第七話
「あれ? 奏都くん、まだ帰ってなかったの?」
教室に戻ってみると、捺由がいた。彼女は空をぼんやりと眺めていたのだろう、窓のそばに立ったまま顔だけをこちらに向けていた。
「おまえ……部活に行ったんじゃないのか?」
「うん、行ったよ」
「終わったんなら、さっさと帰ればいいじゃねぇか」
「……誰もいなかった」
「は?」
聞き取れず、自分はすぐに聞き返した。
「誰もいなかったの。先に着いちゃったのかな? と思って待ったんだけど、誰も来なかった」
それは当たり前だ。今頃逃げ惑っているか、或いはもう消されたのかもしれない。彼女は外を眺めていたのに、一部始終を目撃していないのだろうか。
「何を見ていたんだ?」
「何も。あたしは何も見てはいないかな。……違う、見ようとしないだけ」
捺由は一息つき、体ごとこちらに向けた。
「見てしまったら、現在に留まりたくなってしまう。その景色を忘れないようにするために、ずっとその中に居続けようとする」
「はあ? 何を言ってんだ?」
「でも、あたしは後悔しない。行いも言葉もなにもかも。この名を受け継がなければ、あたしは……あたしたちはあの時、死んでいたから」
あの時――。それが一体いつを指すのかは見当がついた。
やめろ。これ以上思い出させないでくれ!
「小学生の頃、篩にかけられたの。そうして今になって、あいつらに見つかっちゃった。……誤算だったなあ」
「篩にかけられたってどういうことだ? もしかして、あの事件の真相を知っているのかっ!? 答えろよ、捺由!」
「ごめんね、言えないの。あたしに権限はないから」
自分は、つかつかと捺由に歩み寄った。
「そんなのどうだっていい! 自分らの友情はそんなに柔だったのかよ!?」
「…………」
捺由は罰が悪そうな表情のまま、こちらと目を合わせようとしない。
「答えろ。もしかしたら智帆は死ななかったのかもしれねぇんだぞ」
「…………」
「この……!」
衝動的に右拳を上げ、捺由に向かって突き出した。
「奏都くんは相変わらず、感情的だね。でもそれじゃ……勝てないかな」
捺由は繰り出された拳を手の平で受け止め、空いているもう片方の手で奏都の腕を掴んだ。
そこからメリメリと骨が軋むような音が発せられた。あまりの痛さに歯を食いしばり、呻き声を漏らしながら耐えようと必死だった。
「君があたしに勝てるはずがないじゃん。みくびらないで」
とどめと言わんばかりに鋭い蹴りをお見舞いされ、腕は解放されたが、自分は縮こまって蹴られた場所を押さえた。
勝者が敗者を蔑んで圧倒的な力を示すように、勝ち誇った笑みを浮かべながら捺由は言う。
「わかったでしょ? これが力の差。そして……あたしがすでに〝捺由〟ではないことを」
ど突き合いや喧嘩は今まで何度もあったが、それは友達だからであって本気ではない。捺由が相手に有無を言わさず一方的に本領を発揮したところを見たのは初めてだった。
「今度会うとき、あたしは〝捺由〟じゃなく、別の名で呼ばれるかな。その時、奏都くんも思い出してくれたらいいな。本と同じような名とか。そしたら分かるよ。あたしや空義がどうして武道において頭角を見せるのかを」
「おい、捺由っ」
「バイバイ、また会おうね」
お別れを告げる彼女の頬に涙が伝わっていた。それを見た瞬間、自分は口をつぐんだ。かける言葉を見つけられなかったのだ。
そして捺由は泡が弾けるように消えた。
「捺由……」
彼女はまるで自身の行く末を悟っているかのようだった。彼女の泣き顔を見てしまい、自分も悲しい気持ちになった。現実世界で捺由は昏睡状態におちいっている。だから、夢の中だとしても言葉を交わしたことに喜んでいる自分がちょっとはいるのかもしれない。
結果的に捺由の泣き顔は自分の胸に蟠りを残した。
「あー、色んなことが一度に起きて頭がパンクするっての」
体を起こし、床の上で胡坐をかいた。捺由が泣いていたことなど小事だ。それよりも、この現状を何とかして覆さなければならない。
意味不明な言葉を話す、黒色のワンピースを纏った少女。
階段で出会った、生気のない顔をした少年。
血で染め上がったコートを羽織り、殺戮を行う女性。
「引っかかるような、引っかからないような……」
重い腰を持ち上げ、ペンとノートを取るために自分の鞄へと向かった。鞄の中に何か入れた憶えはないが、入っていることを信じて鞄を開けた。
「おおー、入ってる入ってる。用意がいいな、じぶーん」
鞄の中に入っていたのは筆記用具、ノートと教科書数冊、携帯電話、下敷き、クリアファイル、本。昼食は入っていない。真っ先に手に取ったのは携帯電話だった。開いて、
「……電源は入らねぇか」
と名残惜しく閉じ、鞄の中に戻した。
「だーっ、いらいらするっ」
頭を掻き毟り、地団駄を踏んだ。言葉に出来ないモヤモヤとしたものがしきりに自分を急かしており、何かしていないと不安に飲み込まれそうだった。
「……一体、自分が何をしたっていうんだよ。クソッ」
むしゃくしゃして、自分の机を蹴り飛ばした。必然的にその上に置かれていた鞄は落下し、中身が散らばった。
「なんで苦しまなくちゃならねぇんだ。いつまで過去に囚われなきゃならねぇだ」
今まで押さえ込んでいたものが弾けとんだ。
始まりは大切な者の死。それから、もう一つ……自分を監視している存在に気付いたこと。
どちらも些細な事では済まされない大事だ。
「結局、誰も本当の意味で助けてはくれない」
ふと、捺由の涙が蘇ってきた。彼女は泣いていた。人には滅多に弱いところを見せないくせに、穏やかに泣いていた。
『わかったでしょ? これが力の差。そして……あたしがもう〝捺由〟ではないことを』
『今度会うとき、あたしは〝捺由〟じゃなく、別の名で呼ばれるかな』
謎めいた言葉が何を示すのか、いくらなんでもヒントが足りなさ過ぎる。捺由は捺由であり、それ以外の何者でもない。誰かに手を上げたならば、彼女は自身の行いを反省するだろう。案ずるより産むが易いという言葉を象徴しているような奴なのだ。だから自分は友人として捺由が好きだ。しかし、それ以上ではない。見えない境界線が引かれている。果たしてその境界線を引いたのは自分か捺由か。
捺由の言い残した台詞が頭の中をぐるぐると駆け巡った。
『今度会うとき、あたしは〝捺由〟じゃなく、別の名で呼ばれるかな』
「捺由が捺由でないのは、他の名前で呼ばれるからか? だとしたら……!」
幸運なことに思い当たる節があった。
『奏都くんも思い出してくれたらいいな。本と同じような名とか。そしたら分かるよ。あたしや空義が武道において頭角を見せるのかを』
床に散らばった物の中から捺由に借りた本を拾い上げた。彼女が言う〝本〟とは、これだという確信があったからだ。そうでなければ、〝本〟という言葉をわざわざ使ったりはしない。なんたって、彼女は百ページまで読む集中力を持ち合わせていないのだ。双子だというのに成績に差があるのは、こういう要因があって不憫としかいいようがない。
本をパラパラと捲ると自然にとあるページを開いていた。故意にそこを開こうとしたのではなく、挟まれていた白い紙がそのページへと誘ってくれた。
「えーっと、なになに」
文字の羅列を目で追った。意味が解らない記号やみみずが這いつくばったような文字は読み飛ばした。日本語の部分だけを見、頭の中で内容を補いながら読み進める。
紙が挟まれていたのは最初の方だった。ゲームのプレイメモを見ているようで自分は小さく吹いてしまったが、すぐさま視線と集中力を紙へ向けた。捺由は出てきた名前を全て書き留めたのかもしれない。どれとどれが同じであるか分からない序盤で、とにかく全て写してしまえと思ったのだろう。いや、そうに違いない。誰もが空義のような能力を宿しているわけではないのだ。
「さーて、読んでみますか!」
制限時間がわからない中、今までの最高速度で本を読み進めた。
本を読破した後、暫くの間高揚した心が落ち着きそうになかった。
「すっきりしねぇけれど、この選択しかなかったんだろうな……」
本の内容を要約すると、次のようになる。
生まれた直後に捨てられた少女は、ある家に引き取られた。彼女はすくすくと成長し、小さな夢を抱いた。しかし、戦渦はとどまるところを知らず、幸せに暮らしたいという彼女の願いは隣国との戦争によって儚く散り、人々も次々と徴兵されていった。
やがて彼女は自分だけが幸せになってはいけないのだと思い始め、剣を取った。腕が動かなくなるまで毎晩素振りをし、時間があれば師範や年上の人の剣技を身に着けようと努力した(自分は、この〝努力〟っていう言葉が嫌いだ。戦争と言われてもピンとこないし、そうしてまで強くなろうとした気持ちが理解できない)。
血が滲むような鍛錬のおかげか、彼女は一人前と認められて村を出た。それと同時に名を捨て、ヤスミノイデスと名乗るようになる(何が語源なのかは記載されていない。メモ曰く、重要人物。主人公なんだから、重要人物であるのは当たり前だと思う)。
腕を見込まれて王族の護衛という職に就いた少女は着実に経験を重ね、王女の側近を務めるようになった(大出世だな)。戦渦は収まったように見えたが、今度は王国に対する反乱分子が挙兵した。それを鎮静するのは彼女の役目であった。そんな中、彼女は自身と同じ理想を掲げる彼(名前は不明)と出会った。そうして何度も彼と剣で語り合ううちに彼女は淡い恋心を抱くようになった。
彼女はまた悩んだ。自分だけが幸せになっても良いのかと。彼女は王国の忠実な僕であり、彼とは相容れない立場だったのだ。葛藤をしている間に争いは激化し、彼女は暗殺者の対応にも追われ始めた。その上王女とは付きっきりで、彼と会える時間はなくなっていく……。
「そこらへんに腐るほどあるハッピーエンドじゃない、ってところが魅力かもな。捺由はきっと、少女の恋の行方を知りたくて読んだんだろうけど」
結果を先に述べると、少女の恋は叶わない。二人は相打ちになり共に負傷する。それだけなら良かったもしれない。彼は突然現れた盲目の人によって殺される(盲目に殺されるなんて結構ドジ?)。それでも彼女は仲間の前で悲しみを見せず、気丈に振舞った。
最終的に彼女はその戦いで勝利を収める。だがやはりそう上手い話はなく、彼女もまた王女を庇って致命傷を負った。息が絶えるまで歩き続け、偶然か或いは運命か、彼と邂逅する。彼は名を縛られて、呪いにかかっていた。疲弊しきっていた二人は最後の力を振り絞り、刺し違えた。
「うーん、名前が記載されていないってところがポイントか。このヤスミノイデス? っていうの絶対偽名だな。にしても、登場人物多すぎ……。昔暮らしていた村の住人と、王宮の人々の名前を挙げるだけで日が暮れちまう。だーッ、ちまちました作業は性に合わねぇ! どがーっと来いよ、男ならどがーっと! 矢でも鉄砲でも持ってくればいいじゃんかよ」
こういう答えのない問題は自分には向いていない。
本を閉じて、溜息をついた。空回りしすぎて心身ともに疲れてしまい、これ以上は続けられそうになかった。
「言っているだけで空しくなってきた……」
心にぽっかり穴が開いたような感じがしても、二人の選択を間違いだとは思えない。最後まで二人は幸せだった。その幸せを他人がどうこう口を挟むことは彼らへの侮辱なのだ。
他はわからないことだらけだった。
なぜ、彼女は戦うことを決意したのか。なぜ、身を挺してまで王女を守ろうとしたのか。そして暗殺者とは誰なのか。なぜ、彼は死んだのか。名を縛るとは一体なんなのか。また、彼の名を縛ったのは誰なのか。なぜ、なぜ、なぜ――。
……ぷしゅう。
空気が抜けたような間抜けな音が頭から発せられた。
「はひほへほ……」
もう、限界だった。『考えるんじゃない、感じるんだ』というフレーズを思い出しながらも、思考回路が正常に戻るまで魂が抜けているような心地だった。
時間の経過を忘れて無心でいると、外に遊びにいっていた魂が「ごめんねー」と体に戻ってきた。
……他人の気持ちがわからない、そのもどかしさが自分の首を絞める。居場所をどんどん狭くする。引きこもりになった原因は無視されたとか、虐められたとかじゃない。そりゃあ、時には挨拶しても気づかれない時だってあるし、からかわれることだってある。自論の域から出ないけれども、そういう理由で引きこもったんじゃない。自分はそんなに弱くない。
それは皆同じなのだろうか。あの物語の彼女にも誇りがあり、譲れないものがあったのだろうか。自分にはある。もしも他人が自分を社会からの脱落者だと見なしたら、すぐさまビンタしに行き、こう言ってやるんだ。
「人を見下せるんなら、テメェは何か誇れるものがあるのかよ。そういうものなしに他人を侮辱するなんて、テメェの心が知りてぇ。つか、頭の中も覗いてやろうか」
……最後の一言は余計だな。語尾にゴルァとかつけても逆効果かもしれない。
「さて、と……やりますか」
自分は血染めのコートを着た女性の名を調べる作業に取り掛かった。
手がかりはある。絵や文字が描かれたカード。あれは一枚でなかった。あんなにも沢山所持している人は限られてくる。大量生産品でない限り、とても貴重な物だろう。
御託なんてどうでもいい。今は、やるしかないんだ。