12 同志の華(3)
下賜先をロゼックに決めた事を告げると、案の定アミールは酷く動揺し困惑した。
しかし最終的にはこの再婚を受け入れ、マゼウと離縁し王城を去っていった。アミールは去る時も笑顔を浮かべていたが、とても不安な心持ちで再婚させてしまった事に対する申し訳なさがつのってしまう。
アミールには一人の女性として大切に愛されてほしい。
ロゼックならば生涯彼女の事を大切にする。アミールも聡い人だ。今はまだロゼックに対する不信感と失望しかなくても、いずれきっと彼がどれほどアミールの事を愛しているかも気付くはずだ――と。
マゼウは祈るような想いで願っていた。
ロゼックは今もミンスティン侯爵夫人への任務を遂行している最中で、明らかな進展を見せている。結婚と任務が被ってしまっている事がマゼウにとっては唯一の懸念だ。
この任務は極秘。妻となったとはいえアミールに話す事も許していない。休日の度に休まずに出仕する――アミールからしたら遊び呆けるロゼックに対して、ますます不信感をつのらせるのは目に見えている。
前途多難な状態で結婚生活を始める事になってしまった二人の事を案じつつ、しかしこんな現状を作り上げてしまった原因は全てマゼウの都合である紛れもない現実に、内心は頭を抱えるばかりだった。
「先程マナンと会いました。二妃殿下……じゃないですね。トノイ夫人はお元気ですか?」
マゼウに尋ねたのは専任近衛騎士のイロスだ。
三十二歳の彼はマゼウの専任となって早十年。丸眼鏡をかけてゆったりとした口調で話す彼の容貌はとても平凡な優男で、一見すると騎士というよりも文官の人間だ。しかし当然の如く剣や体術にも優れている彼は、専任三人の中では一番に諜報向きの騎士で、ミンスティン侯爵の件以外にも様々な諜報任務を担っている。
「元気そうだよ。屋敷の使用人ともすぐに打ち解けて、社交界も楽しそうに参加していたらしい」
「さすがです。再婚してもう四ヶ月ですしね。ロゼックとの関係は」
「良好らしい。二人は誰の目から見ても仲睦まじい夫婦そのものだと」
「殿下の二妃だった時と全く同じ評判なのですね」
もう四ヶ月。しかしまだ四ヶ月。
マナンの報告を聞いて思うのだ。
アミールは一人で様々な事に折り合いをつけて自分だけで抱え込み、周囲を気遣い、事を荒立てないように細心の注意を払っている。ロゼックはそんなアミールの性格をよく知っている。自身の立場や任務の都合もあり全ての事情を説明する訳にはいかず、だからといって愛するアミールに嘘もつきたくはないのであろう彼は、アミールに対して女遊びを許容するように仕向けたのではと。
二人は互いに対する本当の想いを隠し通したまま、表面上は仲良く取り繕っているのではないのだろうか。
マゼウが腕を組んで宙を睨んでいると、ははは、とおかしそうに肩を揺らして笑うイロスの声が聞こえた。
「気になるのならばロゼック本人に聞いてみればよろしいのでは? トノイ夫人の事が心配なのでしょう? 教えろと命令したら彼も逆らいませんよ」
「もう離縁したんだ。アミールの事についてはマナンからの報告以外では詮索したくないんだよ」
「苦労しますね。それにしてもロゼックも相変わらずの様子なのですね。トノイ夫人との会話において絶対に殿下の事は話題にしていないのは」
「マナンからの今回の報告にもあった。アミール本人が言っていたらしいから間違いない。夫婦の会話で、暗黙の了解で元夫である私の話題は禁止扱いらしいから。……当然だとも思うけど」
「当然、ですか。独身の私にはよく分かりませんが。複雑なのですね、トノイ夫人もロゼックも、殿下も」
楽しそうに話すイロスは完全に他人事で面白がっている。
マゼウは一度息をはき、目の前の公務にもう一度集中した。
イロスには言っていない事がもう一つだけある。
今日のマナンからの報告で初めて出た言葉があった。
『奥様はおそらく……旦那様の事を心から愛しておられるのではないか、と。最近、そう感じるのです』
『なぜそう思えたんだい?』
思わず身を乗り出してマゼウが尋ねると、マナンは悔しげな様子でうつむいた。マナンはロゼックを嫌っている。敬愛しているアミールがロゼックを愛している事に複雑な心境なのだろう。
『旦那様の事をお話になる時の奥様の表情がとてもお優しく、お綺麗なのです。ここ最近は特にです。……ささやかな変化なのですが』
『いいや。そんな事はない。毎日アミールの側で仕えているマナンがそのように感じるのならば。恐らく、そうなのだろうね』
報告を聞いたマゼウは喜ばしい思いを抱いていた。
しかしやはりロゼックの進行中である任務を思い出すと、その喜びもあっけなく消えてしまう。
今の任務を終わらせたら、ロゼックにはもう二度と女性相手の色仕掛けの任務は命じないと伝えるつもりだ。彼は間違いなく軟派男を演じる事をすっぱりとやめ、アミールを一途に愛する夫に早変わりするのは目に見えている。
そんなロゼックの態度の変化をアミールはどのように思うのだろう。
喜びと一抹の不安を抱えながらも、ミンスティン侯爵夫妻についての調査は着実に前進していた。
終わりは間違いなくすぐ目の前にまで近づいている。
「写真か……」
報告を聞いたマゼウはポツリと呟いた。
正面に立つロゼックは憮然とした様子で苦々しげに美麗な青い瞳を細めている。持ち帰ってきた報告は、よりにもよって夫人と口づけしているところを写真に撮られてしまったというものだ。
「気にはなるね。けど現像するとしても時間がかかるから。任務に支障をきたす前に本人から薬物を手に入れる事が出来たら良いけど」
「三週間後に、夫人から直接薬物を貰う約束を取り付ける事には成功しました」
「そうなのかい? ちゃんと良い報告もあったんだね。写真に関してだけど、カメラを所持している人物は限られる。恐らく撮ったのは夫人の関係者だろうね。だとしてもその写真は公にする事はしないだろう。ロゼックもそう判断して一切追求せずに知らぬフリをしたのだろう?」
「はい。夫人は私に本気になっている様子ですが侯爵夫人という立場と暮らしは死守したい様子も見られます。今は、ですが。今後はどうだか。……身勝手な人だ」
最後の言葉を囁くように言ったロゼックは無感情な微笑を浮かべて目を伏せていた。まるで自分の事を言っているかのように。
少々の沈黙の後、マゼウは意を決して口を開いた。
「もしもアミールの目に入ったらどう説明するつもりだい?」
ロゼックは伏せていた目を持ち上げてマゼウを見た。離縁してからマゼウがアミールについての話題をロゼックに持ちかけたのは初めてだ。
自分に向けられるロゼックの冷め切った眼差しと微笑から、明らかな嫉妬の感情が隠される事なく滲み出て、嫌な予感を覚えた。
「妻には、女性と関わるのは大事な用事絡みだからと結婚してすぐに言い続けたおかげか最近は何も言われないのですよ。特に心配はしておりません」
「……そうか」
ロゼックは大きな誤解をしている。
淡々と報告をすませたロゼックはその他の業務についての報告もすませると、早々と屋敷へと帰宅していった。帰宅する頃にはいつものあっさりとした態度のロゼックに戻っていて、一瞬だけ向けられた嫉妬の感情は勘違いだったのではと思えてきてしまう。
しかし勘違いではない。
このままでは任務が終わったとしてもロゼックとアミールの二人の想いは重なるどころかすれ違い続けてしまう。
静まりかえった執務室の中で、マゼウは両目を片手で覆って天井へと顔を向けた。思い込みとは恐ろしいものだ。なぜ自分は安心しきっていたのだと、自責と後悔の念がこみ上げてくる。熱心にアミールの事だけを大切に想い見つめ続けているロゼックならば、とっくに気付き分かっているものだと思っていた。
アミールはマゼウの事を男として愛していた事は一度も無い。
しかしロゼックは、アミールは昔から変わらず今もマゼウだけを愛し、自分に対して向けられている感情の中には優しさや思いやりはあっても、特別な感情は無いと思っている。
だから、たとえアミールが写真を目撃してしまっても傷付くことは無いと本気で思い込んでいる。
アミールはマゼウさえ健在でいてくれるのであれば幸福なのだと、ロゼックはそう信じている。だからこそ色仕掛けの任務もその他の任務も昔以上に従順にこなしていたのか。元々ロゼックはマゼウにそれほど忠実ではないが、従順ではあった。最近はますますその態度が顕著になっていたが、やっと理由がハッキリした。
「……このままで良いワケがないね」
姿勢を正したマゼウは一番下の引き出しを開けた。
引き出しの最奥に隠すように置いてあるのは四種類の粉末をそれぞれに入れている小瓶。帝国の国王と王太子、王家直轄の薬師長の三人しか存在を知らず、所持することもない、無味無臭の特別な二種の薬――睡眠薬と毒薬、それ等の抵抗薬。マゼウはその中から強力な睡眠薬とその抵抗薬を手中に握り、引き出しをしめた。
この薬を使う機会はそうそう無い。しかもまさか専任相手に使う事を決断する事になろうとは。
「けど、ロゼック相手じゃ、ね。仕方ない」
ロゼックがアミールの事を唯一の最愛として深く愛し慈しむように、マゼウにとってもアミールは幸せになってほしいと願う唯一の人だ。
これ以上、自分の存在が原因で、二人の仲の溝を大きくする訳にはいかなかった。
*
完全に意識を失って深い眠りについているロゼックを腕の中におさめて、マゼウは深く息を吐いた。
見事なまでに予想通りに事が運んだ。
ロゼックは難なくミンスティン侯爵夫人から証拠となるモノを掴み捕縛を成功させ、さらに同日にトノイ家の屋敷に写真が送られた。ロゼックにとってもアミールにとっても大きな転機となる時が同時にやってきた。
ミンスティン侯爵夫人は己の立場を壊してまでの暴走はしないのでは、とロゼックはそう思っていたが、マゼウはわざと同意の姿勢を見せつつも、そうだろうか? と警戒していた。男女間の愛憎の想いというのは複雑で厄介だ。他人から見たらまさかと思う行動を躊躇無く行う可能性はとても高い。その事実をマゼウに思い知らせたのは紛れもなくロゼックなのに、当の本人である彼が夫人の抱える強愛を軽んじて見ている事に、マゼウは半ば呆れていた。
写真の件も予想通りだ。
捕縛日と同日にトノイ家に送りつけられた事により、やはり写真撮影を仕組んだのは夫人だとマゼウは確信した。
自分達は深く愛し合っているのだという現実をアミールに知らしめたかったのだろう。結果、互いに離縁し駆け落ち同然でロゼックと共に貴族社会から姿を消したかったのか、それとも愛に溺れてしまったが故の短絡的な行動にすぎなかったのか――正直マゼウにとってはどうでも良い。
五年という歳月がかかったが、終わりはとても呆気なく迅速に事が運んだ。
残る問題はアミールとロゼックだ。
マゼウは予め執務室に無味無臭で色もない睡眠薬を焚きしめていた。
一定時間吸い込み続けた者は強制的に深い眠りへと誘われ、二、三日は目を覚まさない。マゼウは事前に抵抗薬を飲み、必ずやって来るであろうと思っていたマナンに対しても抵抗薬を混ぜた紅茶を出して飲用させていた。抵抗薬を摂取していなかったロゼックは、計画通りに深い眠りについてもらった。
「――これは一体、何事ですか」
別件でやって来た――来るようにと事前に命じていた専任のタートフが執務室にやって来る。床に跪くマゼウと、マゼウの腕に支えられて眠っているロゼックを目撃して驚きを露わにしたが、すぐに駆け寄りロゼックの身体を引き受けると、片腕一本で肩に担ぎ上げてしまう。
「ちょっとね。アミールの件で」
「トノイ夫人の? 侯爵夫人の件ではないのですか」
「侯爵夫人はひとまず警邏隊に任せるよ」
怪訝そうに眉を寄せるタートフは唯一アミールとの離縁についての全貌を知っているが、アミールとロゼックの夫婦仲や複雑な関係性までは知っている訳では無い。夫婦円満に過ごしていると思っているタートフにとって、なぜ今更アミールの件でロゼックが明らかにマゼウの手によって眠らされる事態になっているのかが甚だ疑問でしか無いのは仕方のない事だ。
マゼウはタートフに王城裏門のすぐ側にある非常用の仮眠室へ運ぶように命じる。タートフは従順に従い、マゼウも共に歩き始めた。
「タートフ、聞いても?」
「はい。何でしょう」
「奥方の事は愛している?」
え、と、タートフは細い瞳を大きく見開いたかと思えば、珍しく忙しなく瞳を揺らして動揺を見せた。なぜ突然そんな事をという驚きと、少しばかりのぞいた照れた様子を見せるタートフがマゼウにはとても新鮮だった。マゼウは今まで一度もタートフの夫婦仲について聞いた事はおろか、興味すらなかった。しかし急に聞きたくなってしまった事に自分でも不思議に思ってしまう。
「それは……はい」
視線を正面へと戻して耳を真っ赤に染めながら、必死な様子で平常の横顔を見せるタートフに、マゼウは微笑してしまった。彼は妻を愛し、また妻に愛されている男なのだろうなと、そう思う。
今すぐは無理だと分かっている。
それどころかアミールの元夫である自分には生涯無理な願いになるのかもしれない、とすら思う。
しかしいつかロゼックも、マゼウに対して嫉妬ではなく、アミールに深く愛されている夫として堂々と自分と向き合ってほしい。
マゼウは決断した。離縁が国王陛下からの密命である事を除き、それ以外の事情と真実について、自身の口から全てアミールとロゼックに話す決断を。そうしなければ、二人は常に深い傷と悲しみを抱えたままの夫婦であり続けてしまう。
全ての真実を知った上で、アミールとロゼックが互いに思い込んでいた誤解を解き、新たな心で夫婦としての時間を築き上げてほしいと――そう願った。
唯一の同志であるアミールの幸せを願って。