14 愛しい人
嫁いで以来の大寝坊をしてしまった事実に気がついてしまったアミールは、カーテンを開けて高い位置にある太陽を窓越しに見上げて唖然とした。
いつも通りにロゼックの姿は見当たらない。
屋敷内の使用人達も通常通りに過ごしているのだろう。庭にいる使用人の話し声、屋敷内を歩き回る人の足音が聞こえてくる。
一人寝室に残されたアミールは気がすむまでぐっすりと眠ってしまっていたらしい。最近、浅い眠りばかりを繰り返していたのに。こんなにもシャンとした目覚めは久しぶりだった。
「っ……!」
急いでベッドから降りようとしたが、初夜の時以来に久々に感じた身体の鈍い痛みに、アミールは思わず動きを止めてしまった。
一糸纏わぬ姿ではなく肌着も夜着もきちんと身につけている。自分で着た覚えはなく、いつ眠ってしまったかも記憶の定かでは無い。動けなくなってしまったアミールをロゼックが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたのは明白だ。
昨夜の会話と出来事を思い出し、あまりの羞恥にたまらず両手で顔を覆って項垂れそうになった時、ノックも無く突然扉が開いた事に驚いたアミールの肩はビクリと大きく跳ね上がった。
白いシャツに黒いズボンという清潔だが簡素な装い。
片手に持っている銀盆の上には紅茶の入っているのであろうティーポットと二つのカップ、皿の上には小さなパンが二つとジャムがのっていた。
「あれ、起きてたんだ? まだ寝てて良かったのに」
さっぱりとした、眩しい程に美しくて明るい、それでいて優しさと甘やかさが溢れている微笑を久々に向けられて、アミールはついに赤面した。
夫婦となってからもう何度も身体を重ねているのに。どうして今更、と、自分自身が酷く困惑するほど気恥ずかしくて、すっかり慌ててしまったアミールは不自然にロゼックから顔をそむけてしまった。
可笑しそうに笑うロゼックの声が聞こえてきて、アミールはますます肩を縮めてしまう。
「本当に、昨日からどうしたんだ?」
「どう、って」
「信じられない程に可愛さに磨きがかかってるけど」
「っ……!?」
「身体は平気か? 全然手加減出来なくてさ、いつもより――」
「大丈夫です!」
アミールは思い出せなかった。こんな風に言われるのは日常茶飯事だったのに。あっさりと聞き流していた自分は一体、どこに行ってしまったのだろう。いちいち真に受けている今が信じられない。
サイドテーブルに銀盆を置いたロゼックがベッド脇に座り込む。
ベッドを降りようとして、同じようにベッドの端で身体を小さくして座り込んでいるアミールを片手で難なく抱き寄せた。
「おはよう、アミール」
そっと重ねるだけの優しい口づけに、大暴れしていたアミールの鼓動は少しだけやわらいだ。
「おはようございます……」
「朝食は少しだけもらってきたんだ。もっと食べたい?」
「いいえ。充分よ。……あっ」
「うん?」
突然狼狽えて声を上げたアミールを、ロゼックは不思議そうに見下ろしていた。
「お仕事は? 今日もお仕事の筈では」
「あー、平気。親切でお優しい殿下が休日を下さったんだ。しかも結婚して初めての三連休。人使いの荒い酷い主人だよな、俺達は新婚なのにさ」
親切でお優しい殿下、という言葉には明らかに棘があり、ロゼックの微笑はアミールに向いているはずなのにどこか遠くを見ている様子もある。
一瞬感じた剣呑な空気にアミールは肩をすくめかけたが、結婚して夫婦となって初めて、ロゼックの口からはっきりと『殿下』という言葉を聞いた驚きの方が大きかった。
ロゼックはアミールとマゼウ殿下の話は決してしようとはしなかった。
アミールも敏感にその事を察していたからこそ、決して話題にはしなかった。ロゼックから仕事の予定を確認する時ですらも、殿下という言葉は絶対に出てこなかったのに。
「三連休、ですか?」
「そう。……あのさ。もうとっくに殿下から直接全ての事を知らされているんだよな? ミンスティン侯爵夫人の件と俺の任務の事とか。とにかく全部」
アミールがゆっくりと、しかし大きく一度頷くと、ロゼックは少しだけ眉を下げて困ったような悲しげなような、複雑そうな微笑を浮かべた。
「俺も聞いたよ。アミールと殿下の事情も。全然気付かなかった。フリだとしても、二人とも仲良し夫婦を演じるのが上手すぎるよ」
「……お怒りですか?」
「まさか。でも本当に驚いたんだ。それと、アミールに全然優しく出来無かった事を後悔して、反省していた」
アミールは驚いて、大きく顔を左右に振ってしまった。
「旦那様はずっと優しかったわ」
「うん。アミールの言う優しいと、俺が後悔している優しいの部分は全然違う事は分かってるよ」
戸惑う表情を見せるアミールに、ロゼックはおかしそうに笑って、もう一度唇を重ねてくる。音をたてて軽く下唇を食まれて、アミールはほんの小さく吐息を漏らしてしまった。
「……こういう事。反応がやけに初心で、俺もさすがに最初はちょっと驚いたんだ。でもまさか全部が初めてだとは思ってなかったから。それどころか殿下にずっと嫉妬してたし、優しくする余裕も無かった。初めての時、怖かっただろう? 知らなかったとはいえ自分勝手に事を進めた自覚がある。だから後悔して、反省してる。ごめん」
ごめん、という言葉がとても真剣味を帯びている。ロゼックの中でいかに大きな後悔として心に残ってしまっているかを思い知り、アミールの胸に動揺と悲しみが広がった。
「後悔なさらないで。優しかったわ。怖かったのは事実だけれど安心して身を委ねる事が出来ました。後悔として記憶に残されるのは、とても悲しいわ」
「……アミール」
「はい」
「もう一回今からどう?」
「!? だ、旦那様! 私は真剣に!」
頬を真っ赤に染めて怒ったアミールがそっぽを向き、離れようとしたが、嬉しそうに笑うロゼックがもう一度両腕を伸ばして抱き寄せる方が早かった。しっかりと強く抱きしめられてしまうと、どうしてもこの温もりから離れがたくなってしまい、悔しくなってしまう。
「感謝してるよ。殿下とアミールの二人に。二人が最初から離縁を決断してくれていたから、俺はこうしてアミールと結婚出来て夫婦になれた。本来の立場なら確実に無理な話だったんだ。一介の騎士が異国の王女と結婚なんて出来る訳がないんだし。……二人には今も特別な強い絆があるって事も分かった。その事に今も嫉妬してる自分の狭量さに自分で呆れてるけどね」
「……旦那様……」
「でも、冷静でいられるよ。アミールの味方に殿下がついているのは安心出来る」
言いながら、ロゼックは片手を伸ばして、腕の中で所在なさげに下げられたままだったアミールの右手を優しくて握りしめた。
「今まで沢山の女性達に軟派男として接していたことも、休日のたびに夫人に会いに行く事を否定せずにアミールを一人きりにした事も、申し訳なく思っていた。でも、常に感謝していたよ。感謝しかなかった。任務は任務だ。今までの俺の行いについてアミールに言える事は、ありがとう。それだけなんだ」
だから、ごめん、は言えないと。
むしろその言葉はロゼックは言いたくないのだと、アミールは思った。
軟派男として行動しながら夫人との逢瀬を繰り返していた理由は、それが任務だからだ。謝罪の言葉を述べてしまったら、まるで自分から積極的に軟派を行って、会いたくて夫人に会っていたと認めてしまうような誤解を与える印象がある。それを避けたいのだろう。
「……写真の事なんだけどさ」
慎重な様子で言われて、アミールは無意識に握られている右手をぴくりと震わせた。あの写真を思い出すだけで胸がズキズキと痛む。あの口づけはロゼックにとっては何の意味ももたない任務としてのものだと、分かっていても。
顔をあげる事が出来ずに唇を噛み締め、抱き締められたままロゼックの胸元に強く額を押し付けると、ロゼックの小さな溜息が聞こえてきた。
「俺は本当に馬鹿だった。写真を撮られてるのは気付いてて放置したんだ。だからアミールの目に触れる事になった。撮られた時点で夫人に追求していれば、こんな事にはならなかったのに。ごめん」
「……怒っていないわ。それが仕事なのでしたら、まったく怒る理由はないもの」
「けどさ、アミール」
そっと肩を掴まれて、身体を少しだけ離される。ロゼックの不安そうな青い瞳に、アミールの泣きそうな顔がうつりこむ。
「あの写真を見て、アミールは傷付いたんだろう?」
「……」
「俺はさ、写真を見られたところで、アミールは俺を嫌悪したり軽蔑したとしても傷付く事は無いって本気で思ってた。愛されていないし、愛されることもないって思ってたから」
「傷付きました」
はっきりと言った瞬間、込み上げていた涙が、両目からぼろぼろと溢れ落ちていた。
「初めてあの写真を見た時、やっぱり私は旦那様にとっては特別でもなんでもない存在で、本当に愛されてはいないのだと。とても傷付きましたし、悲しくて……」
声は震えて、ついにアミールはうつむいてしまった。
「私が愛しているのは、ロゼックです」
両手で涙を拭おうとしたが、ロゼックの片手であっさりと両手首を掴まれてしまい、そのまま片腕でもう一度抱き締められていた。
「ごめん」
ロゼックの唇が首筋に触れている。声は酷く落ち込んでいた。
ぼろぼろと涙がとまらない。アミールも両腕を伸ばしてロゼックの背中にまわして、強く抱き締め返していた。
「……愛してるよ。俺にとっての唯一で最愛の人。もう何度も言ってるし、軽く聞こえるんだろうけど。でも、いつも本気だ。もちろん今も」
「旦那様は、いつもそのように言って下さっていたわ。それなのに、私は。本音ではないからと決めつけて聞き流して、きちんと受け止めませんでした。旦那様を知ろうとせずに、ずっと傷付けてしまっていて。愛していますと、自分自身が傷付くことばかりを恐れて、伝える事すらしていなかったわ。本当にごめんなさい」
「アミール」
ロゼックの唇が目尻に触れる。こぼれ落ちる涙がロゼックの唇に溶けて消えていた。
「殿下との約束と、アミールの立場とかさ。色んな事情があったって事は前から分かっていたし、真実を知らされた今はもっと理解してるつもりだから。だからそんな風に泣いて謝らないでくれ。結婚して夫婦になれて、側にいる事が出来て幸せなんだ」
ロゼックは困ったように笑いながら、アミールの頬に片手を伸ばして顔を上向かせた。
「泣かれるのは辛いし困るんだけど、泣き顔すら凄く可愛いってどういう事?」
「!」
すっかり普段の調子で言うロゼックに、アミールの頬だけではなく耳まで真っ赤に染まってしまった。
何か言わなければと、はくはくと唇を上下させたが、言葉が出てくる前にロゼックの唇で塞がれていた。優しく、慈しむように啄まれて、乱れていた胸の鼓動が不思議と落ち着いてくる。
それなのに少しだけ苦しい。
ロゼックの唇が離れて、最初に口を開いたのはアミールだった。
「旦那様」
「ん?」
「……三連休のご予定は?」
休日の予定を聞くのに、こんなにも緊張したのは初めてだった。もしかして今この現実が夢なのでは、と。ほんの少しだけ不安になってしまう。
「もちろんアミールと過ごすよ」
ロゼックは笑顔を浮かべて、しかしハッキリと断言した。
……夢じゃなかった。
しばし呆けていたアミールも、嬉しさのあまり思わず微笑んで「そう」と言うのが精一杯だったが、途端にロゼックは目を見開いた。
「なに、今の顔」
「顔?」
「ズルいな。もう本気で我慢するって決めたのに。やっぱり駄目だ」
妖しい光を瞳に宿したロゼックの顔が急に近づいてきて、昨夜から既に数えきれないほど繰り返す口づけを求められる。噛みつくように触れあう唇に意識を奪われてしまった。後頭部を包み込むようにロゼックの手がまわされて、気づいた時には身体はベッドへと沈められていく。もう片方のロゼックの手が、アミールの薄い夜着の胸元の紐をするりとほどいてしまっている。
火によるぼやけた灯りの中ではなく、太陽の光が燦々と射し込む明かりの室内。
まさか。また。今から?
アミールは酷く狼狽えながらも抗えない。幸せに溶けてしまいそうになってしまう。それでも消えない羞恥心と葛藤しながら口づけに応えていた。
「嬉しいよ」
互いの上唇が触れあったまま、ロゼックは囁くように言う。嬉しい、と言う彼の笑顔は幸せそうだった。
「アミールのさっきの笑顔。安心しきってて、やわらかい笑顔だった。俺が今までアミールに対して心配した時にしか見れなかった貴重なやつ。いつも思うけど、すっごく綺麗で魅力的だ」
「……そういえば」
思い出したのは、ロゼックがミンスティン侯爵夫人を捕縛するために出掛けてしまった前日の夜の時だ。
大きなくしゃみをして身体を震わせたあの日。
過保護な程に心配する言動を見せるロゼックの姿に思わず笑ってしまった時。彼はとても不満そうな表情を浮かべていた。納得いかない、悔しい、と言いながらも、仕方ない気もするからと言って結局笑っていたロゼックの姿が強く印象に残っていた。
あの時、何を言われているのかさっぱり分からなかったけれど。
やっと全てを理解したアミールは、やはり恥ずかしさには敵わずに視線をロゼックからそらしてしまったが覚悟を決めて口を開いた。
もう、しなくても良い誤解やすれ違いはしたくない。
「今までは……旦那様が私に対して心配されているその瞬間だけが、間違いなく私だけを見て下さっていると、そう思えていたの。多分、とても嬉しかったんです。だから、旦那様の言う貴重な表情というものを無意識にしてしまっていたのかもしれません」
「……アミール」
「でも、今はもう違うわ。旦那様が明るく笑ってくださって、私の事も、私と共に過ごす時間も心から求めて愛おしんで下さっていると分かって、安心し……――っ」
唇を重ねて混じり合う吐息の熱を感じながら、握りあう手に力がこもる。
ふわりとした優雅な、けれど少しだけ渋い紅茶の香りをほんの一瞬だけ感じた後、アミールはそのままもう一度ロゼックに身を委ねた。