5 残酷な現実
アミールとロゼックの二人の新婚生活は順調そのものだった。
関係性は違えど夫婦になる前に三年間も主従関係として多くの時間を共に過ごしていたのだ。アミールが帝国で暮らすようになってから一番会話した時間が長い男性がロゼックだった。公務で忙しかったマゼウ殿下とは眠る前しか会話する時間が無かったのだから、自然とそうなっていた。
結婚した事によって互いに過ごす場所が屋敷と王城で別々になり、会話する時間が激減した事に違和感を覚える程、元からとても近い存在の人だったのだと夫婦になってから強く実感する。
アミールが多くを語らなくても、ロゼックは何もかも分かっているように先回りして行動する。
しかしそれはアミールも同じだ。
男女のあれこれとした感情は別だが、それ以外の細やかな事や感情について、ロゼックがどのような言動をするか、考えるかは何となく分かってしまう。
ロゼックが調子の良い軽口をたたいたり、甘すぎるほど甘い言葉をかけたり、情熱的な愛の言葉を囁いたり。そんな彼の言葉をアミールが呆れ半分、そして気恥ずかしさと少しの感謝の言葉で返事をする。
結婚直前や直後の不安やぎこちなさが嘘のようだった。
結婚して約半年が経った今では、二人は周囲の人々や使用人達にも認められる程に仲睦まじい夫婦になっていた。
「っくしゅ」
我慢出来ずアミールはくしゃみをしてしまうと、直後に身体がぶるりと大きく震えた。
秋の社交シーズンが終わり季節は冬になっている。帝国は雪は降らないものの気温はすっかり下がっている。特に朝晩は厚手の上着がなければ凍えるような寒さだった。
アミールは暖炉のそばの椅子に座り、毛糸で編まれた上着を羽織り、厚手の掛布まで身体に巻き付けて編み物をしていた。体調が悪いわけではないが、一瞬だけ身体を駆け巡った寒さには耐える事は出来なかった。
「寒いのか?」
王城から持ち帰っていた書類を読み込んでいたロゼックが素早く立ち上がる。今も昔も変わらずの過保護ぶりを発揮するロゼックは自分の上着を脱ぐと、アミールの小さな身体にしっかりとかけてくる。何枚もの布にくるまれたアミールは大きな布の塊になってしまっていた。
「寒くないわ」
「そうか? 顔が赤いな」
「暑いからです。この上着、重いわ。脱いじゃ駄目かしら?」
「駄目だ。それを着ているかもう寝るかだな」
「着ています」
この過保護な様子も結婚前とはやはり微妙に違うのだ。その変化は恐らくアミールにしか分からない。
ロゼックはきちんとアミールを女性として、妻として気遣ってくれている。
ロゼックの大きな硬い手のひらがアミールの額を覆う。
彼は体温が高い。手のひらから感じる温かさにアミールが思わずほっとして、微笑む。ロゼックは少しだけ青い瞳を見開いた。かと思えば、なぜか顔を背けられてしまう。苦い薬を飲んだ直後のような顔で。
「旦那様?」
「納得いかない」
「……何がでしょうか?」
「アミールは俺が心配で不安になった時に限って必ず笑う事。昔からだ。いつもは全然そんな風には笑わないくせに」
思わぬ指摘に、アミールは翡翠の瞳を瞬かせた。
「そうかしら」
「ほら、無自覚。俺はそれが悔しい」
「悔しい……?」
「……まぁいいよ。仕方ない気もするし」
言うと、ロゼックはあっという間に苦い表情を消し去り、普段と変わらない眩しい程に美しい笑みを見せた。
ロゼックの言葉がアミールにはあまりピンと来なかった。
自分は元王族なのに、あまり良い事では無かったが、感情が分かりやすく出てしまっていた自覚はある。楽しいときや嬉しいとき、幸せなときにも素直に笑ってしまう。ロゼックにも何度も笑顔は見られている筈なのに。
アミールは珍しく、ロゼックにかけられたこの言葉について、ぼんやりと考える時間が長くなってしまっていた。
編み物を再開し、もう少し区切りの良い所まで進めたかったが、やはり先程のくしゃみが良くなかった。
ロゼックは終始アミールの体調を心配し、半ば強制的に終了を告げられ、ベッドに連れて行かれてしまった。口元まですっぽりと何枚もの掛布をかけられ寒くないかと確認され、アミールは苦笑するしか出来ない。
「俺は持ち帰ったあの書類を最後まで読んでから寝るよ。アミールはちゃんと寝ておくんだ」
「本当に大丈夫なのに」
「油断したら痛い目見るぞ?」
「そうね。明日は?」
「出掛けてくる」
「はい。わかりました」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
重ねるだけの口づけをして、ロゼックはベッドを囲むカーテンを閉めると、静かに離れていく。
アミールはもうすっかり慣れてしまった。
心が痛む事も無くなった。泣きたくなる事も無くなった。
明日、ロゼックは休日だ。出掛けてくる――その言葉の意味は、顔も名前も分からない女性に会いに行くという事を意味している。
「……良い妻になれているのかしら」
掠れた声で呟きながらそっと瞼を閉じる。
夫に大切にされて、幸せで恵まれた結婚生活なのだと、改めてそう思う。
*
深い睡眠をとったアミールは体調を崩す事もなく翌日を迎えていた。起きた時には既にロゼックは不在だがいつもの事だ。彼は普段も休日もアミールより遅く起きた事がほとんどない。
今日は特別な予定も無い。
身支度や朝食、屋敷の女主人としての細々とした雑事を終えると、アミールは早速昨日の続きの編み物を再開した。無心で黙々編むという作業が、なんとなく楽しいのだ。
どれ程の時間集中していたのか分からなかったが、ふと、屋敷の階下が少しだけ騒がしい事に気がついた。
階段を上ったり降りたりするような足音も聞こえる。
何事かと心配したアミールがベルを鳴らすと、蒼白な顔色でアミールの私室にマナンが現われた。朝まではいつも通り元気な様子が嘘のような顔色で。
「マナン? 顔色が良くないわ、具合が悪いの?」
「いいえ、奥様。あの……」
マナンは明らかに狼狽えていた。言葉もしどろもどろで歯切れ悪い。
いつもハッキリと物事を話す彼女らしくない。アミールが考えていた以上に良くない出来事がおきている事を悟った。
「落ち着いて。何があったの?」
アミールがマナンに尋ねたと同時に、扉がノックされる。
入室してきたのは家令のリチャードだ。
いつも落ち着いていて温厚そうな微笑みを浮かべている彼も、その表情は暗い。右手には銀盆、上には白い封筒が置いてある。文字は何も書かれていないらしく、封も最初からされていなかったようで開いた状態になっていた。
「リチャード様」
マナンは震えた声を出して焦ったようにリチャードとアミールを交互に見る。
リチャードはマナンに対して一度小さく頷くと、アミールに対して銀盆を差し出した。
「こちらが玄関の扉と床の隙間に挟まっているのをメイドが見つけました。封筒は、私が勝手な判断で用意しました。あまり人目に触れて良いものではないと判断しましたので。実際に置かれていたのは写真一枚のみです」
「写真?」
アミールは封筒を手にとると、迷わず中身の写真を引き抜いた。
写真に写っているのは二人の男女。
息を呑んだアミールは言葉を失った。
どこかの街の高級住宅街の外壁。
容姿端麗な美しい女性は外壁に背中を預けて、眉目秀麗な男性から口付けされている。女性の両腕はしっかりと男性の背中に、縋るように巻き付いている。たった一瞬を切り取ったであろうこの一枚の写真から、二人の熱っぽい情景をありありと生々しく感じとる事が出来た。
この二人の男女をアミールはよく知っている。
「……ミンスティン侯爵夫人と、旦那様」
血の気が引いて心臓が破裂しそうな程に騒いでいるとは思えない程にアミールの声は冷静だった。
マナンは倒れそうな程に青ざめてしまっている。三人の間に沈黙が流れ、皆写真を凝視していたが、自分を落ち着けるように深呼吸を繰り返したアミールはやがて苦笑した。
本当はまったく笑えない。
しかし笑ってしまったのは、すっかりこの写真に衝撃を受けてしまっているマナンとリチャード、そしてこの写真を見てしまったであろうメイド達に、事を荒立てる必要はまったくないという事を女主人であるアミールがしっかり示し、早く屋敷内で日常を営んでもらうための自衛でもあった。
自分は決してロゼックに怒ってはおらず、冷静であることを伝えるために。
主人であるロゼックの、使用人達の信頼を損なうような行いが最悪な形で露呈してしまった今、アミールがしっかりとしなければいけない。
「ミンスティン侯爵夫人は、いずれマゼウ殿下の正妃になられるエイミー様のお母様です。夫人と旦那様のこの逢瀬の写真は明らかにマゼウ殿下への不敬罪となります。ミンスティン侯爵にも、早く謝罪しなければなりません」
「お、奥様!」
「マナン。お願いがあるわ」
悲鳴のように声をあげるマナンを落ち着けるようにアミールは穏やかな口調で声をかかると、写真を封筒に戻し、そのまま小刻みに震えているマナンの両手へと預けた。
「すぐにマゼウ殿下にこの写真をお見せして。何者かに屋敷の玄関に置かれていたと、簡潔に事実だけをご報告するのよ。この写真の旦那様の服装だと、恐らく三週間前の休日だわ。早急に事実確認をしてもらうようにお伝えして」
「奥様、そんな……そんな」
「黙っているわけにはいきません。私は旦那様の妻なのですから、この罪は私も背負わなければいけません。マナン、分かるでしょう? リチャードも」
沈黙を貫いていたリチャードに目をやると、痩身の彼は枯れ枝のように萎れた様子で肩を落としながらも、しっかりと頷く仕草を見せた。
アミールの指示に従い、マナンは蒼白になりながらもすぐに王城へと向かっていく。
リチャードは一度退室し、写真を見てしまった三人のメイド達と共にもう一度アミールの部屋へとやって来た。アミールは四人に対し、屋敷の主人であるロゼックの不貞と思われる行為について謝罪をすると、四人は青ざめた表情のまま困惑した様子で首を振るが、アミールは静かに告げた。
「今回の件は決して許される事ではありません。殿下と侯爵により、旦那様には何らかの処罰が与えられる筈です。事情によっては皆さんを雇い続ける事が困難になる可能性も考えられます」
「……奥様。我々は最後の最後まで、旦那様と奥様にお仕えする所存です」
「リチャード。ありがとう。その気持ちだけで、私も旦那様もとても嬉しく思うわ」
一番辛い立場である筈のアミールが落ち着いていた。
幼い少女のような容姿の、それでいて冷静な女主人が、まるで可憐な花が綻ぶように微笑むと、四人は気が抜けたようにアミールを静かに見つめてしまっている。
「殿下と侯爵から何らかのお達しがくるまでは、皆はこの写真の事を胸に留めておいて欲しいの。これは……命令です。まだ知らない使用人達には、事が公になるまでは決して知られないようにしてください。先行きは全く分からない状態です。余計な不安を煽ってしまうのは避けたいのです。旦那様には私から直接事情をうかがいます」
「……かしこまりました」
「皆さんが生活に困るような事態には決して陥らせない事をお約束します。ですから安心して、普段通りに日常を過ごしてほしいの」
リチャードと三人のメイドは、それぞれに悲しそうな、困惑した様子ながらも、最終的にはアミールの命令と願いに従い、礼をとった。
リチャード達が退室し、足音が聞こえなくなったと同時にアミールは部屋の扉に鍵をかける。普段は滅多にかける事のない鍵だが、今だけはどうしても鍵をかけなければダメだった。
情けない姿を使用人に見せてはいけない。
不安にさせてはいけない。
「っ…………!」
堪えていた涙がとめどなく溢れてくる。
ぼろぼろとこぼれて嗚咽が止まらない。
アミールはその場で膝から崩れ落ち、両手で顔を覆ってうつむいた。
写真を見たのはほんのわずかな時間だったのに、頭の中にしっかりと焼き付いて離れない。ロゼックがミンスティン侯爵夫人に口付けている姿。艶やかな美女であるミンスティン侯爵夫人を抱きしめて口づけを交わす二人は、まるで絵画のような美しさだった。
分かっていた事だ。泣くことではない。
見て見ぬフリをすると決めたのは自分。そうして平穏に、平和に毎日を過ごしていた。暗いものは見ないようにして、幸せを感じていたのは間違いなかった。
それなのに。
現実を突き付けられてしまった途端、こんなにも苦しくてたまらない。
消えてしまいたい。
こんなにも激しい感情を芽生えさせてしまう程にロゼックという人を愛しく想ってしまっていた現実を痛感し、アミールは絶望的な気持ちになってしまっていた。
「……殿下……」
ロゼックとの結婚がアミールにとっての幸せだと確信している、そのように言い切ったマゼウ殿下の言葉と微笑みが頭の奥でぼんやりと浮かんでくる。
マゼウ殿下は間違いなくロゼックを従順な臣下、近衛騎士として認めていた。だからこそこの結婚を祝福してくれていたのだ。
けれど現実はあまりにも残酷すぎた。
ロゼックもミンスティン侯爵夫人も、マゼウ殿下を裏切っていたなんて。
「殿下……旦那様……!」
冷静に。おきてしまった現実は無かった事には出来ない。
頭では分かっていても、込み上げる涙と行き場のない深い悲しみは、今のアミールにはどうしてもおさえる事が出来なかった。
必死に声を噛み殺し、重い足取りでソファに座り直したアミールは、クッションを抱え込むと顔を埋めて、枯れてしまいそうな程に呆然と一人で涙を流し続けていた。
屋敷内はいつもと変わらない、平穏そのものの雰囲気だった。
夜になったのにも関わらず王城から帰宅しないマナンをアミールは心配していたが、王城からの早馬で連絡があり、マナンは体調を崩してしまったため王城で一泊休ませてから帰宅させると手紙に書かれていた。
その手紙を読んだアミールがマナンの体調を心配していた時に、今度は別の早馬がやってくる。
王城からではなく、私的に一時的に雇ったのであろう一般用伝達部に所属している早馬だった。
「こちらの手紙は旦那様からです」
「……旦那様?」
リチャードから手紙を受け取ったアミールは、震えそうになる両手に力を込めて封を開けて便箋を開く。
そこには、ごく稀に送られてくる早馬の時に書かれている手紙の要件となんら変わらない、普段通りの言葉が並んでいた。
用事が終わらず長引いている。今日は帰れない。自分には構わずにゆっくり過ごしていて欲しい、と。
頭の中に浮かぶロゼックは美しく微笑んでいた。微笑む視線の先にいるのはアミールではなく、妖艶な美女であるミンスティン侯爵夫人。
抱きしめあって口づけを交わす二人の姿が、鮮明に頭の中に浮かんでくる。
便箋を持つ右手の血の気が引いてくる。
「奥様」
「……リチャード。ごめんね、私ったら。ぼんやりしてしまって。旦那様は今日はご帰宅されないみたい。リチャードも、他の皆に今日は早めに休むように伝えておいて?」
「……かしこまりました」
リチャードに気遣うような言葉と視線を向けられて、アミールは慌てて便箋を折り畳んでリチャードへと返した。
ロゼックの帰宅しない夜は初めてではない。
しかしアミールは気付いてしまっていた。
ロゼックが王城へ出仕している時ではなく、休日に帰宅しない日は、結婚して今日が初めてだったのだ。
「……私は離縁を言い渡されるのかしら」
大きなベッドの上に横たわり、アミールは力なく呟いた後に、そっと瞼を閉じた。
疲れてしまっている。
先の事を考える事も、怒る事も悲しむ事も、今のアミールには不可能だった。
アミールはあっという間に深い眠りの中へと落ちていった。