13 ぬくもり
◇
空を見上げると厚い灰色の雲が広がっていた。
吐く息は白い。
冬という季節、祖国のナノリルカ国よりは暖かい気候の筈なのだが、身体はすっかり帝国仕様に馴染んでしまったらしく、なかなかに厳しい寒さに感じてしまう。アミールはストールと手袋でしっかりと肌を覆い、普段着として愛用しているデイドレスの上に足下まで覆い隠す上着を羽織り、王都の街中を歩いていた。
もうすぐ陽が暮れようとしている。
マナンを伴って二人で歩いているアミールの右腕には籠が下げられていた。籠の中に入っているのは屋敷の使用人達への労いに購入した焼き菓子の詰め合わせと、趣味で取り組んでいる編み物に使用するための毛糸玉だ。
普段は何かと用事が入り、貴族社会での交流以外の目的で外出する事は滅多に無い。しかし月に二回程、マナンと共に屋敷の一番近くにある商店街で自由に買い物をしている。買い物と言っても必ず買う物は使用人達へのささやかなお菓子や紅茶で、それだけを購入して終わる時も多い。他に買ったとしても本か文具や必要な物だけで、今日のように趣味のための買い物をしたのは久しぶりだった。
十分に楽しい時間を過ごす事が出来た。
それなのに、心は晴れやかな気持ちとは言えなかった。
「奥様っ」
マナンに袖口を引かれ、ぼうっと上を向いていたアミールは慌てて前を向き直して咄嗟に足を止めた。
衣装店の前を歩いていたが、ちょうどお客が扉を開けて退店するところだったのだ。あやうく扉に激突しそうだったという状況に今更気付き、アミールの胸ははらはらと鳴った。
「あり、がとう、マナン」
「いいえ……」
振り返ると、マナンは心配そうな表情を浮かべていた。何か言いたそうなのに、何を言えば良いのか分からないといった様子で。この十日間、マナンがアミールを見つめる瞳はいつも気遣いと悲しみに染まっている。そのような表情をして欲しくは無いのに。
アミールは視線を彼女の右腕にも下げられている籠に向けた。中身は使用人仲間に頼まれているお使い物で、普段よりも多くの物を頼まれてしまったらしく重そうにしている。
「マナン、少し持つわ」
「はい?」
「籠の中身よ。だいぶ重そうね」
「いいえ、そのような……奥様!」
全力で拒否される事は分かっている。マナンの拒否を無視して、言葉の通りほんの少しの布やレースの入った紙袋を取って自分の籠へとしまった。
「ほら、少しだから。そんな風に恐縮しないで。さぁ、帰りましょう」
「……ありがとうございます」
アミールが朗らかに微笑んで帰宅を促し歩き始めると、マナンも曖昧な微笑を浮かべて後を追うように小走りした。
*
マゼウ殿下から全ての事実を打ち明けられて十日が経った。
ロゼックとは王城で眠っている時に顔を見たあの時以降一度も会えてはいない。夫人の件の後処理に忙しい状況であろう事は想像がついている。さらに、元々予定として聞かされていた視察護衛の任務も重なり帰宅出来ない状況になっていたのだ。
しかしその間に二度、ロゼック本人から早馬で連絡があった。
一度目は、王城で顔を見た三日後。
――しばらく帰れそうにない。帰宅出来る目処がついたらまた連絡する。最後に顔を見た時は顔を赤くしてくしゃみをしていたけど、体調を崩していない事を祈っているよ。
二度目は今朝だ。
――今夜か、遅くても明日の昼頃に帰宅する。早く会いたい。
湯浴みを終えたアミールは文机の前に立ち、今朝届いたばかりの便箋を右手に取っていた。左手をそっと持ち上げて、人差し指で文字をなぞる。早く会いたいという一文を読み返す度に、アミールの胸は強く握り潰されてしまうような苦しさを覚えた。
マゼウ殿下は言っていた。
帰宅させる前にロゼックにも全ての真実を話しておくと。
同衾していたのは事実だが、その内情は口づけすらした事の無い関係であり離縁前提の夫婦関係だったと知った時。離縁そのものの理由を知った時。ロゼックはどれ程驚いた事か。全てを知った上でこの文章を綴っていた時、一体どのような心境だったのだろう。
マゼウ殿下によって語られて初めて知った、ロゼックの抱えていた任務や苦悩、本当の想い。
自分はいかにロゼックという人柄を真剣に知ろうとせず、勝手にその人柄を決めつけて失礼な態度で接し続けていのか。申し訳なさと後悔ばかりが胸に広がっていく。
マゼウ殿下と結婚していた時は、すべての人に夫婦仲を疑われないように協力して演じていた。愛し合う夫婦を。結果として成功し、常にそばで仕えてくれていた侍女のマナンと専任のロゼックの二人にも夫婦仲を疑われる事は無かった。
しかし、だからこそロゼックをとても苦しませてしまっていた。
アミールがロゼックを愛する事はない、と、そのように思い至ってしまう程に。
屋敷内はシンと静まりかえっていた。
アミールはベッドに入らず、火を焚いている暖炉の前の椅子に座って編み物をしていた。今日買ったばかりの紺色の毛糸玉の糸を使って。
ロゼックからの手紙では今夜か明日の昼頃の間に帰ってくると書かれていたのだ。十日ぶりの再会にそわそわと心が落ち着かずとても眠れそうにない。
夫婦初日のあの日のように、深夜に帰宅する可能性もある。
そのわずかな可能性も考えると眠気はまったくやって来そうに無かった。
ロゼックは、帰宅があまりにも遅くなる時の使用人達による出迎えを禁止にしてしまっている。翌日の業務に支障をきたすのを避けるため、と言ってはいたが、実際はいつ帰るかも分からない主人のために睡眠時間を削ってほしくはないという思いがあるからだという事をアミールは知っている。
もしも今帰宅したとしても、使用人達は既に眠ってしまっており誰もロゼックを迎える人はいない。それならばロゼックの遅い帰りを迎えるのは自分がしたいと、常々思っていた。
妻としての役目――そんな理由だった筈なのに。
「……」
顔を上げて、ぱちぱちと小さな音をたてて不安定に揺れる暖炉の火を見つめる。
真実を全て知ったあの日以来、ずっと苦しい。ロゼックの事を考えるだけで胸が痛くて呼吸が乱れてしまいそうになる。
身が焦がれる程の想い――そんな感情を、再婚した夫であるロゼックに対して抱いている。まさかそんな日が来るとは、夫婦初日には思ってもいなかった。
余裕に溢れた美しい微笑を浮かべて、胸焼けしそうな甘い言葉を囁きながら、自身の中でどれほどの苦悩と痛みを抱えていたのか。どんな想いでアミールとの夫婦生活を過ごしていたのか。
本当に今、あなたは幸せ?
答えの出ない考え事で頭がいっぱいになりそうになり、アミールは一度手に持っていた二本の編み棒を籠にしまいこむ。頭をすっきりさせようと思い、水差しを取ろうと立ち上がった時だった。
「……旦那様?」
階下の玄関から聞こえる小さな音。
ゆっくりと開かれた時に鳴る独特の扉の音には聞き覚えがあった。間違いない。アミールは急いで暖炉のそばにあったランプの中に火を灯すと、そのまま寝室から飛び出していた。
寝室から出た途端、ちくりと刺すような冷気が頬を撫でる。
それでもアミールの意識はロゼックでいっぱいで、全く寒さを感じなかった。足音をたてて使用人達を起こさないように、という意識だけがかろうじて働き、大きな物音をたてないように小走りで階段へと向かっていが、アミールはハッと瞳を見開いて足を止めた。
急いだ様子で階段を上りきった人がこちらを向いて、同じように立ち止まっている。
冬正装の近衛騎士姿のロゼックだった。
暗い中でもハッキリと分かる、澄んだ春空のような青い瞳をめいっぱい見開いたロゼックは驚きを露わにしていた。
「アミール?」
名を呼ばれただけで、アミールの鼓動が大きく跳ねた。
返事も出来ず、お帰りなさいすらも言えずに立ち尽くしていたアミールの元へとロゼックが駆け寄ってくる。驚きの表情は消えていて、怖い表情を浮かべていた。
瞬時にランプを取り上げられたかと思えばしっかりと右手を握られる。すっかり冷え切っているロゼックの左手のあまりの冷たさにアミールが驚く間もなく、半ば強引に彼は歩き出していた。
「だ、旦那様っ?」
「そんな薄着でどうして寝室から出たんだ。見てて寒すぎるって」
「つい先程まで、ちゃんと寝室の暖炉の側にいたわ。身体はまったく寒くないの。旦那様の方が冷たいわ」
もつれそうになる足を必死な思いで動かしながら言い終えた時には、ロゼックは寝室の扉を開けていた。
ふわりと暖かい空気を受けてアミールはほんの少しだけ瞳を細める。急いた様子で寝室へ共に入室し、ロゼックはランプを置くと扉を閉めた。
ぱち、と暖炉の火の音がやけに大きく聞こえる。
手は握られたままだ。
アミールがそっとロゼックを見上げると、彼はもう片方の手でドアノブを掴み、その手をジッと睨むように見つめたままアミールの顔を見ようとはしなかった。
何かを考えているのか、ただただ複雑なのか、気まずいのか、悲しいのか、怒っているのか。
分からない。
視線がまったく合わない事にアミールは悲しくなり、思わず握られている右手を強く力を込めて握り返していた。
「……旦那様、お帰りなさい」
「……」
「本当でしたら湯浴みをしていただければ良かったのですけど、もうお湯は片付けてもらってしまったの。明日朝一番にラン達にお願いしますから、今日はもうそのままお休みになられてください」
「……」
「……旦那様……」
何も返事がなく、一方的にアミールが話す事になったのは初めての事態だ。ロゼックは手を握って、もう片方の手でドアノブを掴み睨んだまま微動だにしない。
どうしよう。どうすれば。何から話せば……
アミールがついにうつむきかけた時、突然ロゼックはアミールと向かい合うように身体を動かして床に片膝をついた。やっと目が合って安堵しかけたその瞬間、ロゼックの両腕がアミールの身体を包み込むように伸びてきて、力強く抱き寄せられていた。
「会いたかった。とても」
「……私も」
「体調は? 風邪はひいていないか?」
「ええ。ずっと元気よ」
「そっか。心配だったんだ」
強張っていたロゼックの声が柔らかくなり、普段と変わらない砕けた調子になっていた。抱きしめられる両腕にさらに力が込められたらしく、いっそう二人の身体は密着した。
戸惑うほどに様々な真実を知っても尚、一番に体調を気遣ってくれるロゼックの優しさと愛情に、アミールの胸は震えていた。
「旦那様……!」
急に抱きしめられて動けずにいたアミールだが、考えるよりも先に動いていた。強引に両腕を伸ばしてロゼックの首に巻き付ける。今だって強く抱き寄せられているのに、アミールはもっとロゼックの温もりを感じたくて、縋るように自分から抱きついてしまっていた。
「アミール? どうした?」
「……」
「いつも君は可愛いけどさ。今日は普段の比じゃない程に可愛くて綺麗だし、そんな風に抱きつかれた事なかったから感動してるんだけど」
「……っ」
「……あー、無理だ」
「え? あっ!」
いとも容易く抱き上げられていた。
戸惑う間もなく連れて行かれたのはベッドの上。
おろされたと同時に荒々しく上着を床に放り投げるロゼックの事を呆気にとられて見つめていたら、優しく肩を押されていた。
横たわったアミールのわずかに開いた唇にロゼックの唇が重ねられる。
容赦ない深い口づけに、ぼんやりしていたアミールも必死な思いで応えていた。頭の奥が痺れてくる。
話したい事も謝りたい事も、聞きたい事も沢山あった。
けれどその言葉が、深く長い口づけを繰り返す度に消えていってしまう。ロゼックに強く求められている。紛れもないその現実が目の前にある。それだけでもう何もかもが十分に思えてしまう。うやむやにしては駄目、と、分かっているのに。
「……アミール」
唇が離れて名を呼ぶロゼックの真剣な、不安そうな眼差しに、アミールはわずかに瞳を大きくさせた。
「ごめん。優しくしたいし、ちゃんと話さないといけない事も分かってるんだけどさ。でも今はちょっと、余裕ない」
「……旦那様?」
「嫌だったらちゃんと言ってくれよ。すぐに客間に行ってそこで寝るから。じゃないと、了承ととってこのまま続けるけど」
こんなにも切羽詰まった様子で、本当に余裕のない様子のロゼックを見たのは初めてだった。ロゼックの指が微かに震えていて、アミールの唇をなぞるように触れる。早く返事を、と渇望されているみたいに。
拒絶しないでくれ、と言っているみたいに。
不安そうなのに、それ以外の、のぼせてしまいそうな程の熱を感じる。
アミールは返事にまったく悩まなかった。
そっと両手を持ち上げて、ロゼックの顔を包み込む。
「愛する人と触れ合う時間は、とても幸せなものだと。教えてくれたのは旦那様。……ロゼックよ」
互いの想いを確かめ合うように。
そうしていく内に、それだけでは足りなくなって、やがて沈んでしまいそうな程に深く激しくなっていく。
好き、愛している――その言葉を伝えたいと思っていたのに。今はどうしても出てこなかった。
触れ合う肌の温もりがあまりにも熱く、優しくて。
アミールは恥じらいも迷いも捨ててロゼックを求めて、ロゼックも同じようにアミールを抱いたまま、いつまでも離そうとはしなかった。