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男の右腕は事ある毎に痛みを訴えた。
痛みは長く、重く、身に付いて離れず、男を一瞬にして過去へと引き戻す。
右手の指が痛い。関節が、二の腕が、右の手首が痛い。けれどそれはどう治癒の施しようもないものだ。
何故なら、男に右腕は無いのだから。
右肩の付け根から先は無く、痛みの中で唯一、切断された肩の燻る痛みのみが真実だった。
だが、最早無い腕は常に訴え続ける。
腕を落とした者を殺せ。
お前から腕を奪った者を殺せ。
お前から、お前を奪った者を殺せ。
殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺
「うるせぇ」
苔むした大樹を背に両足を投げ出して座り込み、眼を閉じたままバインドは吐き出すように呟いた。右腕の声は不満そうにバインドの意識を撫でたものの、すぐに奥底に沈んでいった。
「ふん」
薄っすらと眼を開ける。夜の闇が森の中に落ちているが、上空は生い茂った樹々の枝に遮られ、星が出ているのかすら分からない。今がどのくらいの時間なのかも全く分からなかった。
とはいえ、既にバインドには、時間など大して意味を持たないものになっている。深い眠りに落ち、眼が覚めれば彷徨い、喰らい、恨みを呟き続ける右腕に時に耳を傾け、時に切り捨てる。街の薄汚れた片隅で眠り、深い森の中で眠る。
右腕を失ってからどれ程の時が経ったのか、それすらも定かではなかった。十年か、或いはもっと経っているのかもしれない。その間、ずっと這うように生きてきた。
惨めな生だと嗤う。
その生活が、ではない。自分が以前何の地位にあったのか、そんな事はどうでも良かった。そんなところに置く誇りなど元から無い。
ただ、この腕が。
この失われた右腕が、誇りの喪失に対する恨みを吐き続ける。
何故それで未だに生きているのか。
何故お前は生きている?
お前の存在意義など、既に無いではないか。
何の為に、生にしがみ付いているのだ?
「うるせぇ」
再び呟くと、バインドはよろめく足を押さえて立ち上がった。苔と土の湿った匂いが、身に纏わり付きながら辺りに散る。
腹が減った。
かつてバインドは、この国の王を警護する近衛師団にあり、一軍を率いた。
近衛師団第二大隊左軍中将。
それがかつてのバインドの地位だ。
近衛師団は王直属の精鋭部隊であり、その肩書きだけでも他を圧倒するに十分なものだった。
だがそれ以上に、バインドを際立たせていたもの。
生まれながらにその身に剣を宿す、『剣士』という特性。
『殺戮者』 『切り裂く者』 『戦うためのみに生まれる者』
バインドは右腕に焔を纏う剣を宿し、剣に於いては、その戦闘能力に比肩する者はいなかった。
それ故に――バインドは飽いていた。
対等に剣を交える相手がいない。
退屈と苛立ちが常に身に纏い付いていた。
切り裂き、剣を合わせる事に至上の喜びを見いだすバインドにとって、その事は自分の存在すら無意味に感じさせた。
紙を切り裂いているように感じる。
人形の手足を落としているようだ。
周囲は口々にバインドを称賛した。比類無き剣士、誇るべき剣士だと。
バインドはその称賛を冷めた眼で眺めていた。人形を斬って誉められるとはお笑いだ。
苛立ちは日毎夜毎にバインドの中に降り積もり、静かに、気付かれぬままに確実に、狂気を育てていった。
それはやがて、最悪な形を取って現われる。
ちょうど十四年前の冬、北方の辺境で反乱が起きた。反乱を起こしたのは、ある剣士の一族だった。
王は北方辺境軍約千名を投じ鎮圧に当たらせたが、彼等は雪解けの季節に至っても尚、反乱を鎮圧できずにいた。
それも当然の事だろう。剣士一人いれば、百の兵を抑えると言われる。
王都からただ戦況を眺めながら、バインドは内心、焦りすら覚えていた。
剣士。剣士だ。自分と同じ存在。
最強の剣士とだ謳われながら、バインドは剣士と剣を交えた事がない。それもまたお笑い草だと思ったが、剣士の数は少なく、その機会は与えられなかった。
彼等の事は聞いていた。雪深い黒森に居を構え、気まぐれに戦場に出た。かつての、大戦にも――
バインドの焦りを余所に、近衛師団が動かされる気配は無かった。総将へ進言したものの甲斐はなく、王への謁見は受け入れられなかった。
戦いが長引くほどにバインドは焦れた。
だが同時にそれは、バインドにとって、吉報でもあった。
彼らが剣を交えるに値する相手だと、取りも直さず証明しているではないか?
やがて辺境の雪も溶け出す頃、ついに近衛師団第二大隊に王の命が下された時、バインドは眩暈のするほどの喜びを覚えた。
相手の力量はどれ程だ?
何合剣を合わせてくれる?
全員と戦ってもいい。
早く戦いたい。
早く。
早く――
辺境に辿り着いたその日に、バインドは戦場に出た。戦況は聞いていた以上に悪く、兵達の疲弊は激しかった。
それが、僅か数名の剣士達による為だと――
バインドは笑った。
早く。
剣士の一族は、たった一人が戦場にいるのみだった。
男の足元で呻きを上げる兵達は、だが誰一人死者はいない。
男は、バインドが来るのを待ち構えていたかのように笑った。
青白く光る剣がバインドの剣と呼応する。
何か男と言葉を交しただろうか。既に忘れた。
だが、その後の事は明瞭に覚えている。
バインドの初太刀は、男の剣に軽々と弾かれた。
驚愕と――身体の奥底から沸き上がる悦び。
それはバインドの中にあった本能を明確に浮き上がらせた。
ぎりぎりの生と死を垣間見る事、その戦いこそ、剣士の存在意義だ。
それ以外に意味はない。
戦いは唐突に、バインドの予想もしない形で終わった。
男と剣を合わせる内に、今までになかった力が呼び起こされていく。
それでもまだ足りない。男を倒すには、まだ。
死はすぐそこにあり、生は遠退く。
それすら心地よい。
だが
男は、ほんの一瞬、バインドとの戦いから視線を逸らせたのだ。
戦場から遠く離れた、森の方角へ。そしてその剣の力を向けた。
ただ一瞬の内に、生と死は逆転し、バインドは呆然と足元に倒れた男の身体を眺めていた。
何が起こったのか、理解できない。
何があの男の気を、自分から逸らした?
勝利の喜びなどない。虚ろな心の中に沸き起こったのは、――怒りだ。
視線を、逸らす?
逸らすだと?
――ふざけやがって。
身を渦巻いて捻りあげるような苛立ちと怒りが、バインドの身体を支配した。
自分との戦い以上の、何がある?
剣士にとって、目の前の戦いの他に、何の価値がある!?
勝利に駆け寄った副将を切り捨てた。驚き、そして憤り、それから恐怖の内に逃げ惑う自軍の兵士達を、目につく者から全て切り裂いた。
周囲が何百、何千という死体で埋まっても、苛立ちは収まらなかった。
そうして、森に、あの男の視線が向いた方角に向った。