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金盞花  作者: 大江いつ樹
3/15

3 夫婦初日


 慌ただしく一ヶ月という月日は過ぎていった。


 ロゼックは初婚だがアミールは再婚となる。

 二人は結婚式は行わず、書類にサインだけをして国王陛下に提出を終え、あっさりと夫婦になった。書類が受理された事を王城の私室で報告を受けた時、アミールはなんとも言えない複雑な気持ちになってしまう。


 マゼウ殿下と離縁し、ロゼックと結婚して夫婦となった実感は全く湧か無かった。



 トノイ伯爵家の馬車に侍女マナンと乗り込み、アミールは三年間住んだサルジャン帝国の王城を静かに出発した。

 窓の外を見ると、三年間で親しくなった城仕えの者や使用人達が寂しげに立ち、あるいは涙を浮かべている者までいる。忙しい間をぬってわざわざ見送りにきてくれた事実に、アミールも唇を強く閉じると微笑んで小さく手を振った。

 今まで本当にありがとう、私は大丈夫よ、と、感謝を込めて。心配をしないで、と伝えるように。



「今日からロゼック様を旦那様とお呼びしなければいけないのですね」


 嫌そうに眉を寄せて沈んだ声で言うマナンに、外を眺めていたアミールは思わず彼女に視線を向け直すと笑ってしまっていた。


「とても嫌そうね。仲良しなのに」

「からかわないでください」


 ロゼックは二十四歳。アミールにとっては四つ年上だがマナンにとっては四つ年下となる。

 生真面目なマナンにとって、ロゼックの色男ぶりはまさしく猛毒だ。

 堂々とアミールを子ども扱いする様子に怒り、アミールが見ている目の前で貴族女性達が勘違いしそうな口説き方をして褒め倒す様子に怒り。

 挙げ句の果てには顔を合わせる度に彼を嫌悪しているマナンに対しても、歯の浮くような甘い言葉をかけるような男がロゼックだ。


 アミールの下賜先がロゼックになったと発表された時のマナンの心底嫌そうな顔、それなのに言葉では「おめでとうございます」と絞り出すように祝福を述べたあの時の姿を、アミールは恐らく生涯忘れない。

 偽らずに正直な気持ちを見せてくれるマナンの事を、アミールは好ましく思っていた。


「でも、そうね。私も同じ気持ちよ。旦那様と呼ばないといけないなんて」

「奥様。最初が肝心です。女遊びを慎むようにとはっきりお伝えすべきです」

「数日前に、王城にいる時にもう伝えてみたの。私への態度はともかく、女性関係に関しては職務外での事だから注意した事が無かったけれど。夫婦になるなら黙っている訳にもいかないと思って。そうしたらね……」


 ――俺は一度たりとも()()()なんてした事ありませんよ? 全部真剣ですから、その注意を聞くことは出来ませんね。


 馬車に沈黙が走る。重い空気が漂う。

 スッと瞳を細めたマナンのこめかみには太い青筋が浮いていた。


「ハッキリとそういう風に言われてね、私も、実は結構諦めがついてきていたの」

「奥様は何も諦める必要はありません」

「いいえ。ロゼックの遊びは多分一生そのままだわ」


 言ってて悲しくなる。

 しかし恐らくそれが現実だ。


「私は元々はナノリルカ国の第四王女。結婚に誠実な愛を求めるのは間違っているのよ。ロゼックとは誠実な関係で結ばれる夫婦とはなれないけれど、彼は悪い人ではないし。それに、女性を傷付けるような人では無いのも事実でしょう? かえって安心できるのよ」

「奥様」

「女性との噂は数多に聞くけど、無理強いされたとか、暴力を振るわれたとか、不思議と彼の人としての評判が落ちるものは聞いた事がないのがその証拠よ。ね?」


 ついにマナンは口をつぐんでしまうが、表情に不満と怒りが滲んだままだ。


 アミールにとって、ロゼックに関する噂の中で、女性達が彼に手酷い仕打ちをされたという噂を聞いた事がないという現実は、ほんのわずかな救いとなっていた。

 嫌がる女性に乱暴するような人と結婚なんて、そんなものは耐えられそうに無い。


「それに、この結婚はマゼウ殿下が決められたのよ。私は殿下を信じています」

「……この先何がありましても、私は必ず奥様のお側におります。決してご無理なさいませんように」

「ありがとう。でも、あなたもよ。何か困ったことがあったら、ちゃんと相談してね」


 アミールとマナンは手を合わせて握りあった。二人はまるで、これから戦地に向かう戦士になったような気持ちになっていた。




 王城から馬車で三十分程で到着した新居に入り、家令から案内を受けていたアミールは、終始驚きを隠す事が出来なかった。

 壁紙や天井、家具、調度品。

 そして用意してくれていたお菓子と紅茶。

 全てを見て、または味わう度に、懐かしい気持ちばかりが胸を満たしていく。


「リチャード。この住まいの物についての用意の指示は、すべて旦那様が?」


 戸惑いながらアミールがリチャードに尋ねると、線のように細身の老齢の家令リチャードは、やわらかな微笑みを浮かべて頷いた。


「はい。奥様が心穏やかにお過ごしになることが出来るようにと、それはもう熱心に」

「……そう」


 ロゼックが用意してくれていた新居は、アミールの祖国であるナノリルカ国では一般的に使用されていた家具やインテリアを主に整えられていた。

 ナノリルカ国では大地と海に感謝し、神として感謝している。

 その影響もあり深い茶色、濃い青色、深緑の三色は国の代表色として、衣類や生活用品に頻繁に用いられていた。


 燃えるような赤と橙色、金色の三色をよく使用するサルジャン帝国では、王城もとても豪奢で輝きに満ちていて、その豪華絢爛さにアミールの目が慣れるのには一年以上の時間がかかった。一般の貴族邸にも何度か訪れたが、その時もやはり赤や金色が多く、ここは祖国とは全く違うのだと実感したものだ。


 それなのにここにいると、まるでナノリルカ国にいるような気持ちになってしまう。

 しかし、サルジャン帝国の騎士一族の伯爵家次期当主の屋敷として、国旗や高価そうな飾り布など、所々に帝国様式も当然散りばめられている。しかしどう見ても、ナノリルカ国の物が大多数を占めていた。

 一度も帝国を出たことがなく、アミールと同じく初めてこの邸宅に来たマナンも、驚きを隠すことなく物珍しそうに部屋の中を食い入るようにを見ていた。


「実はまだ届いていない品々もありまして」

「まだあるの? あの、お気遣いはとっても嬉しいのよ。ただ……取り寄せるにしても帝国内で作るにしても、相当なお金がかかる筈よ。ナノリルカ国は遠いから。旦那様に、あまりお金を使いすぎないようにと伝えておかないといけないわね」


 慌ててアミールが言うと、リチャードは「ふむ?」という言葉とも息ともつかぬ音を出して首を傾げた。


「奥様、何も心配ございません。旦那様は倹約家ですので」

「倹約家?」

「え?」


 休日ともなれば外に繰り出してあんなにも女遊びする人が、倹約家?

 アミールが聞き返したと同時に、マナンまでも声を出してしまっていた。驚いたアミールがちらりとマナンを見上げると、マナンは気まずそうに片手で口を覆ってうつむいていた。


「はい。旦那様ご自身は必要な物以外はまったくお金を使いません。奥様とのご結婚にあたり、それはもう張り切って用意しておられたのですよ。全く生活に影響はありませんのでご心配なく。必要なものがありましたら遠慮なくお申し付けください。奥様のご希望は叶えるようにと申し付けられておりますので」

「……旦那様は、休日となるとあんなにも豪遊されておられるのに?」

「豪遊? はて? 仕事に行く、と……常にお忙しく働いておられる筈ですが」


 リチャードだけではなかった。

 壁際に控えていたメイドや従僕達までもが、アミールの言葉に驚いたり不思議そうな顔をしている。ここで働く人達はロゼックの派手な女遊びを知らないのだ。そして、ロゼックの事を主人として認めて敬意を持っている事も、アミールは瞬時に把握した。

 アミールは、内心は慌てて、しかし表情には出さないように気をつけて、眉を下げて微笑んだ。


「私ったら。旦那様に対して、とても失礼な誤解をしていたみたいだわ。今夜ご帰宅されたら改めてお礼を伝えます。皆も。こんなにも素敵に室内を整えてくれて。大変だったでしょう? とても嬉しかったわ。ありがとう」


 アミールが丁寧に礼を述べると、子どもっぽい容姿とは裏腹な凛とした淑女の姿に、使用人達は慌てて一斉に頭を下げた。

 決して使用人を蔑ろにする女主人ではない、と使用人達は確信出来た事に、明らかにホッとしていた様子だった。



 数人のメイド達と共に王城から運んできた荷物の荷ほどきを済ませた後、マナンだけを残して人払いを済ませて、私室にはアミールとマナンの二人きりになった。


「遊ぶお金はお相手の女性持ちなのね」


 アミールは苦笑を浮かべてぽつりと呟いた。

 紅茶の水面にうつりこむ自分の姿がゆらゆらと歪んでいる。笑顔は強張っていた。

 伯爵家のお金を使われていない事を喜ぶべき、なのだろうか。


 マナンは顔を顰めて、ほんのわずかにうつむき、アミールの呟きに返事をしなかった。

 もうここは新居だ。馬車で二人きりではない。人払いをすませたとはいえ、迂闊にこの屋敷の主人であるロゼックへの文句や嫌味を言うことは、侍女という身分もあり控えるべきと判断していた。


「すっかり太陽も落ちてきたわね。ロゼック……旦那様がご帰宅される前にもう少しだけ整理したいわ。手伝ってくれる?」

「はい、奥様」


 子ども扱いと女遊び以外においてはロゼックは良い人なのだ。

 新居も、アミールが感動してしまう程に配慮と思いやりに溢れていた。感謝しかない。文句は言ってはいけない。ロゼックこそ何も言わないだけで必ず不満はあるはずだ。

 彼は初婚になるにも関わらず、アミールとの結婚を望んでくれたのだ。女性皆に平等に優しいという噂は間違いなく事実だ。本当に心が広い人なのだと、実感してしまう。


 たとえロゼックにとって、自分と家柄の価値を上げるためだけの結婚なのだとしても。






「――え?」


 すっかり夜も遅くなった時間。

 音をたてないようにする配慮か、控えめに開かれた玄関扉の外から屋敷の中へと足を踏み入れたロゼックの驚愕の表情が、アミールの視界に広がった。


「お帰りなさい、旦那様」

「旦那様? あ――……え? 本物?」

「本物、って。どういう意味かしら?」

「急な任務で帰宅がかなり遅くなるから寝ていて欲しいと早馬を出した筈だ。なんで一人でここに? マナン達はどうした」

「皆休んでいるわ。私が勝手に旦那様を待ちたくてしたことです。怒らないであげてね」

「……おいおい」


 こんなにもロゼックが驚いた顔を見たのは初めてだ。

 アミールは思わず微笑み、厚手の羽織を胸の前でかき合わせる。


 ロゼックの口調は早速、王城で第二妃殿下と近衛騎士としての立場で交わしていた口調とは別物になっていた。アミールは全く驚く事もなくすんなりと受け入れた。もともとが子ども扱いなのだから今更驚かない。


 行儀が悪いのは承知の上だが、使用人達が全員自室に戻ったのを確認したアミールは、階段の隅に一つだけランプを置いてその場に座りこみ、本を読みながらロゼックの遅い帰りをのんびりと待っていたのだ。

 ロゼックはまだ困惑しているらしく右手で額を覆いつつ、左手で静かに玄関扉を閉じた。

 その場から動かないでいるロゼックの元へアミールはゆっくりと歩み寄る。アミールの持つたった一つだけのランプの灯りが、薄明るく二人の姿を浮かび上がらせていた。


「夫婦初日ですもの。今日は特別。もうしないわ」

「二度とするな。夏とはいえ夜は冷える。体調を崩したらどうするんだ」


 躊躇いなく片膝を床につけたロゼックは、小さなアミールと視線を合わせると右手を伸ばして彼女の頬に触れた。

 マゼウ殿下以外の男性に一度もされた事が無かった動作。どきりとアミールの心は大きく跳ねた。マゼウ殿下よりも固いごつごつとした皮膚の感触が伝わってくる。

 真剣な真っ直ぐな青い瞳の涼やかな眼差しに、アミールはなんとなく気まずさを感じて目を伏せてしまう。


「どうしてもお礼を言いたくて」

「お礼?」

「このお屋敷の事。旦那様の心遣いがとても嬉しかったわ。ありがとう」

「そんな事のために」

「そんな事、じゃないわ。大変だったでしょう?」


 呆れたようにため息をつくロゼックに、思わずアミールも少々ムキになってしまう。帰宅してから驚いたり怒ったりと忙しなかったロゼックだが、アミールの元気そうな様子にやっと安心したらしく、いつもの優美な笑みを浮かべた。


「大変じゃなかったよ。むしろ楽しかった。きっとアミールは素直に喜ぶと思ったからね」

「……本当に嬉しかったわ。私も何か旦那様にお返しをしたいのだけど、何が良いかが浮かばなくて」


 二妃殿下、ではなく、アミールと呼ばれたのも初めてだ。

 三年間の主従関係の後に夫婦になるというのは本当に違和感があった。ひとつひとつの細やかな変化がアミールにとっては気恥ずかしい。しかしロゼックは相変わらずの調子で、アミールは少しだけ悔しくもなってしまう。


 アミールの「お返し」という言葉に、ロゼックは人の悪い笑みを浮かべた。


「お返しって。考える必要ないだろう?」

「いいえ。ちゃんと考えたいの」

「夫婦初日にこうして待ってくれてただけで十分嬉しいよ?」

「さっき迷惑そうだったわ」

「心配しただけさ。元気なら良いんだ。そうだな、じゃあ追加のお返しも今のうちに貰っておこうか」

「追加?」


 何を――と聞く前に、ロゼックの右手がアミールの小さな後頭部をふわりと包み込む。少しだけ引き寄せられて、ロゼックの顔も近づいてくる。

 唇を塞がれていた。

 アミールにとって、二十歳にして初めての口づけだった。


 目を閉じる事も出来ない。

 重ねられただけで心臓が止まりそうな程に驚いてしまったのに、彼は容赦なかった。ピクリとも動かないアミールの反応を楽しむように、下唇を軽く()んだり啄んでくる。

 やがて唇が離れて、楽しそうな青い瞳と、驚きに見開かれた翡翠色の瞳の視線が絡まり合った。


「……アミール?」

「……」

「あのさ。そんな初心(うぶ)な反応されると、かえって困るんだけど」

「……え? ……あ、えっ、そ、そうね」


 アミール自身は分からなかった。自分の顔も耳も首も、ランプの灯りだけのこの空間でも分かる程に真っ赤になっていたことに。

 ただ、顔が熱くてたまらない。

 胸の中の鼓動が痛いほどに暴れていた。


 そんなアミールの反応は本当に想定外だったらしく、ロゼックまでもが気まずそうに、恥ずかしそうに首の後ろを掻いている。そんな様子を直視する事すらアミールには恥ずかしい。

 数多の女性にこういう事をしている筈なのに、なぜあなたが照れているの、と無意味に文句を言いたくなってしまう。


「あ、今夜どうする?」

「え?」

「なんでそこで首を傾げるかな。初夜って知ってるよね?」

「……!?」

「明日しようと思ってたけど、やっぱり今日――」

「今日は寝ます! ロゼックも! 明日も早いんでしょう?」

「声が大きいよ」

「! ご、ごめ――…っ」


 右手を掴まれて、もう一度不意打ちに口づけられてしまう。すぐに離れていくロゼックの微笑を、アミールは呆けながら見つめていた。


「うん。今日は休もう。満足」

「……」

「仮病と逃げるのは許さないからな?」


 暗闇の中なのにも関わらず、相変わらずのきらきらとした微笑みで。

 数多の女性を誘惑して落としてきたその微笑みで、さらりと言ってのけるロゼックの事を、アミールは少しだけ怖いと思ってしまった。

 三年間で知った筈のロゼック・トノイという男が、まるで別人に見えた。

 


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