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金盞花  作者: 大江いつ樹
4/15

4 揺れる


 厚いカーテンはしっかりと閉め切られたままなのに、太陽の光は布の厚さをも無視して、寝室の中をほんのりと明るく照らしていた。

 朝では無い。

 太陽はすっかり真上にあり、昼を告げていた。


 広いベッドの上。

 アミールは掛布にくるまったまま、やっと目覚めた時には昼になっていた。起きなければと思ったのに、すぐに放心してしまい動く事が出来なかった。


 昨夜の初夜を思い出した途端、全身が熱くなる感覚に襲われて、頭まで掛布を被って声も出せずに悶える事しか出来なかった。

 知識だけはあった。手順も三年以上前に教わっていた。一日猶予を与えられていたおかげで、覚悟して迎えた初夜。

 それなのに、この有り様は一体。


 何もかもが初めてで、アミールはただただ必死だった。受け止め、耐えて、縋って。自分は一体何をしていたかと思い出すとそればかりしか浮かばない。ロゼックは終始丁寧で、優しかった……と思う。何もかもが初めてだったアミールにはよく分からない。


「大丈夫……よね。大丈夫……」


 まさか今回の初夜がアミールにとって本当に初めてだと、ロゼックに気付かれる訳にはいかなかった。

 慣れている風を装わなければと思っていたのに、いざ事が始まるとそれどころでは無くなってしまった。大きな恥ずかしさと不安がアミールの胸の中で渦巻いていく。

 同時に虚しさを感じる。

 こんな事を休日の度に数多の女性達と何度も?

 それを楽しむような人が、私の夫……。



 すっかり疲労困憊なアミールは何とか起き上がると、マナンを呼ぶためのベルを鳴らした。

 全く起きてこないアミールを心配していたらしいマナンはすぐさま部屋へやって来た。そして悲鳴のような声を上げたかと思うと、てきぱきとアミールの身支度を整えていく。マナンは明らかに憤慨していた。


「旦那様ったら。この様子ですと、奥様は新生活の始まりでお疲れだというご配慮はなされなかったのですね」


 お願いだからそれ以上言わないで、と内心で訴える。声に出すにはあまりにも恥ずかしく、そしてそんな気力すら湧いてこなかった。

 マナンもだ。

 まさか昨夜がアミールが初めてだったとは思ってもいない。だからこそ、夫とベッドを共にしてこんなにもぐったりしているアミールの姿に驚くのは無理も無かった。マゼウ殿下と寝起きしていた時では考えられない状態だったのだから。


 ロゼックがいつ寝室を出て仕事へ向かったのかすらもアミールの記憶に無かった。

 妻としてきちんとお見送りをしなければと思っていたのに、嫁いで三日目にしてそれも出来なかった事に、アミールは罪悪感をつのらせた。使用人達への体裁もある。やるべき事はきちんとやらなければいけない。


「旦那様はお怒りじゃなかった? お見送り出来なかったから」

「何をおっしゃいますか。旦那様なんて、それはもう憎ら……失礼しました。とても幸せそうなご様子で出仕されました。奥様を休ませるようにと、それだけでした」


 ……恥ずかしすぎて誰にも会いたくない。

 アミールが両手で顔を覆ってしばし落胆していると、そんな心境を知るよしもないマナンはただひたすらにアミールのおかしな様子を心配していた。




 第四王女、第二妃殿下だった時は王族としての公務などが山のようにあり、それなりに忙しい生活をしていた。しかし伯爵家の次期当主の妻となった今、毎日の日常をどのようにして過ごす事が正しいのかが、アミールにはまだ把握しきれていなかった。

 ひとまず、第二妃だった時に公務の都合で会話した貴婦人達や親交があった貴族の妻達の話を聞いて仕入れていた情報を頼りに、それらしく生活してみる事を心がける事にした。


 秋の社交シーズンはまだ三ヶ月程先の話だ。

 いくら三年間を帝国で過ごしたとは言え、王太子殿下の妃と貴族の妻では求められる作法は大きく変わる。事前に勉強していたとはいえ、失態を晒す訳にはいかない。勉強する事も大きく変わり、やるべき事は意外と多いという事にアミールは気がついた。

 今までとは違う。

 自分が嫁いだ事でトノイ伯爵家の、ロゼックの評判を落としてしまうような事があってはならない。




「それは何の勉強?」

「! 旦那様。もう、普通に話しかけて」


 椅子に座り、机に一冊の本と紙を広げて熱心にマナーの勉強をしていたアミールだが、突如横から覗き込むように顔を見せたロゼックに驚き、思わずペンを落としそうになった。

 ロゼックは本に視線を落としている。

 彼は湯浴みをすませたばかりらしい。金髪の毛先が濡れていて、ふんわりと石鹸の清涼な香りがする。ほんのり灯りに照らされたロゼックの横顔はあまりにも美しすぎて、アミールは直視する事が辛くなりつつあった。長い睫毛も、すんなりと細い顎も、全てが芸術品のような人。あまりにも眩しすぎて。


「部屋に入った時に一応声はかけたからな」

「そうなの? 気付かなかったわ」

「社交界での作法、か。相変わらず勉強熱心だな。アミールはもう完璧だと思うけど?」

「立場が変わったのよ。間違ってしまって旦那様にご迷惑をおかけする訳にはいかないわ」

「そんなに気負う必要ないのに」


 ロゼックはアミールに向かって微笑むと、そのまま顔を近づけてくる。とても自然にアミールの唇に自身の唇を寄せた。湯浴み後だからか、ロゼックの唇はふわりと柔らかく、温かい。唇が離れた途端、アミールは逃げるように顔を背けてもう一度本へと視線を戻してしまった。

 たったこれだけの、ロゼックにとっては戯れにすぎないであろう口づけも、アミールにとっては一つ一つがあまりにも大きな出来事だった。


「耳が赤い」


 面白がるように。

 椅子に座るアミールの背後に立つロゼックはアミールの右耳を楽しそうに指でつまんで遊びだしている。


「やめて」

「そんな風に睨んで言われても、な。可愛いだけだ。もっとしたくなる」

「子ども扱いもです。いい加減にやめてください」


 このまま許してしまったらずっと調子にのるに決まっている。

 アミールは強い口調で睨みながら言うと、パシリとそっけなくロゼックの右手を自分の右手で払い避けた。必死な思いで平静を装って、もう一度机に向かおうとペンを握りかけたが。


「おかしいな」


 ぽつりと呟いたロゼックの声が頭上から聞こえた時には、アミールは椅子に座ったまま背後からロゼックに抱き締められていた。

 左耳からロゼックの吐息を感じる。ぞくりと背中が震えた。


「夫婦になってもう一週間も経ったよな。一度たりともアミールを子ども扱いなんてした覚えはないけど?」

「……先ほど、遊んでおられましたわ」

「それは夫婦のスキンシップ」

「過保護ぶりが王城にいた時と変わりません」

「俺としてはだいぶ伝え方は変わったつもりだけど」

「普通に話しましょう。離れてください」

「嫌だな」


 背後から抱き締められたまま。

 ロゼックの右手が上がってきて、アミールの左頬を優しく撫でる。アミールの唇は震えそうになり、慌てて噛み締めた。


「アミールは二十歳の女性で、俺の妻だ。子どもじゃないよ」

「わ……分かっています。旦那様は義務として、お務めをきちんと果たしてくださいました。感謝していますから」


 こんなにも女性の魅力が欠片もない身体つきなのに、彼は夫として、貴族の当主という立場を継ぐ人としての義務を果たしてくれたのだ。

 実は少しだけ心配していた。

 ロゼックの好みの女性とはかけ離れているのであろう自分相手に、果たして夫婦の営みが出来るのだろうか、と。結局心配は杞憂に終わった。


 ロゼックからの返事も、動きもない。

 アミールは言葉を続けた。


「ちゃんとお伝えしておきます。もしも旦那様との間に一年以上子どもを授かる事が出来なかった時は、他の女性と、……っ!」

「ちょっと待って?」


 ふわりと、口に大きな右手を被せられて言葉を封じ込められてしまう。アミールの顔を覗き込むロゼックの微笑みを見て、アミールは背筋を凍らせた。

 王子様のごとく美しい微笑を浮かべたロゼックは、明らかに怒っている様子を滲ませていたのだ。


 ロゼックはアミールの座る椅子ごと難なく向きを変えてしまう。

 椅子に座ったまま二人は向かい合う形になり、片膝をついたロゼックの視線は、下から見上げられる形になった。

 射るような強い眼差しに、アミールは息を呑んでしまう。


「嫌な確認をしておくけど、アミールは俺がふらふらと女遊びしてると思ってるでしょ?」

「事実だわ」

「……良くないけど今は置いておく。その女遊びって、どんな事だと思ってるんだ? もしかして夫婦生活みたいな事だと?」


 アミールが初婚だったら、恐らく女性に優しいロゼックの事だ。

 初夜、だとか、夫婦生活だとか、はっきりとは言わない筈だ。しかし彼はアミールがマゼウ殿下との三年間の夫婦生活を間近に見ていた人だ。アミールがそういう話題に初心だとは全く思ってもいないらしく、いちいち表現に遠慮が無い。

 アミールばかりが冷や冷やと翻弄されてしまっている。

 尋ねられた途端に顔を真っ赤にしてしまうアミールに、ロゼックは瞳を細めて、さらに剣呑な空気を放った。


「へぇ。その()()もまったく良くないけど。とりあえず、もしそれが事実だとしたらさ、アミールは俺を疑わないのか? 隠し子がいるんじゃないか、どこかで愛人を囲ってるんじゃないか、とか?」

「……隠し子……」 

「あんな事を何年も沢山の女性としてたら避妊しても出来るときは出来そうだろう。疑わないのか?」


 尋ねられて初めて気付き、アミールは絶句しそうになった。

 込み上げるのは強い動揺。


 既に特別な人がいて、子どももいたの?

 私はなにも知らずに呑気にこの人と結婚を。


 これ以上ロゼックと対面し続けることがあまりにも辛すぎて、アミールはついに立ち上がろうとした。

 しかし行動を起こす前にあっさりとロゼックに横抱きにされてしまい、そのまま彼はソファへと移動して座ってしまう。すぐさま逃げようとするアミールを決して離さずに抱えたまま。


「愛人と子どもがいるって確定づけたな?」

「そうなのでしょう? わ、私は怒っていません。少し、その、受け止める時間が欲しいだけ」

「アミール」


 ロゼックの膝の上で軽々と持ち上げられて身体の向きを変えられてしまう。横抱きだった体勢が正面で向き合う形になると、そのまま強く両腕で抱き寄せられてしまった。

 ロゼックの体温が、互いの薄い布越しに伝わってくる。


「愛人も子どももいない。子どもが出来る事をしていないんだから、出来る訳がないだろう」

「……本当かしら」

「本当。信じてもらうしかないけど」

「信じてもらいたいなら、行動で示して欲しいわ」

「示してるつもりだけど」

「今度の休日も、お一人で外に行かれるのでしょう?」

「ああ。行くよ。遊びじゃなくて()()()()()だからね」


 ここまできっぱり宣言されて、どうすれば。

 簡単だ。貴族の妻なのだから。物事が平穏に過ぎれば良い。寛容な妻に。不満はお互い様。

 悲しみなのか呆れなのか、怒りなのか。


「そう……楽しんできて下さいね」


 言葉とは裏腹に声は酷く沈んでいた。

 これでは嫌味だわ、とアミールが後悔した時には、ロゼックの手によってあっさりとソファの上に身体を組み敷かれていた。

 妖艶で美しい微笑から放たれる冷気が怖い。


「遊びじゃないって何度言えば伝わるかな」

「……失礼しました」

「心にも思ってない謝罪なんてしなくて良いよ」


 明らかにロゼックは不機嫌な筈なのに、落とされる口づけはあまりにも優しい。顔を背けて拒絶する事も可能だった。身体を押さえている彼の力も決して強くはない。アミールが全力で暴れたら逃げる事が出来る力だ。

 彼はちゃんと逃げ道も作ってくれていた。

 それなのに、アミールはそうする事が出来なかった。落とされる口づけを、ただ静かに受け止めていた。


 ロゼックに心惹かれてしまう女性達の気持ちが、少しだけ理解出来るような気がしてしまった。


 ロゼックの言うとおりだった。

 アミールは、彼に言われて初めて、まったく子ども扱いされていないことに気がついた。むしろ明らかな子ども扱いではなく、妻として扱ってくれたからこそこんなにも急に心が乱されて動揺している。自分に触れる彼の全てが優しくて、特別に愛されていると錯覚してしまいそうな程。王城で言っていた愛される覚悟というのは、子どもとしてではなく妻として、という事だったのかもしれない。

 同時に、とても残酷すぎる、と思った。

 ロゼックはアミールの知らない沢山の女性達に対しても、表現法が違うだけで好意や愛を囁いているのだから。


「血の繋がった子どもの存在を欲する貴族達にとって、そもそもアミールとの結婚は選択肢に無い。王族達も分かっている。後継者のいない俺は、最初からアミールの下賜先の候補外だった」


 唇が離れて、ロゼックは言う。


「三年間子どもが出来なかったという事実はアミールみたいな立場の女性では致命的な事だ。アミール自身も分かっているだろう?」


 アミールは静かに頷いた。

 その通りなのだ。だから、どんなにマゼウ殿下が良き人を選んでくれると言っても、きっと自分は既に子どもや後継のいる年齢の離れた貴族の妻になるのだろうと思っていた。まさか年齢も近く、初婚で後継もいない、自分の専任近衛騎士だった人と結婚する事になるなんて思ってもみなかった。 


「アミールとの間に子どもが生まれたら、そりゃ嬉しいよ。けど出来なくても全然構わない。だから俺はアミールとの結婚を望んだ」

「……後継者が本当に生まれなかったら?」

「別に? この帝国の貴族は血の繋がりにやたらとこだわるけど、俺はまったく気にしない。アミールと俺が愛情をかけて育てた子が後継者だ。それで良い」


 忙しく過ごしていた日々、有無を言わさずに決められた今回の結婚。ロゼックが後継者問題をどのように考えているかを気にしつつも、聞くことをなんとなく憚られていたアミールは、初めて聞く彼の本音に自然と胸が熱くなってしまっていた。


「……勘違いしてしまいそうだわ」

「どんな勘違い?」

「旦那様が私だけを一途に愛してくださっている、と。――!」


 急に立ち上がったロゼックに抱えられ、あっという間にソファからベッドへと移動させられてしまう。

 ベッドにアミールを寝かせると、ロゼックはすぐに彼女に動きを封じ込めるように全身で覆った。


「勘違いじゃないよ。俺が愛しているのはアミールだけだ」


 泣くつもりは無かった。それなのに目尻から涙が一筋零れ落ちていく。咄嗟に逃げるように顔を横にすると、ロゼックの唇が目尻に触れた。溢れる涙を受け止めるように。


 口先だけのロゼック。

 一途に愛している表現が切なくなる程に上手な夫。

 こんなにも情熱的に口づけられても、抱かれても、ロゼックは違う女性の元へと愛を囁きに行ってしまう。


 勘違いしてはいけない。

 忘れてはいけない。

 ロゼックにとってのアミールの最大の魅力は元第四王女、元第二妃という立場であった事だ。その立場があったからこそ彼は結婚を望み、愛する妻として優しく接してくれる。

 彼が優しく愛を伝える相手は、別にアミールだけが特別ではない。


 ロゼックは十分に夫としての務めを果たし、思いやりと優しさを持って接してくれている。アミールもそれに応えなければいけない。

 物分かりの良い、寛容な妻に。




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