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一般向けのエッセイ

権威主義者について

 


 世の中にいるあるタイプの人々というのは、自分での判断基準や感性を持たない。彼らは自分でも薄々、基準を持っていない事を承知しているので、基準を自分以外のものに委ねる。


  その際、彼らが基準を委ねるものがイデオロギーだったり、党派性だったり、多数者の賛否だったりするわけだが、いずれにしろ、彼らに自分の判断基準はない。その中でも、本能的に権威を持ちたい人は率先して権威に服従し、いわば「虎の威を借る狐」方式で自分の権威を作ろうとする。


 人と話していて気づいた事だが、彼らは絶えず物を見るのに、「一般常識」を利用する。その常識を自分なりに拡大したりもするのだが、それによって彼らは、自分の正しさは担保されたと考える。彼らは自分で考えないし、世界のあらゆるものを既存の常識に当てはめる事で「自分は理解した」と満足する。


  こうした人々というのは、驚く事にーー例えば、芸術作品それ自体はまず「見えない」。目の前にルノワールの絵があると「ルノワールはさすがにうまい」なんて言ったりするが、展覧会を出て、目の前の夕日が美しくても、夕日は見えない。ゴッホの絵は見えるが、ゴッホがどのように自然を眺めたかという事は決して考えない。彼らはゴッホの絵を見ない。見るのは「ゴッホの絵」として承認された上ではじめて現れるゴッホの絵であり、彼らの目にゴッホその人の絵は決して映らない。


  彼らは自分の判断を、世界に明け渡している。これは「多数者」に明け渡している場合でも同じだ。「売れれば良い」「売れるような面白いものを」と言う人は、自分で面白いかどうかを決める判断力を持たない事を告白しているのと同じだと思う。こうした人は「売れた」作品を後からついていって、自分なりに好きとか嫌いとか言うのだが、そもそも自分の判断を鍛えていないので、結局彼の判断は世界に委ねられることになる。


  世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな個性があるにもかかわらず、家庭とか社会は一応、安定したものとして現れる。それはなぜかというと多くの人が、「なんのかんのいっても」自分の行動や考えを一般常識に照らし合わせて考えているからだろう。あるタイプの人々と話していて、僕はやっと理解できた。例えば、王が死んだ時、一緒に侍女を生き埋めにする無残な原則がなぜある程度の期間存続したのか。それは世の中というのが、己の価値基準で行動する人が多数集まったものではなく、むしろ多数の人が、漠然と既存の基準に合わせる事によって現れるのが「社会」だからだ。売れている作品が良い、多くの人の価値判断を収束させ評価されるから売れるものは良いと一概に言えないのは、多くの人は自分の基準というよりは、むしろ既存の基準に自分をあわせているからだ。作品を自分の目で、判断でその価値を確かめるのではなく、(誰かが良いといったから)見に行くというパターンが多い。


  なんだかんだ言っても、形骸化してもう価値が消えていると内心誰もがわかっていてもやはり権威が強いのは、権威はやっぱり人の拠り所になるからだ。そこでは、とにもかくにくも「安定」しているし、「お墨付き」である。だから、無名の天才よりも、有名な凡人を人は好む。…いや、「好む」というより、彼らは自分の価値判断を集団の価値判断であると、決めてかかっている。ここでは見事な一致が見られており、この領域では葛藤も断絶も起こり得ない。だからこそ、社会は表面上、安定しているように見える。権威であったり、社会に現れているものは、内心で「つまらない」と思っていたとしても、ただ「社会に現れている」という理由により、人々から一応の価値を与えられる。誰も知らないところで理想を追っている人間よりも、くだらない事が誰の目に見えても人々の前に現れた姿のほうが魅力的に見えるのは、人々にとって彼らの価値観は集団の価値判断自体であるから他ならない。


  こうして考えると、社会学や歴史学、人種や地域性といった大規模な思考法とそれに反する個人の意志がどのような関係なのか、なんとなくわかってくる。個人と呼ばれる存在は単独では無力で、空虚である事が直感されているために、絶えず、社会常識に吸い込まれる。たとえ社会常識が非人道的だったりしても僕らは用意に腰を上げない。自分の同胞が八つ裂きにされるよりなお恐ろしいのは個人がなんの拠り所もなく世界に放り投げだされる事である。


 プライドが高いにもかかわらず、時間の中で己を作り上げられない人は、社会階梯を上昇していく事で己の模造を作り上げようとする。彼らの誇りは、社会常識の価値と一致しており、それが彼らの拠り所となる。もし、社会常識が一変し、彼らが信じていたものから放り出されたら、彼らには何が起こったのかわからないに違いない。ただ、自分の不運を呪い死んでいくだろう。


  ナチス・ドイツのアイヒマンや、ルドルフ・ヘスなどは血も涙もない冷血漢ではなかった。夫として、家族の一員としては彼らは模範的ですらあっただろう。だが、彼らにとって、彼らの信じる世界は絶対的に正しかったために、新たな正しさがその外から(時間的にも空間的にも)やってきた時、それが何であるか理解できなかった。彼らは良識人であった。だが、だからこそあのような殺戮を行った。彼らは無垢で、善良で常識的だった。しかし、彼らが悪なのは、まさにそれが故だった。これを今の我々に当てはめると、我々の大半が人殺しにならずに済んでいるのは、我々が「幸運」であるからにすぎない。こうした危機を問う能力を今の文学はほとんど失ったが、(伊藤計劃のように)そういう事ができる文学を僕は切望する。問題は我々が井戸の底でどのように幸福になるか、ではない(角田光代らの小説)。問題は、そもそも我々がいる井戸そのものが何であるかと考える事だ。

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