信があるんですね……。
「恐らくだけれど、人は多かれ少なかれ、その人の後ろにある物語を重ねて見ているのでしょう」
「物語……」
「私と貴女には、互いをドキドキさせるだけの積み重ねがあるということね。もっとも、私の場合は初めから『恐ろしい公爵家の女』という物語が後ろにあるという部分もあるかしら」
「なるほど……私は、フォンテーヌ伯の評判すら何も知らなかったから」
「貴族の子女なら、フォンテーヌ伯の浮名を知らない者はないわ。そして同時に、社交界の象徴として憧れの存在でもある」
私は、そもそもとして男女の交わりを禁じられている身。だから、そもそもそういった呪縛とは縁がないということみたいだ。けれど……。
「あら、顔が少し赤いわね。大丈夫?」
「は、はい……大丈夫、です……」
どうしてカイン様が相手だと、私はこんなにもドキドキしてしまうのだろう……?
「それで……主役はフォンテーヌ伯ではないと云っていたわね。話には続きがあるのでしょう?」
「あっ、はい、そうでした。それでですね……」
私はカイン様に促されて、話を続けることにした。
「その日は、それで終わったのですが……」
私は、記憶の糸をたどるように中空に視線をさまよわせた。
「その数日後に、ほかの伯爵邸で催されたサロンにお邪魔した時のことです」
「美しい御髪ですわね。貴女様が新しい聖女でいらっしゃいますね」
そんな声に振り返ると、豪奢に着飾り――カイン様に較べると、云い方が悪いけれどやや下品な印象がありましたが――取り巻きを何人か連れた妙齢の令嬢の姿がありました。
「お初にお目にかかります。わたくしはハルフォード伯爵が三女、デリダと申します」
「これはご丁寧なご挨拶を。アベル・エルネスハイムにございます。どうぞ大神様の加護のありますよう」
そう応えて私が頭を下げ、顔を上げると、扇で顔を隠してはいましたが、何やら値踏みをされるような視線で見詰められました。
それだけなら、聖女というのは好奇の視線を受けることも多いですし、気にも止めていなかったのですが……。
「……アルフリード様を袖にされたというので、どのような美しい方かと思いましたが、どうやら美しいのは御髪だけだったようですわね」
そんな言葉の後、周囲を取り巻いていた令嬢方も、一緒にクスクスと笑い出しました。
当の私はと云えば、会ったこともない人からのいきなりの悪口に思わずぽかーんとしてしまったのですが……そのお陰で、この人達は最初から、私を笑いに来ているのだと気が付きました。
「ふふっ、そうよね。云われた当の本人がキョトンとしているというのに……周囲が合わせたように笑い出したなら」
「そうなのです。私も、笑われてから初めて自分が馬鹿にされていることに気づいたくらいなので……」
カイン様が屈託なく笑って下さっていると、不思議といやな話も気にならなくなってくる。
「なるほど。つまりここが、この話の主題なのね……フォンテーヌ伯は、自分の愛人を使ってアベルに嫌がらせを仕掛けてきたと」
「うーん、特に証拠もないので、そう云い切ることも出来ないのですが……他に原因も思い当たらない、という感じでしょうか」
デリダ様もわざわざフォンテーヌ伯の名前を引き合いに出していますし、多分そうなんじゃないか、程度の憶測でしかないのですが。
「……もしかして、その嫌がらせは今も続いているのかしら」
「ええと、まあ地味に続いていますね。たまたまどこかのサロンで鉢合わせした時とか、それくらいですが」
「そう」
私が答えると、カイン様は楽しそうににこにこしている。
「アベルのその様子を見ると、特に滅入っているとか、参っているという感じではなさそうね」
「えっ……はい、まあ……そうですね。ちょっと面倒くさいかな、くらいには思うのですが」
神様に選ばれてから、見た目だけはかなり儚げに変わった私ではあるけれど、そもそも孤児であった当時のことを思えば、この程度の嫌がらせなんて蚊にとまられた程度のものではあるんだけど。
「ふふっ、それならよかったわ」
私の不遜な話し方が悪かったのか、カイン様は笑いを堪えていらっしゃるようだ。
彼女達と同じ「くすくす」であるのに、カイン様のそれが不快でないのはどうしてなのでしょう?
「さて、アベルがしたくない話を強請ってしまったわね。約束の焼き菓子を用意しましょう」
「ありがとうございます。ですが、こんな話で本当によかったのでしょうか……」
「ええ……ふふっ、ちゃんと楽しかったもの」
カイン様は楽しそうに、私に手ずからお菓子を用意してくれた……。
「ですが私、解らないことがあるのです」
「私の笑いの勘所が解らないという話かしら?」
「いえ、まあそれは……」
そこは先ほどと同じ問答です。私が世間知らずということですよね……。
「その、もっと気になっていることがありまして」
「あら、何かしら?」
自分なりに色々と考えをめぐらせてもみたのだけれど、やはり解らないことがあって。
「その……デリダ様はどうして、私に嫌がらせをしたのでしょうか」
私は聖女で、そもそも色恋ごとからは距離を取っている。
「素気なくあしらった当のフォンテーヌ伯がご機嫌を悪くされるのは解るのです。けれど、デリダ様はなぜ――? 恋敵が増えないなら、それに越したことはないかと思うのですが」
「ああ、そういう話ね」
何か、納得の行く質問だったのだろうか。カイン様は小さく微笑むと、紅茶を口にした。
「どう説明すればいいかしら。人間というものは……特に女というのは、思っているよりもさもしいものなのだと思うわ」
「さもしい……ですか」
「デリダ嬢は、恋敵が増えないことよりも、貴女が自分の恋人に歯牙にもかけないことに腹を立てたのね」
「ええっ……!?」
私が驚くと、それがおかしかったのは、カイン様は扇を広げると顔を隠して肩を震わせた。きっとお笑いになっているのだろう。
「ふふっ、もう……そうね。例えばアベルがとても大事にしていて、人に褒めて欲しいくらいの飛びきりの宝物を持っているとしましょうか」
「は、はあ……」
「それをドキドキしながら私に見せる……すると、私がいかにも下らないものを見るような、冷たい受け答えをしたとするわ。そうしたら、アベルはどう思うかしら?」
「うーん……しょんぼりはすると思います。カイン様にはよいものではなかったのだなということなので」
「あら。ふふっ、困ったわね……たとえが悪かったかしら」
くすくすとカイン様は肩を揺らす。ええっと……?
「そこは、『莫迦にされたと思って腹を立てる』と答えて欲しかったわね」
「あっ、そうなのですか……!? カイン様なら、理由もなくそのような態度をお取りになられないかと思ったので……!」
「…………」
私がそう答えると、カイン様の目が丸くなってピタッと動きが止まった。
「あ、あの……?」
恐る恐る声をかけると、カイン様は困ったような笑い顔になった。
「まったく……アベルは私を買いかぶり過ぎているわね。そこは改めさせないといけないかしら……」
「えっと……申し訳ございません……?」
「云い方を変えましょうか。私にではなく、貴女が孤児院で大嫌いだった相手に、お気に入りの何かを目ざとく見つけられて、莫迦にされたと思ってみて」
「……なるほど! それはちょっと一発くれてやりた……いえ、一言抗議したくはなりますね」
「まあ……ふふっ」
いけない。つい孤児院の頃の気持ちで考えてしまいました……私が「一発くれる」なんて思わず云ってしまったのが意外だったのか、カイン様はちょっと驚いてから、楽しそうに笑った。
「男にとって、墜とした女の数は勲章であると云うけれど、それは墜とされた女にとっても同じということなのでしょうね」
な、なるほど……。
『自分のことを墜としてモノにした男を莫迦にするな』
そういう、ご自身の矜持に触れる私の行動が、デリダ様の怒りを買っていたということですね。
「それではデリダ様の嫌がらせは、一体いつまで続くことになるのでしょうね……」
「さて、それは私にもわからないわね。貴女がデリダ嬢を面白がらせなければ、そのうち飽きるかも知れないけれど……まあ、いずれにしても」
「?」
カイン様は少し眉根を寄せて、困ったような表情で――けれど、すごく楽しそうに。
「――女を信用しないことね。特に金持ちと貴族の女は」
ただ一言、そう仰有った。
そして私には、その言葉の意味がまだ理解出来なかったのですが……。
「……う、うぅん……?」
まるで、その言葉は予言であったかのように、私に襲いかかってきたのでした――。
†(人称が変わります)
――カインがアベルとフォンテーヌ伯の話をしてから、半月ほど経ったある夜のこと。
「申しわけございませんお嬢さま、お耳を」
「……どうかして? サンドラ」
珍しく、切迫した表情のサンドラから一報を入れられて、カインは顔を歪める。
その表情は、不思議と愉悦に満ちていた。
「面白いわね。そこまでの男とも思えないのだけれど――取りあえず一筆したためるから、宿に早馬を出しなさい。それから外出の用意ね。馬車ではなく馬で良いわ」
「承知しました」
サンドラが扉を出るのと入れ替わりに、着替えを手伝う侍女達が部屋に入ってくる。
「さて、間に合うのかしら。こんな経験は初めてだけれど……まあ、きっと大丈夫でしょう」
ドレスを脱ぎ捨てながら、カインはひどく愉快そうだった。
「大丈夫でなかったら――まあ新しい聖女が見繕われる、それだけのことね」
「……ここは」
アベルは意識を失っていたようだ。気づけば、見知らぬ部屋に寝かされていた。
「っう……私は、確か……」
ずきずきと痛む頭を押さえながら、気を失う前の出来事を思い返そうとする。
「ああ、そうか……マイヤー子爵令嬢のサロンにお邪魔して、それで」
マイヤー子爵令嬢イポリアは、デリダの取り巻きのひとりだ。アベルもそれは知っていたし、警戒もしていたのだが。
「これは、何か薬を盛られたということでしょうか……」
――頭痛、そして幾ばくかの気だるさがある。いくら知識のないアベルでも、なにかしら一服盛られたのだろうというのは想像に難くない。
「それにしても、ここは何処なのかしら」
誘拐の類いなのだろうか。そう思いついたが、どうにも考えにくい。
聖女の自分を誘拐しても、出来る要求など何もない。それどころか、誘拐したというだけで恐らく国事犯扱いは免れない。
そうなると殺害するくらいしか思いつかないが、いくらデリダ嬢が自分のことを憎いと云っても、露見すれば一族郎党が断頭台の露と消える大罪――その場の勢いで犯せる罪かと云われると、さすがにそこまでは、と思えてくる。
「そうなると……」
そんなことに頭を巡らせていると、扉が開いて何者かが部屋に入ってくる。ハッとして寝台から立ち上がるアベルだったが。
「――こんばんは。いい夜ですね、聖女様」
入って来た人物の姿に、アベルは思わず息を呑んだ。
それほどに、美しい男性だったからだ。
長い亜麻色の髪、細面の端正な顔立ち。一瞬女性に思わせるが、そこに細身ではあるけれど、しなやかでしっかりとした筋骨を持った身体が付き従う。
フォンテーヌ伯も優男だったけれど、彼の前ではいささか霞んでしまうかも知れない。
しかしアベルが息を呑んだのは、その男の美しさ故ではなかった。
纏う雰囲気に、言葉にしがたい危険なものを感じ取ったからだ。
「あの、ここは……何処ですか?」
誰何するのがためらわれ、アベルは代わりに場所を尋ねた。
「ここは常春の百花亭というしがない遊び宿ですよ」
彼はしがないと云うが、部屋の装飾はなかなかに煌びやかだ。ここが貴族の宅邸だと云われたなら、きっとアベルも信じただろう。
「娼館、ということですか……」
――そこで、アベルにも何が起きたのかを理解した。
純潔を失えば、アベルは聖女としての力と、その地位を失う。
これなら殺すよりも簡単だし、何よりもそれをアベル自身に責任を転嫁出来てしまう。
「左様です。まことにお気の毒なことではございますが……」
膝を突き、大仰に遜った男は、顔をアベルに向けたままで、ゆっくりとそう云い切った。
「なるほど……私も、なかなかに短い贅沢生活でしたね。言葉遣いに宮中の作法、覚えるのもものすごく大変だったのですが……」
アベルは困惑したように肩をすくめると、不満そうにそんなことをつぶやく。
「おや、抵抗なさらないのですか?」
相手の反応が意外だったのか、仮面のような麗しい笑みが剥がれると、不思議そうに苦笑いを浮かべる――今度の表情の方が、アベルにとっては幾分か好印象に思え、こんどはアベルが聖女らしい微笑を浮かべて男をたじろがせる。
「何しろ聖女というのは神の加護があるそうで、本人が武器を持ったり、暴力で以て抵抗したりということは禁じられているものですから……」
これは本当だ。孤児の頃はお転婆で手の早かったはずのアベルも、今は目の前の男をブン殴って逃げようなどとは毛ほども考えられない。神の手によって、幾分かはアベル自身の精神も影響を受けているということなのだろう。
「なるほど」
男は立ち上がると、少し態度が軟化したものか、部屋に備え付けられたワゴンの前に立った。
「では落ち着いていただくためにお茶を――と思いましたが、考えてみれば、聖女様はお茶に薬を盛られてここへ攫われて来たんでしたね。やめておきましょうか」
少しおかしさを滲ませて、男がそんなことを云うものだから、アベルは肩を落とす。
「その盛られた薬のせいなのか、どうにも喉がいがいがと不快なのです。ですからいただけるなら、お茶を一杯所望いたします……わざわざもう一度薬を盛らずとも、そうであるなら今頃私は疾うに『穴あき』になっている筈でしょうから」
「ふふ、不用心ですね。別に眠り薬と云わず、この館には女性の快楽をお手伝いする種々様々な愛の薬も揃っているのですよ?」
「それならそれで、無理やり開かせられる花ならば、お薬の力を借りた方が痛みもないでしょうし……そのような説明をわざわざして下さっている時点で、お茶に薬を仕込むつもりはないと云っているのと同じことですから」
「そういうものですかね」
男はくすくすと笑いながら、アベルのためにお茶を用意してくれる。
「お口に合えばいいのですが」
「ありがとうございます」
やや温めのお湯で淹れられたそれを、アベルはゆっくりと喉に落とした。
「はぁ……喉の苦みが洗い流されます。とてもいい香りですね」
「当館自慢の、香ばしく煎った大麦と薬草を合わせて煮出した『褥の揺り籠』という薬草茶です。お気に召しましたか」
「上品な香りでいいですね」
「上客に貴族の方も多くお出でになりますからね。こういうところでも手が抜けないのです」
男は、自分の分なのか、もう一杯カップにお茶を注ぎ始める。
「……話に花が咲いているようね、師匠」
するとそこに、アベルにとっては聞き慣れた声が。
「か……カイン様!?」
現れたのは確かに、カインその人だった。夢でも見ているのだろうか? そんなことを思わず考えてしまうほどの突然の登場に、アベルは面食らう。
「一応、急いで馬を走らせて来たのだけれど……心配はなかったみたいね」
「いえ、そうでもありません。カイン様からの急使があと五分遅ければ、間に合わなかったと存じます……どうぞ」
男はしつらえのいい椅子と脇机をアベルの前に用意すると、今し方淹れていたお茶を机に置いた。
「ありがとう師匠。逢うのは随分と久しぶりな気がするわね」
カインは優雅に腰かけると、男の姿を見て微笑んだ。
「私がなにを云える身分でもございませんが、そろそろその呼び名はご寛恕あって、お許し頂けると嬉しいのですが」
男はカインに師匠と呼ばれると、何とも微妙そうな表情になって、その場に膝を折って傅いた。
「ふふっ、どうして? 貴方は私にとってもっとも人生に於いて尊敬すべきお師匠様だというのに」
「……それは汗顔の至り」
「えっと……師匠というのは……?」
カインは、アベルが男との遣り取りに戸惑っているのにようやく気付いたのか、楽しそうに微笑んだ。
「どうやら、アベルは無事だったようね。本当に運のいい子……いえ、違うわね。これがきっと神に加護されているということなのでしょう」
「では、カイン様が私を助けて下さったのですか」
じわじわと、どうやら自分が助かったらしいという事実を実感し始めたアベルが目を潤ませ始めると、それを見てカインは扇を広げて顔を隠し、小さく笑った。
「助けた――というか、今回は相手が勝手にドジを踏んでくれたというところかしらね」
「ドジ、ですか……?」
「ふふっ……この娼館、私の父の持ち物なのよ。他の娼館に連れ込まれていたなら、さすがにこんな風にのんびりはしていられなかったわね」
「な、なるほど……」
カインの父であるザンダール公爵は、別名『夜の王』とも呼ばれる――こと後ろ暗い職業の裏には、必ずザンダールの名があると公然とささやかれる人物だ。娼館のひとつやふたつ牛耳っていても、今さら驚くような話でもない。
「貴女が昏倒した状態でここに運ばれてきた、という連絡を受けたので、ここにいる師匠――エリーヤに繋ぎをつけたというわけ。相手方に気取られても面白くなくなってしまうし」
くすくすと楽しそうに笑うカインに、アベルはベッドから立ち上がるとゆっくりと頭を下げた。
「……ありがとうございます、カイン様。茶飲み友達程度の私にこのようなご厚意、どのようにお返しすればいいのか想像もつきません」
「構わないわ。私も楽しかったから……欲を云えば、もう少し楽しみたいところなのだけれど」
「えっと……も、もう少しとは……?」
キョトンとするアベルに、カインは血が滴るような鮮やかで美しい笑みを浮かべる。
「この後をどうするかも、私に任せては貰えないかしら……それとも枢機卿にお願いして、教会の方で始末をつける?」
「それが、カイン様の『後の楽しみ』なのですか? 私にはひたすら面倒くさいように思えるのですが……」
「ふふっ、そこはもう私とアベルの趣味の違いというところかしら」
アベルは、カインの言葉が心からのものか、自分を気遣ってのものかと考えるが――。
「わかりました。ではお言葉に甘えて、後のことはカイン様にお任せいたします」
カインがあまりにも楽しそうに見えるので、その言葉を信じてみることにした。
天使というのは、まあ悪魔の行動には基本無関心なものなのだろう。それがどういう意味なのかをアベルは知らなかった。
「本当に? 嬉しいわ。では後のことは総て私が引き受けましょう――ふふっ、嬉しいわ」
二度も嬉しいと繰り返し、掛け値なしに嬉しそうな表情をするカインを見て、どうして犯罪の事後処理がそんなに楽しいと思えるのか、アベルは少し首を傾げたけれど。
「……そういえば」
アベルはそこで、心に引っかかっていたことがあったのを思い出した。
「えっと、エリーヤさん……でしたっけ?」
「はい。何でしょうか聖女様」
「先ほど、私に『気の毒だ』と仰有っていましたが……カイン様が助けに来るのはわかっていたのですよね? なのに、何故『気の毒』と……?」
エリーヤはそう尋ねられると、不思議そうに首を傾げた。
「ええ。だってそれはそうでしょう? せっかく、至上の快楽を味わって頂けるこの館にお出でいただいたというのに、その片鱗すら味わえずにお帰りいただくのですから、これを気の毒と云わずになんと云うべきだと……?」
優雅な笑顔でそう答える。アベルはちょっと驚いた顔をしてから、しばらくしてなるほどと肯いた。
「ああ……まあ、そう云われてみれば確かにそうですね。しかもこの機会を逃したら、一生身体の快楽を知らずに終わる運命ですものね、私の場合……」
そのつぶやきを聞いて、カインは扇の陰で小さく噴き出していた。
「そういうところ本当に正直ね、貴女という子は。ふふっ」
「いえ、これでもお義父様たちの前ではそれなりに猫をかぶってはいますので……こんなことを云おうものなら、泡を噴いて倒れかねないですし……」
「そうね。枢機卿もいいお歳ですもの、貴女がそんなことを口にしたら、心の臓が停まりかねないわ」
笑い疲れた、というように扇の後ろで大きく息をつくと、カインは口元を隠していた扇を畳む。
「では帰りましょうか、アベル」
「はい……あっ、侍従のマルコは無事でしょうか」
アベルは、同行していたマルコがサロンの外で待機していたことを思い出した。
「そうね。恐らく無事だろうとは思うけれど……今は所在を確かめようがないし、貴女を家に送り届けることしか出来ないかしら」
「そうですね……」
「そんな顔をしないで頂戴アベル、助けに来た私まで悲しくなってしまうわ」
「そ、そうでした。私、危うく自分が聖女の力を失うところだったんでした……」
「……このドレスだと、少し目立つかしら。師匠、この子に何か羽織るものを借りられるかしら」
「承知しました。下女たちに何か用意させましょう……聖女さま、どうぞこちらに」
「あ、はい。ありがとうございます」
エリーヤに呼ばれた下女について、アベルは部屋を出て行く。
「……実は、手を出せなくて残念だと思っているのではなくて? 師匠」
アベルのいなくなった部屋で、カインはエリーヤに笑いかけた。
「さてや教会と神の秘蔵する美しき花、その蕾に興味も惹かれますが――さすがに命を代償にと云われれば、私の恋の矢も刺さる前に折れましょうほどに」
恭しく麗人は膝を突くと、カインに頭を垂れる。
「あら、この私を手折った名うてとも思えないお言葉ではありませんか? 師匠」
「だからこそですよ。命を的に晒すような真似は、あの一回で十分ですから」
エリーヤが諸手を挙げて恭順の意を示すと、カインはつまらなそうに肩をすくめる。
「では、代わりと云ってはなんだけれど――一人『お願い』したい子がいるの。アベルほどの美貌ではないでしょうけれど、フォンテーヌ伯が手を出すくらいだし、不細工というほどでもないでしょう」
「……そういうことでしたら、そちらはお任せ下さい。相手が名うてのフォンテーヌ伯だというなら勝負に不足はありません」
エリーヤの面にアベルが最初に見た時のような、妖艶なあの表情が戻ってくる。
「デリダ嬢だったかしら? お可愛そうにね……いいえ、これで真の愛に出逢えるということもあるでしょう。そこまで悲しむことでもないかしら……ふふっ」
昏く光るカインの眼を見ながら、エリーヤはアベルとカインの不釣り合いさに心の中で苦笑いを浮かべていた……。
†
「もし……もし……お目をお覚ましなさいませ」
「んっ、んんっ……はっ!?」
ガバッと起き上がり、腰の刀に手を掛ける。
「さすがの用意周到ですが、今はどうぞその手をお放し下さい」
マルコは、霞む視界の向こうで聞くその声に聞き覚えがあった。
「その声、もしやザンダール家の……」
「はい、侍女のサンドラでございます。ご無事なようでなによりかと」
「しかしこれは一体……私はマイヤー子爵邸で、聖女さまのお戻りを待っていたはず」
まだ視点が定まらないのだろう。袖で目をこすり、目蓋をすがめてどうにか視力を得ようとする。
「恐らく、子爵邸で出されたお茶に眠り薬でも仕込まれたのでしょう。これを噛んで下さい、気付けになります」
「んっ、ぐ……!」
目の見えないところへ口に煎じ薬を押し込まれて、その苦みのきつさに思わずマルコは顔をしかめる。
しかし、お陰でぼんやりとではあるが目が利くようになってくる。
「ここは……」
地下牢にでも閉じこめられたのかと思っていたが、実際には暗がりの辻に乗ってきた馬車ごと放り出されていたようだ。
「全体、これはどういったわけだ……」
「アベル様は、どうやらマイヤー子爵令嬢の奸計にはめられたようです」
「なんですって……!?」
サンドラは、主人であるカインの命でマイヤー子爵邸に向かう途中、辻に投げ出されて眠りこけるマルコの姿を見つけたのだった。
「それで、聖女さまは……!」
「我が主人が間に合っていれば、ご無事であろうかと存じます」
「そ、そうか……」
マルコとしては、安堵も出来ない微妙な心持ちだった。自分が眠らされるという失態を演じた上、つねづね嫌っていたザンダール家に主人の窮地を救われるとは。
「……二度と、出先で出されたものに口はつけまい」
「それが賢明かと。こと聖女の護衛となれば、何が起きるかわからないでしょうから」
苦り切った表情のマルコに、サンドラは無表情のまま答える。
「それで? 貴女はこれからマイヤー子爵邸に向かうのか?」
「いえ、マルコさんをこうして放り出したということは、知らぬ存ぜぬを通す心づもりかと……であれば、今さら行っても証拠は何も残っていないでしょう」
「では、貴女は何のためにここに……?」
「――貴女ですよ、マルコさん」
「私……?」
思ってもいなかったサンドラの言葉に、マルコは目を見開く。
「企てそのものが失敗したとなれば、貴女の身柄さえ押さえられれば証拠の保全は完了ですから」
「あ……ああ、なるほどそういうことか……」
相手は子爵家だ。誘拐と聖女の力の剥奪にさえ成功してしまえば、護衛の証言など如何様にも握りつぶすことが出来る――だからこそマルコは放り出されるだけで済んだのだろう。
成功することが前提ならば、殺すよりも面倒がないからだ。
「マルコさんにはお気に召さないことでしょうけれど、アベル様はただ今カイン様の傘の元にいらっしゃいます。恐らく主人はマイヤー子爵令嬢と、それを影で操るハルホード伯爵令嬢をお許しにはなりますまい」
「……いや、それについては、私も全く同意見だがな」
「では、このたびのことにつきましては、マルコさんもカイン様にお力添えをいただけますでしょうか?」
無表情なサンドラの問いかけに、マルコはしばらく考え込む。
「そうだな。ザンダール家の力添えを得て教会に訴え出たとしても、黒幕であるハルホードまでは手が届かないかも知れない。それを鑑みれば、今はカイン様がお力を揮われた方が聖女さまにとっての後顧の憂いは減るでしょう」
「……面白いですね。貴女は教会に雇われているのではありませんか」
ずっと表情を変えなかったサンドラが、そんなマルコの答に初めて唇を楽しそうに歪めた。
「雇い主は確かに教会だが、私は聖女さまをお護りする為にここにいる。あの方の害になるものを減らすことが出来るなら、多少の権道も厭いはしない」
「そうですか。まあ、こちらとしては好都合ですが」
興味がない、という感じの言葉がサンドラの唇から洩れるが、その表情は変わらず愉快そうに見える。
「では取り急ぎご同道を。恐らく我が主人がアベル様を連れて戻られることでしょうから――その道すがら、これからどうするかをご説明させていただければと」
「承知した」
マルコは服についた泥を払うと、サンドラの後に従った……。
†
「申し訳ありません、助けていただいた上に、私の我が儘をお聞き入れいただいてしまって……」
「構わないわ。私も、アベルが聖女の力を実際に使うところを初めて見ることが出来たから」
アベルが上着を借りる為に部屋を出てからしばらく経っても戻ってこないので、何事かとカインが探しに出ると、当のアベルは娼館の奥で病気で伏せっている娼婦たちに治癒の施術を始めてしまっていた。
最早死を待つだけだった娼婦たちは涙を流して感謝したが、当のアベルは楽しそうに、
「秘密ですからね?」
そう云って、ただ笑うだけだった。
「良かったのかしら? 喜捨も受けていないこのような場所で勝手に治療をしてしまって」
「そうですね。ですがこの娼館に私は命を救われたわけですし、そのご恩を返すという意味では構わないのではないかと」
「ふふっ、そういうことならありがたく受けとっておくわね」
裏口から館の外に出ると、初秋に入ったやや冷たい夜風が吹き付ける。
「大丈夫? 寒くはないかしら」
「はい、お借りした外套がとても暖かいので」
「そう」
話し込んでいると、館の馬丁がカインの愛馬を牽いてやって来る。
「……カイン様、まさか馬でやっていらっしゃったのですか!?」
「それはそうでしょう。お友だちの貞操の危機だというのに、それをのんびり馬車に揺られてやって来る態もないと思うのだけれど」
くすくすと笑うカインの言葉に、アベルは思わず涙ぐむ。
「えっと、あの……本当にありがとうございます、カイン様」
「そうね。考えてみると、人助けというのは初めてかも知れないわね。たまにはいいものね、こういうのも」
鐙に足を掛けて、危なげなく愛馬にまたがると、カインはアベルに手を差し出した。
「馬丁に背中を貸してもらうといいわ」
カインの言葉に馬丁は黙って跪き、足を乗せられるようにと背中を平らにして差し出した。
「あっ、はい。ご迷惑を……きゃっ……!!」
手を取り、馬丁の背に足を掛けた瞬間に、カインによってその身体は引き上げられる。
「えっ、あの……これは、ちょっと恥ずかしいのですが……」
アベルは、カインの鞍の前に横向きに座らされた。
「アベルは馬に乗った事がないのね。馬の後ろ足の上は、激しく揺れるから人は乗せられないものなの」
「だからってその、これでは……ええと」
まるで、カインに抱きかかえられているようで恥ずかしいと思ったが、それを口にすることは出来なかった。
「恥ずかしがっているアベルも、それはそれで趣があって面白いわね……ふふっ」
そう云って止める間もなく、カインは馬に鞭を当てるとそのまま走り出していた。こうなると、アベルはカインにしがみつくしかない。
「ひゃああっ……!!」
「それでいいわ。しっかり掴まっていなさい? 聖女様」
初秋の月明かりに照らされ、山間の娼館から、木立の間を二人を乗せた馬が駆け抜けていく。
「ふふっ、慣れてきたわね」
胸元にしがみつくアベルの手が、少し緩くなるのを感じてカインが微笑む。
「カイン様、馬に乗れるなんてすごいです……!」
「貴族の娘ですもの。もっとも、馬に乗るのはお転婆くらいのものかしらね」
しばらく山道を降りていくと街が近づき、馬の速度がやや落ちてくる。
「そういえば、あの方はカイン様の何のお師匠様だったのですか……?」
「あら、娼館で教わることと云ったら、ひとつしかないでしょう。肉の交わり」
「そ、そうなんですね……」
アベルには刺激が強かったのか、そう聞かされて目を白黒させている。
「ごめんなさい。ちょっとアベルには刺激が強すぎたかしらね」
「いえ、それで行きますと、私には一生刺激が強い話のままなので……」
「ああ、そうだったわね」
この子は本当に、普通の人間と考え方が違う。カインはそんなことを考えて、口元を緩めた。
「――以前、貴族の子どもの話をしたでしょう。傲慢で、誰にも咎められずに育つと、色々と危ないという話」
「あ、はい。覚えていますよ」
「あれは、私のことよ」
「えっ……」
アベルはそこで驚いた。奔放ではあるけれど、とても頭の回る人――それがカインに対する印象だったから。
「昔、男女の秘め事に興味を持った子どもがいたの……その子は親が娼館を持っていると聞いて、お忍びでそこへ向かったわ」
「それは……大丈夫だったのですか?」
「ふふっ、当然駄目だったわ」
「ええっ……!」
「権力があるのは私自身ではなく、私の身分にあるのだから……それを隠して娼館に遊びに行けば、もちろん誰に配慮して貰えるものでもなくて」
「では、もしかして……」
「そう。その時に私の純潔を食い破り、あらゆる手で三日三晩快楽の泥沼に沈め落としたのが、あの男よ――云ってみれば、私の肉欲のお師匠様ね」
「そ、そんなことがあったのですね……」
「父が、三日戻っていないことに気が付いて探してくれなければ、私はそのまま快楽漬けにされて、どこか余所の国の娼館にでも売り飛ばされていたでしょうね。無事だったから云えることではあるけれど、あれはとても勉強になったわね。お陰で『慎重』というものを言葉だけではなく、意味もきちんと身につける事が出来たわ」
楽しそうに微笑むカインに、アベルは返す言葉を見つけられなかった。
「そんな顔をしなくていいわ、アベル。私はこうして生き残っているのだもの……そうでしょう?」
困ったように笑うと、カインは少しだけ馬の足を速めた……。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
ザンダール公爵邸に戻ってきた。馬から降りると、使用人がカインに耳打ちをする。
「そう。それは良かったわ……アベル、迎えが来るそうよ。それまで少し待っていてくれる?」
馬を馬丁が引き取り、使用人が去る。カインに促されてアベルも歩き出した。
「迎え、ですか?」
「貴女の侍従は無事だったそうよ。うちの使用人が子爵邸のそばで倒れていたのを見つけたらしいわ……今、お父様のところに行っているらしいから、少しだけ待っていて頂戴」
「本当ですか! よかった、マルコも無事だったのですね……」
心底安堵したのか、アベルは胸をなで下ろしたようだった。
「その、カイン様……このたびは本当に、ありがとうございました。私のような半端な聖女にこのようなご厚意をいただいて……」
「いいのよアベル。私は、その貴女の半端なところが、とても気に入っているのだから……ふふっ」
カインはゆっくりとアベルを抱きしめる。
けれどその裏で、少しだけ邪な笑みを浮かべていることを、アベルは見ることが出来なかった――。
†
「……よろしいかな、マイヤー子爵」
「は……」
数日後、アベルを奸計に陥れようとした令嬢イポリアの父親であるマイヤー子爵は、三大公爵家ひとつであるザンダール公爵に突然呼び付けられて、目を白黒させていた。
「私の持ち物である娼館にこのような無法を持ち込まれては、さすがに私としても見過ごすわけには行かなくてな」
ザンダール公爵のそばには、サンドラともう一人、アベルの護衛であるマルコが控えている。
「私の娘が、よもやそのようなことをしでかしたとは……まったくもちまして、その……」
蛇に睨まれた蛙のように、マイヤー子爵の額からは拭っても拭っても尽きせぬ脂汗が流れ落ちてくる。
それはそうだろう。突然貴族界を闇から牛耳る公爵家に呼ばれた上に、娘が聖女を『亡き者』にしようと企てたなどと突きつけられたのだから。
「しかしこれは娘御の独断であり、卿も与り知らぬこと。それをこのまま教会に訴え出るのもあまりにも気の毒――そう思いましてな」
「は、はい……いえ、まことに汗顔の至りでして……その……」
総てはもう、何もかもが遅かった。すでに事態の主導権はマイヤー子爵の手には残っていないのだ。
教会に事件のあらましを伝えれば、王家によって、恐らく子爵家はよくて改易、最悪は一族郎党命を失うだろう。
それが嫌だというのなら、マイヤー家は一生、ザンダール家の支配を受け容れるしか手はないのだ。
「……閣下のご温情には、このマイヤー感謝の言葉もございません」
頭を垂れたまま、マイヤー子爵はその言葉を、喉から絞り出すことしか出来なかった……。
「まったく、我が娘ながらどこでこのような儲け話を見つけて来るのやら……」
憔悴しきったマイヤー子爵が出て行くと、ザンダール公爵は小さく口角を上げると独りごちた。
「あれが男であれば、我が家も安泰なのだがな……くくっ、いや、あれの場合は女でも関係ないか。精々、私もあれに寝首を掻かれないようにしなければな」
笑いながら立ち上がると、目をすがめて窓の外の青空を見つめていた……。