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怒りが、込み上げる。
足で土を蹴り上げ、右肩を樹の幹に激しく叩きつける。身体が勢い良く弾き返され、よろめき背後の幹に音を立てて凭れかかった。
「くそっ! あの野郎……何だってんだ!?」
俺に剣を合わせる価値が無いとでも?
この俺に、この剣士バインドが、
全てを向けるだけの価値が無いと、そう言うのか?
ふいに、頭の中で嘲りの声が囁く。
(――剣士? 笑わせるな。剣を失って、何が剣士だ)
(お前に価値は無い。価値があったのは私だ)
(私を失ったお前に価値は無い)
(くだらない生だ)
「うるせぇ! うるせぇ! うるせぇッ!」
右腕を振り上げ、目の前の岩目掛けて叩きつけようとして、ありもしない腕は当然のごとく空を切る。バインドは体勢を崩して岩の上に倒れ込んだ。身体が強かに岩に叩きつけられる。
一瞬呼吸を失った喉の奥から吐き出される息に、やがて低い笑いが忍び入る。
「……くッ、クク、ハハハ……」
くだらない生?
いいじゃないか。
剣を失い、自分の生きている意味など無いと言うのなら、それもそうだろう。
自分が望んだ生でもない。
だが敢えて死ぬ気もない。
「死にたい奴が死ね。俺は別に、どっちでも構わねぇ」
確か、やりたい事があった。
「なんだっけかなぁ」
起き上がり、額に手を当てて思考を巡らせる。
そうだ、あの男。あの剣士を殺すのだ。
今度こそ完璧に、あの剣を抑えて殺す。
(もういない。私が斬った)
「そうだ。俺が斬った。あれは楽しかった」
(殺せ)
「誰をだよ」
(私を斬り落とした剣士)
「焼け死んださ」
(殺せ)
「けっ」
よろめきながら立ち上がり、バインドは当ても無く歩き始めた。
樹々の間を抜け歩く内、不意に細い道に出る。
その道へ一歩踏み込んだ途端、高い悲鳴が耳を打った。
悲鳴のした方へ顔を向けると、緑の瞳と視線がぶつかった。
恐怖に見開かれた瞳に視線を合わせたまま、バインドはその眼を細めた。
「何だ、てめぇは」
威嚇する荒々しい声に、漸くその場にまだ他の者達がいる事に気付き、バインドは緑の瞳から視線を動かした。
三人の男達が抜き身の剣を提げて、一人の子供を足元に押さえつけている。子供の手から転がり落ちたボロボロの袋から、僅かな食料が覗いていた。
だが汚らしい袋に、どう見ても似つかわしくない品物だ。押さえつけられている子供が、どこかから盗んできたのだろう。
今いる道を辿ると、北の街道沿いのちょっとした街がある。
バインドは男達の姿を眺めた。これまた、街の警備隊という訳でも無さそうだ。
子供がどこからか盗んだ食料を、更に山賊達が奪い盗る、といったところか。
「クク」
低く嗤い、背を向けて歩き出そうとしたバインドに、男達の一人が立ち上がる。
「何笑ってやがる、てめェ」
だがバインドが止まる気配を見せない事に苛立ったのか、手にした剣をこれ見よがしに振り翳し、男は荒々しい足音と共に近寄った。男の腕が、バインドの右肩に掛かる。
バインドの足が止まった。
男はバインドの肩にかけた手を、ぎょっと振り払った。
「何だぁ、こいつ、片腕がねぇ」
「腕なんかどうでもいいじゃねぇか。そいつは何か持ってねぇのか、とっとと」
ふいに、バインドに手をかけた男の身体が跳ね飛び、残りの二人の足元に叩きつけられた。
男達が驚愕の表情を浮かべ、転がった仲間を見つめる。
それから、まだ子供を押さえつけたままの体勢から、バインドを呆然と見上げた。
「……て、てめェ、何やってんだ……」
バインドは無言で近寄ると、片足を振り上げ、転がった男の腹を蹴った。男がくぐもった呻き声を上げて転がるのを追って、頭を、背中を、腕を蹴りつける。
肉が裂け、骨が砕ける。
「や、止めろっ!」
慌てて立ち上がった男の一人が、バインドの背中に振り上げた短剣を突き立てた。
肉に深く突き刺さるはずの刃はバインドの身体に触れた瞬間、音を立てて折れた。
「……っひ」
信じ難いものを目にして、男達が呆然と立ち竦む。
振り向きもせず、転がった男を再び蹴りつけ仰向けにすると、バインドは男の喉に足を掛けた。
ぐ、と体重を乗せると、悲鳴さえ上がらないまま、鈍く砕ける音が響く。
すぐには絶命せず、男は痙攣のように手足をばたつかせている。
その姿から面白くも無さそうな視線を外し、バインドは漸く背後の残りの二人に向けた。
自分の足元に落ちた砕けた刃に気付いて、薄く嗤う。
「――何だ。俺を斬るのに、この程度の短剣か?」
感情の欠落した寒々しい響きに気圧され、残りの二人が後退った。
「う、うわっ」
バインドは一歩踏み出した。
手を伸ばし、もう一人の持っていた剣の刃を握り込む。
それはボキリと、枯れ木のように折れた。
バインドの口元が冥い笑みに吊り上る。
「……おいおい、もっとましな剣を見せてくれよ」
「ひぃっ、く、来るなっ」
男達は絡まる足で土を掻くように背を向けると、転げるようにして我先に森の中へ駆け込んだ。
バインドは彼等の後姿に首を巡らせたものの、すぐに興味を失ったように視線を戻し、足元に蹲ったまま震えている子供にその視線を落とした。
それから、その傍に落ちていた袋に手を伸ばしてそれを拾い上げた。
ずしりと重い袋を逆さに振ると果物や干し肉が幾つかと、それから壜が一本、柔らかい土の上に転がり落ちる。
「おっと、葡萄酒なんて入ってんじゃねぇか。それなりの品だな」
拾い上げ、手の中で放りながら、怯えたままの子供に眼を向けた。
おおよそ五、六歳程度か、薄汚れた顔と手足に、いつ洗ったのかも分からない汚い服を着ている。
「おいガキ。こんなもん持ってるからそんな目に合うんだ。どうせ盗むなら、今度から俺に持って来いよ」
ひとつ嗤うと立ち上がり、バインドは森の奥に足を向けた。