プロローグ
彼女の死体を目前にしたこの瞬間。
殺人を犯す彼女を目前にしたこの瞬間。
俺は何を考えているのだろうか。
自分のことは自分が一番知っているなど大嘘だ。実際問題俺は今まさに自分の思考を把握できていない。何を思い、何を感じ、何を拒絶しているのか、わからない。
加えて言えば現状すら理解できていない。薄暗い部屋に広がる鮮紅色の海、その滴り落ちる鈍色の切っ先。壁にくずおれる屍とこちらを見つめる鬼。一刹那前までは平穏であるはずだった空間。視覚の捉える物理的な状況は把握できる。しかし、精神的な状況の処理が追いついていない。まるで麻痺したかのように脳が上手く回らない。
怖い。
その回らない脳が必死に訴える感情は「恐怖」、ただそれだけだ。鬼を前にして、死体を前にして気がおかしくなっているのは十分推測できるが、十全ではない。
俺は自分が自分でなくなるようで――既に変わってしまったようで怖いのだ。
死体を見て嘔吐する、鬼を前にして呼吸困難になる、何よりも争いが嫌いで、何よりも殺人を許せない、そんな典型的物語の主人公のような人間など消えてしまえ。人殺しが駄目? 平等であるべき? 戦争は無意味? 馬鹿じゃないのか、下らない。
そんな平和ボケした奴らは救済される度に増して平和ボケするのだ。救済の際に一体何人の者の人生を破滅させなければいけないのか、おまえらは知らない。豚肉を食いながら良く環境保全を語るものだ、豚を殺す者になったこともない癖に。ならばそんな奴らは最初から消えていなくなるべきだ。
俺は何度だって何十度だって、幾度も幾度も死体を見てきた。何度だって人を殺してきた。
時には愛すべき者の死を受けた。時には一夜同じ屋根の下で床に入った少女を殺しもした。
だから、本当は、本来なら。
この程度で絶望するはずがないのだ。
それとも俺はやはり変わってしまったのか? 死を良しとしない生ぬるい奴に、殺人の度胸もない癖に威張っている弱者に、成り下がったとでもいうのか?
否だ。
否、否、否。そんなことはありえない。
俺は変わらない、誰にも何にも影響されない、何にも束縛されない。たった一人の女に染まったりなんかしない。たった一人の女に何かを望んだりなんかしない。
それだというのに、俺はなぜ、現状に絶望しているのだ。
鬼が俺の方へ歩み寄る。
俺は動かない。動けない。鋼鉄の靴でも履いているように微動だにしない。
しかし鬼は俺へ間をつめる。
豪華極まりない高貴な服装の上に返り血がはっきり見える。いつもは明るく笑っているはずのその表情が重く沈んでいることも瞭然。
右手に握られた最悪の鉈剣の血の撥水。始めはよろめいていた、徐々に大きくなる足音。第六感の発する危険信号。麻痺し逃走の命令を出せない脳。
あらゆる状況と情報が錯綜し、そこへ新たな崩壊因子が飛び込む。
「……ごめん」
彼女の声だった。目前の屍を作り上げた張本人。
そこにあるのは、もはや泣きそうなほど眉を寄せ奥歯を噛み締めながらやや俯いた暗い表情。
「わたしは……あなたを……」
鉈剣が伸びたように接近し、やがて――
俺はそんな中心の内で愚痴を呟く。
どうして殺した方のおまえも、そんな哀しい顔するんだよ……。
――俺の意識は完全に遮断された。