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転換の瞬間

作者: 黒森牧夫

 両手の平からどろりと零れ落ちた膿の様な悔悟にも似た喪失の念にどっぷりと膝まで浸かり乍ら、夕映えの風景の中をふらふらと私は歩いていた。時折気違いじみた笑いが唇の端をせっついて洩れ出て来ようとしていたが、私は両の手で自分を真ん中から真っぷたつにべりべりと引き裂く快楽に身を委ねたりはせずに、その喪失がその無性故に世界の全てを断りも無しに徹底して根底から塗り替えてゆくのを、唯凝っと見守り続けていた。鏡の湖面に垂らされたインクの様にじわじわとぼんやりと、ではなく、低い上空をさっと横切って行く雲の形になって差し込んで来たり来なかったりする影と光の様に一瞬で、私がそれまでに意味を認めていたあらゆるものはその色調を変え、私をすっかり作り直そうとしていた。嵐の晩に感じる陶酔を何倍にも増幅させた様な怖気が、早く出してくれ、解放してくれと私の中で絶叫を続けていたが、私は盲滅法に乱射される思考の閃きの狭間でぼんやりと立ち尽くし乍ら、それらを統御する手綱をだらんと力無く足元に垂らした儘、自分が途方に暮れていることさえ忘れていた。幾つもの視線が傍を奇異の念を込めて通り過ぎて行ったことには気が付いていたが、私は全く、夏の盛りに見当外れの場所をだらだらと流れて行く真(ぬる)いそよ風程度にも気にも留めずに、私の中で今にもぱっくりと口を開けて私を呑み込みそうな、会うのは初めてだがよく知っている親しい深淵の恐怖に魅入って、惚けた様に驚愕の声を上げていた。

 「いやはや………凄い!」これが自分の手で呼び込んだもの、何年も前から予測し、お膳立てし、周到に予行演習を繰り返し、流れに逆らった強硬な導引によってこの日を迎える様に仕向けたものであったとは言え、実際に間近で見るその光景の戦慄はそれまでの私のどんな予想をも凌駕していた。暴力的な大風が吹き荒れるその黯黒の余りの深さに、私は一瞬遅れてやって来るであろう激しい喜悦を控え乍らも、それこそ天地が引っ繰り返る様な衝撃を受け、その驚きの中にぐっと引っ張られ浮き上がって、宙ぶらりんの状態だった。世界がこんな顔を見せることがあると云うことを、私はそれまで全く知らなかったのだ。いや、想像位はしたことがある。若し本当にそうなってしまったら、どんなにかすっかり何もかもが変わってしまうだろうと、拙い空想をあれこれと思い巡らせたことはある。だが、それは水槽の分厚いガラスの壁越しに、自分が魚になって水中を自在に泳いだらどんなだろう、草原に寝転がって、自分が鳥になって自由に空中を飛んだらどんなだろう、と夢想するのと大差の無い徒無し事に過ぎなかったのだ。こんなにも広大な空間が、その可能な意義を全く認知されもせずに、自分の直ぐ足元にずっと存在していたなどと、一体正気の頭でそんなことをまともに信じられるものだろうか? それを実際に目の前にし乍らもその場で直ちに発狂せずに済んだのは何処かからか齎された恩寵のお陰か、はたまた私の余りの矮小さから来る何かとんでもない誤解に基付くものなのだろうか?

 何もかもが明らかになった。圧倒的に強大なその恐るべき閃きの中で、一切合財が白日の下に曝された。常に変わらずに其処に在り乍ら、私がそれを受け止めるには余りにも卑小だった為に過小視され続けて来た紛れも無い真実が、有無を言わせぬ力で他の細々とした言い訳じみた説明の全てに対しその優越を証明し、私にその承認を迫って来た。そこにはまるで、颱風で全てのものが吹き飛んでしまった後の様な、空襲で見渡す限り一面が焼け野原になってしまった後の様な、或る種の清々しさ、爽快感があった。何もかもがすっかり御破算になってしまって、綺麗さっぱりリセットされてしまったかの様だった。

 この時ひとつの成長時期が確実に終焉を迎えたことを、私は確かに悟っていた。それは啓示に打たれた様な悟り方だった。それ以降私の認識が全く異なった焦点と角度を持ち、その深度が変容を遂げるであろうことを、私は個別的にではなく全一的に知ったのだ。それは謂わば精神の本能であって、より包括的な地平を目指してのたうち回り、そして一旦その光景を目にしたら最後、後戻りは不可能になるのだと云うことを、私はそれ以上の弁明の不用な無言の確信の裡に覚悟した。それまでに認識していたもの全てが混乱を極め、暴れ狂い、自分の身の落ち着け所を求めて弾丸の様に乱反射したが、私はその霞を掛けられた大騒ぎの視界を貫いて見い出されるべきものを、既に知っていた。

 全ての形を失った真っ暗な闇の中に、ひとつの眼差しが在った。それは見覚えのある、私のよく知っている少し斜を向いた顔だった。何が起きたのか、何が起きているのか、そしてこれから一体何が起きるのか、その顔は私に向き合って告げ知らせていた。私の口許に薄らと笑みが広がって行った。間も無く訪れるであろう幾多の感情の暴発の大渦に備えて、私は再び打ち震わせるべき身体を装備した存在となり、その時がやって来るのを愉快そうに待ち構えた。

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