File:1「人質解放」
「うえぇ」
俺の苦しみを込めたうめき声は、ショッピングモール内に群れる客たちの喧騒に溶け込んで消えた。
しかし傍にいる白いワンピースを着た、澄んだ水色の長髪と双眸を持つ幼女――アイリスには聞こえたらしく、抗議の目を俺に向けている。
「なんだ」
「仕事です、文句は聞きません」
相変わらず生真面目なアイリスに呆れて、俺は溜息を吐く。
「あのな、俺達は仮にも警察官だ。それがなんで、町のショッピングモールの警備なんてしなくちゃいけないんだ」
「…………」
本当に文句を聞いていないらしい。小声ではあるが、最低限聞こえる大きさの声だから、無視しているに違いない。
だが聞かれずとも、言うだけで少しは楽になる。無視してくれるならそれでいい。
「大体、俺たちはこんなことしてる場合じゃないだろう。もっと他に、事件とかあるはずだ」
「部長の命令です、素直に従ってください」
「人手不足のはずだろうが……」
上司の命令を無視する気はないが、意見はある。ただでさえ社会は犯罪で溢れかえっていて、その早期解決の為の人手が少ないのだ。いくら警備員の空きが出たからと言って、こんなことをしている場合じゃない。
我らが部長にも考えがあるのだろうが、納得はできない。内容も大して伝えられず、ただ閉店時間まで警備を続けろなどと、誰が納得できるのか。俺はいわゆる社畜ではない。文句の一つや二つ無い方がおかしい。そうなると、アイリスは社畜ということになるが、まあ、間違いではないだろう。少なくとも<外のこいつ>は。
「それよりカナシ様、そのままで聞いてください」
「……?」
急に言ってくるので、何となく察して黙る。まさかとは思うが――
「家具ブース周辺をうろついている、マスクをした髪の長い男性が見えますか。あの人、もう1時間以上あのままです」
「悩んでるだけじゃないか?」
家具ともなればそれなりに値も張る。アイリスの言っている男は箪笥の前をうろついているようだし、そうだとしても不思議はない。
「では、電化製品ブースとの境にいる、通話中と思しき女性が見えますか。こちらも1時間以上あのままです」
「話し込んでるだけじゃないのか? ……アイリス。無理に不審者を探し出す必要はないぞ」
俺がなだめるように言うと、アイリスは俺を嘲るように溜息を吐いた。
「カナシ様。この店は閉店2時間前――つまり今、5万円以上の買い物をすると合計から2割引きされ、ポイントカードに加算されるポイントも1.5倍となるのだそうです。一種のタイムセールのようなものですね」
「らしいな」
そのせいで今、高額商品が集まるこのフロアには人で溢れているのだ。こんな経営をする会社の意図は知れないが、とりあえず喧騒を嫌う俺には迷惑でしかない。
「それで?」
「……その下手な演技をやめてください。本当は気付いているはずです」
「――と、言われてもな。確証がない」
俺はある程度の行動を許された警備員なのに動かないのもなんだと思い、フロアの隅から離れる。
それはともかく――気付かれないとは思っていなかったが、下手と言う必要はないだろう。
「まず女の方はただの通話と考えて、一旦置いておく。しかし男の方はマスクをよく見ると口が動いていた――まるで喋っているかのようにな」
目がいいとは言い切れない俺だが、遠くからでも小さなものが動いているのかが分かるくらいの視力はある。
俺はその男の背後に回るように、そして気付かれないように回り道をしながら言葉を続ける。
「そこで試しに、男の口が動いている時に女の方を見てみた。すると、そちらの口は動いていない。男が言い終わった後で再び女の方を見ると、今度は女の口が動いていた。疑わない方がどうかしていると思うが、何故十数mの距離で通話をする必要があるのか? それ以前に、男の方は携帯端末を持っていない。だが、髪が少し長く、耳が隠れている。小型のインカムか何かを付けていると考えるべきだな」
「そこまで分かっていて、何故」
「何故って、まだ何もしてないだろ。ただの偶然かも知れない」
「それは……そうですが」
「それに、何かあった時のための警備員だ。これから閉店まで何もしなきゃそれでいいし、何かするなら即逮捕。俺たちの仕事はそれだけだ」
そこまで話したところで、例の男の背中が見えた。
マスクを見ると、やはり動いている。
「どうしますか?」
「閉店まではあと1時間少々ある。それまでに何もしなければいいんだが」
俺は振り返って、家具ブースよりも明るく照明に照らされている電化製品ブースの方へと歩き出す。
「あの、カナシ様。少しよろしいでしょうか」
「なんだ」
「先程から、他の警備員の方が見当たらないのですが」
「……そういえばそうだな。連絡も来ないから何もないものだと思っていたが」
一応インカムをつけてはいるが、俺は一度も使っていないし他の警備員からの連絡もない。それにアイリスの言うとおり、いくらこのショッピングモールが広いからと言って、警備員一人見えないというのはおかしい。
そう思いながら例の女性を視界に収めようとした時――バツン、という音と共にフロア内すべての光が消えた。
「……さて、どうなるかね」
客たちはざわめいているが、俺は冷静でいなくてはならない。他でもなく警察だからだ。
なるべくそこから動かないようにしながら周囲の情報を探っていると、非常用と思われる橙色の照明が点いた。不安感をあおるには十分の暗さだ。
『――そのままで聞いていただきたい』
「出たな」
「出ましたね」
館内放送を利用して、加工された男の声が余分に響く。状況から判断するに、この男(と思しき人物)とその仲間によって、今から店内の客は全員捕らえられ、人質となる。
今までにその経験はなかったが、なんとなくは分かる。こういうのを刑事の勘と言うだろうか――いや、俺たちは刑事などという言葉からはほど遠い。
『申し訳ないが、皆様方には少しの間お店の中に居ていただきたい。我々はこれから皆様方を人質に身代金を要求する』
「ひ、人質……?」
「何なの、一体……」
男は当たり前のように言うと、客たちの中から不安の声が漏れ出してくる。そしてその不安は瞬時に伝播し、恐怖へと変わっていく。
『あなた方が何もしなければ、こちらも何もせずに済む。そこにいていただくだけで構わない。それと、全フロア内に仲間がいるから、命が惜しければ下手な動きはしないように』
下手な脅しだ。言葉のチョイスも素人のそれだ。
しかし何もせずにいるわけにはいかない。俺は俺で、警備員としての仕事をしなくてはならない。
俺とアイリスはアイコンタクトをして、先程の男の下へと走る。
そして家具ブースに着くと、男はやはりまだそこにいた。様子は変わっておらず、まだ誰かと話しているようだ。
俺はその肩を叩くと、男は驚くように肩を震わせた。
「な、なんだ?」
「その程度でよくこの犯行ができたな。バレバレだ、お前が犯行グループの一人とみていいだろう」
「……何を言っているんだ? 俺はただの――」
男が震え声で喋っている途中で、鼓膜を破るような銃声が聞こえた。どうやら、俺の腹部が貫かれたらしい。
「――っ、ぐ!」
俺は貫かれた腹部を押さえながら、膝から崩れる。
「動くな! こいつみたいになりたくなけりゃ、全員その場に座って手を挙げろ!」
だから下手だと言っているんだ、バカな奴め。
俺は再びアイリスとアイコンタクトすると、アイリスは頷いてこの場を離れた。
なるほど、そういうことか。多分、俺の予想通りだ。部長は俺を寄越して正解だった。この無能なバカ共が、それが群れた程度でこの行動を起こせるはずがない。
この裏に、不可能を可能にする存在がいるに違いない。
さて、良いタイミングが来るまでこのままだ。もう夜も更けつつある、寝ないようにしなくては。
出そうになる欠伸を噛み殺して、俺は余裕をなんとか隠すのだった。
■ ■
魔術師、という存在がこの社会に溢れています。最初の魔術師が現れた場所なだけあって、東京には特に魔術師が多く存在します。
魔術師は、人の形をした、人ならざる存在であるとされています。それもその筈、魔術師は人間から<進化>をして、人間には不可能とされることを可能に変える力を持っているのですから。
その力を持つ魔術師は敬われることなく、蔑まれました。そのせいであるかとは断言できませんが、結果的には同じ――その力<魔法>を使った不可解な犯罪<魔術犯罪>を起こすようになりました。
もちろんそれは一昔前の警察では解決することが不可能でした。ですが警察に新たな人材を採用することで、次々に解決していったのです。
その存在こそ――
「……ふう、無事なようですね」
私は寝具ブースにある布団をめくって、<眠るカナシ様>がそこにいることを確認し、再び布団を元に戻します。
非常用照明の暗い光で周囲を見渡しますが、先ほどカナシ様を撃ったクズ以下の男の言うことを聞いているらしく、既に皆膝をついて手を挙げています。屈辱を感じる彼らの為にも、今は一刻も早く犯行グループのメンバー全員を捕らえなくてはなりません。
私は高く跳躍し、商品の陳列された棚の上に着地します。それと同時に周囲を見下ろすと、何人かが一瞬だけこちらを向きました。なるほど、人質に紛れたメンバーもいるようです。恐怖に支配されているのに、別の些細なことに反応できる余裕があるのは、犯行を行っている本人くらいのものです。
棚から棚へと飛び移って監視カメラにガムテープを貼りながら、状況を確認します。ですがなかなかに広く、メンバーのいる位置は把握しづらいです。それでも、先ほどの通話中の女性も私の足音に気づきました。メンバーの一人と分かっただけでも儲けものです。
ですので、一旦下に降りて物陰に隠れ、左手首に付けた腕輪型携帯端末<リングフォン>を起動させます。
ですが、私の前に映されたホログラムには赤いゴシック体で<Off Line>と表示してあります。
「……電波を遮断しましたか」
その辺りは用意周到なようです。気付かれないように、すぐにリングフォンの電源を切ります。<私は見えなくても>、ホログラムは見えてしまうので。
そうなると、私にできることはあまりありません。一旦カナシ様の下に戻るしかありません。
再び棚から棚への移動をして、カナシ様の倒れている家具ブースに戻ります。
「大丈夫ですか、カナシ様。監視カメラの無力化は済ませました」
メンバーの男に聞こえないように、カナシ様の耳元で囁きます。すると、カナシ様は小さく頷きました。よかった、夜も更けてきたので眠らないかと心配していました。
「犯行グループのメンバーと思しき人物は、全員を把握することは至難の業です。ですが、何人かは人質に紛れているようです。先程接近に失敗した女性も、おそらくは」
私が言うと、カナシ様は細く目を開き、こちらを見ました。いつ見ても黒曜石のように綺麗な黒の虹彩です。
「このまま手を拱いているわけにもいかない。<本体>から麻酔手錠を出して、まずこいつを無力化してくれ」
「了解しました」
互いに呟くような会話を終えると、私は再び寝具ブースに戻り、布団をめくってカナシ様の<本体>と対面します。
「…………」
襲いたくなる気持ちを抑えて、カナシ様の腰に付いている<四次元ポーチ>に手を突っ込んで、6つくらいの手錠を取り出します。科学の発展も、こういうところは便利です。
私はまた布団を元に戻すと、すぐにカナシ様の下へと駆けます。その勢いのままロン毛男の懐に飛び込み、銃を持つ右手首に手錠を掛けます。同時に手錠の中から小さな麻酔針が射出され、男を行動不能にさせます。
周囲の人々が驚きますが、私が手錠を離せば分かるはずです。理由も何も、私は――
――魔術師です。
私はずっと、不可視魔法を使って姿を消していました。自分、所持物、身に着けている物は消えますが、魔法の適応されるそれらから発せられたものは消えません。ですから声も抑える必要がありましたし、リングフォンのホログラムもすぐに消す必要があったのです。
つまり、手から離れた手錠は視認が可能になり、目の前で起こった不可解な事象を、人々は魔術師の仕業だと思うのです。
そしてこの状況の相まって、それは自らの身を脅かす者ではなく、助けてくれる者だと思うのです。まさにその通りなのですが。
騒がれては困りますが、私はまだすることがあるので、すぐにこの場を離れなくてはなりません。
だから、カナシ様は立ちました。
■ ■
アイリスが動いてくれたおかげで、俺も動きやすくなった。
近くの人質たちは俺が平気そうに立ったことに驚くが、俺は人差し指を立てて自分の口に近付ける。「静かにしろ」というジェスチャーだ。というか、誰も血が流れていないことに気づかなかったのだろうか。いや、さすがに気づけないか。
俺が使っていたのは身代魔法。自分の分身を作り、そちらに意識を移動させる魔法だ。分身に意識がある時、本体は意識がないので魔法を使うことはできない。その上聴覚と視覚、言語を発するという最低限の機能しか備わっていないという性質が幸いし、銃で撃たれたダメージはない。ちなみに分身は裸で出現するので、服は用意しなくてはならない。あと、肉体の中身はほぼ空だという。このおかげで俺は血を流していないが、もちろんどうなっているのかは不明だ。そんなものだらけの魔法に原理を求めるなどナンセンスなので、物好き以外はその理由を追及しない。
「……ふ」
俺はにやりと口を歪ませ、人差し指を立てた右手で天井を指すと、俺はそこから<消えた>。
「――ふう」
売り物の布団から出て、一息つく。一時的に借りたものとはいえ、なかなかいい寝心地だった。今度来たら買って帰ろう。
その前に、この事件の解決だ。警察が下手に手を出して事態を悪化してくれても困る。俺はポーチから、左肩に警察章の付いた藍色のジャケット――にしか見えない制服を広げながら出し、そのまま袖を通す。
「……アイリスの奴、6つも持って行ったな」
ポーチの中の手錠の残りを確認して、仕方ないかと呟く。対象の無力化だけを求めたこの手錠は量産され警察官全員が所持しているものだが、決してむやみに使っていいものではなく、使っていいのは攻撃の効かない相手に限られる。そもそも俺のように10個近く持っているのは、対魔術犯罪専門チームである<警視庁魔術部>所属の警察官であるからだ。通常の警察官は多くても4つだ。
まあ、俺の仕事は逮捕ではなく首謀者の排除だ。アイリスがグループのメンバーを無力化している内に、俺は首謀者を見つけなくてはならない。
店内の構造を確認するため、リングフォンを起動する。――赤いゴシック体で<Off Line>。電波障害か。その辺りはちゃんとしているらしい。しかし構造のデータはオフラインでも閲覧可能だ。すぐに呼び出し、今俺のいる2階から別の階に通じる階段を探しながらその場を寝具ブースを離れる。
「……ち」
すぐ近くでよかったと思ったのだが、やはりシャッターが下ろされていた。大体セキュリティは電子化されているから、通常の手段では突破できない。壊せば簡単だが、仕事が増えるのは困る。かと言って、壁をすりぬける魔法などない。
ならば、物理的な障害のない階段を使えばいい。俺は非常口のマークを探すと、ちょうどすぐ近くにあった。
扉はただの鉄ドアで、簡単に開いた。詰めの甘さが事件の解決に繋がるとは、皮肉か否か。
ともかく、急いで3階に駆け上がる。その途中で、俺は右の拳を胸に当てた。
「――不可視魔法」
呟くと、服の胸の上に白い魔法陣が浮かび上がり、俺の姿を消した。確認する手段としては鏡を見るのが簡単だが、そんなことをしている暇はない。
3階の踊り場に立ったところで、まだ会談が続いていることを確認する。それはつまり、まだ上に人がいることのできる部屋があるということ。あるとすれば従業員の更衣室や、監視室、放送を行う専用の部屋――首謀者がいるのなら、ここしかない。
素早く駆け上がってドアを開けると、多くのモニターがある部屋であることがすぐに分かった。だが一部のモニターは真っ暗である。アイリスがガムテープを貼った結果だろう。しかしあのガムテープもこの店のものだ、あとで金を払わなくてはならない。
などと考えていると、人がいないことに気づく。
それはおかしいことだ。首謀者がいなくとも、メンバーの一人や二人、人質となっている監視者がいるはずだ。
異常を感じた俺は反射的に後ろに跳ねる――しかし、左の足首を掴まれてバランスを崩す。
何故だ、何故不可視魔法を使っている俺を捉えられた!?
「ちっ!」
ぬかった。足元を見て気づいた。足跡だ。見れば、少し粘り気があるようだった。
泥はなかった――おそらくペンキだ。階段に塗っていたのだろう、光も僅かな上、ここへ目指すことに集中していた俺は気付けなかった。くそ、まだ未熟か。
「だが……それだけか?」
俺はにやりと笑みを浮かべ、倒れる前に捕まれていない右足で掴んでいる手を蹴る。これで向こうにも色がついた。不可視魔法を使っているのかは定かではないが、見えないのなら見える色を付ければいい。幸いにも俺の目は、暗闇でもある程度見える。これも魔術師になった結果かどうかは不明であるが、使えるならなんでもいい。危機を好機に変える。それが俺のポリシーだ。
そのまま手を足で挟み、背中を床にぶつけないように手をつき、手足に力を入れる。足でこいつを釣り上げるような体勢だ。
「そう……らっ!!」
足を振り上げるときに力を強めると、俺の足を掴んでいる奴は入口に引っ掛かって手を離した。咄嗟のことで計算外だったが、思わぬ誤算というやつだ。腹にしろ背中にしろ強打すればひとたまりもないはずだ。
ドサリという、人が落ちた音を確認し、体勢を元に戻す。
「紹介が遅れたな。俺は警視庁魔術部所属魔じぇ……魔術師だ。死にたくなかったなら大人しく投降しろ」
噛んだ。いい加減名前変えろよこれ。噛んでるの俺だけじゃないんだよ。
「くっ……!」
呻く声と共に、目の前でうずくまる女性が現れる。そいつはすぐ立ち上がり、赤い魔法陣を浮かべた右手を俺に向けて突き出してきた。
悪あがきをするつもりか?
「死にたいようだな」
俺は隙だらけの動きを見逃すことなく、体を僅かに動かして足を出し、こいつを転ばせる。
これが首謀者? 指揮しているのが魔術師なのは間違いないだろうが――ここまで呆気ない奴に指揮能力があるのか?
俺はまだ抵抗を続ける女の手首に、手早く麻酔手錠を掛ける。
一段落したところで、手から火魔法を出して監視室を照らす。
ぐるりと回ってみるも、人影ひとつない。
いるはずなのにいない監視者、いたのはメンバーの一人……なんだそりゃ。最初からこの店はこいつらの手の中にあったんじゃないのか。
常にここで仕事をしているはずの監視者の正体はこいつだろう。他にいたとしても、非常階段と非常ドアを使えばどの階にも行ける。
おそらくここにいない他のメンバーの誰かが司令塔――首謀者とみていいだろう。
麻酔手錠に内蔵されている麻酔針の効力は少なくとも2時間。しばらく放置しても問題ないだろう。
俺は炎を消すと、迷わず非常階段を下りた。ペンキらしきものを踏んだ靴をいつまでも履いているわけにはいかないので、降りる途中で大きく飛んで空中で脱ぎ捨て、2階の踊り場に着地する。
まずはアイリスと合流し、1階と3階に分散しなくてはならない。あいつのことだから無事に済ませているだろうが、念のための確認も必要だ。
鉄のドアをゆっくりと開け、再びフロアの中を駆け抜けていく。
人質が安堵して楽な姿勢をとっている。つまり、ここはもう大丈夫ならしい。
「アイリス、いるか」
俺は不可視魔法を解除し、少し大きめの声で天井に向けて言う。
すると、制服の裾が引っ張られた。
「ここにいます」
「成功したらしいな」
「メンバーは4人だけでした。余った手錠はお返しします」
アイリスは不可視魔法を解除して、俺の前に手錠を差し出す。
「いや、そのまま持っていろ。最上階にある監視室には首謀者らしき人物はいなかった」
「それなのですが、カナシ様……最初に行動不能にさせたあの男の耳からインカムを回収しました」
言いながら、アイリスは片耳にだけ付けるタイプのインカムを俺に見せた。ふむ、予想は当たっていたらしい。
「それで」
「はい。おそらくカナシ様も知っていると思うのですが、店内は電波障害によって外との連絡及びインターネットへの接続が不可能です。もちろん、電話通信も例外ではありません」
「そのようだな――つまり、こういうことか? 停電状態となったと同時に電波障害は発生したと仮定すると、その環境下でも誰かとインカムで会話していたこいつは一体なんなのか、と」
「そうです」
仮定が含まれているから何とも言えない。会話しているように見せるフェイクかもしれない。しかしながら――などと考えていても、真実かどうかを判別する術はない。
「アイリス、手早く3階の様子を見てきてくれ。俺は1階に行く」
「了解しました……ところで、なぜ靴を脱いでいるのですか」
「恥ずかしながら、ブービートラップに引っ掛かった」
関係ないがついでに言うと魔術師で噛んだ。
「そうですか。まだ照明は戻っていませんので、くれぐれも足元に気を付けてくださいね」
「ああ」
アイリスの気遣いに返事して、俺はアイリスと共に別の階へと移動した。
■ ■
今回は不快になってばかりです。いつものカナシ様なら、この程度の事件はすぐに解決できるのに。
そう思いながら、非常口の鉄製の扉をゆっくり開けます。
3階――雑貨や服が並んでいます。日用品などが揃えられているフロアのようです。
ですが、照明はそのままです。客も買い物に夢中のようで――え?
それは、つまり?
■ ■
「やられた……!!」
俺は歯ぎしりをしながら、階段を駆け上がり2階に戻った。
1階はここに来た時と同じだ。何も変わっていない。おそらくアイリスの向かった3階も同様――つまり異常があるのは、2階だけ。
となると、奴らの目的は人質を利用して何かを得ることではない。
トチ狂った精神が生んだ衝動――殺人の願望。ただ単に、人を殺したいだけだ。
「アイリス!」
階段を駆け下りるアイリスに声をかけると、首を振るだけだった。
俺はドアを開け、アイリスと速度を合わせる。
「これが彼らの狙いです、人数はともかく、状況が終了すれば人員は他の場所に割かれる――それを狙っていたんです!」
「それなら人数も関係ない……! 2人というのは最も不利な状況になるということか!」
俺たちは話しながら俺を撃った男がいるはずの場所に着くが、そこに男の姿はなく、俺と男の着ていた服だけが残っていた。
気絶したはずなのに、動いてこの場から消えた――
「――いや、動く必要はない……身代魔法なら!」
俺がやったのと同じ方法だ。やられたフリをして、タイミングを見計らって分身を消す。つまりどこかに、本体がいる。
俺は瞼を閉じて、その上に人差し指と親指をそれぞれ乗せる。すると青色の魔法陣が浮かび上がる。
「探索魔法、<殺意>を見せろ!」
探索魔法は、自分が望んだものだけを視界に映す魔法だ。どのようにして手前にある像を通り越して見ているのかは不明だが、これも深くを求めるのはナンセンスだ。
しかもそれどころではない。俺は青く染まった視界の中で、赤く光る物体を見つけた。
「アイリス、俺の視線の約10m先だ。行くぞ」
「はい」
俺は魔法を解除すると、またアイリスと共に走る。そう離れておらず、すぐに殺意の主の背が見えた。
「……なんだ? さっきのか」
本体と思しき男は顔だけをこちらに向け、不気味な笑みを浮かべた。
「見れば20以下のガキにしか見えんなぁ、警察ごっこは楽しかったか?」
「犯罪ごっこは楽しかったか?」
答えてやる義理はない。魔術部に年齢制限などないからだ。
だから挑発で返した。
男は特に気にした様子もなく、ヒヒ、と気味の悪い笑い声を漏らした。
「楽しいさ、でももっと楽しいのはこれからだ! こいつら全員血祭りにあげて――」
あげて、何だよ。何が得られる。一時の快楽に身を委ねた奴は例外なく溺れていくんだ。
怒ってどうにかなりそうだった俺は、それを素早く行動に変える。
一瞬で男との距離を詰め、足を払って体勢を崩す。
「……カナシ様、殺さないでくださいね」
後ろから、アイリスの釘が刺さる。当然だ、今はこいつを無力化することが目的だ。
だが、麻酔で眠らせる程度で済ませていいものではない。こいつのしようとしたことは――!
「筋力強化魔法――ッ!!」
俺は倒れる男の頭を掴んで、橙色の魔法陣の浮かぶ身体すべてを使って男を投げ飛ばす。そいつはそのまま壁に激突するはずだったが、そうなりはしない。
男の吹っ飛んだ先には、跳んで空中で男の飛来を待つアイリスがいるのだから。アイリスの体にもまた、橙色の魔法陣が浮かんでいる。
アイリスは眉根を寄せながら、俺の方に男を蹴り戻す。
「ナイスパスだ――」
俺は隙だらけの構えで男を待ち構え、顔を狙って拳を突き出す。筋力強化魔法は継続している。
「――この社会から、失せろ」
拳は狙い通りに男の顔にめり込み、粘土のように変形した。それだけでなく、俺はそのまま拳を下に振り下ろし、男を床に叩き付けた。鈍い、なんて形容では足りない。爆発音と思っても仕方のない騒音が2階に――いや、他の階にも響いたはずだ。
「現在、21時32分です」
「ん」
俺はアイリスが余った手錠を男の手首にかけているのを見ながら、昂ぶってしまった心を落ち着ける。
「皆さん、もうすぐ警察が来ます。それまでしばらく、そのままでお待ちください」
「…………」
俺はなるべく優しいトーンで、人質になっていた人たちに言う。
だが、彼らからの反応はというと、無言で、ただ怯えている。
「魔術師かよ……」
中から、そんな愚痴が漏れてくる。
嫌な仕事だが、しなくてはならない。例え自分が、社会から忌み嫌われる存在であっても。これは義務なのだ。
俺が、俺たちが再び、社会に認めてもらうために必要な。
「……帰るぞ、アイリス」
「はい」
俺はリングフォンを起動する。電波障害は消えたらしく、<Off Line>の文字は消えている。
電話帳のデータを表示し、110番につなげる。1コールで出てくれた。
『こちら、警視庁本部。要件を』
「魔術部所属、静葉カナシだ。21時32分、銀座のショッピングモールで発生した立て籠もり事件の犯人とその仲間を逮捕した。麻酔手錠で行動不能にしてある、なるべく早く頼む」
『了解。周辺をパトロール中の警官をそちらに向かわせる』
「了解、こちらは現場を離れる。後は任せた」
俺は通話を終了して、リングフォンの電源を切る。
靴のままというのは少々どころかかなり違和感がある。だから今から、3階に行って靴を買うことにした。
レジで会計をしているのを待っているとき、店員が俺の足をチラチラと見ていたのは言うまでもない。
非常階段を使って降りるとき、ちゃんと靴は回収した。
こうして、俺はまた社会の闇を振り払ったのである。
非常に遺憾だが、これが俺の――魔術師の警察官の日常だ。




