学園2
建物の中には、一人の女生徒がいた。
アシンメトリーというのか。オレンジ色に染めたショートボブの髪は、左の前髪だけが頬に掛かるくらい長い。にこにこと人好きのする笑みを浮かべた顔は、思わず瞬きしてしまうほどの美人だった。
「リリア、あなたまた勝手に」
凜さんは、ひらひらと手を振ってくる女生徒に顔をしかめた。対して女生徒は、涼しい顔。
「いいじゃなーい、ちょっとくらい使ってもー」
リリアというらしい女生徒は、そう言ってクッキーを口に放り込む。
見ると、部屋の中央に置かれたテーブルには、様々なお菓子の袋が広げられていた。
「もう学校へ来れるようになったのー?」とリリアさんは、スナック菓子の袋を取り上げながら言う。
「は、はい。今日から、」
よろしくお願いします、と言いそうになって口を噤む。記憶喪失の件については、口外しないようユエさんと凜さんから、きつく念押しされていた。
「そっかー。もっと時間かかると思ってたんだけどなぁ」
リリアさんは、急に黙り込んだぼくに構うことなく、幸せそうにスナック菓子を頬張っている。
「オレーナさん、ここに座ってください」
マイペースな人だな、と呆けていたぼくに、凜さんは椅子を指し示す。
美容室に置いてあるような回転式の椅子。ぼくが腰かけると、散髪で使うようなクロスを掛けられる。
棚から大きな鞄を取り出すと、凜さんたち四人の女生徒は、素早くぼくの周囲を取り囲んだ。
「髪は毛先を整えて、軽くまとめて。ネイルは、リペアだけでいいわ。今日は放課後に撮影もあるし、全体的に軽めで行くわよ」
ぼくの顔からマスクを剥ぎ取り、凜さんはてきぱきと指示を下す。
なんだ、なんだ? と思っている間に、女生徒たちは次々とブラシやら、ヤスリやら、ハサミやらを鞄から取り出していた。
「それじゃあ、今日も始めさせてもらいますね?」
「ああ、ちょっち荒れてるねぇ。イーちゃん、コート取って」
「ほいな。美容液もいるか?」
背後に回った女生徒が、髪をブラシで梳き始める。派手なメイクをした女生徒が爪をヤスリ掛けし、ちょっと日本語が片言の女生徒は、鞄から様々な道具や化粧品を取り出しては、他の女生徒に手渡していく。
まるで高度に訓練された軍隊のような動き。一糸乱れぬ連携を見せる女生徒たちの中心で、凜さんは難しげな顔で唸っている。
「今日は、ファンデも塗ったほうが良いかな? あー、でも三時間目は松下先生なのよね。あの人、うるさいから」
「あの、凜さん? これはどいでででででっ!?」
突然の激痛。
「なにやってるのイーラン!?」凜さんが素っ頓狂な声を上げる。
「それは直じゃなくて、専用のローションを塗ってから使うの! 何回も言ってるでしょ!?」
「そだった!」
はっ、と糸目を見開いた小柄な女生徒が、慌てて飛び退く。痛みに悶えるぼくを見て、「ごめんな、姐さん。痛かたか?」と心配げな顔で覗き込んでくる。
びっくりした。あんまり痛いから、ビンタされたのかと思った。
「ごめんな、ごめんな」とぺこぺこする女生徒の手には、ブラシの部分に太い針金をくっ付けたような器具が握られている。先ほどの痛みの原因は、どうやらこれらしい。
「すみません、オレーナさん。今度は大丈夫ですから」
まだビリビリする肌に、凜さんは冷たいローションを塗っていく。ブラシが近づいてきて緊張するが、今度は痛くなかった。ちょっとぴりぴりする程度で、なんだか頬が熱くなってきたように感じる。
「こうやって、お肌に低周波を流すんです。顔の筋膜をほぐしたり、リンパや血流の流れを良くして」
「へえ」
「眼精疲労やむくみの解消にも効果があるんですよ?」
低周波治療器みたいなものだろうか? モデルさんは毎日こんなことまでしてるのか、と感心する反面、なぜいま? という疑問も尽きない。
「ああ、紹介がまだでしたね」
霧吹きで髪を濡らし、頭部にも低周波ブラシを当てながら、凜さんは他の女生徒たちを振り返る。
「彼女は、笠次真凛さん。オレーナさんのヘアスタイリング担当です」
「よろしくお願いします」
ハサミで毛先を切り揃えていた笠次さんは、わざわざぼくの前までやってきて頭を下げた。
「彼女は、生駒樹奈さん。ネイルと手足のケア担当です」
「よろーっ!」と、目の横でピースサインをする生駒さん。
「で、彼女が高依然さん。私の補佐です」
「よろしくね、姐さん!」
高さんは、不思議なイントネーションで手を上げる。
皆さん、もの凄くフレンドリー。対してぼくは状況について行けなくて、なんとなく会釈を返すだけ。
「えーっ、レナちゃんほんとに記憶がなくなっちゃったんだー」
担当って、なに? この建物は? どうしてこんな場所でヘアメイクされてるの?
疑念だらけのぼくを見て、リリアさんが「かわいそー」と緊迫感のない声を上げた。
「大丈夫ですよ、オレーナさん」
リリアさんを顔の半分で睨みつけながら、もう半分でぼくに微笑みかけるという器用なことをしながら、凜さんが言う。
「ここにる方たちには、オレーナさんの事情を話してあります。わたしだけでは、学校でオレーナさんをフォローしきれないと思ったので」
「安心してください。私たち、誰にも話したりしませんから」
「レナっちの秘密は、あたしらが守るよ!」
「心配しなくていいしな。気付いたやつは、ちゃんと処分するしな」
処分?
「オレーナさんは、毎朝トレーニングを終えてから学校に通ってたんです。だから、どうしても身だしなみを整える時間がなくて」
今朝のトレーニングで、いつもの半分の量だと凜さんは言っていた。それでも一時間近く掛ったわけだから、単純計算でその倍。
今日はぼくが慣れていないのもあったから、もう少し短くなるとしても、見た目に気を使う余裕は、たしかになさそうだった。
「たとえ学生相手でも見苦しい姿を見せるわけにはいかないって、オレーナさんがおっしゃられて。だから学校側に掛け合って、ここにメイク室を用意したんです」
この辺りには、生徒もほとんど近寄らないので、都合がよかったのだという。
なるほど。だから、マスクをしてくるようにって言われたのか。
今朝のやり取りを思い出して、ぼくは一人納得する。てっきり有名なモデルさんだから、顔がバレないようにだと思ってた。
「……あの、いま用意したって」
「はい。アメリカ製のトレーラーハウスを改造したので、電気水道に冷暖房も完備してます」
そういうことが訊きたかったわけじゃ。ていうかこれ、トレーラーハウスだったのか。初めて(たぶん)入ったな。
ぼくは、高さんが瞼へ近づけてくるビューラーに震えながら、目だけでトレーラーハウスの中を観察した。
木目調の柔らかな内装に、細長い建物の奥には、IHのコンロと流し台。シャワー室らしきものまで見える。
メイクのためだけに、わざわざ海外からこんなものを取り寄せるなんて、オレクサンドルさんらしいというかなんというか……
「レナちゃんて、ほんと手のかかる子だったよねー」
リリアさんは、チョコの付いたスティック菓子をふりふり。
「せっかくメイクしてあげても、眉の形が気に入らないとかー、リップの色が悪いとかー、文句ばーっかり。わたしも毎朝大変だったなー」
「あなたは、いっつもお菓子食べてるだけしょ!」
そだっけー、と首を傾げるリリアさん。チョコパイを齧り、幸せそうに微笑む。
「……モデルさんって、美意識が高いんですね」
身だしなみだけで、こんなに気を使うなんて。そう思うのは、やっぱり本来のぼくが男だからだろうか?
「オレーナさんは、特別な方ですから」
髪にオイルを馴染ませていた笠次さんが、顔横に唇を寄せてくる。耳元で熱っぽく囁かれて、ぼくは思わず背筋を震わせた。
・トレーラーハウス
やはりアメリカが本場。これを家にしている人も多い。
大きさも内装も千差万別だが、今回登場したのはかなりお高いやつを想像していただけると。