記憶喪失 ――「鄙びた田舎町」「湖」「狼」
お題は「鄙びた田舎町」「湖」「狼」
鳥の鳴き声と、眩しい光に起こされて、少女はゆっくりと深い眠りから目覚めた。目に映るのは、木で出来た天井。飾り気はないが、しっかりとした作りになっている。ゆるりと身を起こした少女は、うーん、と呻きながら体を伸ばした。ほっと弛緩させながら窓の外を見やると、小さく微笑んだ。今日もいい天気だ。それまでの緩慢な動きとは一片して、てきぱきとベットから降りた少女は、手早く身支度を済ませていく。
質素ではあるが実用的なスカートと、着心地のよいブラウスを合わせ、長い髪を慣れた様子で結い上げる。それだけであれば、お手本のような田舎娘の出来上がりなのだが、その繊細に整った顔立ちゆえか、身に纏う気品故か、どうしても貴族のお忍び感が漂っている。しかし、本人はそれを無視して……というよりも気付くことなく、満足そうにうなずいて部屋を出た。
小さいがしっかりとした2階建ての家は、一人で済むには十分な広さだ。トントンと音を立てて階段を降りながら、ちらを居間を見た少女はクスッと笑う。一人暮らし、といったら不満そうな顔をするであろう同居人を思い浮かべたのだ。とは言え、同居人とは言ったものの。
「おはよう」
「……わふ」
声を掛けた先に居たのは、真っ黒い毛玉の塊。声を掛けたことでモゾっと動いたかと思うと、艶やかな毛におおわれた精悍な顔が持ち上がる。くわぁとやけに人間臭い仕草をするそれは、立派な体躯をした狼だった。なので、同居人というよりかは同居狼というべきかも知れない。
気付いたらこの家の寝室で目覚めた少女の元に、突如として押しかけて来た狼は、それ以来何食わぬ顔でこの家に居座っている。狩りも得意なようで、時たまふらりと出かけては獲物を持ってくる。貴重な新鮮肉ともなると、出て行けとは言いずらい。どこかドヤっとした顔をした狼に天を仰いだのは良い思い出だ。ああ、思い出というと。
「くぅ?」
「ん?ああ、貴方が押し掛けてきた時の事を思いだしていたのよ。ほら、最初犬かと思って」
「ばぅ!」
「って怒られたなぁって」
クスクス笑うのだが、本人(本狼?)としては不服らしい。カリカリと床をかいて、不満げに唸っている。犬と連呼しては散々唸られ吠えられ、首を傾げた末に狼?と尋ねたのは暫く経っての事。やっとかと言わんばかり項垂れた狼に、毛におおわれて居るくせにやけに表情豊かだなぁと感心したのをよく覚えている。そもそも動物でここまで意思の疎通が出来るなんて、本当に頭のいい狼だねぇと思いつつ、手早く食料を確認していく。寝そべったままの狼の視線を感じつつ、うーんと首を傾げる。
「今日はサンドイッチかな」
具材は……と動き始める少女の背を、狼の視線がじっと追っていた。
「今日も気持ちいいわねぇ」
手早く用意した朝食をもって、少女は近くの湖を訪れていた。歩いても行ける距離にあるそこには、広々としており、水浴びが出来るくらいに綺麗だ。日の光を水面が反射して、キラキラと輝いている。爽やかな風に頬を撫でられ、微笑んだ少女は、視線を下に落とす。視線に気づいたように狼がちらとふりかえって来て、そのままのそっと歩き出す。その背に揺られながら、少女は日差し避けの帽子を風に攫われないよう抑えた。
狼はその大きな体格に見合った力を持っているらしく、湖のほとりで朝食をとるのが少女の日課であることに気付いてから、毎日その背に乗せてくれるようになったのだ。最初は遠慮していたのだが、じっとりとした狼の視線に負けた。実際、歩いてこれるとは言えそこそこの距離があるのでありがたい。少女はいつもの場所で足を止めた狼の背を撫でると、するりと背から滑り降りた。そのままバスケットから敷布を取り出して引くと、そそくさと狼がそこに寝そべる。
まるで疲れたから休むと言わんばかりだが、本音は敷布が飛ばされないように体で押さえてくれているのだろう。細やかな気遣いの出来る紳士狼である。くすっと笑った少女は、バスケットを漁ると紙に包まれた塊を取り出す。
「はい。今日は昨日取って来てくれた鹿肉よ」
「ぐるる」
きちんと処理して保管しておいた肉を目の前に置くと、狼は目を細めて嬉しそうにかぶりつく。それを見届けてから少女もその近くに腰を下ろすと、バスケットからサンドイッチを取り出す。香草を使って香ばしく焼き上げた鹿肉と、野菜を挟んだものだ。かぶりつくと、じゅわっと肉汁が口の中に溢れた。香草によって鹿肉特有の生臭さが緩和され、風味が増している。シャキシャキとした野菜がよいアクセントになっている。一緒に盛ってきた薬草茶をすすると、暖かさに体がほっとほどけつつ、口のなかの粘っこい油が爽やかに流されていく。うーん、今日もいい出来。自画自賛しながらサンドイッチを頬張り、視線を上げる。彼女達以外誰もいない湖のほとりで、ゆっくりと朝の時間を楽しむ。
暫く食事を楽しんでいると、先に食べ終わった狼が、前足を投げ出し伸びをした。満足そうな顔である。喜んでくれるのは何よりだが、狼ってこんなに表情豊かだっけ?と記憶を漁るが、そもそも狼とここまで接したのは初めてである。
――本当に?
ふと記憶が刺激されるような気配がして、少女は手を止めた。じっくりと今の違和感に意識を集中させていく。が、ふと体が温かいものに包まれた事で集中が逸らされる。何かとおもって視線を向けると、いつの間にか忍び寄っていた黒狼が、その大きな体を使って少女を包み込むようにして寝そべっていたのだ。言葉がなくとも、寒いだろう?とその体で風を遮り体温を分けてくれる狼。目を閉じた狼の頭を撫でながら、少女は小さく微笑んだ。
「ありがと」
ちょっとタイミング悪かったけどね?と揶揄うように声を掛けると、狼は知らんとばかりに鼻を鳴らす。仕方ないなぁと笑って、少女は僅かに残ったサンドイッチを口に放り込み、咀嚼する。最後まで味わって手を拭うと、ゆったり狼に体を預けて目を閉じる。少女の日課には、まだもう一つ手順がある。それは。
失われた記憶の手がかりを探すことだ。
少女は記憶喪失だった。最初の記憶は、今の家の寝室でめが覚めた事で、その家には誰かが住んでいた形跡はなかった。鄙びた田舎では人も少なく、自分を知っているかと聞く人は限られる。その全員に、いつ現れたんだいと首を傾げられてしまってはお手上げだ。幸運なことに、町の住人はおおらかな者たちばかりで、見ず知らずで突如現れた少女のことも受け入れてくれた。そうして少女は何もわからないままに、なんとか生活をすることが出来たのだ。そしてある程度月日が経ってなれたころ、突然狼が現れ居ついたのである。
少女は失われた記憶を求めていた。少女自身の気質としては、サッパリしており、思い出せないものは仕方ないというスタンスだ。普段のことであれば、それで済ませている。しかし、どうしても思いだしたいことが――否、思い出さなければならない事がある気がしていたのだ。
ふっと頬を撫でられたような気がして、少女は目を開ける。そこには誰もおらず、先程と同じく風にいたずらされたようだ。でも、昔、失った記憶の中で同じように頬を撫でられた様な気がする。頭もだ。優しく、気遣うように……。大きな暖かい手だった。そう、ごつごつしていて……。どうしてごつごつしていたの?顔がぼやけて見えないあなたは何者?
何度思いだそうとしても、それ以上に蘇らない記憶に肩を落とす。両手で顔を覆い、くっと唇を噛みしめる。どうしても思い出さなければならない記憶、そこに彼女にとって大切な人がいた。根拠もなく、彼女は確信していた。その人も彼女の事を大切にしてくれたのだと失った記憶が叫ぶ。町の人は知らないと顔を見合わせ、酷い者は「記憶を失った恋人を放り出すような男など忘れてしまえ」というしまつ。
理性ではその通りだと思う。けど、感情は彼はそんな人ではないと叫ぶ。なにもわからないのに、名前も顔も声も分からないのに、それだけは確信できる。ではなぜいないのか。本当はそんな存在など居ないのではないか。なんどもなんども同じ思考を繰り返し、それでもあきらめきれなくて。恋しくて、恋しくて。
「貴方は、だれ?どうして、ここに、いないの?」
少女は小さく呟いた。
そんな少女を、狼は薄眼で気付かれないようにじっと見つめていた。涙など見えないのに、全身で泣いているかのように見えて心臓が握りつぶされるような感覚を覚える。誰の前でも気丈に明るくふるまう彼女が、弱さを見せたのは最近のこと。漸く狼に心を許し、悲し気な笑みで整理しきれない感情を零すように溢れさせるように囁く少女に狼は耳を垂れる。
――ここにいる。ここに、君の傍に。ずっと。
狼は、――狼の姿をした男は番の少女の悲し気な慟哭に胸の内だけで答える。
男は狼獣人だった。血の濃い男は、完全な狼の姿から、人に狼の耳と尾を持つ姿、完全な人の姿と自由に切り替える事が出来たのだ。しかし、男はいま、人の姿をとれなくなっていたのだ。
少女と男は魔王討伐の為に編成された勇者パーティーのメンバーだった。勇敢で朗らかな勇者と、冷静沈着な魔法使い、どんな怪我も穢れも癒す聖女と、寡黙だが頼れる剣士の4人。彼女は聖女で、男は剣士だった。勇者パーティーは馬が合ったこともあり、ずっと前からそうしていたかのように自然な連携がとれた。勿論負けることも挫折することもあったが、その度に助け合い支え合って戦い抜いてきたのだ。そんな中、いつしか聖女と剣士は互いを意識するようになり、剣士を親友と豪語する勇者や保護者枠な魔法使いに茶化され背中を押され、2人は結ばれた。そして魔王に挑み、悲劇は起きた。
結果として、命題であった魔王の討伐には成功した。その代償として、止めを刺した勇者は魔王の呪いによって死ではない覚めない眠りにつき、魔法使いは逆に寿命という概念を失った。アシストをしていた聖女は記憶を失い、剣士は人の姿を失った。
勇者は城の奥底、安全な場所にその体を安置され、永遠の命を持て余した魔法使いはその呪いの解除に尽くすと言っていた。永遠の命など、いうほど良い物ではないのですが、と諦めたように嗤った魔法使いの顔が今でも思い浮かぶ。
聖女はというと、失った記憶の中には勿論厳しい旅の内容も含まれており、思いだしたくない記憶も存在する。それをよく知っていた魔法使いと剣士の同意により、王が報酬の一環として、安全で静かな環境へと彼女を配置し、守る事としたのだ。そして剣士は、人になる事が出来ずに一時は彼女の傍を離れた。魔法使いによると、それも魔王の呪いによるもので解呪すれば戻れるはずとのことだったが、協力を申し出てくれた魔法使いの元にいるのには耐えられなかった。狼は、見つけた唯一の番を生涯慈しみ守る生物だ。その番と引き離された狼の精神が狂うのも仕方がない。そうして狼となった剣士は、いてもたってもいられず、彼女のもとへ参じたのだ。
そしていま。記憶を取り戻そうとしている恋人を前に、だせぬ声で「ここに居る」と叫び続けている。本当は人の姿に戻りたいし、記憶を取り戻してほしい。でも、その結果彼女の笑顔が翳るのであれば、今の穏やかな生活が続くのも悪くない。その相反する思いにとらわれて、狼は耳を垂れて尻尾を力なく地面につける。
狼は今日も回答できない問に囚われながら、ただ愛した番を守り続けるのだ。