01 ムイル
院長室にて書類仕事をしていた私のもとに、トタトタという足音が聞こえてきた。足音はドアの前で止まり、ノックなしにドアが開く。外開きに開いたドアの低い位置から、小さな頭がぴょこんと飛び出してきた。
「先生、おはようございます!」
「おはようございます、ムイルさん。良い朝ですね」
こげ茶色の髪の毛に寝癖をつけたまま元気な挨拶をするムイルに、微笑みながら答えると、彼女は嬉しそうに私の執務机に近づいてきた。彼女は白いワンピース型の寝間着のままだったが、特に咎めることはしない。この孤児院の起床時刻は7時であり、現在の時刻は6時半、寝間着で出歩いても良い時間だ。いつもは朝寝坊のムイルがこんなに早起きをするなんて、珍しいこともあるものだなあ等と考えていると、隣室から重たそうな資料の束を手にしたヨグが戻ってきた。
ヨグはこの孤児院で働く唯一の同僚で、院長である私の補佐をしてくれている。今日も早朝から私の書類仕事に付き合ってもらっていたところだ。彼女はいつものように長い黒髪を軽くまとめ、質素なローブを身にまとっている。私は立ち上がってヨグから資料の束を受け取った。
「ヨッちゃんもおはよう!」
「はい、おはようございます」
ムイルがヨグの胸に飛び込むと、ヨグはやさしく彼女を抱きしめて挨拶を返した。
しばらく戯れた後、ムイルは私の方へ向き直り、先ほどと同様に明るい調子で声を発した。
「先生、あのね、お薬が欲しいの」
「いいですよ。どのお薬ですか?」
彼女が薬を欲しがるのはいつものことだが、こんなに朝早くからというのも珍しいなと思いながら尋ねると、彼女は変わらぬ笑顔で答えた。
「今日はね、3番を下さい!」
「……わかりました。そこのソファーへ掛けてお待ちください」
私は努めて自然に、平静に、そしてにこやかにそう言った。
ちょっと待ってて下さいねと言って執務室内の扉から薬品庫へ移る。
厳重に管理された金庫棚から目的の薬を取り出して執務室へ戻ると、ヨグとムイルがソファーで談笑していた。
どうやら昨日の新人歓迎会の様子を話しているようだ。ムイルはよほど楽しいことがあったらしく、昨晩は笑い疲れて、いつもより早めに就寝してしまったという。今もその時の様子を思い出しては、三人掛けのソファーに寝転んで、腹を抱えるようにして笑っている。
その様子を横目に、私はぬるま湯を入れたコップと薬のカプセルを用意しながら、注意深く、しかしそれと悟らせないように、まるで今日の夕飯に食べたいものを尋ねるような気軽さを演出して、聞いた。
「ここで飲みますか?それとも別の部屋で飲みますか?」
「ここがいいな。先生、飲ませて!」
「いいですよ、ではどうぞ」
私はテーブルにコップを置き、ムイルの隣にゆっくりと座る。そして「あーん」と口を開く彼女にカプセルを咥えさせ、水の入ったコップを口元にそえた。
ムイルはごくごくと勢いよくそれを飲み下し、「ぷはーーっ」と声に出すと、にっこりと笑った。
そして待ちきれないとばかりに喋り始めた。
「先生、私ね、朝起きたとき、昨日のこと思い出して笑っちゃったの。変だよね、起きたとたんに笑うなんて」
話しながら、ムイルは幼児のように抱っこをせがんでくる。私はゆっくりと彼女を抱き上げた。私の上半身に、自分の体を擦り付けるようにしながら彼女は続ける。
「でも、すごく幸せだったよ。朝起きてすぐ笑うなんて。生まれて初めてかも!」
「よかったですね」
私がそう言いながらそっと頭をなでると、それに合わせるように、彼女は自分の頭を私の体にぐりぐりとこすり付けるようにして甘えてくる。
「先生、膝枕して!」
「いいですよ、どうぞ」
もう一度抱き上げるようにして、ソファーに寝かせ、膝の上に彼女の頭を乗せてやる。ヨグがどこからか毛布を持ってきて、ムイルの体にかけてくれた。たしかに、院長室は空調が効いていて、寝間着では少し肌寒いかもしれない。ムイルは毛布を深くかぶり、私の腹に顔を埋めて体を丸くすると、本格的に眠るような体勢になる。
「あー、私、先生に膝枕してもらうの好きー!」
ふにゃりとした声を出しながら、もぞもぞと動く。
私は、彼女の髪をゆっくりと梳いてやり、そっと頭や背中を撫でた。
むふふ、とか、ふひひ、とか、不明瞭な声を出しながらされるがままになっていたムイルは、徐々に動作が緩慢になり、
「せんせー……すきー……」
そう呟いたかと思うと、そっと力が抜けてゆき、
そして……
そして、そのまま息を引き取った。
†
ドタドタと音を立てて、廊下を走る音がしたかと思うと、バタンと乱暴に院長室のドアが開かれる。
「先生、あの、ムイルが、ムイルがいないんです!」
はあはあと息を切らし、長い黒髪を振り乱しながら、トレアが叫ぶように言った。
私は彼女を落ち着かせようと、にこやかにほほ笑みながら、ソファーに座るよう促す。
取り乱しながらも、素直にソファーに導かれ、深呼吸をするトレア。ヨグがお茶を出す頃には、彼女は大分落ち着きを取り戻し、事情を話し始めた。
両腕を失い、一人で着替えることができないムイルの為、トレアは毎朝、起床するとすぐに彼女の部屋へ向かい、彼女を着替えさせてから一緒に食堂へ行っていたそうだ。
いつも起床の時刻ぎりぎりまで起きださないムイルが、今日に限ってベッドにいない為、ねぼけてどこかへ行ってしまったのではないかと心配して探していたらしい。
話し終える頃には、起きてすぐに激しい運動をしたために乱れていた呼吸も収まっていた。
「トレア、落ち着いて聞いてください」
彼女の話を聞き終えた私は、そっと切り出した。
「ムイルは今朝ここへ来て、3番の薬を飲みました」
いまだほんのりと上気していたトレアの顔から、一瞬にして血の気が失せた。
先ほどまで私を見つめていた瞳が、その焦点を失い、虚空を見つめている。
うう、とか、ああ、とか唸るような声を出しながら、荒い呼吸を繰り返すトレアの背中をさすってやりながら、彼女が平静を取り戻すのを待った。
しばらくしてから、苦しげにトレアは言った。
「……先生、私にも薬を下さい」
「どの薬ですか?」
「……さ…………いえ、2番で」
私はにっこりと笑って、棚から鎮静剤のビンを取り出した。