File:11「アイリスの花束」
アイリスの下へと歩みを進める途中で、俺はアイリスと過ごした、たったの数年間を思い出していた。
――カナシ様。
いつからか、俺をそう呼び始めて。
――カナシ様、私と恋してください!
いつの間にか覚えた言葉で、流暢にそんなことを言って。
――カナシ様ぁ、素直になってくださいよぉ。
引っ付いてくるアイリスを引きはがすと、いつもそう言って。
――カナシ様の手は煩わせません!
仕事になると急に真面目になって、俺の手間を省いてくれたり。
――カナシ様、お怪我はありませんか。
戦闘があったりして、それが終わった後には俺を心配してくれたり。
――カナシ様、私はカナシ様のこと、大好きですよ!
嘘だなんて微塵も思わせないような笑顔で、そう言ったり。
「……カナシ様、か」
どうして俺をそう呼んでくれるのだろう。どうして俺を好いてくれるのだろう。あいつはアヤメとは容姿しか共通点はない。心までは同じになっていないはずなのに。
『カナ兄が恋愛できない理由が、なんとなくわかった』
俺の中にいるアヤメが、呆れたようにそんなことを言った。
「なんだよ」
『その人の気持ちはその人にしか分からないんだよ。誰かに伝えない限りね。だから、カナ兄がアイリスの気持ちを分からなくたって、何の不思議もないの』
……そう言われれば、そうか。だからこそ、人間がこんな面倒な生き物なんだ。
それに、今から聞きに行くんだ。アイリスの気持ちを。
『うん、それでいいの。……でも、私も諦めてないからね!』
「勘弁してくれ」
気楽に行こうと思っていたのに、急に肩が重くなる気がした。
だが、そうして俺のやる気が削がれる直前、何かにぶつかった。この感覚、おそらく障壁魔法だ。――しかし、近くにアイリスはいない。
どういうことだ? 障壁魔法は自身の周囲に展開する魔法のはずだ。
『カナ兄、障壁魔法はその人の心情によって形を変えるの。知らないの?』
「そういうものなのか?」
『確か、前にアイリスに会った時、カナ兄の障壁魔法は崩れたんだよね?』
何で知ってる、と言いかけたが、アイリスを取り込んでいたのなら、そうでなくとも、俺の一部であるならそこから知っていても何らおかしくはなかったので、言わなかった。
「そうだな」
『あれはカナ兄が焦って、障壁魔法が形を保っていられなくなったから。今カナ兄を遮っているものは、言わばその逆。多分、魔術師を恐れる人間の感情がこうさせてるんだと思う』
「……クソっ!」
俺は歯噛みして、障壁魔法をぶん殴る――はずだった。
「のわっ!?」
勢いよく振り下ろされた拳は障壁魔法と衝突することはなく、いとも容易く通過した。この事態を予測できなかった俺の体もまた前倒しになり、障壁を通り抜ける。
だがずっこけることはなく、足をついて踏ん張る。
「……どういうことだ? 障壁魔法はそうそう破れるものでも――いや、破ったというより、消えた?」
『みたいだね。ということは、まだアイリスの意志は生きてる』
「おい、シュン。どうせ面白がって聞く気満々だろ、お前」
『いかにも』
多分、こいつは今にやにやと笑っているに違いない。あとで馬鹿にもしてくるだろう。
だが、今それを気にしてはいられない。
「ひとまず、見解を言え」
『そうだね。中心にいるであろう術者が見えないほど大きな障壁魔法、そしてそれは唐突に消えた。障壁魔法自体は残留思念が魔法を使わせ、拒否する心がその規模を広めたのだろう。それが消えたのは、アイリスちゃんが未だ戦い続けている証。だけど、いつまでもつとも知れない。
それはそうとカナシ、障壁魔法というのは、自身以外の存在が魔法の有効範囲内にいる場合、どうなるんだい?』
「ええと、確か特に何も起こらないはずだ。その代わり、一度外に出てしまえば入ることはできない」
『とすれば、君があと警戒すべきは遠距離からの攻撃だ。彼女がやられたように、君も何かしらのダメージを受けかねない』
ダメージ、か。
ララの痛々しい左腕が、脳裏で蘇る。
「……助言に感謝する。それとシュン、一つ頼めるか」
『なんだい』
「ララに聞いてくれ、どういう痛みだったか、とか」
『なるほど、どういう攻撃か知りたいわけか』
「そういうことだ。それじゃ、しばらく黙るぞ」
『了解。気を付けて』
今から楽しそうに耳を傾けるくせに。俺は溜息を吐いて、木陰に隠れる。
既に日は落ちていて、街灯もついている。確か有事の際は蓄電池で動くとか、なんとか。ひとまず電力会社の力がなくとも動いているものの一つだ。今となっては正直いらないが。
だが明かりが一切なく暗闇になったところで、探索魔法を使われてしまえばすぐに見つかってしまう。
いや待て、こうしている間にも探索魔法を使われているかもしれない。
――いやいや?
「ちょっと待てよ、探索魔法って、術者がそれを見て分かる物じゃないと見えないんだよな……」
『そうだよ。カナ兄は割と主観で物を決めつける人だから、感情まで見えるみたいだね』
「そんなどうでもいいこと、今さらっと言うな」
『ごめんごめん。えっと、話を少し戻して――そう、カナ兄の言う通りだよ。でも、認識は人によって様々だし、何より人と魔術師は見た目だけで判別はできない。かと言って、『静葉カナシ』を探そうとしても、見つけられない』
「……なんでだ?」
『すぐに分かるよ』
なんだよ、はぐらかすこともないのに。
だが追及したところで答えてくれそうになかったので、行動を再開しようとした時、シュンの声が届いた。
『返事を持ってきたよ』
「ん、ああ。なんだって?」
『震える感じで、ねじ切られるような痛みだってさ。衝撃魔法じゃないかって』
「衝撃魔法か……」
だが、少しおかしい。衝撃魔法ならば腕が吹っ飛ぶはずだ。威力を弱めたにしても、弾かれるような感じになるはずだ。
「なあ、シュン。今もララと通話中だろ? どんな傷だったか覚えてないか、聞いてほしい」
『どんな傷だったか、てさ。――ふむ。傷とか、そういうレベルではないと』
なんだよそれ。
『カナ兄、私が危ないって言ったときのこと覚えてる?』
「ん、ああ。反応できなくて悪いな」
『ううん、それはいいの。それでカナ兄は、アイリスが何の予備動作もしてなかったから、反応できなかったんだよね』
「まあ、そうだな」
あの時確か、アイリスは肩を震わせていただけのはずだ。だが、動きがないと魔法が使えないわけではない。完全に油断しきっていたのだ。アヤメは言わなかったが、俺がアイリスを信頼しているが故の油断でもあった。
「って、待てよ。なんで予備動作もないのに、お前とララは反応できたんだよ」
『……もーやだ。私自信無くしそう』
「な、なんでだよ!?」
俺、アヤメを傷つけるようなこと言ったか?!
『アイリスは確かに<動いてた>。カナ兄はそれに気づかない程に、<アイリスは自分に危害を加えない>と思い込んでたの。……たかが3年の付き合いで……』
心底不機嫌そうに、アヤメは吐き捨てるように言う。こればかりは俺が悪く、さすがに何とも返すことはできなかった。
『なんだって?』
「……俺が油断しすぎなんだとさ」
『いつもだろ?』
「お前な……」
あとで殴ってやるからな。覚えとけよ。
――は、さて置き。
「どういう魔法なんだろうな」
『意思だけで吹っ飛ばしたようなものだろう? 吹っ飛べ、とか、消えろ、とか。そうなると、避けようがないだろう。何か策はあるのかい』
「ない」
『だと思った。強行突破だろ?』
さすが幼馴染、よくわかっている。
『よくわかっている、じゃないよカナ兄。馬鹿なの?』
「うるさいな」
『ま、引き続き僕は黙っているよ。オープンのままだから、遠慮なく告白してくれたまえ』
くれたまえ、じゃねえよ。調子に乗るな、はっ倒すぞ。
「調子に乗るな、はっ倒すぞ」
『カナ兄、心の言葉が漏れ出してる』
む、しまった。まあいいか。
『はっはっは。その為にもまず、アイリスちゃんを連れ戻してくることだね』
「なんだよ、こういう時にそんなこと言うなんて。誤魔化そうったって、そうは行かんぞ」
『なんとでも言いたまえ。はい、行った行った』
「ちぇ」
なんだかうまく扱われているような気がしたが、この際だ、気にすまい。
それよりも、今は少しでも早くアイリスの下へ向かわないと。
「アヤメ、いけるか」
『私はいいよ。でも、無理はしないでね』
何を今更――今無理をせずに、いつできる。
いつもあいつが、俺の無理を妨げてるんだぞ?
「――魔法のオンパレードだ」
俺は大きく息を吸って、ただ吐き出す。
そして、始めた。
「不可視魔法、筋力強化魔法」
まず姿を消し、周辺を飛び回る。
「衝撃魔法」
その途中で、街路樹を無作為に破壊していく。その木は地面と接することはなく、空中で弾けた。
弾けた、というか――爆発?
『炸裂してる感じだね。何にせよ、当たらないに越したことはないよ』
「当たるつもりもない、探索魔法!」
俺は適当に駆け抜けながら、アイリスがいるであろう場所に目を向ける。足元が見えないのはとても危険だが、そんなことはどうでもいい。
『カナ兄、右!』
アヤメに言われて、咄嗟に右を向く――そこには、今にも手刀を突き出そうとしている、アイリス。
その目にはもう光が宿っていなかった。――それでも。
「くっ!」
俺は反射的に障壁魔法を展開し、手刀を防ぐ。あの勢いならば突き指でもしそうだが、ダメージもほぼないらしい。
『カナ兄、来る!』
「負けるかぁっ!!」
俺が叫ぶと同時に、障壁魔法が何かを防ぎ、大きく揺れた。おそらく例の炸裂する魔法。
パパパン、と連続で風船が割れたような音だ。その軽快な音に似合わず、威力があるのはよくわかった。
でも、防げた。俺の意志は、クズ共の憎悪に勝っている。
「だったら、捕縛魔法!」
俺は隙だらけのアイリスを縛り上げる。すると、アイリスは俺を睨んで暴れだす。
そんなに俺を殺したいかよ。
「……て……」
「!」
暴れるアイリスの口がわずかに開き、目から涙がこぼれた。
「逃げて……くだ、さい……カナシ、さま……」
「アイリス……」
まだ、意識がある。
まだ、戦っている。
パートナーがまだ戦っているんだぞ?
「……逃げられるかっ!!」
俺は障壁魔法を解除し、その上捕縛魔法まで解除し、アイリスに向かって駆ける。
束縛から解放されたアイリスが逃げる前に、俺はその手を掴んだ。
ああ、冷たい。こんなになるまで、お前は。
「逃げ――」
「誰が逃げるか」
俺はその手を引き、アイリスを華奢な体を抱き締めた。
「イヤ……死……殺……」
だが、アイリスは依然として憎悪と戦っている。
「ぐっ!」
その証拠に、魔術師である俺の背中に爪を立ててきた。肩にも噛みついてくる。
「ア……カナ……ま……お願い……です……!!」
顎が離れたかと思うと、そんなすすり泣く声が聞こえてきた。
俺は覚悟を決め、少しアイリスの体を離す。そして大粒の涙を流すアイリスと目を合わせた。
――アヤメ、我慢しろよ。
『……うん』
俺は素早く、それでいて優しく、アイリスの唇に自分のそれを押し当てた。
「――――っ!」
俺達はしばらくそのままでいた。
アイリスの手からは力が抜け、もう俺を傷つけたりはしない。
その代り、とてつもない感情の波が、俺の中に入ってきた――いや、飲み込まれている――。
「っ!」
暗くなったと思ったら、唐突に明るくなった。と言うか、真っ白だ。
「もしや、吸収された……?」
そう呟いてみるも、アヤメからの返事はない。
俺の精神だけが吸収されたということだろうか。
の割に、体はある。手もあれば足もあり、胴もある。顔もある。
精神世界と言うのは、こんなものなのか――そんなどうでもいいことを思っていると、背後から何か黒い影が覆いかぶさるように押し寄せた。
「ぬぐっ!?」
まるで津波が来たかのようで、俺は成す術なくそれに飲み込まれた。
今度は黒か。そう思って目を開くと、眼前にアイリスが見えた。
「!」
「……カナシ様」
アイリスは俯いたまま、言葉を僅かに漏らす。
だが、俺はアイリスが何か言うより先に再び抱きしめる。
「もういい、何も言わなくても」
「……でずが、私はっ!」
アイリスは俺の胸の中で、少しずつ泣き出した。
「泣くな、みっともない」
「私は、カナシ様を傷つけてしまいました! あろうことか、同伴していた方に傷をつけるようなことまで――!」
「そうさせたのは醜い人の心だろうが。お前は悪くない」
「ですが、ですが!」
「そうやって、自分を責めるな。そもそもの原因は俺の方にあるんだから、お前が責任を感じる必要はない」
「それでも……!」
「お前は自分で何もかも背負いすぎなんだよ。面倒なことがあるのなら、二人で背負った方が楽だろうが」
俺がそういうと、アイリスは泣くのもやめて、黙った。
「なあ、アイリス」
「…………」
「何で俺を好きになった」
「……言わないと、駄目ですか」
「言いたくないなら、それでもいいさ」
「一目惚れです」
駄目かと聞いた割には何の躊躇いもなく、アイリスは胸の中で言った。
「そうか」
「私からもいいですか、カナシ様」
「なんだ?」
「カナシ様はその、私のこと――嫌いになっていませんか」
まだ気にしてるのか。こいつらしいと言えば、そうなんだが。
「うんざりはしてる」
「……ごめんなさい」
「でも、好きだ。多分」
「…………!」
アイリスが驚いたように、俺の胸から顔を離して、俺の顔を見た。
「本物ですか……?」
「それはどういう意味だ、おい」
俺が顔を引きつらせると、アイリスは微笑んだ。
ああ、それでいい。お前は笑っていたほうがいい。
「それはそうと、だ。さすがに互いの愛を認め合う記念の場が暗闇の中ってのはどうなんだよ」
「説明すると長くなるのですが……」
「あー、いい。シュンが仮説立ててたのが大体当たってるみたいだから」
「それなら」
これが城崎クオリティだ。その名を出せば納得できる。
「しかし、どうやったら元に戻れる? 吸収されたということだろう」
「その通りです。出るというか、私がこの体のコントロールを奪い返して、カナシ様とその他のいらないものを吐き出してしまえばいいのです」
さらっと毒を混ぜる辺り、アヤメの同類だな。
「で、具体的な手段は?」
「そ、そそそ、そうですね」
なんだ、その不自然なまでの動揺は。
「……ス、してください」
「なんだ? 何をしろって?」
「わざとでしょう!?」
いや、普通に聞こえなかったんだが。
俺が何も言えずにいると、アイリスは顔を赤らめた。
「……キス、してください。もういっかい」
「そんなのでいいのか?」
俺が聞くと、アイリスは何か覚悟を決めたような顔をして、言った。
「わ、私の中をカナシ様でいっぱいにしてください! そうしたら私、何もかも元通りにできま――んっ」
かくして、俺とアイリスはもう一回キスをした。
すると、視界が真っ白になって――。
「!」
目を開けると、視界の左側に地面があり、寝ていることを瞬時に理解した。
俺のすぐ前で、アイリスが笑っていることも。
「目が覚めましたか、カナシ様」
「あ、ああ。それより、大丈夫なのか」
「はい、おかげさまで」
俺達は立ち上がり、改めて目を合わせる。しかし、なんだか急に気恥ずかしくなって、すぐに目を逸らしてしまった。顔が熱くなっているのが自分でもわかる。
「ふふ。顔を赤くしたカナシ様、初めて見ます」
「言うな……」
『はい、新婚さんのお邪魔をして悪いね、みんな大好き城崎お兄さんだよ』
テンション上がりすぎて口調がおかしくなってるぞ、お前。
「少なくとも俺は大嫌いだ」
『心外だねぇ。それはさて置き、緊急事態だよ。意識を取り戻したと思しき市民たちが、一斉に動き出したらしい。中には当然魔術師も含まれているから、ただじゃすまないよ』
「……アイリス。後始末の時間だ」
どうやら、ゆっくり休む余裕もないらしい。
『彼女は先に向かったから、君も急ぐことだね。それじゃ、シーユーアゲン』
「行きますか」
「すまんな、まだ騒がしくて」
「私のせいでもあります。行きましょう、いつものように」
「ああ」
一日も終わりに近づいている。
どうせ疲れるなら、とことん疲れてやる。
溜息を一つ吐いて、俺達は夜の街を駆けだした。