快楽を求める孤独な少女
私はお母さんのお腹にいたときのことを覚えている。くぐもった話し声や歩いた時の小刻みな振動、全てが新鮮だった。
いつになったらこの狭い空間から抜け出せるのだろうといつも待ちかねていた。
念願だったその日が来たときは笑顔を浮かべるのを抑えることはできなかった。
赤子が泣くのではなくきゃっきゃっと笑いながら生まれてきたことにお母さんも医術士も困惑と驚きを隠せていなかった。表情を見れば分かった。
げ、元気なお子さんですね!と作り笑いを浮かべながら医術士は言っていた。その裏にある感情は手に取るように分かった。それくらい自分は異端な生まれ方をした異常な存在だったのだ。
けれども決して望まれていない子供ではなかった。十分に愛されていた自分としては思っている。
でも今考えるとそれは勘違いだったのかもしれない。
三歳のときにトリル教の人身供物として生け贄に出された。トリル教では五年に一度子供を一人だけ神に捧げる儀式があり、子の心臓を祭壇に捧げなければならない。あらゆる心臓はトリル神が生み出した造物で、そこから肝臓や腎臓などの臓器が枝分かれするように成長していったと考えているのがトリル教だった。憂いを持ったトリル神は天災を巻き起こす。それは人の世に多大なる被害をもたらす。それをどうにかするためには神の機嫌を取り、怒りを鎮めなければならない。じゃあどうするか?
そうだ、神が造りし、心臓を祭壇に捧げよう!とこうなったわけだ。
それに私は選ばれてしまったのだ。
普通の三歳の幼児ならば自分の置かれている状況を把握できないだろう。あなたはこれから神様と共に天へと旅立つの!なんて妄想じみたおばさんの顔に唾を吐きたくなった気持ちを理解してくれる人もいるだろう。
私は普通じゃないから狂信的な彼らが自分になそうとしていることを理解していた。生まれて初めての恐怖を感じた。そんな意味のわからない迷信と欺瞞と狂信に満ちた儀式で自らの命を無駄になどしたくない。私は泣き叫び、拒否を繰り返す。そうすればお母さんなら何とかしてくれるのではという今思えば浅はかな思いがあった。この場にいる誰もが敵だったとしてもお母さんは違うと、そう思いたかったのかもしれない。
お母さんは正座をして、頭をゆっくりと下げ、どうぞ供物として捧げ下さいと口にした。拒否は示されることなく私は供物として捧げられた。生け贄となった。
もちろん本当に生け贄になったわけではない。なっていたら今生きている
わけもなし。
生け贄にされる前にアンノウンの連中が私の故郷の里に対して殺戮を行った。惨たらしい死体の山が築かれていったが、私の気持ちが揺れ動くことはなかった。波風ひとつたたない。それは何故か?実を言うとよくわからない。自分を生け贄に捧げたから?それもあるのかもしれない。けれど実際のところ、自分以外の誰かが死ぬのに興味がなかったからなんだと思う。死体の山の中にどす黒い顔のお母さんの死体を見つけても何も思わなかったのだから、まさにそうだ。
私は普通じゃない。壊れてるという言い方が正しいのかもしれない。
死体の山をキャンプファイア-のように燃やし、強烈な異臭が漂うそのなかでカムイと名乗った黒ス-ツの男が私を見下ろす。そこには不思議と安堵の表情が浮かんでいた。
「ああよかった。俺はお前みたいな奴を探していた」
「おじさんは悪い人?」
「どうだろうな。自分で悪いとは思わないが、世間はそう評価するだろうな」
「気にしてない?」
「気にしていないさ。気にしていないからこそできる。殺人も盗みも全てな」
「成し遂げたいことがあるの?」
三歳とは思えない口調と態度。それでもカムイはそれが当たり前だとでもいうように私と接している。
「帝国を造り替える。貴族制度廃止、貧民街廃止、平等な世界をつくる」
想像していない歯の浮くような言葉が羅列され、私は思わず噴き出してしまった。ただカムイは気分を害した様子はない。
「どうだ?エメラマ。一緒に来ないか?別に俺の目的に賛同しろとは言わない。お前自身のやりたいことを見つければいい。俺が創ったアンノウンの組織で」
やりたいこと。別にない。でも今はの話。もしかしたら何か見つかるかもしれない。それに自分みたいな普通じゃない人間の身の置き場なんて限られてる。認められていない、忌避されているであろうアンノウンとかいう組織なら違和感はないかもしれない。
それから私の身は今の今までアンノウンにあった。八歳になるまでの期間でアンノウンの全てを理解した。
カムイは創始者の一人で、全部で三人の創始者がいる。カムイ以外の二人は帝国騎士のサファイアに葬られたと聞く。その二人がアンノウンの創始者だとは帝国側は知らず、ただの犯罪者として処分したらしい。
五年の月日のうちに数十人の幹部が死んだ。どれも帝国騎士や雇われ冒険者によるものだ。
ヤグルマやグレイス、ブラッディ……多くの仲間を失った。寂しさも悲しさもない。ただあるのは懐かしさのみ。
「どうした?ぼっーとして。珍しいじゃないか、エメラマ」
地底三階に下る階段に座っていた私に話しかけてきたのは
「うん。ちょっと昔を懐かしんでたの」
「昔ってお前まだ八歳だろ?懐かしいも何もないだろ」
「私にとっては昔なの。私が入ってからアンノウンの最高幹部はいっぱい変わったよねぇ」
「ああ?そうだな、確かに。グレイスやブラッディは相手が悪かったからな。あの帝国最強のサファイアと出くわしたんだからよ」
「やりたいやりたい。サファイアとやる機会があれば私ね?私でお願いね」
「お前の殺人衝動の発作は本当に突然だな。なんか幼稚な感じになるな」
「う~ん……うん、ちょっと反省。いつもね、少し後悔するの」
定期的に人を殺めなければ衝動を抑えられなくなる。私の行動は自由ではない。ある程度制限されている。いや私というと誤解を生む。私ではなく、私たちといった方がいいだろう。好きに殺人を犯すことはできず、目的を果たすためだけに行っているのが現状だ。もちろん不満はある。不満はあるけどもこればかりは仕方ない。帝国騎士を甘く見てはいけない。組織の共通の考えになっている。特に南地区の騎士隊長を務めているサファイア ブルーバードは一人で対処してはいけないとまで言われている。直接サファイアの力を見たことはないが、最高幹部二人を含めて多くのメンバーがやられているとなると警戒せざるを得ない。
でもそれ以上に衝動の方が大きいのだけれど……
これから最高幹部の定期会議がある。
そういえば地下監獄に投獄することになった五人だか六人の冒険者パーティはどうなったのだろうか。あれを殺すのは確定しているとイワンは言っていたが、すぐに殺せれば私の欲求の枯渇も潤っていたのに。これからの会議にも関係しているが、地上の情報はどんなものでも欲しいのが今のアンノウンの実情だ。
正直会議なんかには出たくない。小難しい話は退屈でしかない。エメラマは天才だ!神童だ!なんて言葉を組織内で耳にするが、知力という面で優れているわけではない。勘違いしている人も多いから困る。ただ単純に殺しが好きで上手いというだけ。そして魔法の才に恵まれていたのだ。
ふわぁ~っと欠伸を噛み殺しながら会議室への扉を開け放つ。
もう自分以外の五人全員が席に腰を下ろしていた。別に時間に遅れたわけじゃないし、謝罪も何も必要ないだろう。
「アルファポップ使用者の一人だったオブリビオンのボーグ ヘイトリッチは帝国に捕縛された」
唐突に告げられた言葉だったが、誰も驚いてはいない。その事実は言われる前から六人全員が承知していた。口にしたイワンは真剣な表情で言葉を続ける。
「三日後決行する。予定よりもずっと早いが、仕方あるまい」
地上での大規模戦闘で帝国第十五代皇帝イグナスの謀殺を達成すること……それが目的だ。三日後という強行な日程で成し遂げられるほど甘い目的ではないのは重々理解している。しかしアルファポップ使用者が捕縛された今、時間を掛けてもいられない。
私的には不満はある。だいたいあんな屑みたいな冒険者に薬物を売るのが間違いだったんだと思う。
以前は一部の貴族や商人といった裕福な人間たちと取引を行っていたが、収入を増やすために裾野を平民にまで広げたのがそもそもの誤りだった。今更悔いても遅いが、そう思わずにはいられない。
確かボーグと取引したのはルティナだったはず。ちらっと視線を向けてみたが、後悔や反省の念は全く感じられない顔をしていた。まあ、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけイラついた。
「中央区の帝城を一気に落とすの?」
「ああ、時間を掛けると面倒だ。短時間で皇帝を殺す」
「分かりやすくていいね。ただサファイアはどうする?」
ティアモの言う通り、サファイアの存在で目的達成の難易度は大幅に上下する。それだけ脅威だとここにいる全員が共通して認識していた。
個人的には戦ってみたいという気持ちが強いが、我儘も言っていられない。私も八歳ながら大人になったと思う。気づかれないくらいに胸を張る。
「サファイアを壁外におびき寄せりゃいいんじゃね?南の壁外でも戦争おっぱじめればいいんだよ」
丸テーブルの上に両足をだらしなく乗っけて、ワルシャワがガハハハ!と大笑いをしながら右手の酒瓶をラッパ飲みした。確か地上で最もおいしいというラム酒だったっけ。いつも同じ銘柄のお酒を飲んでいて、ワルシャワのお気に入りなんだとか。どんな反応するかなと思って、一度プレゼントした時はたいそう喜んでくれた記憶があった。
彼と私の関係は悪くない、と思う。他の最高幹部と揉め事を起こしている姿を度々見かけるから、そういう事態になったことがない分、たぶん良いんだろう。
「南の壁外か……ルージュ平原なら帝国騎士の巡回があるな。しかも南地区だからサファイアの管轄だ」
「んで、誰が行く?」
みなが視線を交差し合う。即座に手を挙げる者はいない。どうしようかなと特に深く考え込んでいるのはワルシャワとレックスだ。
これは良い機会かもしれない。
私は小さな手を思い切り挙げてみた。思った通り、全員の視線が私に向いた。
「ん?エメラマ、サファイアと本気でやり合うことになるが、いいのか?」
「うん、すごい楽しみ。ものすごい楽しみ」
欲求が溢れ出しそうで、ギリギリ我慢している。
「いいんじゃねぇか?序列第三位のエメラマ。ちょうどいいだろ」
序列第五位のワルシャワが賛成を示す。
あれ?ちょっと予想外だけど、まあいいか。仲良しワルシャワ、グッジョブ。
「私も賛成」
序列第六位のルティナは口数少なく、か細い声でそう言った。体調でも悪いの?いつもよりも全然声出てないけど。本当ならあなたが尻ぬぐいするべきじゃない?と思ったけど皮肉なことにルティナのおかげでサファイアと戦う機会が出来たのだから良しとしよう。
「う~ん、俺もちょっと戦ってみたい気持ちがあるんだが……今回はエメラマに譲るか。去年の銀志蝶は俺が楽しませてもらったしな」
序列第四位のレックスの言葉にああそういえばと去年の出来事を思い出す。
確か帝国のS級冒険者になったばかりだった銀志蝶という名前の女がアンノウンに入りたいとかなんとか言ってきてスパイされそうになった事案だったっけ。あんまり鮮明な記憶は残ってないけど。どうでもよかったから。
そうだ、その女を殺すことになって、それで誰が殺るってことになって私とレックスがジャンケンで勝負したんだった。そこで負けちゃって残念だったのを覚えている。
風化しかけていた記憶が薄っすらとだが思い浮かんだ。
今回は私がもらってもいいよね?という意思を込めた満面の笑顔を浮かべてみたらレックスは仕方ねぇなと呟き、薄く笑った。
「僕はだれでもいいと思うよ。ねぇ、愛しの武装猫ちゃん?」
序列第二位のワンフーだ。私が言うのもなんだけどこの人が一番浮いているし、滑ってる気がする。愛しの何々とかよく言うけど正直その枕詞のいみがよくわからない。あらゆることに愛しのってつけるからたくさんの愛しのものがあるのかもしれない。
変な人だと思っているのは私だけではないと思う。今この状況で誰も反応を返さないのはそういうことだろう。ワルシャワなんて露骨に溜め息をついている。そんな反応も全く意に介さないワンフーの心は鋼のような強靭さを誇る。あんまり憧れはしないけど、凄いなとは思う。
「よし、ならば頼むぞ、エメラマ。勝てれば一番いいが、それが無理ならできるだけ時間を稼げよ」
「うん、というか負けないよ。あはは。絶対ね」
自信とかではなく、事実だ。負けない。勝つ。死んでも相手は殺す、絶対に。そうじゃないとこの心の奥底、身体の芯から湧き出る渇望を満たすことなど絶対にできない。
ああ楽しみだ、楽しみだ。心が躍り狂う。
エメラマがサファイアを引き付けている間に五人全員が帝城に乗りこむ算段を立てた。
サファイア以外の帝国騎士に苦戦することはない。これは断言できる。
でもだからといってそうそう上手くいくとは六人共思っていない。
帝国は大国であり、多くの冒険者が活動していたり、他国の来賓が頻繁に訪れているからだ。
冒険者で注意するのは赤旗のレッドホーク、そしてアルティミラ大聖団ぐらいだろう。銀志蝶を始末した今、帝国唯一のS級冒険者がレッドホークだ。この人とも手合わせしてみたい。
アルティミラ大聖団は総勢百名を超える大型パーティで、他国への遠征も多く、帝国内に滞在している時間も最近は短い。パーティのランクもA、構成されているメンバーの最高位がリーダーであるアルティミラのA級だ。ぶっちゃけて人数が多いというだけで脅威と感じたことは一度もない。
数の暴力を舐めてはいけないとイワンが言うから組織内でも危険度を高くしているだけだ。
「エメラマがサファイアの注意を引くのはいいが、レッドホークはどうする?あいつも厄介だぞ?一対一でやれば下手すりゃ殺されるかもしれない」
「問題ないねぇ。そいつが来たらナンバー2の僕が相手をしようじゃないか。軽く捻ってあげよう」
「レッドホークは帝国騎士じゃないからな。報酬がないと動かないだろう。気取られる前に皇帝を殺す。いいか?俺たち六人全員が生存できるなんてあり得ない。やろうとしてることから考えたら全滅もあり得る。ただそれはアンノウンが組織されたときからそうだった。創始者だった三人も順々に帝国の強者との戦闘で死んでった。最高幹部もそうだ。多くの同志を失っただろう?この二年間は運良くそのままだが、明日になれば?誰もそれは分からないだろ?それでもアンノウンに入ったからにはやらなきゃいけないことがある」
イワンは言葉を区切る。
誰も口を挟まないのはイワンなりの鼓舞の仕方だから。
「帝国の現体制を破壊すること。貴族と貧民の差を撤廃すること。平等の社会を目指す。そのためになら殺人でも何でもする。それがアンノウンが成し遂げることだ。決して忘れてはいないな?薬物で快楽を求めてもいい、殺人の衝動や欲求を抑えられなくてもいい。目的だけは絶対に忘れるなよ」
説教臭くなったが、まあいつものことだ。
私はアンノウンの矜持を悪いけど持ち合わせていない。居場所がなかったからここで過ごしていただけ。でも組織に愛着は持っているから成し遂げようとしていることに協力はする。他の連中がそうなのかは定かではないけど目を見る限り消極的な人物はいないように思えた。
「まあお前らを信用していないわけじゃない。むしろ信頼は確固たるものだ。なんだ……その、確認しただけだ」
ちょっと恥ずかしそうに言葉を濁すイワン。あまりらしくない反応だから新鮮だ。
「分かってるさ、イワン。これを始まりにする……終わりにはしないさ」
「三日後ね。理解」
「面白くなってきたねえ。楽しい殺戮の時間がもうすぐだ」
私がやるべきことは一番難易度が高い。だからこそ戦闘の欲求だけで突き進んではいけない。どうやればサファイアを足止めできるか。時間を掛けて考えなくちゃいけない。
深く考え込んでいたらしく、席に座っているのはもう自分ひとりだけになっていた。
「やけに考え込んでるな。お前らしくない。ま、考え込むのも分かる。今回ばかりはな。サファイア ブルーバード……奴は今まで葬ってきたのとは格が違うからな」
「あ、そうか。レックスは元々帝国騎士だもんね。今考えるとよく入れたね、アンノウンに」
「ははは。そうだな、俺もそう思う。俺が帝国騎士だった時にサファイアが中央区の騎士副隊長だったんだが、それはそれは凄かったぞ」
「どんな風に?」
「本気を出してるとこは目にしたことはないが、あいつに一撃でも与えられた奴を俺は見たことがない」
まあ今ならどうなるか分からないがなと付け足すのを忘れないレックスは負けず嫌いなのかも。
「余計に楽しみ。早く会いたいな」
私は席を立ち、会議室を出た。長い廊下の天井から高質な光を蓄えたシャンデリアが輝いている。
「今日は俺のおごりで豚丼でも食うか?」
「あれ?もうオープンしたの?あそこ」
「知らないのか?一週間前からやってるぞ?」
「え、そうなの?」
扉を開けて外に出る。いや外という表現は適切ではないか。
ここは帝国の秘密地下街。アンノウンが十年以上かけて築き上げた拠点といったほうが適切だろう。地上に住む国民はこの地下街の存在を知らない。アンノウンとの売買で薬物を直接手に入れたことのある者でさえここの存在を知ってはいないだろう。
地上への出入りは転移陣を使用している。地下街の中央広場のど真ん中にそれはあり、許可を得た者しか地上へ上がってはいけない。これは最高幹部でも同じである。
最高幹部だけが入ることが許される石材で作られた建物から出てきた私とレックスを目にした中央広場にいた奴らは皆、深々と首を垂れる。
いつも通りの見慣れた光景だ。強制してるわけじゃないから私なら絶対やらないけど、といつも思う。
何人か見慣れない顔もある。新入りだろうか。闇ギルドであるアンノウンに入りたいという地上人は多く、知らない顔が増えているのはそう珍しいことじゃない。これまで何度となく帝国のスパイだった奴らがいたけども、全員ここの地下街に来る前に素性がバレて処分されている。
ここにいるのは審査を勝ち抜いた危険な奴らばかり。普通に町で暮らしている民ならば地下の湿気の多い淀んだ空気に体が耐えられず、体調を悪くすることが多いのだが、ここに来る新入りは違う。全員が貧民街で目も当てられない状態の生活をしてきた奴らだ。貴族からしてみれば同じ人間だとは思えない存在だろう。彼らからしてみれば自分たちが送ってきた悲惨な生活に比べればここの淀んだ空気など全く気にならない。むしろ良い環境だとさえ思うのだ。
頭を下げている彼らをそのままに目的地である豚丼屋に向かう。地下街の東区画に新しく経営しはじめた店だが、地下街ではこのように商いを職業にしている者もいる。食事の度に地上に上がるのはリスクが高いので、組織にいる人間はみな地下街で食事や入浴、睡眠も全て済ます。
しかしひと月に一度は食材の仕入れが必要になる。これは交代制で最高幹部以外の顔を知られていない奴らが担当している。入荷量もかなり多いため、地下街の情報が晒される危険性は高くなるので、かなり注意深くなっていると聞く。
豚丼屋の暖簾を潜ると見慣れた顔の中年男性が鍋を懸命に掻き混ぜている。
カウンター席が数席あるだけの小さな店だが、地下街ではこれが通常だ。人口も限られているので、来店する人の数もほとんど決まっている。
知らない人がやってくるということはまずない。新入りだったとしても事前に挨拶をしないと入るこつら許されないらしい。らしいというのも私は挨拶なんて一切していないし、しようとも思っていなかったからだ。
「お、やっと来たかよ!エメラマ!遅いぞ、もう開店から一週間だぞ?」
「うん、ごめんごめん。やっと来たよ」
「食ってけ、食ってけ。お前から金は取らねぇよ」
ブレイリー ブラウンという名前の男、地下街で色んな店を経営している最高幹部の次に有名な人物だろう。彼が調理したものは何よりも美味い。
ブレイリーは慣れた様子でコップに水を汲み、私とレックスの前に置いた。勢い余って水が零れるのは彼の悪い癖だ。
「いつもどうも。助かる」
地上に出るときに多少なりとも使う機会があるため、お金は持ってはいるけど、無関心でしょっちゅう無くす。今も懐に入れてあったはずの金貨が無いことに気付いた。
まあタダというから気にすることはないか。
地上で貴族お抱えの料理人だったブレイリーはその貴族同士の争いに巻き込まれた。三年前以上の出来事ながら帝国でも有名な事件の一つである。ブレイリーのような料理人やお抱えの執事やメイドにも死人が出て、凄惨な状況だったなかで六歳の少女に助けられた。それがエメラマ、つまり私だ。
「お前がいたからこそ、俺は生きてられるからな」
「別に助けるつもりもなかったんだけど」
「それでもいいんだよ。ここに俺がいるのが全てだ。アンノウンの奴らの腹を満たすことが今俺がやるべきことだ」
ブレイリーはアンノウンが今までしでかしてきた事件に対して否定も肯定もしていない。
人殺ししても、盗みを働いても彼には関係がない。彼はこの地下街でアンノウンへの恩を返すだけだといつも語っていた。
私が言うのもおかしいかもしれないが、グレイリーは珍しい人間だと思う。
どんなに恩を感じていようとアンノウンのしていることは一般的には受け入れ難いのは明白だ。しかし葛藤や忌避の感情はまるでないという。精神構造に多少興味が湧く。だからといって頭の中を切り開いて見てみようとはならないが。
「そういえばブレイリーは中央区に住んでたんだよね?」
「ああ、三年前ぐらいまでな。今は亡きレグルス公爵の専任料理人だったからな」
「サファイア ブルーバードって知ってる?」
私はグラスに注がれている冷水で喉を湿らしてから聞いた。
「もちろんもちろん。あいつを知らない奴なんていないだろ。戦ってる姿も何度か見たことがあるしな」
「そうなんだ。どんな感じだった?」
「いや凄かった。俺はそういう戦闘とかは素人だから細かいことは分からないが、それでも全然動きが違うのは分かったわ。いや~あれは忘れられないぜ、あの剣捌き……」
惚れ惚れしたなと呟きながらブレイリーのフライパンを振る手にも力が入る。
「ブレイリーよ、実は俺も見たことがあるんだよ。あいつの力の一端を」
「お、レックスもか。何年前の話だ?」
「アンノウンに入る前だから八年前だな」
「おお、んじゃあサファイアが中央区の騎士副隊長になったばかりの時じゃないか?」
「そういやそうだったな。かなり話題になってた。史上最年少とかなんとかだってな」
「そうそう。んで三年前に地区隊長にして欲しいと直談判したんだ。理由は知らんが……」
「やっぱ飛ばされたわけじゃないんだな。おかしいとは思ったんだよ、あいつがいきなり地区隊長に降格になったの……」
二人共よくサファイアのことを知っているな。対して私はあの剣豪の詳しいことを何も知らない。
どんなに話を聞いてもサファイアが強いということしか分からない。もうこの際、ぶっつけで戦うしかないように思う。煮えたぎる殺人欲求と共に多少の不安もよぎる。こんな感覚は初めてだ。
私とレックスは帝国領の西地域に広がる牧畜地帯で放し飼いされている焦茶豚という品種が使われている豚丼をぺろりと平らげる。地下の陰鬱な空気を忘れるくらいの美味だった。八歳の幼い体にもすっと違和感なく入ってくるくどすぎない味付けで一口で気に入った。また食べにきたい。
三日後の大仕事が終わったらリピートしようと心に決めた。
「また来てくれよ。今度もタダで食わしてやるからよ!」
豚丼屋を後にする。建物外のに石柱が等間隔で立っており、そこに掛けられているのは時計だ。地上じゃないので昼と夜の違いがない。なので至るところに時計があるのだ。
「失敗できないな」
「そりゃあね。失敗しないよ、私は。ふふふ」
「楽しみか?それとも不安か?」
「不安?」
「別にプレッシャーをかけるわけじゃないが、お前に全てが掛かってるからな。さすがのお前も不安に思ってるんじゃないかってな」
「正直、初めての感覚で驚いてる。これが不安なのかなって思うととても不快。やっぱり全て愉悦な感情を抱きたい」
「ま、俺から言えることは頑張れくらいだな。無理しろよ」
「ふふふ、そこは無理するなじゃないの?」
「いや無理はしてもらわないとな。そうじゃないとさすがに敵わないぞ、サファイアには」
「ふふふ、やっぱ楽しみ」
三日間はすぐに終わりを告げた。
私は一か月振りに地上に足を踏み入れた。朝日が眩しく、フードを目深に被っていても目を開けるのが困難なほどの晴天だった。
転移陣は西地区に存在するため、私は今西地区から南下して南地区へと徒歩で移動している。
帝国領南の壁外地域に広がるルージュ平原はレッサーゴブリンやクリオネナイトなどの大した力は持っていないが、好戦的な魔物が多く生息している。冒険者や帝国騎士にとっては脅威ではないが、戦闘力皆無のただの一般人には殺し屋がそこらじゅうに湧いているのと同じだ。
壁外に出る場合はなるべく公的な馬車を使用するか、帝国騎士の見回りが実施されている時間帯に行うことを推奨しているとも聞く。
壁外に出る際、門番の検査はないが、人相や体格を覚えられると後々面倒だ。どちらにせよ壁内に戻る際には検査が必要になってくる。ここはいつも通りのやり方で外に出るだけ。
門の手前で狭い路地に身を潜め、地面と同化する魔法を行使する。
泥のように体が液状化し、コンクリートの地面と同系色に変貌していく。
数秒もしないうちに肉眼では全く判別できない状態になった。
風を感じる。雲一つない青空がどこまでも広がっており、陽の眩しさが似合わない新鮮さをもたらす。
決して存在が消失したわけではないから踏まれれば痛覚を刺激される。それを避けるためになるべく避けながら進んでいくが、門を出入りする人の群れは異常で波のようだ。私は諦めて踏まれる痛みに我慢しながら壁外へと辿り着く。
ルージュ平原。どこまでも続く平地にわずかに魔物の姿が視界に入る。
帝国騎士の見回りは朝昼晩の三回らしい。そしてその一度目の朝の巡回の時間がもう少しでやってくる。
うーん、どうしようか。そのまま襲えばいいだろうか。殺してしまったらサファイアに報告がなされない。それは一番気を付けないといけない。手加減するというのはどうも慣れない。
おおよそ二十分ほどの時間が経過し、ようやく視界に帝国騎士の鎧が見えてきた。
どうやら三人組のようだ。談笑している姿が確認できる。周囲を警戒している様子は見られず、隙だらけだ。殺そうと思えばすぐにでも殺せる。瞬殺だ。私はぶんぶんと首を振る。獲物を視認するとつい衝動が湧き出てきてしまう。抑えて抑えてと自制をかけていると目の前を帝国騎士が通り過ぎていった。
「ぐえ!」
変な声を出した同僚に二人の騎士は一斉に目を向ける。さぞかし驚いたことだろう、いきなり喉を潰された人間が横に立っていたのだから。血が噴き出し、か細い声で何か聞き取れない言葉を発している。さいごになるから聞いてやろうかな?なんて冗談。
早く死んでもらえる?
私は無意識のうちににっこりと満面な笑みを浮かべ、男の心臓に硬質化した鋭利な土の塊を貫いた。まるで暗殺者の所業……良い手際だったと思う。
「な……何だ!何者だ、貴様!」
驚愕に支配されず、しっかりと剣を抜き、戦闘態勢に入る。末端の雑魚でも基本は身に付いているようだ。でも隙だらけ。
もう一人も喉を潰す。何をされたのか理解できずに出血多量で死んでいった。
「……あと一人」
「……や、やめろ!何なんだ、お前!」
「……あ、ダメなんだった。殺しちゃ。ん?いや、いいのかな?一人だけ残しとけば問題ないよね。あの、あなたはやっぱり殺さない。一番強い人呼んできて。中途半端じゃこれとおんなじ感じになっちゃうからね。誰か呼んでこないとここが殺戮の現場になっちゃうよ。早く早く!」
いつの間にか腰を抜かしてあわあわと口を震えさせていた生き残りの騎士は急いで立ち上がって全速力で駆け出して行った。
遠くに消えていく騎士に姿を視界から外し、血だまりに落ちている騎士の剣を手に取ってみる。ずっしりとした重さが腕に伝わる。
これは騎士の誇りだ!と高々と声に出していた奴がいた。死ぬ間際でも闘志を失わず、どんなに無謀な力量の差があっても動じない奴がいた。
自分たちがこの国を守っているんだと。国民の安全は自分たちにかかっているんだと。
ぬかせ。国を壊しているのは当のお前らだと。絶叫しながら斬首されたのがカムイの最期だった。
身を隠し、その姿を見ていることしかできなかったが、その時に生まれて初めて悔しさと憎しみの感情を抱いた。
私は手に持っていた剣を地面に乱雑に放り投げた。もうこんなものこの世にはいらないというように。
「よいしょ」
平原の所々に点在している大きな丸岩に腰かけてサファイアが来るのを待つ。
一番強い人呼んできて、と言ったのだからサファイアは間違いなくやってくるだろう。何よりも自分の部下が殺されたなどと聞いたら全てを放り投げてでも向ってきそうだ。そういう人物だと噂では聞いている。
騎士の死体から漂ってくる微量な死臭を嗅ぎつけたのか、ルージュオオカミが数匹近付いてきて辺りをうろついている。
明瞭な赤毛が特徴のオオカミで基本的には自分よりも小さな体の生き物を狙うのだが、死体の肉の倍は別だ。今は死んでいるかどうか半信半疑なのか手を出さずに様子を見ているようだ。まあ数分後には全て平らげているだろうけど。
突如として空気を切る音が聞こえてきた。鼓膜を揺らすその鋭い音は凄まじい早さでどうやらこちらの方に近付いてきているみたいだ。
その方向からは言うまでもない。
私は北の方角、南の壁内の方向に目を向けた。騎士が持つ槍が速度を落とすことなく、矢のような勢いで飛んできている。
躱すことは造作もない。狙ってきた人物もこれで殺せるとは思っていないだろう。ただ単に私はお前を殺すつもりだという意思表示だろう。まあ挨拶みたいな感じかな。
私は掌を向かってくる槍に翳す。途轍もない速さで向かってくる槍に強い粘性の泥が巻き付いていく。
どうやら強化魔法は掛けられていないらしい。人間の肉体が純粋に生み出した一撃。付与強化魔法なしでこれは……笑いが込み上げてくる。私の中に確信が生まれた。お目当ての人物がここに迫っているのだと。
槍は勢いを無くしていき、ちょうどすぐ目の前で速度はゼロになった。
「私の部下を殺したのはお前か?……子供?いや、違うな。ただの子供じゃない。お前は……」
「エメラマ」
「エメラマ……そうか。お前はアンノウンの……こんなところに大物がいるとはな」
青白く発光している刀身を持つ長剣を腰から抜いたサファイアの眼は鋭く光り、今にも襲い掛かってきそうな空気を醸し出している。
「私のこと知ってる?」
「もちろん。知らないはずがないだろう?アンノウンの最高幹部は全員把握している。私がこの帝国で一番に滅ぼしたいと思っている組織だからな」
長剣を一振りするだけで風圧で地面が抉られる。想像を遥かに超えた威力……彼女の力の一端を垣間見た気がした。
「怒ってる?部下思いの人なんだね」
「怒りで我を忘れるようなボンクラではないぞ?私は」
「じゃあ楽しもっか。私、凄く楽しみだったの。あなたと戦うの」
「私と戦いたかったからこんなことを?」
「……うん。そうだよ」
サファイアがここに来る前にこの一帯に罠魔法を仕掛けておいた。
時間があったため、何重にも仕掛けることができた。いつ、どのタイミングで行使するか……そしてこれがサファイアに対して効力を持たなかった場合のことも考えなくてはいけない。
いつもならこんなに慎重になることはない。その場その場で考えた行動を取っていたが、そんなことをしていればすぐに殺されてしまう気がする。
サファイアと対峙してそんな風にジリジリと追いつめられる感覚を初めて抱いた。
「ふざけた奴だ。お前を捕らえて全て吐かせる。アンノウンの最高幹部どもがどこにいるのか……そしてお前らのアジトも……」
「いいよ、勝てたら教えてあげる。ふふふ、楽しみ」
私は自分でもはっきりと意識できるほどの狂気に満ちた笑いを浮かべ、仕込んでいた罠魔法を行使した。
突然の地鳴り。気流の乱れ。大地が呼吸をするように上下に運動を始める。本当にまるで生きているかのようだ。
「私の生命の樹爆地図。どうやって防ぐ?」