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金盞花  作者: 大江いつ樹
9/15

9 唯一の光(3)




 アミールは肩まですっぽりと掛布にくるまれた状態で、規則正しい静かな寝息をたてていた。


 大きな枕に顔を埋めている。少しだけ開かれた小さな口にロゼックの視線は奪われた。

 そっと唇を重ねる。

 アミールは起きる事なくそのまま眠り続けていた。


 ロゼックはしばしアミールの髪を梳くように撫でたが、やがてベッドから起き上がると、もう一度しっかりとアミールに掛布をかけ直す。昨夜のくしゃみをする様子がずっと気にかかっていた。


「……悪い夫だな」


 小さな声で呟いて、自分の言葉に乾いた笑いがもれてしまう。


 任務とはいえ、今日も休日を潰して他の女に会いに行く。男女の戯れをしに行く最悪な夫。まさか騎士である自分が色仕掛けの任務も行っているとは思いもしていないアミールは、軟派夫がふらふらと他の女と遊び歩く現実に苦しんでいた。しかし彼女にとってこれは二度目の結婚生活という後の無い残酷な現実でもあり、ナノリルカ国と帝国の関係を崩壊させる事を恐れてもいるのか、離縁は望んでいないらしい。

 明らかに苦悩しているような反応が多かった結婚初期に比べて、今ではハッキリと言葉にされる事はないが、容認してくれているような冷静な態度で接してくれる。浮かべる笑顔も朗らかな様子が増えたようにも思う。


 ロゼックはアミールの頭をそっと撫でた。

 尽きぬ罪悪感と、感謝。溢れて止まらない愛しさで胸が騒ぐように落ち着かない。

 愛しくてたまらない。

 狂おしい程に愛している。


 どんなにアミールが心の根底で自分を恨み、軽蔑していたとしてもそれで良い。夫として彼女の一番そばに在る事が許され、守る存在でいられるのならば。この立場を他の男に譲るつもりは毛頭無い。たとえ彼女が離れたいと言っても、自分は絶対にそんな事を許しはしない――。


 この狂暴なまでの愛しい想いがアミールに届く事は無い。彼女がマゼウに寄せていたような、夫を愛するような感情が自分に注がれる未来も無い。その現実を受け入れた上で結婚を望み実現させたのだ。アミールに愛情を請うことは許されない。


 アミールから手を離して、空気を握り込むように一度強く拳を握った。





 ロゼックが向かった先は王城だった。近衛騎士姿で、足取りは迷わずにマゼウの私室へと向かっていく。

 今日が決行日だ。


「現物は確認済みですし、夫人は完全に油断しきっています。夫人の手から直接受け取るように仕向けますので確実に捕縛してください」

「そこは安心して良いよ、今回の捕縛に投入している警邏隊員達は皆優秀だから。そうそう。撮られたであろう写真は予想通り、どこの新聞社や出版社にも持ち込まれてはいないみたいだね。……このままアミールの目に触れる事なく夫人を捕縛出来れば良いけど」


 新聞に目を落としながら淡々と発せられるマゼウの言葉に、ロゼックは苦い顔をした。



 三週間前の休日。

 ミンスティン侯爵夫人と会い、口づけをしている時。ほんの小さな音だったが確かにシャッター音を聞いた。もしも自分達の背後を誰かにつけられていたとしたら気配で分かるが、そんな気配は感じなかった。おそらくあの住宅街のどこかの屋敷の一室にいた人物に写真を撮られたのだ。

 最高級品と言われるカメラを所持している人物は限られる。

 間違いなく夫人の息のかかった者に撮られたという予想だけはついていた。


 今回の任務での大きな誤算で、失敗がある。

 夫人に本気で惚れられてしまった事だ。


 愛人関係が始まってすぐに結婚し、そして相手がアミールだった事がプライドの高い夫人に火をつけてしまったらしい。いかに自分はアミールよりも魅力的で優れた女性かという事を飽きる事なくロゼックに延々と言い聞かせては、過剰なスキンシップを求めてくるようになった。ロゼックはその度にかわし、はぐらかし、時には酒や睡眠薬も使用し、その場を切り抜けていた。

 結婚はしたがそれは己の家と出世のため。いかに自分は夫人一筋なのかという、反吐が出そうな程の嘘と偽りの愛を馬鹿みたいに囁き続けて、ついに違法薬物の存在を夫人の口から聞く事に成功したのが三ヶ月前。


 その違法薬物(秘密)を自分も共有したい意思を示し、夫人を愛して溺れていく愚かな男を演じ続け。やっと今日、現物を受け取る約束をしている。その瞬間を警邏隊に捕縛させる事になっていた。


 撮られてしまった写真を何に使われるか。


 夫人は盲目的にロゼックに惚れている。己の置かれている立場を完全に忘れかけて危ない橋を渡るように逢瀬を楽しんでいる。


 ロゼックに一番に愛されていると信じきっている夫人にとって、アミールという存在は邪魔でしかないのだろう。ロゼックの身も心も自分のものなのだと、ただ分からせたい一心で写真に収めて、アミールに見せるつもりなのか。または写真を自分で見て、そのように思い込みたいだけなのか。


「妻の目に触れるという事は夫人の不貞行為が公になり、侯爵夫人という立場の破滅を意味します。夫人はそこまで愚かな人ではないと思いたいのですが。ただ、ご自身の欲を満たすだけに撮ったのでしょうね」


 むしろそうであって欲しい、と思いながらロゼックが溜息混じりに言うとマゼウは顔を上げた。可哀想なものを見るような目で。


「もしアミールがその写真を見たら彼女はきっと傷つく」

「夫がここまで軟派でだらしない男だったのかと間違いなく失望させてしまう事は事実ですね。しかし、私はこれからも彼女の事を守り続けますし、不幸にはさせませんので」

「私はロゼックにアミールの命だけを守って欲しいんじゃないよ」


 マゼウの言葉の真意が理解出来ず、ロゼックは口を閉ざした。


「マナンから定期的にアミールの様子の報告を貰っているけど、アミールはロゼックの事を夫として愛していると思うんだ。愛している夫が他の女性と口づけしている写真を見せられたら間違いなく悲しむ」


 言われた瞬間にロゼックは思わず笑ってしまった。声は出さずに静かに。その笑顔が歪んでいる事にロゼック自身は気付かなかった。

 怒りと虚しさがこみ上げる。

 アミールが一番に愛しているマゼウがそんな事を言ったと知ったら、それこそ不幸を見る事になるのに。


「彼女が一番に愛している男は殿下ですよ? 離縁となり私と結婚した時点で彼女は不幸を味わっています。私はそれ以上に不幸な思いはさせません。写真を見られてしまったとして、彼女が私を嫌悪しても不幸に思う事はありません。殿下の存在こそが、この国で暮らす彼女にとっての唯一の希望で幸福なのですから」

「……そう思うのかい?」

「そうですよ。そろそろ時間ですね。必ず証拠を手に入れて戻ってきます」


 ロゼックは礼をとると、踵を返して足早に執務室から去って行く。今は苛立っている場合では無い。この任務を今日で確実に終わらせる事が何よりも重要なのだと意識を切り替えた。




*


 ミンスティン侯爵夫人の捕縛は予定通りに実行された。


 捕縛の瞬間、夫人は驚愕と絶望の色を浮かべた表情で、警邏隊に引きずられながらも姿が見えなくなるまでロゼックだけに視線を向けていた。滂沱の涙を流しながら金切り声を上げて叫び続けて。


 ――どうして、なぜ、私を裏切ったの? あなたこそ、あなたにとっても、運命だと思っていたのに! 愛しているのに!


 ロゼックは夫人の叫び声を聞きながら、いつもと変わらない美麗な微笑を浮かべて連行される夫人を眺めていた。手のひらに乗せられた証拠品の薬物を軽く握りながら。

 心は冷え切っていた。


 何が運命だ。

 愛している? 馬鹿な。

 夫も娘もいる身で不貞をはたらき、さらには法をも犯していた愚かな女。男と共に忽然と姿を消した自分の母親と同類の。


 馬車に押し込まれて連れて行かれる夫人を見送り、警邏隊に証拠品を渡して現場収拾後、ロゼックはすぐさま馬に乗って王城への帰城を目指した。日暮れ前には到着するだろう。しかし報告などのすべき事を考えると、屋敷へ帰れるかは微妙な時間でもある。

 帰城の前にアミールには早馬を出し、帰宅出来ない可能性がある事を伝えておくことも忘れない。早馬を手配しながらロゼックの心は沈んでいた。今日は休日で、アミールはロゼックが女遊びをしていると思っている。その女と夜を共にする、そのように思われてしまう事は明白だ。どうしてもそのように思われる事だけは嫌で、何があってもその日のうちに帰宅するようにしていたのだが。


「……あー、くそっ」


 早急にマゼウへの報告を済ませてアミールの元へと帰りたかった。




 帰城してマゼウの執務室に入ると、「お帰り。早かったね」と言いながらソファに座って困ったように笑っているマゼウと、テーブルを挟んでマゼウの正面のソファに浅く腰掛けて自分を厳しく睨むマナンがいた。


 テーブルの上にあるのは一枚の写真。

 夫人と口づけている自分の姿。

 ロゼックはこの光景を見ただけで、夫人を捕縛している間にアミールの身に起こった出来事を把握した。


「殿下にご報告があります。マナンには退室して頂いても?」

「分かった。マナン、報告をありがとう。それと、どうも今の君は顔色が悪い。そんな様子で屋敷に戻ったらアミールが心配するよ。今夜は侍女宿舎で十分に休んでから、明日帰りなさい。早馬を出しておくから」

「お心遣い感謝申し上げます。しかし、」

「これは命令だよ」

「……承知しました」


 写真の事など全く気にしていない素振りで、いつものように美しいと言われる軽薄な微笑を浮かべてマナンを見送るロゼックを、彼女は下唇が白くなるほどに噛みしめながらマゼウの命令に従って立ち上がる。

 すれ違う瞬間、刺すような視線をロゼックに向かって横目で投げつけて、マゼウには聞こえないように小声を発した。


「最低ですね」

「そうだね」


 開き直ったようなロゼックの返事に、マナンは何も言葉を返さずに退室して静かに扉を閉めた。

 マナンはロゼックの事を旦那様と呼ぶが、実際の彼女の雇い主はロゼックではなく王家だ。そして、アミールが一番に信頼を寄せている女性でもある。アミールの心を支える存在として彼女に誠実に仕え続けてくれるのであれば、それだけで良い。どんな言動をとられようとも、ロゼックはマナンに対して何も言う事は無い。



「まさか捕縛決行日に、ね。お前の屋敷の玄関に写真を挟み込まれていたそうだよ。今朝、メイドが発見したそうだ」

「今朝ですか。ご丁寧に誰がそのような事をされたのでしょうか」

「さぁね。まぁでもすぐに分かるさ。夫人の捕縛成功は聞いたよ」


 右手の人差し指と中指で挟み込むように器用に写真を持ち上げたマゼウは、ひらひらと軽く振ってロゼックに見せた。ロゼックは扉の前で直立不動のまま、思わず顰め面をして写真を睨んでしまう。


「マナンは、妻の様子について、なんと?」

「知りたい?」

「……夫人捕縛の件についてのご報告を先に」

「それは後で警邏隊達から改めて詳細を聞くよ」


 言った瞬間、マゼウはびりびりと写真を破り捨てた。


 あまりにも突然のことに思わずロゼックは目を見開く。小さな紙屑と化した写真がマゼウの足下に散らばった。ソファから立ち上がったマゼウはそれらを踏みつけながら執務机に戻り椅子に座ると、ロゼックに対して近くに来るようにと命じる。その声も表情も落ち着いている。


 しかし、怒っているのだろう。

 屑化した写真をちらりと見てロゼックは思う。


 今も愛している元妻に、職務とはいえ現夫であるロゼックの不貞現場を切り取った不快な写真を見せて心を乱そうとした者に対して、マゼウは容赦ない制裁をするつもりなのかもしれない。


 執務机の正面まで歩みを進めたロゼックに、マゼウは笑みを消して彼を見上げた。


「色仕掛けの任務は今回の件で終わりにする。最初で最後の任務だったけど、成功完遂という形で終えてくれた事に感謝するよ」

「最初で最後だったのですか? てっきり今後もするものだと思っていましたが」

「そのつもりだったよ。でも、アミールとの結婚を許した時点でお前に任せるのはやめると決めた。アミールのためにね。ただし、私の専任として、他の任務はとことんやって貰うつもりだ。理不尽と思うような任務をさせる事が多いと思うけど。引き続き忙しくさせてしまうが、許してくれよ」

「今更ですね。承知しておりますよ」


 色仕掛けをもう二度と命じないのは、やはりマゼウがアミールを愛し大切に想っているからこその判断だった。内心深く安堵した。最近はまったく聞かれる事はなくなったが、休日に職務を行う時に、女性と会うのかと聞かれたとしても堂々と否定する事が出来る。

 真剣な用事、大切な用事、と、嘘では無いがはっきりと否定も出来なかった誤魔化しをしなくて済む。


 思わず肩の力を少しだけ抜いた瞬間。

 マゼウはもう一度ロゼックに向かって微笑んだ。眉尻を下げて、ここ最近、何度も向けられたような哀れな者を見るような目で。


「……!?」


 突如足の力が抜けて、身体を支える事が出来なくなったロゼックは崩れ落ちるように床に両膝をつけた。

 頭が割れそうだ。振動のようなものが内側からこみ上げる。体調はまったく問題無く、不審なものを食した覚えもなく、異臭も感じない。それなのに身体がまったく自分の意思通りに動く事が出来ない。言葉を発する事すら困難だった。肩で荒く呼吸を繰り返して床を凝視する。


「ロゼック。今までの任務の事も写真の事も、何も心配せずに今はゆっくりと休むと良いよ。アミールには私から全てを説明しておくから」

「っ……殿下、一体、何を……」

「深く眠ってもらうだけだ。身体に害は無いから安心してくれ」

「答えに、なって、いない……」


 ぐらぐらと大きく揺れるロゼックの視界の端に、マゼウの靴の先端がほんの少しだけ映り込む。ロゼックは顔を上げる事も出来ずに呼吸をする事に必死だったが、マゼウがすぐ近くにまで歩み寄ってきて、片膝を床についた事だけは気配で察した。


「任務完遂の褒美に良いことを教えてあげよう。アミールは私の事を男として、夫として愛した事は一度たりともないよ。私もだ。アミールは大切な人だが、それは異性として、妻としての愛情ではない。私とアミールは周囲の者だけではなく国民をも騙して、愛し合う夫婦を演じたに過ぎない。離縁を前提として、最初から夫婦生活を過ごしていたんだよ」

「……は……」

「子どもを授からなかったのも当然だ。私は一度もアミールを抱いた事はない。口づけすらした事がないからね。……おっと」


 あまりにも衝撃的な告白だった。

 身体に起きた異変と闘っていた意識が大きく掻き乱されたロゼックは、耐えきれずにブツリと意識を途切れさせ、マゼウの腕の中に倒れ込んだ。




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