File:20「ノーマライズ・ワールド」
やはり、静かだ。
音が無いと、体内時計が狂う。
他人の声ではなく、生活音、というものが無いからだろう。
ただ、俺の傍にはアイリスがいる。それだけで、時間などなくてもいいと思わせてくれる。
こんな時に、本当に緊張感が無いと思う。
でも、いい。やるべきことはしっかりやる。
それに、今のうちにリラックスしておいた方が良いだろう。
「ねえ、カナシ様」
「なんだ?」
「その。例の魔法を使うことに、ちょっと自信が無くて」
申し訳なさそうに下を向くアイリス。
まあ、一度も使ったことが無いんだ。そう思うのも仕方がない。
俺はアイリスにそのやり方を教えようとして――どうしよう、と思った。
『バカナ兄』
うるせえ。
……要は、どう使えばいいのか、うまく言葉にできないのだ。
「どうしました、カナシ様?」
「……相手が元に戻ることを、願ってくれ」
ふむ、とアイリスは顎に手を当て、何かを察した。
「なんとなくはわかりました」
「……分かるのか」
「はい」
それはそれで、何かやるせない感じがある。何か、俺って結構下に見られていないか?
「実際の所、カナシ様の言った通りでしょうからね。それに私達、本番に強いタイプでしょう?」
「意識したことが無いから、わからないな」
大した訓練もせずに実戦を幾度となく乗り越えてきた、という意味ならその通りだろうが。
「ぶっつけ本番でもなんとかなります。試す暇もありませんしね」
「そうだな。いざとなったら、俺が全部やり切る」
「駄目です。困った時はお互い様――それが人付き合いの基本だと、本で読みました」
本当に基本の基本を突いてくるな。そうツッコんでやりたいところだったが、その無邪気な顔には何も言えなかった。
「……分かったよ。でも、無理はするなよ」
「ふふん、大丈夫です。オンナは強いんですよ!」
そういう言い回しも、本で学ぶのか……?
『アイリスは見た目ほど子供じゃないってことよ』
まるで自分もそうだとも言わんばかりだな、お前。
『んー? どうかなあ』
そんな、妙にはぐらかされてもな。
やはり性格は違えど根っこは同じ、ということだろうか。しかし、アヤメを理解してもアイリスを理解したことにはならない。納得させられる根拠は出せないが、そんな気がする。
「なあ、アイリス」
「なんですか?」
話しながら、上野公園の中に入る。何度か来たことはあるが、あんまりはっきりとした記憶は残っていない。
「静かだな」
「静かですね」
萎れた落ち葉を踏みながら、俺達は園内を歩く。
俺達以外、誰もいなくなってしまったかのような静けさ。
お前が望んでいたのはこんな世界か、アヤメ?
『……ううん、違う』
返ってきたのは、予想外の答えだった。……いや、考えてもみれば予想外でもないか。
アヤメの望んだのは、俺とアヤメ以外がいない世界。
ある意味では、既に叶えられている。しかし現在の状況と比べると――確かに違うな。
既にアイリスが心に入っている。
心をアイリスが満たし始めている。
おそらく、そう言いたいのだろう。
『うん』
その声は、どこか悲しげで。
人間で言えば、何か悩み事を抱えているときの口調だった。
『……大丈夫だよ。今は関係ないから』
そうか? いやでも、今は時間があるし、多少お前に時間を割いても――
『いいの。これが終わったら、また時間はいくらでもできるから』
まあ、本人がそう言うなら良いだろう。
それにその言葉には、この作戦の成功を願う祈りも含まれていると信じたい。
「さて、ここで待とうか」
公園の中心、大噴水の前で俺達は足を止めた。
人はいなくとも、ここにあるものは相変わらず活動を続けている。
見た所、火事場泥棒らしき人物も見当たらない。
動物園から動物が逃げ出している様子もない。
「皆が来るまで、落ち着いて待っていられそうだ」
俺は大きく息を吐いて、近くにあるベンチに腰かけた。
「アイリスも、歩きっぱなしで疲れたろう?」
「すいません……では、失礼します」
よいしょ、とアイリスが俺の隣に腰を下ろす。
辺りには噴水の豪快な音ばかりが響く。
いつもなら人々との喧騒と混ざって、賑やかさを演出しているのだろう。
だけど、噴水だけになると、ただ物悲しさを際立たせる。
例え水で模る造形がいくら綺麗であるとしても、それは変わらないと思う。
ここで訂正しておく。生活音でなくとも、体内時計は狂う。
おまけに今は昼間で空色の変化は大きくない。それもまた狂わせる原因となっている。
「アイリス」
無意識のうちに、言葉が出ていた。
「なんですか?」
「……あー」
「ふふ、何も考えてなかったんですね」
誤魔化そうと頬を掻くが、すぐに見破られた。
それでもアイリスは不機嫌になるわけでもなく、ただ微笑んでいた。
「本当に思い合うカップルは、無意識にその人の名前が口から出るのだそうです!」
嬉しそうに言うアイリスだが、呆れるほかない。
おそらくそれも、本で得た知識だろう。……おおよそ、少女漫画か何かだろうが。
「じゃあ、これが終わったらもっと思い合おう」
ふとつぶやいた言葉だったが、アイリスは耳まで赤くして硬直した。
初めて見た表情に、俺も驚いてしまった。
「そ、そそそそれはついに、私と……」
「……早くても4年後くらいに頼む」
そんなことを言っていたら、いつの間にか4年が経過しているのだろうか。
狂った時間を観測する眼球は、噴水の飛沫を見つめていた。
――そんな時だった。
「おまたせ」
微笑を浮かべるララが、俺達の下に辿り着いたのは。
■ ■
魔術部、部長室。
そこで僕とリンドウさんは、無意味な言い合いを続けていた。
敵かどうかも分からない相手と。
「僕達にできることは、何かないんですか。ウェルフ・バートルの思考を超えて、彼の先を行くことは」
「君も科学者を志す者なら、奴の力を知らないわけじゃないだろう。奴の前では、俺達など凡愚同然だ」
悔しいが、その通りだ。
だけど、何もせずそれを待っていればいいのか?
僕にはそんなこと、できない。
「カナシに伝える気か」
「っ」
僕がポケットに手を突っ込んだと同時に、その行動の意図を読まれた。
「伝えてどうする。カナシはウェルフ・バートルを知らない」
「注意を促すことはできる」
「いくら注意していても、事故は起こる」
「被害を減らすことなら!」
「……どうやら君は、言うほどリアリストじゃないようだな」
呆れの声。
確かにこんなに焦って興奮しているのは、若さゆえだろう。
それでも。
友達を救うために行動を起こそうとすることの、何がおかしいのか。
「奴が動いた以上、こちらはどうすることもできない。異術師が出現した時点で、俺達の敗北は決まっている」
「……な、に?」
そんなに、前から?
その言葉は、うまく口から出なかった。
「世界は終わる。もうすぐな」
■ ■
「ララ!」「ララさん!」
同時にその名を呼び、俺達はベンチから立ち上がった。
「や。作戦サボって愛を育むだなんていい度胸ね?」
「……返す言葉もありませんね」
「まあ、お前が来たってことは仕事があるってことだ。行くぞアイリス」
「はい」
「いや、その必要は無いわ」
「は?」
駆けだした俺達を、ララはわけの分からない発言で止めた。
この作戦の意味を、理解していないのか? そこまで流暢に日本語が話せるのに。
「異術師は私が全部ここに呼んだ。もうちょいリラックスしてなさい」
「いや、でも……」
「……そうね。少し効率が悪いかしら? そんなアイリスがあると」
戸惑う俺達の方を、ララが振り向いた。
「――!」
その目は、黒かった。
まるで悪意が、そこで渦巻いているかのように。
一瞬で分かった。異常だと。
「正常化魔術師、静葉カナシ。あんたは私の期待通りの力を見せてくれた。でも……駄目ね。神の力に対抗しようとするなんて」
ララの口ぶりが、いつもと違う。それはすぐに分かる。
だが、それ以上に気になるのは――<力>、<神>という言葉だ。
何故かはわからないが、通常の意味を孕んでいるのではない。そう直感が告げている。
「ララ、お前は……」
「ねえ、おかしいでしょう? ウェルフの魂理論が正しいのなら、アイリスやアヤメを生み出すときに、あんたは相当の魂――いや、自分を犠牲にするほどの魂を消費している筈。それなのにあんたはこの3年間を魔術部で過ごしてきた。重要な戦力として」
混乱する俺をよそに、ララは長々と語る。
「つまりあんたには、命を複数生み出して有り余る魂があるのよ」
「!」
その言葉は、何故か理解できた。
そうだ。よく考えてみればおかしい。
何故俺はまだ魔法が使えているんだ?
アイリスは、俺の魔法で生まれた存在。その分の魂は消費しているはずなのに。
「まったく、これじゃ私が間違いを言ったみたいじゃない。やめてほしいわね、あんたみたいなイレギュラーは」
――私が?
なんだ、その口ぶりは。
それだとまるで、お前が。
「紹介が遅れたわね」
やけに大袈裟な身振り。ドレスを着た高貴な女性が、挨拶するかのように一礼。
彼女はにやりと笑みを浮かべ――言った。
「私の名前はウェルフ・バートル。魔術師研究の第一人者で、魂理論を提唱した――あんたらの認識は、そんなところかしら?」
「な……」
「嘘……ですよね? ララさん……」
「嘘? 嘘だと思いたい? じゃあそう思ってなさい」
……なんだよ、それ。
あまりに衝撃的過ぎて、逆に理解は早かった。
勝手な固定観念にとらわれていた。
俺の頭の中にいたのは、白衣を着た、年老いた男。
目の前にいるのは、絵に描いたようなアメリカの少女。
「私の目的は魔術師だけの世界を作ること。ちゃんとした秩序もできた状態も含めてね」
「ッ……どいつもこいつも、似たようなことばっか考えやがって……!」
脳内でララの情報が書き換わる。
正体はウェルフ・バートル。
そして、敵。
「いいわ、その敵をクズみたいに見る目。その目で今まで何人殺してきたの?」
返事の代わりに、衝撃魔法を打ち出す。しかし何かに遮られる――障壁魔法か。
「魔法の初歩も初歩ね――そんなものが通用するとでも? 私を誰だと思ってるの」
魔術師研究の第一人者。同時に魔術師……自分で、色々試したってことか!
「そう焦らないのよ。お話ししましょう?」
「この状況で、何を馬鹿な……!」
「確か、あれは16年前ね」
俺の言葉も無視して、ララは勝手に語り出した。
「偶然日本に来た時、あんたの両親に出会った」
「!」
俺の知らない、過去。それもそうだ、16年も前となれば、おそらく俺は生まれていない。生まれていても、大して記憶を蓄えてはいないはずだ。
俺は自然と、その話に耳を傾けてしまっていた。
「その時、母親の記憶と未来を見た。そこで初めて、あんたを知ったの」
さらっととんでもないことを言ったが、おそらくそれも魔法を駆使したのだろう。
可能性に溢れているのだから、それができても不思議ではない。
「そして次に、あんたの未来を見た。今と変わらず、とんでもない力を持っていたわ」
「……それを脅威と見ていたのなら、何故もっと早く行動を起こさなかった」
「最初に会ったときは、ただ観察していたの。それから魔術部に行って……予想外の罠に嵌ったわ」
予想外の、罠?
その正体を知るのは、ウェルフだけ――俺は生唾を呑んで、次の言葉を待った。
「洗脳魔法を食らった。あんたの父親はとんでもない人物だったわね」
――洗脳魔法。その存在は知っている。
でも、驚いたのは別の事だ。こいつは、魔法の効果を受けたといったのだ。
ウェルフも案外、普通の魔術師ということか?
いや、技量では明らかに俺達は負けているだろう。何せ、使っている時間が違うのだ。
だが――こちらの魔法が一切、効かないというわけではない。不意打ちを狙えば、あるいは。
「そのせいで少し計画が遅れたわ。まあ、都民が殆どいない状態じゃ何もできなかったんだけど」
「都民がいないと、できないこと……?」
アイリスがウェルフの言葉を反復する。
「こういうことよ」
パチン、とウェルフが指を鳴らすと、公園の各所から――異術師が、現れた。
まるで、こいつに従っているかのように。
「改めまして、異術師――と、あんたらが呼んでる存在。認識も大体合ってるんじゃないかしら?」
それは、シュンの仮説か。
憎しみをトリガーに異常進化した、魔術師ではない魔術師。
それを利用した計画、ということは――
「まさか異術師は、お前が」
「That's right!」
ウェルフは再び指を鳴らす。その顔は前よりも、卑しかった。
「未来が私の見た通りに進むとは限らない。だから私は、あんたが予想以上の力を持った時の為の、保険を用意したのよ」
「それが、異術師――なるほど、人間に多少の手を加えるだけなら、わざわざゼロから作る必要はありませんね」
「さあ、どうするの、正常化魔術師? 皆殺しにする?」
道化師のような弧を口で描き、ウェルフは俺を挑発する。
見渡す限り、異術師。それも手だろう。
だが――俺は救うと決めた。それに。
「手間が省けた」
元よりこの作戦は、ここに異術師を集中させて、俺が正常化魔法で一気に人間に戻すのが目的だ。
両手に力を籠める。そして、願え――
「――隙だらけよ」
集中する俺の下に、ウェルフが拳を構えて飛びかかってくる。
俺が何の準備もしてないと思ったか。
「カナシ様に――触れるなぁっ!!」
身体強化魔法を発動したアイリスが、その背後を取る――しかし、放たれた蹴りは障壁魔法に阻まれる。
「っ、シッ!!」
それでも続けて蹴りを食らわせる。
俺に攻撃する際には、障壁魔法を解除するはず。
アイリスからの防御を優先させるか、俺への攻撃を優先させるか。
俺はどちらにせよ、一刻も早く正常化魔法を使う必要がある。
あるいは、ウェルフを殺す。
それからでも、正常化の作業はできるはずだ。
――その考えは少々甘かった。
ウェルフは拳を構えた体勢のまま、まっすぐ俺の方に落下してきた。
『カナ兄避けて!』
「っ!?」
俺はその意図を理解して、その場を離れた。
集中が消えた両手から、力が抜けていく感覚がする。
――こいつ、障壁魔法で押し潰す気だったか!
地面を転がって、ウェルフは体勢を立て直す。
なるほど、手を抜いているらしい。奴は自分にとっての初歩で、俺達の全力を潰す気だ。
「っ、アイリス!」
名を呼ぶと、すぐに俺の傍に現れる。
「彼女の思考、常識では測れません――と言っても、まだ一撃目ですが」
「正常化はお前に任せる。俺は奴を足止めする!」
「で、ですが!」
「こいつは俺に興味があるんだろ! だったら要望に応えてやるさ……行け、アイリス!」
一際強めの声で言うと、アイリスは少し躊躇うようにしてから、すぐそこまで迫る異術師たちの下へ駆けた。
……後で行く。
心の中で付け加えて、ウェルフの方に向き直る。
「相変わらず愛し合ってるのねえ、自分の同位体のクセに」
「何とでも言え。愛は他人の冷やかしで止まるモンじゃない」
「青臭いね!」
「ガキのフリしたクソガキに言われたくないッ!!」
身体強化魔法を発動し、右の拳を強く握る。それからそれを突き出すと同時に――
「衝撃魔法ォッ!!!」
その障壁を、打ち破る。
「へえ?」
「力技だが、十分だろうよ……!」
一瞬その表情は驚きに変わった。
「でも駄目。それが精一杯でしょ?」
――しかしすぐに、また先程の三日月を描く。
俺はすぐに飛び退き、反撃に備えて身構える。
が、何もしては来ない。
『あくまでこっちの力を測りたいだけ……? それとも、時間稼ぎ……?』
どっちでも通るな。……さっさと消えればいいのに!
「え?」
心の中で毒づいて――閃いた。
正常に戻れと願うことで異術師が人間に戻ったのなら。
消えろと願えば、消えるのではないか?
駄目元だが、試す価値はある。
「お見事」
と――急に、ウェルフが称賛の声と共に手を叩いた。
「けど――私を消しても世界の終わりは止められない」
その笑みは消えないまま。
先程の発言からしておそらく、俺の思考を読んだのだろう。
「――そんなことは無い、その為の魔法だ」
「不可能を可能にする能力、ね」
そうだ。どんな不可能も可能に変える。その力で、俺はこの世界を正常に戻す。
「じゃあ、それでどこまで戻すの? はっきり言って、あんたを始めとする魔術師がここまで成長しなければ、今回の様な事態には陥らなかった」
「魔術師がいなければよかった、ってことか……?」
「ちょっと違うね。魔術師に良識があればよかったのよ」
「そんなの……今から変えていけばいいだろう! そのための俺達だ! 魔術部だ、警察だ! 結論を急ぎ過ぎだ!」
「じゃあ、アヤメはどうなるの?」
その一言で、心臓が鷲掴みにされた気分に陥った。
アヤメは。
『わ、私は……いろんな人を、巻き、込んだ……』
途切れ途切れに言うアヤメ――そう、その通りだ。俺でも弁明はできない。
自らの欲望の為に他人を巻き込み、迷惑を被らせる。最もあってはならないことだ。
それを――アヤメはやったのだ。
「そう、私が踏み切ったのは紛れもなくアヤメが異常化したからよ」
悔しいが、理由としては十分だろう。
だからって。
「だからって、そのままなわけじゃない! アヤメは変わったんだ!」
「形のないモノに名前を付けただけじゃないの? アヤメはもうどこにもいない」
「いるさ! 俺の中で! アヤメはまだ! 生きている!」
『カナ兄……私……』
アヤメ、耳を貸すな! お前はまだここにいるだろう!
必死で叫ぶも、どうやらあまり耳に入っていないらしい。
放心状態――脳が、そう認識している。
「呆れた。シスコンもここまで来るとただのバカね」
「バカはどっちだ……!」
「そうね、冥土に行く前にこんな話はどうかしら。この世界について」
「ッ……」
マイペースにまた、ウェルフは語りだす。
何をしたいんだ。何が望みなんだ。
何もつかめない。
目的がわからない。
何のために、こんなことを!
「科学革命が起きたあの日、魔術師も同時に生まれた。その無限の可能性を、私もすぐに手にした。それから目一杯研究して、私は魔術師ひとりひとりが神に等しい力を持ち得ることを知った」
……なるほど、つまりは全員が神になられては困ると。
皆が皆俺達のように知恵をつけてしまえば、混乱は避けられない。
言いたいことはわかる。けど。
「それはただ、可能性に絶望しただけだろう」
「はぁ?」
「本当に魔術師に無限の可能性を見ていたのなら、これから変わっていくことだって信じられたはずだ」
「無限は永遠じゃないの。私はこの可能性を見限った」
「じゃあ、何が目的でこんなこと……!」
「未来という可能性に託すだけよ。だから私が死のうがあんたが死のうが変わらない。この世界をまっさらにするのが、今のこの行為の目的よ」
それでこの世界を残してやりやすいようにするか、理想の世界の創造を未来の自分に任せるか……どちらにせよ、俺達の負け?
そんな馬鹿な。そんな負け方があるか。
「信じたくない? それでもいいわ。さあ好きにしなさい。抗うのも受け入れるのも自由よ」
腕を広げて、隙を見せてくる。
殺せばいいのか?
わからない。何が正しい。
思考が混濁する。
アヤメも頼れない。
――アイリス。そうだ、アイリスなら。
そう思って、アイリスがいるであろう方向を向いた時。
俺の眼前を、白い物体が通り過ぎた。
「……え……?」
それからゆっくりと、それが落ちた音がした方を向く。
それがアイリスだと、気付くのに時間はいらなかった。
「――アイリスッッ!!」
俺は飛来したアイリスに駆け寄り、その身を揺らす。
するとその目が僅かに開き、俺の方を見た。
服も、体も傷だらけだった。
その姿を見て、後悔せずにはいられなかった。
何故俺は一人で行かせた。
効率だとか、気にしなくてはならなかったか?
合理的でなくてはならなかったか?
結果論かも知れない。俺がアイリスと一緒に、正常化の作業に向かっていたら?
「すまない、アイリス……!」
「カ、ナシさま……」
震えた声で、アイリスが声を発する。あまりにも弱弱しくて。
今にも、消えてしまいそうで。
「ごめんなさい……うまく、いかなくて……」
「あら、あんたは何も悪くないわよ。私が少し手を加えただけ」
ぱきぽきと指の関節を鳴らしなら、ウェルフが歩み寄る。
その足音の一つ一つが、俺の絶望感を煽る。
「そうそう、さっき魔術部だの警察だの言ってたけど――あんたのお仲間は既に、みんなオダブツよ?」
この言葉で十分だった。
もう、戦意がほとんどない。
アイリスとの未来も。もう無いとでも言いたいのか。
「仮にあんたが私を殺して、異術師をみんな正常に戻して、この事態を終息に導いたとする。それで、少しの間だけはアイリスとの幸せな時間が過ごせるでしょうね。でも本当に少しだけ。すぐにその幸せも終わる」
「そんな、こと」
ない、とまで言い切れなかった。
心が折れていた。
探せば糸口もあるはずだ。でも完全に、気力が失われていた。
ありえない。アイリスとの時間より大切なものはないと思っているはずなのに。
――まさか。
心のどこかで、俺が言った。
「あ、今気付いた? あの時の逆……テンション下げてみたんだけど。どう?」
「お前……!」
反抗しようとしても、意志が伴わない。
そうだ、俺にできないことを平然とやってのける相手なんだ。
――勝 て る わ け が な い 。
「カナシ、さま……」
「すまない、アイリス……俺では、奴には……」
「そうかも、知れません……ですが、私達ならば……」
「っ!?」
その言葉の意味を理解して、少しだけ気力が戻った。
アイリスは今、単純に一緒に戦おうと言ったのではない。
「お前は……俺にお前を、吸収しろと言いたいのか……!」
アイリスは答えず、言い辛そうに視線を俺から逸らした。
「そんなことができるか! さっき約束したばかりだろう! 4年後じゃなくたっていい! これが終わったら――」
激昂する俺の頬に、アイリスの手が触れる。
傷だらけでも、変わらずその手は優しかった。
小さかった。暖かかった。
その温度は俺を鎮める――しかし、納得はできなかった。
「俺は……お前がいないと……駄目なんだ……!」
「世界はあなたがいないと駄目なんです。……お願いです。私は幼女に説得されるあなたなど見たくはありません。どうか、この世界を――元に、戻してください」
俺に触れる手から、力が失われる。
重力に逆らう力も失ったそれは、だらりと地面に寝転んだ。
「アイリスッ!!」
返事は無い。
「アイリス! 返事をしろ、アイリスッッ!!!」
どんなに大きな声で叫んでも、何の反応も見せない。
『死んだ……』
ふいに、心の中でアヤメが呟いた。
いや、もうそれがアヤメなのかもわからない。
もしかしたら、俺の本心なのかもしれない。
……もう、それすらもどうでもよくなっていた。
結局俺は不幸なままだった。
人間万事塞翁が馬。その通りだ。俺は手にした幸福を幸福としか思っていなかった。
その先にある困難など、容易く乗り越えられると慢心して。
失った時のことなど、考えもせず。
――俺は、あまりにも、不完全……過ぎた。
意識の色が薄まっていく。
「そう、あんたは不完全。その力を振るうには若すぎる」
俺は……戻す……。
「大きな力という資格はあったけど、使い方を間違えた」
正常に……戻す……。
「その結果、私が手を下すことになった」
アイリスと一緒に……。
「お別れね、静葉カナシ」
戻す……。
「悲しき愛に、幕引きを」
時間を――戻す。
「ア、イ、リ、ス」
吸収。
あつい。
出さないと、こわれる。
出す。戻す。戻す。戻す。出す。戻す。
光。
「そう――過去の未来に託すのね」
■ ■
「っ、なんだ……地震?」
急に部屋が揺れ始め、僕は戸惑いを隠せなかった。
しかしリンドウさんは、相変わらずだった。
「まさか……これが、結果?」
「そうらしい。しかし、カナシも変な選択をしたな」
「カナシが……?」
ということは、この地震はカナシが起こしているのか?
それほどの魔法を、使おうとしているのか――?
「自分より、世界を救う事を優先させたか」
意味深な言葉は理解できぬまま。
僕の視界は、光に包まれた。
■ ■
願いは大きければ大きいほど、他人を巻き込みやすくなる。
わたしはきっと、その欲に負けてしまった。
くたびれただろう。もう休もう。
ばかだと、皆さんは笑うでしょうか。
`
まあ、それでもいいさ。その罪も無かったことになるんだから。
たとえば、です。またあなたが私を生み出し得る力を持った時は……。
あんなことにならないように、注意してもらうしかないな。
なんどでも、ですか。
たとえ如何なる罪を背負うことになっても――お前と一緒なら。
とんだピエロですね、わたし達。
°
それも、悪くない。
正常に戻す光に包まれながら、俺達はそれでも手を握り続けた。
機械仕掛けから出てくる神は、今何を思っているのだろうか?
これも想定内なのかもしれない。
だが、俺は無限の可能性に賭けた。
頼む――自分に祈りながら、俺の意識は一瞬だけ途絶えた。