11 同志の華(2)
王城内には庭園が三つある。
その中でも東側庭園は一番の広さを誇り、多種多様な花が咲き乱れていた。春の終わりが近づいているが、今の時期にも美しい花々を楽しむ事が出来る。
マゼウは婚約者のアミール王女と共に庭園にいた。
初めての顔合わせを終えて既に三ヶ月が経過している。結婚式は三ヶ月後だ。まだ夫婦ではない。寝所は当然別だが、アミール王女は既に今月から本格的に住まいを帝国王城へと移している。毎日ではないが今のように時間を作り、二人は交流を深めていた。
交流を持つ度に、マゼウの心は揺らいでいた。
「マゼウ殿下」
背後から名を呼ばれて、ゆっくりと歩みを進めつつも考え事をしながら花を眺めていたマゼウは立ち止まって振り返った。アミール王女が、背丈の低い黄金色の花々を前にしゃがみ込み興味深そうに眺めている。彼女の持つ小さな掌で拳を作った程の大きさの花だ。
「この花は食用花ではないのですか?」
マゼウは目を瞬いた。
残念ながら花に興味がない。人体にとって毒、または薬となる花ならば最低限の知識は備えている。アミール王女の見つめる先にある花を見て頭の中で考えを巡らせるが、何の情報も浮かばなかった。
「その花は冬から春にかけて咲いているのは知っているよ。だが、あくまでも観賞用で、食した事はないね。ナノリルカ国では違うのかい?」
「そうなのですね。祖国では食用花として栽培していた花なので、帝国王城の庭園で咲いているものを見ていてずっと不思議に思っていたのです。食用花と言っても、あくまでも彩りの意味合いが強かったので、味わう訳では無かったのですが」
「そうなんだ」
しゃがみこむアミール王女の隣に、マゼウも両膝を折り曲げてしゃがんだ。
「久々に食べたくなった?」
話の流れでなんとなく聞いただけだが、アミール王女は驚いた様子でマゼウの方へ顔を向けた。そしてすぐに、おかしそうに小さく微笑んだ。美しい大きな丸い瑠璃色の瞳が少しだけ細くなる。
「いいえ。食べたいとは思っていませんでした」
「そうかい?」
つられるようにマゼウも微笑んだ。
可愛らしい娘だ、と素直にそう思う。
アミール王女は気にしている様子だが、彼女の外見に関しては特別驚く事は無かった。あらかじめ詳細な情報と肖像画を見ていたからというのも理由にあるが。
「この花なのですが、ちょっとした思い出があるのです」
アミール王女は自身の立場、マゼウへの遠慮があるのか、自分から積極的に雑談をする事はあまりなかった。まだ結婚前という事もあり余計に気を張っているのだろう。珍しく話しを続けたので、マゼウは興味を示して続きを促すと、彼女はもう一度黄金色の花を見つめた。その思い出とやらの事を考えているのか、やわらかい横顔をしている。
「祖国ではこの花をマルナと呼びます。花言葉というものはご存じですか?」
「様々な花に花言葉がある事は知っているけど詳しくはないんだ。国毎でも少しずつ意味合いが違うらしいね」
「はい。マルナの花言葉が帝国での花言葉と同じか似ているかは分からないのですが」
アミール王女はそっと右手を伸ばして、黄金色の花の花弁を指で優しく撫でた。
「マルナの花言葉は、失望、悲嘆、寂しさ……です。こんなにも明るく綺麗な黄金色の花なのに、花言葉は悲しいもので。二番目の姉が花言葉が大好きな人なので、教えてもらった時、とても驚いてしまったことを思い出したんです。……殿下?」
マゼウは右手を伸ばして、アミール王女の小さな頭を撫でていた。こんな事をしたのは初めてで、彼女は目を丸くしてマゼウを見上げている。
「ナノリルカ国が恋しい?」
「いいえ。まだこちらに住み始めたばかりですよ」
「けど、滅多な事では祖国に帰れない身になってしまったんだよ」
「祖国が平和であれば私は十分幸せです。帝国の方々によって護られたのです。帝国の王太子であられるマゼウ殿下に嫁ぐ事になり、とても幸運な身だと思っております。殿下の第二妃として、帝国の平和と繁栄のために、私もお力になりたいと思っています」
しっかりとした口調で淀みなく告げる彼女の言葉は、恐らく本物なのだろう。
マゼウの胸の中の揺らぎが大きくなる。
つい、返事をする事も忘れて瑠璃色の瞳を見つめ続けながら頭を撫でていると、アミール王女の表情は不安そうに曇っていた。
「殿下」
「うん?」
「……そろそろ手を離して頂いても? 殿下の向こう側に見えるマナンの表情が、少し、怖くなっておりまして」
「ああ、そうか。結婚前だしね。人前でこんな事をしていたら駄目か」
「はい」
苦笑しながら二人は立ち上がる。
暖かい日差しの中で、ゆっくりと庭園内での散歩を再開した。
日に日に近づくアミール王女との距離感は心地良いものになっていた。
アミール王女は冷静で落ち着いた人だ。だからこんなにも自分も冷静に彼女と向き合えているのだろうかと思っていたが、理由はそれだけではない事に気付き始めていた。
兄弟姉妹がいないマゼウにとって同じ王族という立場は両親のみ。しかし母は元伯爵令嬢で父に従順な人ではあったが、国を想う人かと言えばそれは違った。事が穏便に運び、自分の立場が脅かされなければそれで良い、と。国に対する想いや考え方は父とマゼウとは明確な温度差があった。
アミール王女はマゼウと同じだったのだ。
『王族』という身分に生を受けて、何よりも一番に国を想い、平和と繁栄のために力を注ごうとしている。
彼女は祖国の平和を一番に願っているからこそ、今回の結婚を必要なものとして受け止めて帝国にやって来た。帝国の王太子妃となる事実に向き合い、帝国についても学びと理解を深め、人々との親交も積極的に行っている。
全ては『国を想って』だからこそ。
嬉しかったんだ、という事にマゼウは気が付いた。
同時に、孤独だったんだ――と。
アミール王女という人と出会った事でその感情に気付き、マゼウは自分自身の事がまた少し理解出来たような気がした。国のためと割り切ってしまえば怖いものも悩む事も何も無かった。
しかし心は常に小さな穴がぽっかりと開いていたのだ。
帝国の王太子。弱音を吐く事は許されない。自分が弱音を吐いたら人々を不安にさせてしまう。強くあらねば。物心つく頃には自分自身に言い聞かせていた。
まるで呪いのように。
しかし、アミール王女と共に過ごし会話をするだけで、その時だけは驚く程に心は凪いで穏やかになるのだ。彼女とのささやかな会話、国についての事。同じ立場と目線で語り合えて、わかり合える人がいるという事を知り、マゼウはそれだけで孤独や呪いから救われたような心地だった。
心が揺らいでしまうのは、第二妃としての立場を受け入れて誠実に向き合ってくれるアミール王女に対して、離縁前提結婚という無礼極まりない事をしなければならない後ろめたさからだ。
マゼウにとって、アミール王女は間違いなく特別で大切な唯一の女性になるという事は、結婚前にも関わらず確信を持った。
しかしそれは恋愛や夫婦愛といった愛する女性という意味ではない。
あくまでも同じ立場で、『国の平和と繁栄を願う』という同志としてという意味だ。
『……ありがとうございます』
初夜の時。
戸惑った様子ながらも、自分を抱きしめ返してきて小さな声で感謝の言葉を述べるアミール王女に対して、マゼウは心を痛ませた。
悩んだ末、あくまでもアミール王女の幸せのために離縁したいと、半ば強引に押し切ってしまった。
不仲になるように仕向けて離縁へと向かう方法をとるのはどうしても出来なかった。彼女との子どもを望んでいないから離縁したい、と言って、誠実な彼女を傷つける事もしたくなかった。
彼女は帝国を想ってくれているとはいえ、一番に想うのは当然祖国のナノリルカ国だ。マゼウが離縁したいというのならばそれに従うしかない、逆らうわけにはいかない、と真面目に考えた上での了承なのだという事は分かっている。
マゼウは初めて、民ではなく、アミールという一人の女性の未来の幸せについて本気で考えた。
三年後、アミールは確実に王族の立場を離れる事になる。しかし王族の生まれという誇りと自覚は生涯失わない人なのだろう。
アミールの下賜先をどうするか。
マゼウはすでに新たな悩みを抱え始めてしまっていた。
*
「殿下。私はどうですかね?」
「うん?」
「二妃殿下の下賜先に」
「珍しく笑えない冗談を言うね」
冷静な声で返事が出来た事が奇跡だと思った。
真っ直ぐにマゼウを見つめるロゼックの瞳の強い眼差し。表情こそ普段と変わらない、むしろ余裕すら感じられる程の美麗な微笑みを浮かべている。マゼウは探るようにロゼックを見据え続けた。
「女嫌いは今も否定しませんが二妃殿下は違います。それに、夫であられる殿下に日々嫉妬しています。気が狂いそうになるんです。たまにですけど」
そんな態度も表情も見た事が無い。
ロゼックの発言はにわかには信じられないものばかりで、マゼウは彼に対する警戒心を強めた。
アミールを特別視しているような言動を、ロゼックはマゼウの前で一度たりともとった事がない。確かに無かった筈だ。しかし今初めてハッキリと言われてしまったからには、今まで通りにロゼックと向き合う事は出来ない。
アミールはマゼウにとっての特別で、唯一個人的な感情で心から幸せになってほしいと願っている女性だ。
理不尽と自覚しながらも大半の女性を嫌悪している男に下賜するなど出来る訳がない。しかも彼はトノイ伯爵家の次期当主で後継が必要になる。必ず妻との間に子を望む立場の貴族令息でもある。最悪な事に、彼に色仕掛けと軟派男になれと命じてしまっているせいで、アミールはロゼックの私生活については呆れ、失望している。下賜先をロゼックにしてしまった時、自分の事を信じてくれている彼女が動揺する姿がありありと想像出来てしまう。
そもそもロゼックの言葉は本物なのか。
ロゼックを専任に命じるべきかと観察していたあの時のように。マゼウはもう一度、従順な専任近衛騎士という目ではなく、ロゼック・トノイという一人の男を注視する生活を始めた。
そして、自分自身がいかにロゼックという男の事を大きく誤解していたかという事実に気付くのに、全く時間はかからなかった。
ロゼックは昔と変わっていない。
周囲の人々の目を巧みに欺き、老若男女に愛想良く、特に今では数多の女性に対して軟派な色男を見事に演じきっている。様々な女性との甘やかな噂を流すくせに、評判が全く悪くない。恐ろしいほどに完璧だった。
しかし、専任の近衛騎士としてアミールのそばにいるロゼックは、マゼウから見たら信じられない程に優しさと慈しみに溢れていた。
ロゼックが隙を見せるのはほんの一瞬だ。
アミールを見下ろすロゼックの瞳は女性を嫌悪対象として見ている時とは明らかに違う。アミールが嬉しそうに微笑むと、ロゼックも幸せそうに笑っている。アミールが傷ついたり、困っていると、過保護な程に彼女の側を離れず助けようとする。
アミールも周囲の人間も、ロゼックの過保護な行動はアミールを子ども扱いしているからという目で決めつけて見ており、ロゼック本人もそのように思われるように行動している。
しかしマゼウがよくよく注視して見ると、それはまったく子ども扱いとは言えないものだった。
いつからだ。
一体いつの間にロゼックはアミールの事を――。
「殿下。また、ですよ」
真っ暗な寝所、ベッドの上。
とっくに寝ていると思っていたアミールに声をかけられ、顔だけを横にしてみると、視界に映り込んだのは掛布から小さくのぞくアミールの後頭部。アミールは壁に顔を向けて、マゼウの方は見ていなかった。
「また?」
「ため息です。先程から沢山。四回目です」
「そんなに? すまない、安眠の邪魔をしてしまったようだね」
自覚が無かった。
苦笑しながら謝ると、アミールはくるりと向きを変えてマゼウを見た。ずっと目が冴えてしまっていたせいで、マゼウには暗闇の中でもアミールの表情がよく見えた。心配そうにこちらを見ている表情を。
「何か悩み事があるのですね」
「そうだね」
「気になりますわ。お聞きしても?」
結婚して二年以上、まもなく三年だ。
ほぼ毎晩のように寝台を共にしている形だけの妻。けれどやはり、妻、という言葉がしっくりこない。
「アミールの下賜先について迷っているんだよ。色々とね」
アミールは息を呑んだ。しかしそれも一瞬。すぐに目尻を下げた彼女は落ち着いた微笑みを浮かべていた。
「私はアミールに不幸な再婚をさせるつもりはないからね」
「ありがとうございます。私はもう覚悟は出来ておりますから。そのように悩まないで下さい」
「覚悟というのは?」
「お相手の方が、既に後継者もいらっしゃる年齢が離れた方が再婚相手だとしても私は動揺も拒絶もしません」
やはり。アミールには、自分が考えていた下賜先の候補はとっくに見当がついているらしい。アミールは微笑んだまま、とても落ち着いていた。
マゼウは知っている。
だからこそ胸が騒いでしまう。
今のアミールの表情は『王族』としての顔だ。
普段ならば敬意を持って見つめる事が出来るその表情も、下賜――王族を離れる彼女の再婚という事情で見つめてしまうと、そのような表情をさせてしまう現実が苦しくなる。
「女性としての魅力が全く無い私と再婚しても良いとおっしゃってくださる方に嫁ぐ事が出来るのは幸せな事です。それに、王家からの打診を断れる方は、この帝国貴族ではとても限られてしまいますでしょう? 不本意でも承諾してくださるのでしたら、ますます感謝しなければいけません」
「アミール。今の言葉は聞き逃す事は出来ないな」
マゼウが真剣な声で発してアミールの唇に指を添えると、アミールは驚いたように瞳を瞬かせた。
「君は気品溢れる美しい女性だ。そのように己を卑下するような発言をしないでくれ」
「……はい。申し訳ありません」
「分かってくれればそれで良いんだ。……けれど、すまない」
「殿下?」
アミールは困ったように笑って、マゼウの漆黒の髪を撫でた。
「殿下は私にとって特別で、大切なお方です」
「私もだよ」
「はい。疑っておりません。私たちは同じなのだと、恐れ多くも思っておりました」
「恐れないでくれ。同じだ。私もそのように思っている」
「ありがとうございます」
ふわりと笑うアミールはとても可憐で、そこに王族の仮面は無く、消えていた。
「では、殿下。先程の謝罪は無しですよ。私を二妃として迎えて離縁前提の結婚をしたという事を謝罪されたのですよね?」
「……さすがだ。お見通しか」
「殿下のお考えになる事ですから。あの時は、私も誤解しておりました。けれど今では私に離縁を求めた理由について、殿下のお考えは正確に理解出来ているつもりです。正妃を迎えるよりも先に二妃である私が子を授かってしまったら、王族同士での王位争いのきっかけになる可能性が大きくなってしまいます。政務に集中したい殿下にとっては、最初から二妃というものはお望みでは無かった筈です」
「……アミール……」
「殿下の後継となられる方は、エイミー様との間にお生まれになった方。もしお子さまを授かる事がなかったとしても、殿下ご自身は、帝国のために尽くす者が王となる事をお望みなのでは? 帝国貴族の方々は血筋を重視しておられますが、殿下はあまり血筋というものを重視しておられないご様子に感じられるのです」
全てお見通しだと言うように、明るい笑顔で言うアミールはとても眩しかった。
マゼウの両腕はいつの間にかアミールに伸びて、強く抱き寄せていた。
「アミール、」
「謝ったら、怒りますよ」
「…………ありがとう」
「はい。私こそ、ありがとうございます。私を二妃として結婚して下さって今も祖国を護って下さるばかりではなく、民のためにご尽力下さっている事は知っております」
「アミールもだ。帝国民は君を二妃として認め、敬愛している。それは全て君の誠実な想いと努力のおかげだ。……下賜については、不安に思う事があると思うが私を信じてくれ」
「不安はありません。信じておりますから」
小さなアミールの身体から感じる温もりに導かれるように、マゼウはそっと目を閉じる。
脳裏に浮かんだのはロゼックの姿だった。
アミールの事を一途に見つめ続けて浮かべる笑顔の裏で、現わす事が許されない愛しいという感情を、苦しげに暗い瞳に浮かべる騎士。ロゼックがアミールに対して抱く感情は、決してマゼウが抱く事が出来ない感情。
アミールにとっての幸福な再婚の形。
考えれば考える程に、今までたてていた候補者達の姿が消えていく。
アミールへの焦がれる想いをひた隠しにして、人から好かれる完璧な微笑みを浮かべて従順に職務を果たすロゼックの姿だけが、マゼウの脳裏に鮮明に残り続けていた。