金色の姉妹
鎧を纏った美女が目の前に、なんて想像すらしていなかった。
髭面のおっさんばかりが騎士ではないと分かってはいたが、どうも先入観というか印象は男、しかもおっさんなのだ。
いわゆる取調室と言われる部屋に通されたレイトは今目の前にいる碧眼の双眸を持つ女性に睨み付けられていた。
睨み付けられていると思っているのは自分の勘違いかもしれないが、どちらにせよじっと見られているのは確かだ。
部屋の隅には二人のおっさん騎士が直立不動の状態で立っている。彼らは間違いなくこちらを睨んでいる。
「あ、あの~」
沈黙に耐えきれなくなったレイトは女性に声をかけてみる。
「何だ?」
「これ、何の時間なんだ?」
「何の時間だと思う?」
「え?」
「いや失礼。別に何の時間でもない。きみがどんな人間なのか少し観察していてね」
「はあ」
よく分からない。観察してどうしようというのだろうか。
「私はサファイア ブルーバード。アルキメデス大帝国南地区の騎士隊長を務めている」
サファイア ブルーバード。聞いたことのある名前だ。帝国以外にも名声が広がっている有名な剣士の一人。
最強の女性剣士の呼び声も高いが、未だ帝国内では地区の隊長に収まっている。実力だけで考えれば帝国騎士の総隊長や軍務大臣に就いていてもおかしくない逸材だ。
こんなに綺麗な人だったのかとレイトは目を見開く。
「あ、どうも。俺はレイト。レイト フルーエル」
「レイト、はどうしてあの場所に?きみが男を地面に叩きつけたところをうちの部下が見ているんだが」
「あ、まあ、事実だな」
「ということはきみがあの男に暴行を働いたのは事実ということかな」
レイトは大きく頷いた。
「そうか、ちなみにあの男がどんな奴なのかは知っているか?」
「いえ、全く」
名前すら知らない。もう顔も忘れかけているくらいだ。さすがに無頓着すぎるか?
「奴は帝国の闇パーティ、アンノウンの構成員の一人なんだ」
アンノウン?何それ?有名なの?
闇パーティは知っている。殺人や強姦強盗など金品などを手に入れるためならどんな非情なこともする集団で、冒険者ギルドに闇パーティと認定されれば、依頼を受けることもできず、国の法的機関に出頭するように命じられる。いわゆる指名手配されるということだ。
やはりどこの国でも闇パーティなるものは存在するらしい。人間が多数いればどこにでも、といった感じか。
「すまん。アンノウンを俺は知らない。実は俺は帝国の人間じゃないんだよ。まあ、そうだな……旅人みたいなものだ」
「そうだったか。それは気の毒だったな。アンノウンは帝国で最も大規模な闇パーティだ。構成員の数は不明で、これまで五十人を超える構成員を逮捕している」
「五十人!?そりゃあまた多い……」
闇パーティの構成員は少数であることが多い。人数が多くなれば自然と行動しづらくなるからだ。
「きみ……ただの旅人じゃないでしょ?」
「どうしてそう思う?」
「落ち着きすぎてる。普通ならもっと戸惑うんじゃないか?」
「う~ん……分からん。そういうものなのか?」
自分は自分だ。人のことはよく分からない。でも確かに自分は普通ではない特別な存在なのだろうと思う。そうでなければ世界で唯一の職業に就けるわけがない。
「きみに興味を持った。もう一度聞こう。帝国にはどんな要件で?」
サファイア ブルーバードは只者ではない。その心眼はレイトの本質すらも見極める鋭いものだ。
レイトは思わず笑みを浮かべてしまう。そしてサファイアの質問に正直に答えてもいいという気持ちになっていた。決して変なことにはならない気がする。
「シラヌイに会いに来た」
サファイア以外の連中は口をあんぐりと開けて、硬直したまま動かなくなった。
こいつは何を言っているんだ?正気か?立場を弁えてるのか?といった感情が表情からありありと感じられる。
「シラヌイ様に会いたい理由はなんだ?」
サファイアの表情は変わらない。ただ双眸に宿る光は強かった。レイトの全てを見極めようとするほどに。
「シラヌイは魔神について調べているだろう?そのことについて聞きたいことがあるんだ」
「どうしてそれを?帝国でも知っている者は少ないのに……」
今度ばかりはサファイアも驚きを隠せなかった。外部に漏れているなどとは想像すらしなかったようだ。
まあ外部に漏れたというのとはちょっと違う。神様に知られていたという信じられないような本当の話だ。
「まあそれは聞かないでくれ。でも外に漏れているわけじゃないから安心してくれ。俺がちょっと特殊な方法で知っただけだから」
「そんな話が通用すると思うなよ!」
後ろに控えていたおっさん騎士が青筋を浮かべながら迫ってくる。
「やめろ、ヴェン」
「し、しかし隊長……」
「やめろと言っている」
「……は、はい。申し訳ございません」
サファイアの制止によって剣は納められる。ヴェンと呼ばれた騎士は俯きがちで下がった。
「すまない。部下が失礼を働いてしまった。謝罪させてもらいたい」
「あ、いや全然大丈夫だ」
うわあ、すごいカリスマ性だ。振る舞いや言動一つ一つが完璧だ。完璧すぎて近寄り難い印象を受けるけど、容姿も美しいから言い寄る人も多いのだろうか?
俺的にはもうちょっと隙がある方がいいかな。
「シラヌイ様の予定を聞いてこよう。もしも空いているならばきみが会いたがっているのを伝えるとしよう。ただそこで判断するのはシラヌイ様だ。会えないという選択肢もある、ということだけは理解しといてくれ」
「もちろん。それは理解してる。」
「きみはどこの宿に泊まっているんだ?会えるかどうか分かったら伝えなきゃいけないからな」
「まだ決まってない。帝国には来たばかりなんだ。どこか良いところないか?」
帝国には多くの宿屋がある。南地区だけでも三十を超える数があり、一泊の値段も様々だ。
高級なところで一泊10シルバー、安いところならば一泊10カパーという宿もある。
できるだけ安いところがいいかとも思ったが、今手持ちのお金にかなり余裕があるし、値段は気にしないことにした。
「おすすめか・・・南の白鶴亭なんていいんじゃないか?」
「え!?隊長、そこおすすめします?やめといたほうが・・・」
ヴェンとは違うおっさん騎士がちょっと引き気味な様子でサファイアを制する。
「何故だ?リュート、まだあの時のことを気にしているのか?さすがに立ち直れ」
「いやだって少し騒いじゃっただけですよ?なのにあの仕打ちはないでしょう?てか、なんなんですか、あの女主人。めちゃくちゃ強かったじゃないですか?あれは素人じゃないでしょ」
リュートという名の騎士は南の白鶴亭に対してあまり良い感情を持っていないようだ。話を聞くにその宿の女主人に痛い目に合わされたらしい。
「ミラは元々冒険者だからな。腕には自信があるんだよ」
「さぞかし有名な冒険者だったんでしょう!あんなに強いなんてね!」
「おいおい、その辺にしておけ、リュート。みっともないぞ?」
ヴェンはリュートの肩に手を置き、場を収めようとする。
「お前だってそう思うだろ?あれはヤバい、化け物だ」
「ははは、化け物か。まあ私もそれは否定しない。ミラは私よりも強いからな」
「え!?それはないでしょう!」
ヴェンとリュートは同時に突っ込む。
「私にも勝てない相手はいるぞ」
「隊長も化け物の一人ですからね?それをお忘れなく」
「面と向かって言われると多少嫌な気持ちになるな。ミラには言わないでおこう」
レイトは彼らのやり取りを見て、南の白鶴亭という宿屋に泊まることに決めた。ミラという女主人を一目見たいと思ったからだ。
「決めた。そこにする。南の白鶴亭……どこにあるの、それ?」
「レグザにある冒険者ギルドの近く。リュート、地図はなかったか?」
「ああ、あります。どうぞ」
サファイアは机に広げられた地図に印をつけた。見たところによると今いる場所からそう遠くはないようだ。
南地区のヘテオという町に今レイトがいる駐屯地があり、隣町がレグザだ。
他にもアルメアやユーランドなどの町が南地区にはあって、他地区と比べれば商業に力を入れているのが店舗数や旅行者の数などに顕著に現れている。
レグザに行くには北に向かえばすぐだ。レイトにとっては中央部が近いのもレグザの町で泊まる利点の一つだろう。
「うん、ありがとう。記憶したよ」
「もういいのか?」
「ああ、十分だ」
リュートはあからさまに早すぎないかと感じているようだった。覚えたかどうか疑っているのはあまりにも記憶する時間が短かったためだ。レイトが広げられた地図を見ていた時間はおよそ五秒にも満たなかった。いくら隣町で遠くない距離だったとしても道順を覚えるには時間が足りなすぎる。
というのが普通だ。うん、普通らしい。
だが、レイトは特殊な職業に就いている。そのおかげで「絶対記憶」と「純理解」というスキルを持っていて、これが働いたために瞬時に頭に定着させることができたのだ。
「てか、いいのかもう?男に暴行を働いた件は」
「ああ、問題ない。あの男が悪いのは分かってる。逆に感謝してるよ。きみのおかげでアンノウンの構成員の一人を捕まえることができたからね。ただこれから周りに注意するように。アンノウンがきみを狙う可能性もないとはいえないから」
知らない組織の知らない人に狙われるかもしれないなんて気を付けようがない。殺気を漏らすような低脳な相手ならば分かりやすくて助かるんだが。
「ああ、とりあえず気を付けるよ。ありがとう」
「では気を付けて。シラヌイ様の件は伝えとく。分かったら南の白鶴亭に手紙を送っておく」
「頼んだ、じゃあ」
よっこらっしょと立ちあがり、外へ出る。ただっ広い廊下を突き当たりまで歩き、右に曲がる。すれ違う人が皆レイトのことを見ている。大袈裟ではなく間違いなく視線を向ける。
あいつは何をした奴なんだろうという疑問の視線だ。
レイトにはそういう表情や視線に宿ったわずかな感情さえも理解できてしまう。
何人もの視線に晒されながらもようやくレイトの目の前に建物の入り口が見えてきた。
外に出た瞬間の開放感はこの上ないものだった。
ここから北に向かえばレグザの町だ。レイトは今度は寄り道せずに行こうと固く誓った。
レグザの町は南地区の冒険者ギルドがあるためか、装備を揃えるための武器防具屋が多く点在しており、また他の町にある装備屋よりも多少安価になっているため、レグザの町で装備を整える冒険者は多い。
ヘテオからレグザへ足を踏み入れたとき、強面で屈強な体つきの男達が目に見えて増加した。今までもちらほらとそういう冒険者らしき人物とすれ違ってはいたが、この町に入ったらすれ違う人皆が冒険者のような格好をしていた。
記憶した道のりを迷うことなく進んでいくと一際目立つ建物が視界に入った。レグザの冒険者ギルド、あれがそうだろう。
他の建物と一線を画すほど大きな建造物で、確かに道を教えるには良い目印になりそうだ。
ギルドの手前の道を左に曲がったすぐのところ……っとここだ。
看板にでかでかと「南の白鶴亭」と書かれていた。他の景色に埋もれてしまうほど建物自体に特徴は見られない。レイトは周囲に目を移すが、人の出入りもなさそうだった。
ガチャ。入り口の扉を開いて、宿の中に入ったレイトだったが、従業員らしき人影が見当たらず困惑する。
「あの~」
反応なし。
「誰かいませんかね~?」
反応なし。
数分待っても誰も現れない。……これ、どうすればいいんだ?
ふと壁に視線を移すとたくさんの写真が飾ってあった。
そのどれもが幸せそうな笑顔を浮かべていて、見ているこっちまで不思議と楽しい気持ちになる。
写真の中にいるのは女性が一人とまだ齢が十も超えていないであろう少女が一人。親子だろうか?きれいな海を背景にしていたり、お祭りの煌びやかな装飾をバックにしたりと様々な場所で撮られている。それにしても親子とみられる二人はどちらも美しい容姿をしていた。
「うわ、これ千年大樹だ。凄いな……綺麗に撮れてる」
「綺麗に撮れてるでしょ、それ?」
「いや、なかなかのもんだな。ちょっと尊敬するよ、うん」
「それ私が撮ったんですよ?」
「へぇーってあれ!?従業員の方ですかね?」
「ええ、そうですよ」
「ああ、そりゃあ良かった。部屋は空いてますかね?」
「ええ、ひと部屋でよろしかったですか?」
「大丈夫。ちなみに一週間くらい泊まれたりします?」
しばらくは帝国で過ごすことは既に決まっているようなものだ。
どれくらい滞在するかはレイト自身もまだ分かっていない。
「お、客じゃない!?久しぶりな気がするわ。一週間ぶりくらいだったっけ?」
流れるような金髪の女性……写真に写っている女性だ。だがどうも印象が異なって見える。表情というか纏っている雰囲気が写真とは別人のようにレイトは感じたのだ。
「違うわ、ミラ。二週間よ」
「どっちも変わんないって。んで、何泊すんの?」
「えっと、とりあえず一週間……」
「はい、じゃあ前払いで1ゴールドね」
「……ミラ」
「はい、どうぞ」
レイトは金貨を一枚受付の台の上に置いた。
ミラはその行動に仰天する。
「おっと!マジ!?」
冗談で言ったわけではないミラだったが、本当に払う奴がいるとは思ってもいなかった。
たかだか一週間で1ゴールドも払っていれば間違いなく破産する。しかしレイトにはそれが法外な額だということが分からなかった。あまりにも宿に泊まる経験が少なかったためだ。お金を払って寝床を確保するなんて勿体ない、野宿で十分だ。と本気で思っているのだ。
「スゴいね、あんた。ひょっとして有名人?」
何でそう思ったのだろうと表情で訴えかけるとそれを悟ったらしくミラという女性は口を開く。
「いや手持ちで1ゴールド持ってる奴なんてそういないよ?いたとしてもひょいひょい出さないって」
じゃあ何故宿泊代に1ゴールドを払うように求めてきたのか謎だ。冗談でもないと言っていたし、本当に払わないと泊まれないけど、払う奴なんていないと思っていた?ということはここには泊まってほしくないということか。
「泊まっていいのか?ここに」
「もちろん。宿泊代を払ってくれたんだから、問題なし」
「そうか、じゃあ遠慮しなくていいんだな」
「ええ、客室にはシェイラが案内してくれるわ」
シェイラとは誰だと思う前に後ろにいた女性がレイトに声をかけた。
「じゃあ行きましょうか。私がシェイラです。よろしくお願いします。ちなみにそっちがミラ。ミラ レンティカ」
「ああ、やっぱり彼女がミラなんですね」
「あら、ご存知でしたか?」
「実はこの宿を紹介してもらったのはサファイアって人からなんですよ」
「え?サフィーから?」
いつの間にか受付の椅子に座って葉巻を嗜んでいたミラが思わず身を乗り出した。
「そうでしたか。ミラ、なら1ゴールドはやりすぎじゃないの?」
「サフィーの知り合いだとは知らないし。つーか、もうちょっと早く言うべき」
「はあ」
何か理不尽に怒られている気がしないでもない。
ミラは1ゴールドをレイトに向かって投げた。それを容易く掴み取る。
「1シルバーでよし」
急激に安くなって逆に不安になる。この宿にとってサファイアという存在はそれほどまでに影響力があるのだろう。
レイトは銀貨を一枚受付の上に優しく置いた。
「じゃあご案内しますね。私についてきてください」
首元から足元にかけてふんわりとした白いワンピースで包まれているシェイラは歩き方すら優雅で知的な雰囲気をぷんぷんと感じる。色気と良い意味での幼さが容姿に現れていて、数多くの男が心を奪われたのは想像に難くない。
実際レイトもちらっと見える横顔に視線を向けるだけで可愛いな、綺麗だなと自然と思ってしまったほどだ。
「まさかサフィーと知り合いだったとは。驚きました」
「たまたま知り合ったんです。サファイアが何故だか俺に興味を持ったみたいで。あ、変な意味でじゃないですよ?」
「ふふふ、どうでしょう。わかりませんよ?彼女の心は」
もしかしてからかわれてる
レイトはシェイラの言葉を苦笑で誤魔化した。
「そういえばシェイラはミラとはどういう関係なんですか?」
「敬語じゃなくてもよろしいですよ?」
「あ、それはありがたい。実は慣れてなくてな。喋りづらかったんだよ」
「えっと、ミラとの関係でしたね。彼女は私の妹です。姉妹なんですよ、私たちは」
そう言われれば顔は何となく似ている気がする。ただ性格というか纏う空気が全く違うので、パッと見では似ていると思わないかもしれない。
シェイラは階段を上って二階へと上がった。もちろんレイトもそれについていく。
「受付の横にあった写真見てましたよね?」
「ああ、あの壁一面の写真。なかなかよく撮れてたな、あれは」
「あれ、私が撮ったんですよ」
「職業が写真家なんじゃないか?」
固有職業か特殊職業に写真家っていうのがあったはずだ。どんな特性を持っているかは知らないが、たぶん後方支援が主な役割の職業だろう。
「私の職業は付与術師。写真は特技に過ぎないですよ
」
この世界の誰もが例外なく職業に就かなければならないという全民職業法というものがある。
全世界共通の法律のため、非戦闘員と言われる民間人も何かしらの職業に就く必要があるのだ。それは自分が食べていくために就いている本当の仕事とは異なるのは当たり前で、戦士の職業であるが酒屋を経営していたり、魔導士ながら作物を育てていたりと多種多様だ。民間人にとっては強制なので、別に自分がどんな職業に就いていようと生きていく上であまり関係がない。
そういう人たちは職業の基本的な技が使える程度の技量はあるけども、使う機会もないし、場面もない。
いざとなったらパニックで使えない人がほとんどだろう。
何故、こんな法が世界的に施行されているのかレイトは心から不思議に思っている。
「私は元々冒険者だったので。付与術師としては一定のレベルはあります。ミラもそうですよ。ちなみにミラの職業は武道家です」
「ああ、なるほど。まさに、って感じだな」
ミラの雰囲気を考えれば確実に後衛ではなく、前衛の職業だと分かる。しかも魔法を使わない肉弾戦を得意としていそう。いわゆる脳筋の職業、そうなると武道家は想像通りと言っていい。
「ミラは優秀なんです。帝国最強の冒険者の一人で、巨人の轍っていうパーティのリーダーだったんですよ」
「シェイラもそのパーティにいたのか?」
「ええ、ミラのように有名ではなかったですけどね」
そんな話をしているとレイトが泊まる部屋の前に到着した。
扉には205という文字が少し掠れていたが、確認できた。
「無駄話すいません、到着しました」
「いや、興味深い話だった。今度また聞かせてほしい」
シェイラは薄く笑ってこくりと頷いた。
髪が揺れ、仄かな香水の香りが鼻孔を優しくくすぐる。
「夕食は宿泊代に入ってますので、七時になったら下の方に来てください。夕食が必要ない場合は事前にお申し付けください」
こちら鍵です、とシェイラが手渡してきたのは205と書かれた札がついている鍵だった。
「ありがとう。せっかくだし夕食は食べるかな」
「はい、わかりました。ではごゆっくりと」
「ああ、ありがとう」
一礼して去っていくシェイラが階段を下りて姿が見えなくなってから部屋の鍵を開け、中へと入る。
ベッドとテーブル、そして横になれるほどの大きさがあるソファー、トイレと洗面台も完備されている。床にごみもないし、掛け布団に皺が寄っていない。しっかりと掃除がなされているし、空気の循環も問題ない。
「ちゃんと換気もしてる。思ったよりもちゃんと宿屋って感じだな」
いい加減なのは宿泊代の料金設定くらいなのかもしれない。そうじゃないとさすがにやっていけないか。
部屋に窓は一つだけだ。それでも窓は二面ほどあって窮屈さは感じない。むしろ開放感があった。
窓から外に出ると小さなベランダのような作りになっていた。隣の部屋にも同じような空間があるし、その隣も同じだった。
ベランダから下を見るとギルドに向かう冒険者の数が多くなっていた。もう夕暮れに近い時間帯だ。夜になるとモンスターも活発化するので危険度も増す。今の時間に帰ってくるのが大人の判断だろう。
「いや~涼しいねぇ、風が。気持ちが良い」
日中とは違うひんやりとした空気が肺を冷たくする。
通りを挟んだ向かい側の建物の屋根に数匹の小鳥が餌をついばんでいるのが見えた。
これから酒場が混み合う時間帯だ。
外出は控えるようにしよう。何かトラブルに巻き込まれるのは勘弁だ。
レイトは少しの仮眠を取ってから部屋を出た。
七時ちょっと前に下に行くとちょうどシェイラと顔を合わせた。彼女はこちらへどうぞとレイトを食堂へと案内してくれた。
椅子に座るとすぐに目の前に料理が運ばれてきた。どれもこれもが出来立てからか湯気が出ていて、香りが食堂に充満している。
豚肉をバターで炒めたポークソテーがメイン。食欲をそそる香りはこの料理から漂っているようだ。
しかし不思議とレアとを引き付けたのは小皿に乗っている赤くて丸い食べもの。
「これは?」
「赤梅漬です。南の石門外にある梅農家から仕入れているんです」
見るからに酸味が強そうだ。見ているだけで口のなかに唾液が溢れてくる。
一口齧ってみると案の定酸っぱかった。ただ食べられないほどじゃない。しかも咀嚼しているうちにほどよい甘味も感じられた。
「これは、美味い。気に入った」
「ここにあるのは全部ミラが作ってるんですよ」
驚愕の事実。印象とあまりにもかけ離れている事実。即席料理が似合う女第一位に選ばれてもおかしくないと思っていたのに。
人は見た目によらないとはこのことだ。
「いや美味いよ。まさか料理ができるとは」
「ミラはああ見えて器用なんですよ。でも料理だけは私も負けませんけどね。料理だけね」
控えめな印象のシェイラがそう言うということはそれだけ料理に自信があるということだろう。ちなみにレイトは料理はまずまず、だと思っている。味付けも濃すぎることもなく薄すぎることもなく、まあ若干薄いといわれることもあるが、総じてまあ、美味いよという反応が返ってくる。
まさかお世辞ってこともないだろう、たぶん。
「今度は私が夕食を作りますよ。そうしたら比較できるでしょう?」
「ミラに料理で勝ちたいのか?」
「他では負けますけど料理ぐらいでは勝たないと姉としてのメンツがありますから」
楽しそうに微笑みながらシェイラはグラスのコップにひんやりと冷たいお茶を注いだ。金色の液体がコップに入っていると違うと分かっていてもエールと勘違いしてしまう。
一口飲んだらやはりお茶。レイトは何故か残念な気持ちになった。
まあでも料理は美味しかったので、あっという間に平らげてしまった。
「ふう、美味かった。ミラはどこに?」
「なに?何か用?」
後ろの方から声が聞こえて振り向くとミラがサンダル、タンパン、Tシャツで買い物をして来たミラの姿があった。
その格好はどう見ても宿泊する方のものだ。女性らしさの欠片もない姿に唖然としたが、本人は至って普通なのか、気にしていない様子だった。
「買い物か?」
「晩に酒を飲まないとやってられないからね」
「飯、美味かったよ。ごちそうさん」
「これで料理下手だったらさすがにやってけないわ」
はははとひと笑いしてからミラは、んじゃおやすみと言って立ち去っていった。
ミラの野性味溢れる行動と言動はて新鮮な驚きを毎回提供してくれる。知るほどに興味が出てくる人物なのは間違いない。
突然ガタンという音が入り口の方からしてレイトとシェイラは顔を見合わせる。
シェイラは食堂の扉から出ていく。レイトもそれに続く。
こんな時間に客か?と思いつつもまだ七時だ。宿泊したいと思ってやってくる人がいてもおかしくはないか。
入り口には青ざめた顔色の男が背筋を伸ばして立っていた。格好はタキシード姿でこれからパーティーにでも参加するのかと思ってしまうほどの正装をしていた。
「カモシタさん。久しぶりですね。どうしたんですか?」
「お久しぶりです。シェイラ様。緊急事態ですので世間話はなしていきます。ミッチェル様が行方不明になりました」
「行方不明?それは、どういうことでしょうか?彼女の行動を見張っていた者はいなかったんですか?」
シェイラの表情は一切変わっていなかったが、声色からは苛立ちが感じられた。
「もちろん見張っておりました。しかし忽然と姿を消したそうなんです」
「どこでいなくなったんだ?」
レイトの背後の扉が乱暴に開かれ、ミラが姿を現した。扉の立て付けが悪くなりそうな開け方だった。
「ミラ様、ご無沙汰しており・・・」
「挨拶は不要。どこでいなくなったのか聞いてるんだ」
男の言葉を遮って質問を繰り返すミラ。
「モラリア外れの洞窟です。あまり人が近付かない秘境らしいですが」
平然とした様子で男は説明をする。するとミラは食堂の方へ引き返していった。
シェイラが口にした男の名前はカモシタ。極東の国の名前に似ている。彼の青ざめた顔色は体調面とは関係なく、天然のものだというのが観察していて分かった。
同時にカモシタの話に引っ掛かりを覚える。記憶を掘り返したらすぐにその引っ掛かりに思い至った。
「モラリア外れの洞窟って美味いキジウララが獲れる場所か?」
「美味いキジウララですか?はて、それはちょっと把握しておりませんが」
「ああ、すまん。こっちの話だ」
ガチャっと再度食堂の扉が開かれたと思ったらミラは歩調を緩めることなく、入り口から出ていこうとする。
「ミラ?」
「シェイラ、ここ頼んだよ」
「モラリアに向かう気?」
ミラは答えない。が、答えは明確だ。
「向かうなら俺もついていこうかな」
「「何で?」」
ミラとシェイラ両方からの重なった言葉が投げ掛けられる。
「俺も気になる理由があってな。邪魔はしないさ、大丈夫」
「勝手にしな。ついてこれなくても知らないよ」
「ああ、俺のことは気にかけなくていい」
ミラはレイトを一瞥してから即座に宿屋を出ていった。
レイトもその背中を追うが、一度立ち止まる。
「あ、シェイラ。ごめん食器片付けるの頼んだ」
「え、ええ。わかりました」
んじゃ、と手を挙げてからレイトは走り出す。
星空が綺麗な夜の街を駆け抜ける。もう既にミラの後ろ姿はぼんやりとしか見えないほど遠くにあった。
はやっ。