1 『無名の死神』
最初はただの好奇心だった。
一般人なら抱くはずのない好奇心。一般人なら無意識の部屋からの外出許可を出させない好奇心。
それが、俺が異形である証明にもなるだろう。
一歩先に足場はなく、見下ろせば脈が呑み込まれそうなほどの奈落。比喩などではなく、冗談ではなく、俺の心臓は今にも活動を停止しそうになっている。まだ早い、もう少しあと少し、あと数秒後まで延期してくれ。そうでなければ俺は一生変われない、一生このまま成長することができない。
風の音が鬱陶しく脳内を駆け巡り気を乱してくる。一旦精神を研ぎ澄ますために上空を仰いだ。夜、暗闇の空に雲が悠々と流れ、俺を呑み込まんと腕を広げている。まったく、下を向いても上を向いても呑み込まれるのか俺は、と見知らぬマンションの屋上の縁に立って呟く。
大したきっかけなんてない、本当に些細な好奇心のみだ。
踏み切りにて電車が通過し終えるまでのその間、ただぼおっとマンションを眺め、ただぼおっと「あそこから飛び降りたらどうなるんだろうな」と思っただけだ。無論、体がひしゃげて命を落とすことは容易に予想できる。けれどそういうことを言いたいわけではない。俺は少し最近の流行に乗ろうとしたに過ぎない人間、つまり検証したかったのだ、流行っている噂が、本当なのか。
近頃、世間では高層建築物の屋上から飛び降り自殺をするブームが来ているらしく、今日もまた一人自殺者が発見されたらしい。
マスコミにあまり取り上げられてはいないが、どうやらネットでは「異世界への行き方」が流行っており、その方法の中の一つに、ある条件を満たした場所から身を投げ出すことで異世界に転移することができる、というものがある。異世界、転移。ネット小説で映えそうなジャンルだ。
さておき、このマンションが異世界に転移できるらしい条件を満たしていそうだったため、現在このような状況に置かれている。
閑話休題。
好奇心以外に理由はほとんどない。それは本当だ。
どうなるのかな、そう疑問を抱いただけだ。本当にそうなるのかな、そう疑念を抱いただけだ。
では、さらに閑話休題。
俺は大きな深呼吸をして、続いて小さなため息を吐いて、下界を見下した。人が小さく見える。踏切で足を止める人々、閉店間際の書店へ駆け込む人々、自殺場所を探す人々。全員が全員本当にゴミのように見えて、全員が全員俺を見ていない。
もし、自殺せんとする俺を誰かが発見したら、状況はどう変わるのだろう。運命は、どう変わるのだろう。やっぱり俺が死ぬのか、それとも助けに来た奴が死ぬのか、あるいは警察が死ぬのか。
「過剰妄想甚だしいな」
吐き捨てて、改めて決心する。そろそろ死にに行くか。死神が直々に死にに行くか。
一歩踏み出す。その先に足場はなく、体は空中に投げ出された。重力が俺を引っ張り、やがて地面へ向かって落下していく。
その間、体感時間は尋常じゃない長さにまで拡張されていた。全身に電撃が走ったように意識が分断される。睡魔に襲われたときと同じ感覚だ。
これが死というものか、と本能的に理解する。もう取り返しのない、死。この無こそが死。
最後に一つ、吐き捨てておきたかった。
必死に口を動かすものの、結果は芳しくなく、脳内で架空の声でそれを呟いたに過ぎなかった。
――運命は、変えられないからこその運命なのだろうが。
無名の死神は、この夜死亡した。
実世界では、死んだ。
*
目を覚ませば、そこは無の空間だった。
何もない、本当に何もない。俺を包む空間が何色であるかもわからないほど、そこには何もなかった。
ただ一つだけ、俺がそれを人型の何かであると認知できた「無」があった。
「不幸なる君に一つ、救いを与えよう」
人型は言った。女性の声だった、低く威圧的な、色気のある綺麗な声。一種のプラシーボ効果だろうか、実際はただの錯覚だろうが、人型が美人に見えるようになった。
ここはどこだろう、今更疑問に思う。死後の世界か、それとも異世界か。少なくとも俺はこの女性の声を知らない。そして未来知ることもない。あるいは臨床現象だとでも言うのか。
しかし、この無意味な妄想は直後に走った頭痛により断絶される。
「また会おう、そのとき君は『右眼』を獲得する」
とうとう意識までも遮断される。
その寸前、俺は美人の左眼が白紫に発光している瞬間を見た。
死んで良い人間は確かに存在すると思う。
自分の手は全く汚さず、汚れ仕事をいとも簡単にやってのける卑怯な野郎こそ死すべきだ。例え故意でなくとも、人間を無意識の内に殺める存在は、直ちに死ぬべきなのだ。
別に自殺をしたかったわけではない。世界がつまらなくなったわけでもない。俺は、否定したかっただけなんだ。自分の存在を。自分の狂気を。
だから本当に心底思う。
どうして俺なんかを生き返らせたんだ。
*
再び目を覚ました。
今度の覚醒場所はどうやら異世界転移典型――田舎町の草原の上のようだ。
心地良い風が頬を触る。ちょうど木陰の下。やや斜めになった土地。なるほど昼寝の場所にはもってこいだ。
旅路もとうとう異世界突入か。この放浪生活、よく一転二転あるものだ。
いやしかし異世界ね。まさか本当に転移してしまうとは。半信半疑どころか全く信じていてはなかったが、謎の流行の検証結果は「本当」だった。
「ねえ、あなた」
声をかけられた。若い、むしろ幼い女の声。幼いとはいえ俺より二つ下くらいか。あの世界の住民――恐らくテンプレートに乗れば「神様」だろう――とは似てもいない。
「変なこと言うだけ言って、次は昼寝なんて、何考えてるの?」
「……、……。俺は何も考えちゃあいないですよ。それよりここはどこですか?」
身を起こしながら現在地を確認した。
自力でわかるはずがない。一度も見たこともない景色だ。実際でも、写真でも。
「また変なこと言ってる。自分の寝場所も知らないわけ?」
「ああ、知らないわけなんだが」
「本当頭おかしいんじゃないの、ふん」
なんだおまえと呟きそうになりながら、ようやく俺は彼女の姿をまともに確認した。
赤髪の、豪華な服を着た美少女。豪華な服には家紋なのかそういうブランドのロゴデザインなのか円形のマークが縫われている。顔立ちは幼いが、しかし身長と胸囲は成長している。ならば幼く見えるのはひょっとしたら性格への第一印象に起因しているのかもしれない。
「さらにおかしな質問をするようだけど、この世界には『神様』はいますか?」
「いるよ」
即答か、大分信仰が根付いているようだ。では果たして神はどこに存在し、なんのために祟っているのだろうか。
来世に期待をするようなら、善行や罪に仲介を求めるなら、「神は死んだ」とでも言ってやろう。
さて、神様がどこにいるか訊くか。どうして俺なんかを生き返らせたのか尋ねなければならない気がするからな。それに異世界転移と言えば神を殺すために冒険するのが定石だろう。ならば因果を確立させるためにそうせねばなるまい。
と、思った瞬間だった。
脳内を一閃の映像が流れ始めた。
なんだこれは。
映像には「シストロークロ」の文字、広がる無の空間、美人、天上界。そしてそれを見る俺自身。
映像が途切れ、視界が実世界――日本ではなく、異世界という名の実世界――に戻る。相変わらずそこには名も知らぬ少女が立っていて、しかしなぜか俺の方をまじまじと見つめている。
何かあったのだろうか。
「ねえ、あなた、今右眼が光ってたよ?」
「は? 何を言っているんですか」
「え、いや、なにも……。名前はなんていうの?」
名前。無名の死神に名は無し。どうやら頭痛が痛いようだが、さておき。普通本名を名乗って「変な名前」と言われる展開だろうが、いかんせん俺には本名というやつがない。
せっかくなら西洋風な名前でいきたいのでひとまずこう名乗った。
「レイとでも呼んでくれ。よろしく」
「わたしはノエル、よろしく」
「ではノエル、さっき『変なこと言うだけ言って』と言っていたが、俺は何か君に言ったのか?」
もし俺がこの世界の誰かを憑代に異世界転移したのなら、是非その男の事情を把握しておきたい。
「はあ? 覚えてないの? 馬鹿じゃない? ひょっとして馬鹿でしょ、もう、自分の言葉くらいはちゃんと憶えておくべきだよ。むしろひょっとしてにわとりなの? 散歩気分に三歩歩いたら記憶なくなっちゃうの?」
と、罵倒をするだけしてここで何かに気が付いたらしく彼女はじっと俺の方を眺めて、少し慌てた様子で頭を下げた。
「す、すみません、どうやら人間違えしてました」
人、間違え。期待はずれか。
「それじゃ、ここで失礼します」
赤髪の少女は笑顔を浮かべ、踵を返した。どうやら家にでも帰るようだが、それを許諾しない。
「おいちょっと待て」
「……は、はい」
なぜだか彼女は顔を引き攣らせている。原因は考えればわかるだろうが、それより情報収集が優先事項であって、俺はまだ右も左もわからんのだ。名乗った以上ちょっとした親切を働いてもらおうか、と尋ねた。
「シストロークロってのはどこにあるんですか?」
「ご、ごめんなさ――って、え? シストロークロ? ……? んん、ええと、それならこの町の奥の山の廃城の門の中の祠にあるよ。祠……っていうか石碑っていうか、うーんなんて言ったらいいのかわからないけど、見ればすぐわかるよ」
「地名じゃないのか?」
「地名じゃないよ。諸説あるけど、死に近くて、天に近い場所に建てられた正体不詳のモニュメントのこと。地方の伝承では死の気が立ち込めているのだとか」
なるほどわからん。
とりあえず、シストロークロとかいうアホな名前のものはモニュメントで、そこが死に近く天に近いのは理解した。天に近い、天上界に近い。それが何かはちっとも想像できないが、俺が目指すべき場所はそこだろう。
「ありがとう、ついでにご一緒してくれませんか? シストロークロまで」
「馬鹿なの?」一瞬で口を両手で覆う彼女。「死に近いって言ったばかりじゃない。わたしは御免。死にたくないもん」
「死にたくない、ね。なら一緒にいない方がいいな」
「けど、その……仲間になってくれるというのなら、一緒に行ってあげてもいいよ」
「確かに、俺も今は仲間を探しているところだ」
「そうなの? じゃあ一緒に行こうよ!」
「だが断る」
「――うんうん、そりゃあ断れないよね。こんな可愛い女の子を連れて山奥なんて、それこそ男の夢ってもの。またとない機会を手放すはずが……って、え!?」
「……微妙なのりツッコミをどうも」と一応突っ込んでおいてから「――ありがとう、感謝する。それじゃ、縁があったらどこかで」と挨拶。
「ええ、縁はあるはずだよ」
なんだその挨拶は、と思ったが、彼女とは逆方向へ向かって歩き始めた。
――異世界転移ってのは、案外穏やかなもんだな、と浮かれていた。