8 唯一の光(2)
男の悲鳴とワイングラスが割れる音が、広い舞踏会の会場に響き渡っていた。
貴族達は社交を中断して静まり返ってしまっている。貴族達の視線は二人の男性に釘付けだった。
青ざめた顔で口もとを震わせて痛みに喘ぐ男と、その男のそばにぴったりと佇んで微笑んでいるロゼック。
多数の人々が目撃していた。
ロゼックが笑顔のまま静かに、突如男の片腕を容赦なく捻り上げた光景を。なぜ男がそのような目にあっているのかという理由も、近くの者は分かっていた。
男は若い。伯爵令息だ。
彼は酔っていて、気も大きくなってしまっていた。だからだろう。普段ならば内心にとどめておくであろう王族に対する不敬な言葉を堂々と口にした。
『二妃殿下は嫁いで二年も過ぎたというのに子を授かっていない現実を見ると、そろそろ下賜されるのでしょうね。下賜される男はなんと不幸な。子どもを授かれない子どものお守りをしなければならないようなものですよ?』
ロゼックは、自分は地獄耳なのかもしれない、と笑みを浮かべながら思った。
「先程の言葉だけど。マゼウ殿下と二妃殿下の耳には入らなかったのは幸運だね。けど私は聞いてしまったんだ。立派な不敬罪だからね?」
「ひいっ……!」
ロゼックは美しく微笑んだまま男の耳元にこっそりと囁きながらも、腕を捻切らんばかりに手に力を強く込める。全く鍛えていない男は痛みと恐怖でぶるぶると身体を震わせ、涙目で許しを乞うようにロゼックを凝視していた。
「今回は見逃す。二度目は無いよ」
にっこりと笑みを深めて言い放つ。
大きく頷く男を確認し、乱暴に捻り上げていた腕を放り投げると、男は情けなく尻を強打したまましばし呆然としたかと思うと、ひぃひぃと喘ぎながら会場から去っていった。
男から視線を外して、離れた場所にマゼウと共に立っているアミールを見る。彼女はとても驚いた表情で、そして他の貴族達同様に肌を白くさせてロゼックを見つめていた。翡翠色の瞳が悲しげに揺れている。
マゼウもロゼックを見ている。会場が重い空気で静まり返っているにも関わらずにゆったりと微笑んでいた。
あの貴族の男の言葉はアミールに聞こえていない。男も、アミールの耳に入るような声の大きさにしないように注意していたらしく、命を害そうとしていたわけでもなかった。
しかしロゼックにはハッキリと聞こえてしまったのだ。
瞬時に下した判断は、二度とそのような言葉を吐く気をおこさないような罰を与える、というものだった。
「さっき、何があったの?」
舞踏会が終わってアミールを自室へと連れて戻る最中。
アミールは眉をひそめてロゼックを見上げて尋ねてくる。馬鹿正直に理由を話すつもりはない。ロゼックは笑みを深くした。
「お分かりでしょう? 私があのような事をする時は、二妃殿下を子ども扱いするか、貶めるような言動をとった不敬な者のみです」
「自分の事を棚にあげて、あなたという人は。実害としての危機がある可能性以外の理由であんな風に痛め付ける事を望んでいないと何度も言っているのに」
「痛め付ける、だなんて、物騒ですねぇ。注意しただけですよ? あんなのは可愛いものです」
「ロゼック……」
「はい。到着しましたよ」
ロゼックが扉を開けると、アミールは肩をすくめてうつむきながら部屋の中へと入っていく。あらかじめ侍女によってランプの灯された部屋は明るく、暖炉に火もついているため暖かい。
落ち込んだ表情を浮かべながらネックレスや腕輪を外してテーブルの上に置くアミールの横顔を見て、ロゼックは思わず口を開いていた。
「私は二妃殿下の専任なのですよ。心身をお守りするために動くのは当然です。それに、もうこの国で妃として二年以上もお過ごしになられたのですから、さすがにお分かりでしょう? 専任というのは手段を選ばずなんでもするのです。それが許されてもいます」
こんなにもはっきりと強い口調でアミールに言ったのは、ロゼックの記憶の中では今が初めてだ。アミールもそれに気付き、翡翠色の瞳を大きくさせて顔を上げてロゼックを見つめている。
もどかしかった。
自分はアミールの専任だが彼女は何も命じてこない。近衛騎士として命を守ってくれる、それさえしてくれるだけで良い、けれど自分の命も必ず守って、と。一貫してそれだけだ。
こども扱いを注意される事も最近は滅多になくなった。気楽になったような、いやそこは注意し続けてくださいよ、とも思う。
ロゼックは、いつの間にか己の心に芽生えてしまっている禁忌の感情の存在に危機感を抱いていた。
アミールもマゼウも気付いていない。
いっその事アミールに対して大きく失望する事ができたら良いのに、彼女はまったくロゼックを失望させてはくれない。
「私の専任が嫌になったの?」
「はい? いや、なぜそうなりますかね? そんな事は一言も言ってないですけど?」
「働き甲斐がない、って言われたのかと思って」
「まさか。むしろ私は周囲への警戒が緩すぎて疑う事を知らない二妃殿下が心配すぎるので、このまま生涯専任でいたいくらいですよ」
「……その言い方だと、ロゼックにとっては生涯わたしは子どものままなのね?」
「ですから、それは二妃殿下の思い込みですって」
「どうかしら。……でも、ありがとう。ロゼックが私を守ってくれているから、私はこの帝国の王太子殿下の第二妃として在り続ける事が出来ているわ」
そう言って困ったように微笑むアミールを、ロゼックも表情ではいつもと変わらず穏やかに笑って「それは、ありがたいお言葉ですね」と言うが、心は苦々しい思いで満ちていた。
いつの間にかマゼウよりも長くアミールの専任になってしまった。
ミンスティン侯爵夫人とはやっと自然に会話する仲になった。愛人への道は見えてはきているが、違法薬物の存在はまだ遥か彼方にある。
嫌悪している女の愛人になる――任務と割り切っているのに、嫌で仕方ない。命じられたばかりの時は、面倒くさい、が一番だった筈の感情が今は違っている。
二妃殿下のそばにいたい。
ずっとこのまま。
優しすぎる彼女を守り続けるのは自分でいたい。
サルジャン帝国の暗部に存在するロゼックにとっての唯一の光。輝きが失われないように。ずっとそのままでいられるように。この光が失われないのならば、自分が出来る事はなんでもするのに。
色仕掛けの任務を一刻も早く終わらせてしまいたいという思いはずっとある。しかしそれはアミールの専任近衛騎士としての終わりも意味する。
まさかここにきて、任務以外の理由でアミールの専任から離れる事になる可能性が高い現実に直面する事になるとは。
*
「ローズナン侯爵かバリエ公爵が妥当かなと思ってるんだ」
「二妃殿下の下賜先の候補ですか?」
「そうだよ」
マゼウはとても珍しく真剣な面持ちで腕を組み、椅子の背もたれに深く背中を預けていた。
候補者の名を聞いた途端、ミンスティン侯爵夫妻についての報告書を整理していたロゼックの動きはとまった。こみ上げる激情を抑えこむ。
「二人とも五十代で年齢差があるが、身分もあり後継者もいて、理知的だ。どちらも既に奥方に先立たれている。後妻になるが正式にただ一人の妻として、後継について悩む事も無く穏やかに過ごす事が出来るはずだから」
「殿下。私はどうですかね?」
「うん?」
「二妃殿下の下賜先に」
「珍しく笑えない冗談を言うね」
この時初めて、微笑むマゼウの瞳から自分に向かって明確に強い警戒のような感情を投げられた事にロゼックは気付いたが、まったく怯む事は無かった。
「ロゼックは選ばないよ」
「身分が足りないですか?」
「そうではない。ロゼックは初婚になってしまうし後継者もいないだろう。子どもが出来なかったアミールにかかる負担は大きい。原因は私である可能性もあるが、彼女かもしれないんだよ」
「かまいませんよ」
「私は大半の者に興味もないし好いてもいないが、彼女は別なんだ。幸せになってほしいんだよ」
マゼウの言葉は、彼の人柄をよく知るロゼックにとっては奇跡に等しい言葉だった。妻であるアミールを愛している、と告げたも同然の言葉。
マゼウ自身が言ったように、マゼウという人は己の立場をよく理解しているからこそ、安易に人に心を開かないし特別視もしない。そんなマゼウにとってアミールという妃の存在は特別だったのだと思い知る。
しかし、言われなくともロゼックも重々承知していた。
仲睦まじい夫婦仲を常に間近で見せられていたのだから。
ロゼックは余裕の笑みを崩さずに言いつのる。
「まるで私が相手だと二妃殿下の不幸確定みたいにおっしゃいますね」
「そうさ。アミールはロゼックに対してすでに失望しているよ。……その原因を作ったのは全部私だが。子ども扱いを直さなかった事と、女性相手に軽薄なところの二点がね」
「二妃殿下に軟派な部分については注意された事は一度も無かったんですけど」
「護衛の私生活に口を挟む野暮な事はしなかっただけで、夫である私には愚痴を言ってくれていたよ? 半年に一度あるかないかの頻度だったけど、少しは気にしていた様子だった」
にっこりと微笑みながらマゼウは言う。その微笑みはまったく楽しそうではない。まるでロゼックを挑発するかのようだったが、ロゼックは決してその挑発には乗らなかった。
「そもそも女性嫌いのロゼックがアミールと結婚したいなんて。一体なぜ彼女と結婚したいんだ?」
「今と変わらず二妃殿下の一番近くで守り続ける者でいたいからです。それと、幸せにする者でもありたいと思っていますよ」
「アミールはロゼックの嫌いな女性だよ?」
「女嫌いは今も否定しませんが二妃殿下は違います。それに、夫であられる殿下に日々嫉妬しています。気が狂いそうになるんです。たまにですけど」
普段と変わらない軽薄そうな美しい微笑を浮かべたまま、しかしハッキリと言い切ると、ついにマゼウから笑みが消えた。
探るような眼差しでロゼックを睨んでいる。
ロゼックは明確に言葉にした事でかえって冷静になる事が出来ていた。
毎夜、マゼウの寝室へと向かうアミールを見送っている時。どうしようもできない焦燥感を燻らせていた。いつからそんな感情になっていたのか。もう思い出す事も出来ない。
「私を裏切るか?」
「いいえ。殿下をお守りする誓いに偽りはありません。継続中の任務も必ず最後まで遂行します」
「……とにかく、ロゼックは駄目だよ」
期限の三年まで後半年。
ロゼックはアミールを諦めるつもりは一切無かった。
一日、一週間、一ヶ月と月日は過ぎていく。
しかし相変わらずアミールに懐妊の兆しは見られない。
王城の者達がマゼウとアミールを見つめる視線は哀れみの色が濃くなる一方だった。あんなにも仲睦まじい夫婦なのに子どもを授かる事が出来ないなんて、と。アミールが下賜される事は決定的な雰囲気になっていた。
下賜先の有力候補であるローズナン侯爵とバリエ公爵は、マゼウの命令ならばそれに従いアミールと結婚すると言っている。
しかし二人はアミールを歓迎している訳ではない事は明白だった。
忠実な臣下として、理知的な大人として、王族には逆らわないという姿勢を明確にしているだけに過ぎない。決してアミールを貶める事も蔑ろにもしないと信じる事は出来るが、あくまでもそれだけだ。
ロゼックはアミールの専任として彼女を護衛しつつ、マゼウの元へも頻繁に足を運んでは下賜先を自分にして欲しいと頼み続けていた。最初こそ取り付く島もなく断られていたが、日に日に考えるような素振りを見せる変化も見られ出している。話を持ちかけた候補者二人の反応が思っていたほど良いとは言えなかった事が恐らく原因だ。
さらに時間外は相変わらず、女性達に対して軽薄な色男を徹底的に演じ続け、ミンスティン侯爵婦人の愛人になるべく動いていた。
焦らぬように。
悟られぬように。
「ロゼック。好きよ」
王都の隣街にある中流クラスホテル。
ベッドの上で恋人のように戯れ合う。
ミンスティン侯爵夫人の白くやわらかな指がロゼックの頬をなぞるように触れてくる。男を誘うように魅惑的な笑みを浮かべながら。
ちょっとした火遊び。
彼女は心底楽しそうだ。
ロゼックは何も言ってはいない。ただ夫人を褒め、好意をほのめかし、もっと貴女を知りたい――言い続けて四年以上。
やっとここまできた。
夫人はまるで強い酒でも飲んで酔っているかのようだった。
ロゼックを誘ったかと思えば、勝手に少しずつ衣類を脱ぎだしている。ロゼックは、夫人から見て幸せそうな男に見えるような笑みを計算尽くめで作ってただ眺めていた。
愛人になっても関係を持つ事は命令で禁じられている。
もしも昔の自分だったら、ここで関係を持ってしまったらもっと事は早く運ぶのにな、と残念に思っていたのだろう。そんな馬鹿げた事を冷静に思う。
あらかじめベッドそばにある小さなテーブルに置いておいた、睡眠薬を混ぜた酒を注いだグラスを手に取ると少量を口に含む。強引にミンスティン侯爵夫人の後頭部を手で包むように引き寄せて口づける。ゆっくりと酒を流し込みながら。
夫人は一度驚いた様子で、しかしすぐに楽しそうに酒を飲み干していく。
唇を離してとろりと潤む瞳を見て、ロゼックも妖艶に微笑んだ。
「もっと教えて下さい。貴女のことを」
頷いた夫人はロゼックの胸の中へと倒れ込む。彼女は幸せそうに笑みを浮かべたまま深い眠りの中へ落ちていた。
やっと愛人になった。
その報告をマゼウにした朝は、マゼウとアミールの離縁確定まで後二ヶ月をきっていた。
報告を聞いたマゼウは朝の剣技訓練の直後だ。二人は訓練場の物影に隠れて会話をしている。ロゼックも報告を済ませた後はすぐにアミールの護衛に行かなければならず、互いに悠長に会話をしている時間は無かった。
「愛人に昇格するまで四年以上、か。あとは証拠品を引っ張り出すだけだけど、どれ位かかるかな」
顎をつたう汗を拭って軽く息を整えながらマゼウが言う。
ロゼックは肩をすくめた。
「夫人は相当私の顔と身体を好いているようなので、意外とこの先は一年もかからないかもしれません」
「ん? 身体も?」
「関係は持っていませんよ」
「……ロゼックは本当に使えるね。私にとって相変わらず都合が良い男だ」
「まったく嬉しくありませんが、一応感謝すべきですか?」
「きっと感謝せざるを得なくなるよ」
マゼウは右手に握っていた木剣を城壁に立てかけると、ロゼックと向き直った。覚悟を決めたような真剣な眼差しに、思わずロゼックも姿勢を改めた。
「決めた。アミールの下賜先をロゼックにする」
「…………それは冗談ではなく?」
「冗談じゃないよ。けど条件が二つある」
「何でしょう」
「一つ目は、王家直轄の侍女一人をアミールにつけて、定期的に彼女の様子を私に報告させる事。二つ目は、ロゼックは私が死ぬまで私の専任近衛騎士として仕え続け、いかなる任務も拒否しない事。この二つを受け入れるのならば下賜先に正式に認めるよ。出来そうかい?」
アミールもロゼックも、マゼウが生き続ける限りずっと彼の監視下に置かれ続け、ロゼックにいたってはマゼウの駒として生き続ける契約をしなければならないも同然の条件だ。
マゼウもアミールも愛し合っている夫婦だ。
マゼウは決して口にはしないが生涯自分を憎むのだろう。アミールも、愛する人との離縁が確定した挙げ句にこんなにも無礼な軟派男に下賜されると知った時、きっと悲しむ。
それでもまったくかまわない。
アミールの一番近い場所で彼女を守る者になれるのならば。嫌われる事以上に、手の届かない場所へと離れてしまう方がロゼックにとっては苦しみでしかない。身勝手で独りよがりな感情だと分かっている。
けれど、どうしても手放せない。
ロゼックは迷う事なく条件を受け入れた。