7 唯一の光
◆
「お願い。キスして?」
真っ赤な口紅で彩られた夫人の唇が魅惑的な弧を描いて囁く。
ロゼックはうっすらと微笑んだ。
夫人の顎を掴んで口づける。ほんの少し触れるだけのつもりが夫人の両腕が身体に絡みついてきて、深いモノに誘われていく。
写真を撮られている事には気付いていた。
それでも口づけをやめる選択肢は無かった。
早急に全てを終わらせるために。
*
ロゼック・トノイは、目立つばかりの母親似の自分の容姿を昔から嫌悪していた。
母親はロゼックが八歳の時に死んだ事になっているが真実は違う。屋敷に仕えていた使用人の一人と駆け落ちして姿を消したのだ。
人離れした美貌を持つ母親はおとなしくて臆病な人であると同時に、黙っているだけで男を寄せつけてしまうような人だった。そんな男達に甘言を囁かれ、冷淡でそっけない父親と比較した時、母親は父親ではなく別の男を選んだだけの話。ロゼックは母親に優しくされていた事は分かっていたが、愛されている、という確信を持つ事はなかった。母親が常に一番に想う相手は、使用人の男だという事を知っていたのだ。
母親の駆け落ちに父親は怒り、死んだ事にして、彼女がこの屋敷に決して戻ってくる事が出来ないようにしてしまった。
成長する程に母親の生き写しとなる容姿。
女と目が合って、取り繕うだけの理由で微笑むと相手は勝手にころりと落ちる。態度には出さないだけでロゼックは大半の女という存在を嫌悪していた。
その理由があまりにも理不尽だと分かってはいても。
トノイ伯爵家の男は代々騎士として王族に仕えている。
父親も帝国騎士だったため、ロゼックは何も考える事も迷う事もなく当然のように騎士の道に進んだ。
訓練や実践を重ねていく過程で王太子マゼウ殿下と初めて直接顔を合わせると、恐らく偶然だが行動を共にする機会が多くなった。帝国王族の男は必ず剣術、馬術を身につける。ロゼックとマゼウは年齢も一つしか違わず、訓練などを共に行う日々も多く、自然と会話の時間も増えて互いの人柄を知る事になった。
訓練期間を終え、配属は近衛に。
そしてマゼウの専任近衛騎士に選ばれた。マゼウの専任近衛騎士は既に二人いたが、ロゼックが加わり三人になった。当時十八歳のロゼックは近衛騎士の中でも専任という名誉ある立場に選ばれた歴代最年少の騎士だった。
優美な容姿のロゼックは一見弱そうにも見えるが、剣を持たせると容赦ない力で相手をねじ伏せる。豹変するのだ。
その抜きん出た実力は騎士達から恐れられたと同時に、マゼウの目にとまるきっかけにもなった。
「暗殺と色仕掛け、どっちが良い?」
「珈琲と紅茶のどちらが良いか、みたいに聞くのはおかしくないですかね?」
専任近衛騎士となって一年。
人当たり良さそうな落ち着いた微笑みを浮かべて、マゼウはさらりと物騒な事を言う。ロゼックは唐突にぶつけられた選択肢に面倒くささを覚えた。
暗殺か色仕掛け、どちらかを選んでやってこい。
そういう意味だからだ。
近衛騎士達が目標として目指す専任という立場に選ばれる者というのは、実力があると同時に、己の心を無として王族に従順になれる者しかいなかった。
騎士それぞれに理由も事情も違うのだろうが、共通しているのは自分に関する評判など心底どうでも良いと思っている者ばかりだった。
だから、王族から命じられる、決して表沙汰には出来ないような後ろ暗い汚い命令にも従順になり遂行する。
「暗殺で」
選んで良いのならば女絡みの任務は選ばない。暗殺は相手が老若男女関係なくどうとでもなる。しかし色仕掛けはそうはいかない。やらなくて良いのならばやりたくはない。
「色仕掛けで頼むよ」
「それ、選ばせた意味あります?」
「ロゼックは勿体ない選択をするね。せっかくそんなに恵まれた容姿をしているのに。ちゃんと利用しないと」
「女絡みは嫌なんですよ」
「私は分かっているけどね。けど、愛想は良いから他の人には全く気付かれてはいないよ? あぁでも、愛想の良い美形騎士だと彼女への接近は難しいな。警戒心がとにかく強いから。軟派男になってくれないか?」
「軟派男?」
「色んな女性に声をかけて軟派男の印象を作るんだ。彼女の警戒心が完全に消えるまで。ロゼックの容姿は彼女の好みど真ん中だから、多分いずれ上手くいくよ。愛人になってきてくれ。その立場にまで持っていかないと、多分彼女は私が確認したい物をロゼックには見せてくれない気がする」
「相手と、確認したい物というのは?」
「ミンスティン侯爵夫人さ。証拠として欲しいモノは違法薬物」
「それは……とんでもない大物ですね」
ミンスティン侯爵夫人はマゼウの婚約者の母親。まさか仕える主人の義母になる予定の女に色仕掛けしてこいと命じられるとは。
年齢差があるが大丈夫なのだろうか。
そもそもそんな黒い疑惑があったとは。
「子どもが出来るような事以外だったら何でもやって良いよ。私が許す。お金も心配しなくて良い。あくまでも疑惑だが、噂になっている時点で間違いなく黒だと私も陛下も見ている。期限は私がエイミーと結婚する予定の十年後までには物を手に入れてくれ」
「十年!? やってられません。一年以内に終わらせたいですけど」
「一年はさすがにロゼックでも無理だと思うけどね」
色仕掛けする事に罪悪感や後ろめたさなど、そんな感情は一切なかった。
*
完全になめていた。
ミンスティン侯爵夫人はロゼックが考えていた以上に警戒心が強かった。
しかし彼女にとって自分の容姿が好みなのは間違いないらしく、社交場に出る度に必ず視線は感じた。しかし目は合わない。ロゼックが夫人を見ると必ず逸らされてしまうからだ。
早々に長期戦になる事を覚悟した。
夫人の視界に入る範囲で手当たり次第に数多の女性に声をかけ、エスコートする。エスコート相手に勘違いをさせてしまうぎりぎりの接触を繰り返しながら。自分は女であれば性格、容姿、年齢も関係なく声をかける軟派男だという印象を強く植え付けるために。夫人にとっての目の保養、遊び相手の男として、自分がいかに都合の良い男であるかを印象付けるために。
そうして、やっと夫人から挨拶だけの声をかけられるようになった時には、任務を開始して一年と半年の月日も経っていた。
「中々に立派な軽薄な男ぶりだね」
王城舞踏会の開催が宣言された後の事。
挨拶を終えたマゼウが、一曲も踊る事なく最低限の社交を終えて会場から離れた途端、側に付き従っていたロゼックに対し、可笑しそうに笑いながら声をかけた。
ロゼックは横目でマゼウを睨む。
この任務を開始してからロゼックの女嫌いは悪化する一方だった。
「褒めていますか?」
「褒めているさ。ロゼックに好感を持っている女性にとっては軟派な色男、生真面目な女性にとっては屑男だね」
「そうさせているのは誰ですかね、殿下?」
「睨むな。だが、やはり難しいな。ロゼック以外の二人の専任にも別方向から調査を命じているけど、さすが侯爵。油断も隙も見せない。夫人相手のロゼックもまだまだ時間はかかりそうだね」
「否定出来ません。一つ、ご相談が」
「何だい?」
「殿下の専任という立場から私を外していただけませんか?」
うん? と漆黒の瞳を見開くマゼウにロゼックは説明する。
ミンスティン侯爵夫人は間違いなく自分に好意を抱き、接近したそうにしている。しかし自分が普通の近衛騎士ではなくマゼウの専任近衛騎士という立場に警戒されている可能性も否めない。専任を外れるのは夫人に分かりやすく示すための表向きの話で、任務はそのまま実行する事を説明する。
「確かにそうだな」
「なるべく早く外して下さい」
「じゃあ、半年後に」
「半年後……もっと早くなりませんかね」
「無理だ。一度専任を外すと、表向きとはいえ再度専任に戻すのは難しいんだよ。私ではなく別の王族の専任に異動という形をとってもらう」
「しかし、結局また警戒されたままになりますよ」
「その心配はいらないよ」
マゼウは執務室に戻るとばかり思っていたが、到着した場所は貴賓室だった事に違和感を覚える。貴賓室の扉前には二人の近衛騎士が立っていた。
マゼウが「入るよ」と声をかけると、「どうぞ」と可憐な声が返ってくる。
ロゼックの知らない声だ。
貴賓室にいたのは小さな女の子だった。
焦げ茶色の長い髪はまったく癖が無く胸元で毛先がさらりと揺れている。
翡翠色の瞳はぱっちりと丸く大きい。腕も指も棒のように細い女の子だ。しかし不思議と不健康な印象ではなくと健康的な印象だった。
薄赤色の、裾がふんわりと大きく広がる可憐なドレスを着ている女の子は、そもそも帝国流のドレスを着慣れていない様子が見受けられる。動作が少々ぎこちなかった。
女の子は一人きりでこの場にいたらしい。
マゼウの姿を見ると安心したように微笑んだが、ロゼックの姿を見た途端にその微笑みは消えてしまう。
ロゼックは少々意外に思ったと同時に興味を持った。
大抵の大人も子どもも、自分のこの容姿を見ると明らかに見惚れるのが大半だった。老若男女関係なく。そんな反応をされる度に、またか、とうんざりする。
だからだろうか。
見惚れる以外の反応をされだけでも相手に好感を持ってしまう。屋敷で雇う使用人の採用基準にも、自分の容姿を見ても『見惚れない』というのは重要視している程だ。だから、自身の屋敷に仕えてくれている人々に関してはロゼックは信頼を置いている。
「ロゼックには半年後に彼女の専任になってもらうよ」
「はい?」
マゼウはアミールの両肩に親しげに両手を置くと、女の子も驚いたような様子でマゼウとロゼックを交互に見ている。
「彼女はナノリルカ国の第四王女アミール殿下だ。半年後に私の第二妃として嫁いでくる。アミール王女の専任近衛騎士をロゼックに任せたいんだ」
「妃!?」
「彼女は十七歳だ」
ロゼックは絶句してアミールをまじまじと見下ろした。
女、には見えなかった。
どこをどう見ても子ども。女の子。未成年のお姫様だった。
アミールの専任になる事は確かに任務に悪い影響が出ない。
彼女は異国、しかも弱小国の王女だ。基本的に帝国の政治関係全般に女性王族は関与しない。マゼウの専任ではなくアミールの専任に異動したとしても、夫人は今よりも警戒心を薄くさせる事は間違いない。
ロゼックの不躾な視線にアミールは無言のまま眉をひそめた。警戒している表情を浮かべている。幼い見た目に反して十七歳。やはり驚いてしまうが、これは確かにとても良い異動先だと内心で納得していた。
ロゼックは気を取り直し、数多の女性を陥落させてきた微笑みをアミールに向けて挨拶をする。
しかし彼女は案の定、見惚れる事も照れる事も無い。
ただジッとロゼックを見つめ、冷静な口調で挨拶を返されただけだった。
「――ロゼック。私は怒っているのよ」
「そうみたいですね。とっても可愛らしいお顔をされておられますから」
「真剣に聞いて」
「はい。いつも真剣に聞いていますよ?」
「嘘ばかり。子ども扱いはやめてと何回言えば分かってくれるの?」
「それは二妃殿下の思い込みですって」
「思い込みではありません」
「あー、そういうムキなお顔が本当に可愛いんですよねぇ」
「…………」
翡翠色の丸い瞳を冷ややかに細めて怒ったその表情すらも、まるで天使のような可愛らしさがある。怒りと諦めがない交ぜになったような不機嫌そうな顔で睨まれていたかと思えば、諦めたように横を向かれてしまう。顔の動きに合わせて揺れる艶やかな焦げ茶色の髪は相変わらず美しい輝きがあった。
アミールがマゼウに嫁いで半年程が経つ。
ロゼックはすっかり彼女の事を気に入っていた。自身の仕える主人として。
子ども扱いはわざとだ。
色仕掛けの任務を円滑に遂行するために考え、マゼウから許可も得た上でそのように接している。夫人に印象づけるためだ。軟派な自分が特別扱いする女は、ミンスティン侯爵夫人のような妖艶なタイプなのだと信じてもらう事が狙いだった。
アミールの専任近衛騎士としての期間も、任務が終わったら解任される事になっている。
主人に対して無礼を働いている事実に最初こそほんの少しの罪悪感はあったが、大真面目に注意してくるアミールを見ているうちになくなってしまった。注意してくるその表情すら可愛らしく、むしろどんどん注意してくれ、という変な心境になってしまっている。
ナノリルカ国の王族が皆アミールのような気質なのかはロゼックには分からない。しかしアミールという王太子妃は、帝国王族や高位貴族のような高慢な様子が全く無い。
幼い可愛らしい見た目とは裏腹にアミールは落ち着いた雰囲気を纏う人だ。
常に冷静に周りを見渡して空気を読む。
王族は上に立ち命じる事に慣れている筈なのだが、アミールのように、周囲を見て空気を読みつつも気遣いの心を込めた上で発言する王族はロゼックにとって初めてだった。数多の諸外国の王家との交流の場に護衛としてマゼウの側に控えていたが、どこの王家も黒いものを抱えているのは似たり寄ったりだな、と思っていたのだが。
嫁いですぐの頃は、あまりにも幼い容姿のアミールに、使用人達は困惑したり侮ったりと様々な反応を見せた。しかしアミールは塞ぎ込む事は全く無かった。根気強く、熱心に使用人達と真摯に交流していた。すぐにアミールの人柄の良さに気がついた使用人達はあっという間にアミールの事を妃と認め、敬意を持って仕える者が大半になった。
さらに、アミールは努力の人でもあった。
侍女やロゼックが強い口調で願い出るまで、帝国に関する多岐に渡る分野についての勉強を止めようとしない。愛らしく微笑んで静かに佇むお姫様然とした可憐な雰囲気を持つ人なのに、その実際は行動派で、常に頭か身体のどちらかを動かしているような人だった。どうしても理解出来ない事や分からない事もそのままにせず、無知を恥として、身分の高低に関わりなく学ぶ分野に詳しい者に教えを請い真剣に学ぶ。
人々は、属国となった証として生贄のような形で嫁いできた子どものような第二妃殿下が、誠実に帝国を想い向き合う姿に驚くと同時に、好感を持った。もともと王太子として絶大な支持があるマゼウとの夫婦仲も円満そのもので大切にされている様子からも、アミールの好感度は上がり続ける一方だった。
そんな風に、日に日に人望と好感を集めるアミールは、ロゼックが心配になってしまう程に思いやりのある強い人だった。
マゼウと二妃殿下が二人きりの時は会話は成り立つのか? そもそもこの帝国王族には最も縁遠いような性格の妃殿下だが。 と、勝手に余計な心配をしてしまう程に。
マゼウは優しそうに見せかけて、その内実は腹黒く毒物のような王太子殿下。アミールは可愛らしい見た目に反して無邪気さはなく、冷静で素直な優しい王太子妃。ロゼックにとっての二人はそのような印象だ。
毎日のように子ども扱いを注意され、鬱陶しがられている事は分かっている。しかし近衛騎士として職務を忠実にこなしている事は認めてくれている。それも承知している。
彼女は律儀に毎日礼を言う。
言葉は表面上ではなく、偽りも無く素直な言葉で。
「ロゼック、今日も護衛をありがとう。お疲れ様」
そう言って淡く微笑み、マゼウの待つ夫婦の寝室へ侍女と共に向かう小さな背中を見届けて一日が終わる日々。子どものような小ささなのに、なぜか凜とした大きな背中に見える事がある。
「変な人だよなぁ」
息を吐いて制服の詰め襟をくつろがせる。
主従関係だ。律儀に礼を言う必要などないのに。
頭の片隅にはミンスティン侯爵夫人の妖艶な笑みがこびりついて離れない。
ただアミールの専任近衛騎士としての任務だけに専念出来れば良いのに。
そんな馬鹿げた事を考えてしまう日が、日を過ごす事に大きくなっている。