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金盞花  作者: 大江いつ樹
6/15

6 後悔



 翌朝、アミールが朝食の席についた途端、一人のメイドが転がり込むように食堂へとやって来る。彼女は昨日の写真を見たメイドの一人だ。

 その手には今日の新聞が握られていた。


「奥様! こちらを……大変な事が……!」


 完全に混乱して落ち着きを失っているメイドの様子に、アミールの給仕をしていたリチャードは彼女に対してたしなめるように視線を向けたが、アミールが「二人とも、落ち着いて」と声をかけると少しだけ空気がやわらいだ。

 新聞を受け取ったアミールは、一面に大きく書かれた見出しの文字を読んだ途端、翡翠色の瞳を見開いた。



 ――ミンスティン侯爵夫妻。北の大陸国ハルメデン大国の密売人から違法薬物を買い付け、帝国内で売買、使用の疑い。昨日、帝国警邏(けいら)隊により捕縛。


 アミールはすぐさま記事に目を通す。

 昨日捕縛と書かれていたが詳細が綴られていた。



 ミンスティン侯爵夫妻の違法薬物の売買、使用疑いは五年も前から、その界隈の人間達には密やかに噂となっていた。しかし決定的な証拠は何一つなく、貴族社会でも一切そのような疑惑が話題になった事は無かった。


 しかし違法薬物を専門に取り扱う帝国警邏隊により、この噂は五年前の時点で帝国王族は把握していた。事実確認をするために、帝国王族は極一部の帝国騎士にも命じ、帝国警邏隊とは別行動で水面下で長年にわたり調査をさせていた。王族により命じられて調査にあたっていた一人の帝国騎士が、侯爵夫人から直接薬物を手渡された瞬間を、見張っていた帝国警邏隊が現行犯で捕縛したという。


 今回のミンスティン侯爵夫妻捕縛は貴族社会に大きな衝撃を与える事は間違いない。夫妻の娘は王太子殿下の正妃となる事が決定していたが、それも白紙になるのは免れない事も明記されていた。



 アミールは一度、何事かと気を揉んでいる様子のリチャードにも新聞を見せた。新聞を読んだリチャードも小さな瞳を大きく見開き、食い入るように記事を読んでいる。

 高ぶった気を抑えられないらしく、メイドのランは思わずといった様子で口を開いた。ランは泣きそうな様子で表情を歪ませている。


「旦那様は奥様を裏切ったりはしません。奥様、信じてください。ご結婚される前から、旦那様は私達のような立場の者に対しても誠実なお方でした。そんな方が奥様を傷つけるなんて、考えられないのです。きっと……きっと何か事情が」

「ラン、口を慎みなさい」


 ついに涙を溢れさせるランをリチャードが困った様子で注意する。ランは口をつぐむとうつむいてしまった。


「……ラン」


 椅子から立ち上がったアミールは、自分よりはるかに背の高い、しかしまだ十五歳になったばかりの少女のメイドを優しく抱きしめた。途端、ランはしゃがみこんでしまう。奥さま、申し訳ありません、と脱力した様子で泣きながら謝罪の言葉を述べるランを、アミールは腕に力を込めて抱きしめた。


「ありがとう。旦那様を信じてくれるのね」

「……私は旦那様と奥様の使用人です」

「ええ、分かっているわ。私の事もとても心配してくれていたのね。ありがとう」


 ランの真っ直ぐな言葉で、荒んでいたアミールの心は少しだけ落ち着きを取り戻す事が出来ていた。ランを含めて、この屋敷の使用人達がどれ程ロゼックと自分に対して厚すぎる程の敬意を持って仕えてくれていたかを実感する。


 記事の全てに真実が書かれている訳ではない。


 ロゼックがこの記事の件に関わっているのかもアミールには分からない。

 昨日出掛けたまま帰って来なかったのはミンスティン侯爵夫人に会っていたからなのか、別の人に会っていたのか、何をしていたのかも分からない。

 ただ一つだけハッキリしている真実。

 ロゼックは三週間前の休日にミンスティン侯爵夫人に会い、口づけをしていた。それだけなのだ。


「ラン、リチャード。今は旦那様のご帰宅を静かに待ちましょう。お帰りになられたら、普段通りにお仕えしてちょうだい」

「……はい」

「かしこまりました」


 気丈に振る舞いながらもアミールは覚悟を決めていた。

 ロゼックとの婚姻関係が切れていない限りアミールは不敬をはたらいた臣下の妻なのだ。この違法薬物の事件と彼の犯した不敬罪は別物だ。女遊びを見て見ぬふりをした自分にも十分に原因がある。

 たとえどんな処罰が下ったとしても、決して逃げてはいけない。


「……私はとても愚かな人間だわ」


 銀のナイフに歪んでうつる自分の表情は険しい。

 本当に、愚かな人間なのだと思う。


 こんな事になってしまっているのに、アミールは自分の意思でロゼックの側を離れる選択は考えられなくなってしまっている。

 三年間の主従関係と半年程の夫婦関係で培ってきた数多の信頼、失望、愛情は、アミールの心に複雑に絡みついていた。


 ロゼックと貴族社会の女性関係に関する噂は嫌となるほど沢山聞いた。歯の浮くような過剰な甘い言葉をかける様子も、思わせぶりに女性の腰や肩に触れてエスコートする姿も、結婚前の社交シーズン期間に何度も目撃した。多少なりとも慣れてしまって動じる事は無かったのに、口づけの写真はあまりにも衝撃的すぎた。


 現実というナイフが、時間が経過する度にアミールの心の奥深くにゆっくりと音も無く突き刺さっていく。


 今はただ真実を知りたい。

 殿下に謝罪し、罪を償わなければいけない。

 傷ついたアミールの心はそればかりを考えていた。




 王城からの馬車でマナンが帰宅したのは昼を少し過ぎた頃だった。

 マナンは相当気落ちしてしまったらしく、まだ本調子とは言いがたい様子だが、大きな不調は見られずアミールはホッとした。

 そして、マナンはマゼウ殿下から直接伝言を預かっていた。

 今日の夕刻までに王城に来て欲しいという面会の命令だった。


「分かりました。すぐに支度を整えます」


 ついに正式に処罰が決まったのだろう。

 アミールがはっきりとした声で、しかし暗い表情で返事をすると、マナンは慌てた様子でアミールの両手を握りしめた。


「あくまでも私から見た殿下のご様子なのですが、殿下は写真を見ても全く動じられる事もなく、お怒りのご様子でもありませんでした。ただとても、奥様のお心を心配しておられました」

「殿下はそういうお方よ。お怒りを表情や態度で出す方ではありませんわ。現実的に理性的に、粛々と事を進めるお方です」

「……奥様……」


 形だけとはいえ信頼関係を築いた元夫婦。

 しかし今は王太子殿下と不敬を犯した臣下の妻なのだ。

 アミールはマナンの手を借りて急いで身支度を整えると馬車に乗り込み、マゼウ殿下の待つ王城へと向かった。





 王城に到着して馬車の扉が開かれた瞬間、アミールは信じられない人の姿を目撃して言葉を失い、動揺した。

 王城の裏門。

 訳ありの来訪者を乗せた馬車しか通る事のない寂れたこの場所にいる筈のない人が、専任の近衛騎士一人だけを側に置き、艶やかな黒髪を風で揺らして優しく微笑んでいた。


「やぁ、アミール。半年ぶりだね」

「……殿下、なぜ、こちらに」

「なぜ、って。私の大切な人が乗った馬車が入って来たのを確認したら、迎えにいかない訳にはいかないだろう? さぁ、手を」


 戸惑いながらも、アミールは差し出されているマゼウ殿下の手におそるおそる自分の手を重ねて、馬車から降り立った。

 力強く握られるマゼウ殿下の懐かしい感触。

 ロゼックよりも少しだけ低い体温。

 アミールの胸に小さな痛みが走った。


 ロゼックに会いたい。


 様々な感情を無視して、ただそう思ってしまった自分に、アミールはまた少しだけ動揺してしまう。


 マゼウ殿下は左腕を曲げてアミールの右手をのせると、エスコートするように歩き出す。アミールも静かにマゼウ殿下の歩みに従って歩き出した。


「再会する時はこんな時じゃない方が良かったんだけど、状況が状況でね。申し訳ない事をしてしまったね」

「いいえ……」

「歩きながら話す事を許してほしい。アミール、例の写真の事なんだが――」

「!」


 蒼白になったアミールは咄嗟にマゼウ殿下の腕から手を離してしまう。

 深く膝をおって頭を下げようとしたアミールだが、出来なかった。マゼウ殿下に素早く両肩を力強く握られてしまったからだ。

 マゼウ殿下は眉を下げ、とても辛そうな表情で無理に微笑んでいる様子だった。


「謝罪は不要だよ」

「私は殿下に不敬をはたらいた臣下の妻です。謝罪し、罪を償わなければいけません」

「いいや。違うよ。ロゼックが不敬罪に問われる事は無い」

「違法薬物の件と写真の件は別なはずです」

「アミール」


 ついにマゼウ殿下から微笑みが消える。

 磨がれた刃のような鋭利な空気を纏う姿を見せたマゼウ殿下の真剣な表情に、アミールは思わず口を閉じて肩を震わせた。


「ロゼックを責めないでくれ。彼の麗しい容姿を利用した。ミンスティン侯爵夫人に近づき、夫人の愛人になり、証拠を掴めと命じたのは私だ」


 まったく想像すらしなかった事を告げられたアミールは言葉を失い、マゼウ殿下を見上げる事しか出来ない。


 アミールが完全に言動を抑えて抵抗しなくなった事を確認したマゼウ殿下は、そっとアミールの手をとって再度自身の腕にのせるとゆっくりと歩き出す。アミールは思考を消失させてしまったまま、しかし足はマゼウ殿下にならって歩みを進めていた。


「現行犯で捕らえる事が出来たのはロゼックのおかげだ。彼は五年の歳月をかけてこの任務をまっとうしてくれたんだ」

「……五年?」

「そうだ。ミンスティン侯爵夫妻の疑惑が出てすぐに、当時十九歳の彼に命じた事だ。彼は重度の女性嫌いなのに、とてもよくやってくれた」

「重度の、女性嫌い?」


 アミールの困惑は止まらない。

 嫁いでからの平穏な日々が頭の中に流れるように浮かんでは消えていく。女性嫌いという言葉はロゼックにはまったく当てはまらないはずなのに。


「大きな声を出さないでくれよ? 彼は今眠っているから」

「え……?」


 いつの間にかたどり着いた場所は、アミールは利用した事が無かった小さな部屋だ。マゼウ殿下が扉を開けると、そこは大人が五人も入ったら窮屈な程の広さしかない。

 室内にあるのは一つの窓と簡素なベッド、小さな木製椅子が二脚。

 掛布も掛けずベッドに横たわっている人の姿に、アミールは辛い思いで声を抑えると、思わずマゼウ殿下からの許しも得ずに駆け寄ってしまっていた。


 ベッドで眠っていたのはロゼックだ。


 近衛騎士の制服だが上着は脱いでシャツ姿になっている。

 顔色が悪いが負傷した場所はない。

 アミールはロゼックの身体を隅々まで確認した後、ドレスが汚れるのも気にする事なく床に座り込む。力なくベッドの上に置かれたロゼックの右手を、小さな両手でギュッと強く握りしめた。

 目覚める気配のないロゼックは静かに眠り続けている。


「無理矢理眠らせたから、しばらくは起きないよ。けれどそのかわり目覚めたらだいぶ元気になっている筈だから安心して」

「無理矢理、ですか?」

「そう。昨日からロゼックは君を心配するあまり、ちょっと色々興奮状態になってたからね。眠ってもらったんだ」


 あっさりと穏やかに説明しながら、護衛を廊下に残すとマゼウ殿下は静かに扉を閉めて入室してくる。

 マゼウ殿下はこういう人だ。

 淡々と冷静に、とても穏やかに、いとも簡単にゾッとしてしまいそうな事を平気でやれてしまう人。

 アミールにとっては心強い人だったが、ロゼック同様に絶対に敵対したくない人だったことを改めて思い出す。


 椅子に座るようにすすめられ、アミールはベッドの側ぎりぎりまで椅子を寄せて座り直すと、もう一度ロゼックの右手を強く握る。

 同じように椅子に座ったマゼウ殿下は、そんなアミールの姿を見て嬉しそうに瞳を細めた。


「ロゼックを愛しているんだね」


 アミールは言葉に詰まってしまった。

 一度唇を噛んで、瞼を震わせてしまう。


「……そう、みたいです。写真を見て、私は……」

「そう」


 マゼウ殿下の笑顔は、途端にフッと暗く翳っていく。


「ロゼックがアミールの心を傷つける原因を作り出したのは私だ。アミール、ロゼックを憎んだり恨んだりしないでくれよ。君が恨むべき相手はロゼックではなく私だ」


 室内を沈黙が包む。

 アミールは静かに顔をあげてマゼウ殿下をまっすぐに見つめて首をふった。激しい後悔が胸の中で大きく膨らむ一方だった。


「私は殿下を恨む理由がありません。殿下と旦那様は疑惑を明らかにするために動いておられただけなのですよね? 恨み、憎むべきは私自身です。一人で勝手に思い込みを大きくさせて、なにも……」


 アミールはロゼックの手を握りしめたまま、マゼウ殿下に尋ねた。


「旦那様はどのような事情を抱えていたのか、教えてくださいませんか? お願いします、殿下。私は旦那様の事を何も知らず、知ろうともせず、勝手に納得して決めつけて、いろんな事を諦めていました。それで良い、それが正しいとも思っていました。そんな私の考えや言動が旦那様を深く傷つけてしまっていたのだと今更気付きました」

「違うよ」


 マゼウ殿下は漆黒の瞳は、真っ直ぐにアミールの翡翠の瞳を見つめていた。必死な様子で。


「ロゼックはアミールの言動に傷ついていた訳ではない。真実を教える事が出来ずに罪悪感を抱えていたとは思う。女性嫌いだったロゼックは、君の下賜先についての話を聞いた時に自分がアミールと結婚して夫として守りたいと強く申し出る程に君のことを想っていたんだ。ロゼックは昔も今も、君の一番近い場所に存在していられる事を喜んでいる」


 マゼウ殿下の言葉に、アミールの心の違和感だけが大きくなっていく。

 話をそのまま鵜呑みにしてしまうと、ロゼックはまるで第二妃と専任近衛騎士の主従関係の時から自分の事を一途に想ってくれているように聞こえてしまう。彼は三年間、一貫してアミールの事を子ども扱いしていたのに。


「旦那様が私との結婚を希望されたのは、私の立場が良かったからですよね?」

「……うん?」

「元王女、元第二妃という私の立場は、旦那様と伯爵家にとって悪い影響は与えません。だから結婚を望まれたのですよね?」

「その言葉、ロゼックに言ったかい? またはロゼックがそんな事を言っていたのかい?」

「いいえ、お互いに何も言ってはいません。それでも、私との結婚を旦那様が望んだ理由はそれ以外にはあり得ませんから」


 アミールは真面目に話していたのだが、マゼウ殿下は力が抜けたように両肩を落として天を仰ぐように上向いたのだった。



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